前夜


「うんしょ、うんしょ…っと…そっち、大丈夫?」
「…おうよ。何なら、手を離してもいいぜ?」
 本当はいい加減腕が痺れて、いつでも手を離してしまいそうなのだが、ここは男の意地にかけて強がってみる。8月の半ばともあってか、典型的な真夏のジリジリとした日差しを受けて、額や腕には汗が滲んでいた。
 まぁそれでも、日本と違って湿気が少ない分、助かってはいるのだが。
「んー、心意気は立派だけど、やせ我慢は顔に出しちゃダメだよ?」
 しかし、そこで智美は何処か楽しそうにそう告げる。自分よりもかなり小柄な体格なのに、俺なんかよりよっぽど表情に余裕が見えていた。
「ちっ…大体、何でこんな事しなきゃなんないんだよ?大体俺は…」
「まぁまぁ、ゴールはすぐそこだから♪」
 そんなやりとりを繰り返しながら、先程から何を運んでいるのかと言えば、数人は眠れそうなクイーンサイズのマットを、智美の部屋から50メートル程離れた俺の部屋まで運び込んでいる所だった。

「ぜぇ、ぜぇ…これで全部だな」
 その後、ようやく室内にマットを運び込んだ後で、俺はそのまま座り込んで息を整える。ここ最近は運動不足もあってか、随分と疲労が身体に重くのしかかってきていた。
「はー、重かったねぇ…」
 その一方で、智美の方はそれ程疲れた様子も無く、安堵の笑みを浮かべながら息を吐く。暑くて鬱陶しいからと言って切ってしまったショートカットの髪が、厳しい猛暑の中で涼しげに映っていた。
「明日は筋肉痛が確定だな、こりゃ…」
「もう、良也が運動不足なだけだよ?前に、これをここからわたしの部屋まで2人で運んだ時も同じ事言ってたし」
「いや、まさか再び俺の部屋に戻って来るとはなぁ…」
 そして、壁に立てかけたマットへ手を伸ばしながら、再び溜息。今運び込んだこのベッドは、元々こいつが同じアパートに越してくる直前に購入した物で、その時に一時預かり所として、俺の部屋に置いてあった時があった。
 当然、その時もこうして智美と一緒に彼女の新居まで運んだのだが、その時はまさか後に往復させられる羽目になるとは思わなかった。同じ敷地だけにそれ程遠くはないのだが、それでもこんなでっかい家具を運ぶのは相当骨が折れる。
「きっと、縁があったんだよ。このベッドも次の持ち主が良也で喜んでるよ?」
「あー、俺は押しつけられたとしか思えないんだが…」
「まぁまぁ。はい、それではこのベッドと先程運び込んだソファー、その他家具や食器類諸々合わせて合計140ドル、お買い上げありがとうございま〜す♪…と言いたい所だけど、やっぱり良也からはお金取れないよね…」
 そこで、智美は揉み手をしながら俺に代金を請求しかけるが、やがて肩を竦める動作に変わると共にそう告げた。
「おいおい、元々は少しでもお金にしたいからって、お前が強引に売りつけたんだろ?」
 そう言って、俺は予めポケットに入れていた20ドル札の束を取り出す。俺としても、どうしても欲しかった訳でもなかったのだが、智美への餞別のつもりで引き取りを了承した物だし。
「いや、そうなんだけど…でも引っ越しの片付けを殆ど徹夜で色々手伝わせちゃった後だと、さすがに請求しにくいなぁって…」
 そんな俺の台詞に、苦笑いを浮かべながら首を横に振る智美。確かに、昨夜は部屋を引き払うこいつの手伝いで、殆ど眠ってなかったりして。
「だから、お金はいいよ。捨てるよりは使って貰う方がわたしも嬉しいし」
「そっか。んじゃ、せめて昼飯位はオゴってやるよ」
 ともあれ、こうなったらもう無理矢理押しつけても受け取らないだろう。その辺は智美とのつきあいの長さで分かっていたので、俺は折衷案を持ち出す。
「おっ、気前いいね?どういう風の吹き回し?」
「たった今、運良く140ドル浮いたからな。まぁ任せておけ」
 そう言って俺は、ドンと得意げに自分の胸を叩いた。

「…と、カッコ良い事言いつつも、まぁ、この辺が妥当な所よね?」
 その後、ベーグルの店内で注文したサンドイッチと飲み物のセットを乗せたトレイを持って席に着くと同時に、そんなツッコミが飛んでくる。
「ま、これが貧乏留学生の限界とでも言いますか…」
 学生ビザで入国している身分の辛い所とでも言うのか、元々こいつに払う予定だった140ドルも、決して楽に払える額だったワケじゃなかった。智美相手だから何とかしたに過ぎない訳で。
「でも、ここには良くランチに来てたよねー?常連歴は、ここの店長さんより長いし」
「ああ、キャンパス内のカフェテラスはいつも混んでるからな」
 ここは、キャンパスを出て5分程度の場所に位置する、小さなショッピング街の一角なのだが、アメリカ人にも横着者が多いのか、ここは意外と穴場になっていた。
「んで、学校帰りは、良くみんなでそこのスタバへ行って、延々とダベってたし」
 そう言って席の隣の窓ガラス越しに、懐かしそうな顔で斜め横にあるコーヒーショップへと視線を向ける智美。 
「そうかと思えば、いきなり誰かが映画を見に行くと言い出して、そのままみんなでバスに飛び乗ったりしてな?」
 このショッピング街の入り口にあるバス停から、最寄の映画館まで15分ほど。往復1ドル25セントの交通費と、夕方はタイムサービスで入場料が4ドルで済んでしまうリーズナブルさも手伝って、殆ど毎週のペースで見に行っていた。
「あの頃は、そんな日常がずっと続くって思ってたのに…結構呆気ないよね?」
 そして智美は、何処か寂しそうにそう呟く。
「……」
 この智美は、ほんのつい先日まで、俺と同じ大学に通っている留学生仲間だった。しかし、明日から彼女は留学生ではなくて、現地で知り合ったアメリカ人の実家に嫁いで行く事になっている。
 つまり、留学生としての智美は、今日で終わりって訳だ。
「まぁ俺は、もう暫くそんな生活だけどな」
「…いいなぁ」
「羨ましいか?」
「…ちょっとだけ。と言うか、昨日まではそう思わなかったんだけど…」
 そう独り言の様に呟く智美の視線は、窓の外の風景に向いたままだった。
「それも明日までだって思うと、急に寂しくなって」
「でも、自分が選んだ道だろ?」
 そんな彼女に、俺はまるで自分に言い聞かせる様にしてそう声をかけた。
「うん…でも、今食べてるこのサンドイッチも…あしたからは別の味になっちゃうのかな?」
『…それを言ったら、俺だって同じだよ』
 それを聞いて思わず俺の脳裏にそんな台詞が浮かぶが、声にならなかった。元々、この店のメニューはあまり好きじゃなかったが、智美のお気に入りだったから付き合っていただけである。
「……」

「さて、これからどうする?後片づけはあれで全部終わったんだろ?」
 やがて店を出た所で、俺は中心にある時計台へ視線を移しながら智美に尋ねた。時刻を確認すると、智美のお別れ会を開く為に他の連中がうちに来るまで、まだ4時間以上はたっぷりとある。
「うん。挨拶回りも終わってるし…」
「んじゃ、今のうちに行っておきたい所があったら、付き合うけど?」
「そう言うのも、とっくに済ませてるよ?学校辞めたの、一週間以上も前なんだから」
「ああそう…」
 その間、在校生の俺達は進級をかけて期末テストに臨んでいたのだが。
「良也は、行きたい所は無いの?」
 どうしたものかと頭を掻いている所へ、ふとそんな事を尋ねて来る智美。
「俺の事はいいんだよ。今日は、お前の望みを出来る限り叶えてやる日なんだから」
「…それ、いつもと全然変わらないよ」
「そう言われてもなぁ…」
「ううん。それじゃ、良也の行きたい所へ行きたいって事にしてあげるよ」
「あー?そう言われてもなぁ…あと4時間だとフリーウェイでダウンタウンに行っても半分は移動でかかるし、映画を見に行くにしても、面白そうなのなさそうだし…」
「はぁー。そんなんだから、いつまでたっても彼女が出来ないんだよ?」
 そんな俺の台詞に、智美は呆れた口調で返しながら、俺の顔を見上げてくる。
「まぁ、よく言われるんだけどさ…」
「自覚してるなら直そうよ…あ、ブラッドからメールだ。……もう2日も、わたしの顔を見てないから寂しいって」
 ブラッドは先日智美と婚約した旦那さんで、俺の数少ないアメリカ人の親友でもあった。明日から2人は彼の故郷であるオハイオ州にある実家で一緒に暮らすことになっており、歓迎の準備をする為に、先日一足先に戻っていってしまった。以前は良く仲良し3人組でいたのだが、いつの間にか俺は2人から一歩離れた場所に隔離されていたらしい。
「はいはい、おノロケですかい」
 そう言って携帯の画面を見せてくる智美に、大袈裟に肩を竦める。俺なんて、逆に智美の顔を見られるのが今日を含めてあと2日しかないというのに。
「ブラッドは、寂しがり屋さんだから」
「…んー。俺には良く分からない感情だけどな」
「そんな事言いながら、本当は良也も寂しがり屋さんだったりして?」
「ばーか、んなワケないだろ」
 もしそうだったら、俺は今頃こうして隣に立ってはいられないはずだった。
「んじゃ、明日わたしとお別れになるのは寂しくないの?」
「別に。別れの時ってのは、いつか来るもんだ。それが早いか遅いかの違いだけでさ」
「その割に、最後だからって色々気を回してくれてるのよね?」
「……。さて、飯食ったら眠くなったな。やっぱり戻って昼寝でもするか?」
 何だか雲行きが怪しくなってきた事を感じた俺は、会話を打ち切る様にそう告げる。智美に内面を詮索されるのが癪に障ったのもあるが。
「あー、確かに今日も眠れないかもね?ひと眠りはわたしも賛成〜」
「また、騒ぎすぎて警察を呼ばれなけりゃいいけどな…」
 …まぁ、その位騒がしい方が、余計な事考えずに済むかもしれないが。

 人の運命とは河の流れの中に浮かぶ一艘の小船の様なものなのかもしれないと、俺は思う。それは、何処までも止まる事無く続いていく、時間という大きな河の流れの中で揺蕩(たゆた)う不安定な存在。

 ある日、ふとした事で共に同じ流れの中にいた筈の二つの小船がほんの僅かに離れていき、そして気付いたときにはもう互いが既にまったく別の流れの方向に向かっていた。
 …しかし、繋ぎとめる手が届く事の無くなった今、後悔しても全ては手遅れだった。既に乗ってしまった河の流れは決して遡る事はないのだから。

「……ん?」
 不意に意識が現実に帰り、夢と現実の狭間を揺らいでいる様なまどろみの中で、ぼやけた視界に段々と見慣れた風景が映っていく。
「…あれ、いつの間にか寝てたのか…いてっっ」
 そして、曖昧な記憶を目覚めさせようと頭をもたげた瞬間に、軽い音を立てて後頭部が壁にぶつかった。
「あいたたた…何やってんだよ俺は…ん…?」
 その痛みでようやく目が覚めると、座り込んでいるすぐ側のキッチン方向から、水道の流れる音が聞こえているのに気付く。
『なるほど。目が覚めた原因は、この音か』
 そして、目の前にあるテーブルの上にまとめられている酒類の空き瓶や、スナック菓子等の袋が、曖昧になっていた俺の記憶を鮮明に呼び覚ましていく。
「ああ、そうか…」
 あれから一眠りした後で、夕方から智美のお別れ会を始めたんだった。普段はあまり飲まない俺も、今日は限界まで付き合ってたので、そのまま潰れてしまっていたみたいだ。
『今、何時だっけ?』
 ポケットに収めていた携帯電話をごそごそと取り出して時間を確認すると、時刻は午前2時を回った辺り。ついでに辺りを見回すが、リビングには俺以外には誰の姿も無かった。どうやら、明日の見送りに備えてみんな帰ってしまったらしい。
『やれやれ、眠っている間に明日が今日になっちまったのか』
 次にやってくる”あした”は、智美にとっても俺にとっても、新しい日常の中の全然違う”あした”だった。もう、当たり前の様に智美と過ごした日々は、あと10時間程で終焉という事になる。
「……」
 止めどなく流れる時間と共に明日は今日に変わり、やがて新しい明日を迎えていく。人生とは、その繰り返しでしかない。だから考えるだけ無駄なのだが、それでもついつい考えてしまう。
 …まぁ、人間なんて所詮は時に縛られた傀儡なんだろうしさ。
『まぁいいや。俺もとっとと寝るか…』
 ともあれ朝8時には迎えが来て、智美と一緒に出発するという事を思い出すと、俺はむっくりと身体を起こす。
「んー。片付けなら、俺がやっとくからいーよ…」
「あ、うん。でも寝てたし、疲れてたら悪いなって思って」
 そして俺は気だるさと共に、あくびを噛み殺しながらのっそりと立ち上って、キッチンにいる誰かに声をかけると、聞き覚えのある声が返ってきた。
「ん…あれ、智美??」
 カウンター越しにキッチンの中にいる人物を確認した後で、思わず俺はその者の名を呼ぶ。そこには、エプロンに身を包んだ智美の後姿があった。
「何やってるんだ?」
「気付いたら眠り込んでたから。起きるの待ってる間に片付けてしまおうと思って」
「だったら、別に先に寝てても良かったのに」
 その後、視線を流し台に戻してそう答える智美に、俺は肩を竦めてそう答える。
「でも、やっぱり散らかしたままだと悪いかなぁって思って」
「ともかく、片付けはいいよ。明日透の奴にでも手伝わせてやっとくから」
 だからって、俺の方も1人で片付けさせておく気も更々無い。実際に透が手伝ってくれるかは非常に怪しいのだが、そうでも言わないと智美の手は止められないだろう。
「うん。…じゃあこれで終わりにする」
 とりあえずそんな俺の気持ちが伝わったのか、智美は素直に頷くと、最後の1枚の皿をふき取って戸棚へ収めた後でエプロンを脱いだ。
「…でも、透君はホントに手伝ってくれるの?」
 しかし、片付けを中断したのを確認した後で、そのまま部屋の奥にあるソファーへ向かう俺の背中へ問い掛けてくる智美。
「安心しろ。首に縄を掛けてでも手伝わせてやる」
「ふーん…」
 それは、明らかに信じていない呟き。元々俺と同じ位は透の奴の事を知っている彼女にとって、既に答えが分かってる質問でもあったのだが。
『まぁ、明日は休みだしな。1日かけて掃除してもいいか…』
 綺麗好きは日本人の美徳だ。
 …そういう事にしておこう。
「…くすっ」
「…なんだよ?」
 まるで俺の心情を見透かしているかの様に不意に笑いかける彼女に、俺は不機嫌な目を向ける。
「やっぱりいい人だよね、って思っただけだよ」
「そりゃ皮肉か?」
「皮肉に感じてるってコトは、自分自身でそうありたいと思い続けている証拠だよ?」
「ふん、勝手に言ってろ」
 そんな智美の台詞に、ついムキになってしまう俺。結局、こういう時に感じる刹那の疎ましさが俺が彼女との関係にもう一歩踏み出せなかった理由なのだろうと俺は思う。相性が良すぎたのか、それとも距離が近すぎたのか、俺達は常にお互いの心が剥き出しになりすぎていたのかもしれない
『…いや、ただの言い訳か』
 どんなにそれらしく言った所で、所詮は典型的な負け犬の遠吠えだった。

「…はい、これ」
 それからしばらくして、智美はリビングに戻ってくると同時に、冷蔵庫に残っていたジーマのボトルのうち1つを俺に手渡して、ぐったりとソファーに体を預けていた俺の隣へ座った。
「おうよ」
 俺は気怠さを含めた返事と共に、それを受け取る。
「んじゃ、乾杯…って、何のために乾杯しようか?」
 キャップを抜いてお互いのボトルを触れ合わせようとした瞬間、思い出したように手を止める智美。彼女の結婚祝いと、これからも変わらぬ友情については既に一番最初の乾杯で済ませていた。
「んじゃ、昨日受けたwritingの試験が無事に合格点を取っている事でも祈ってくれ」
「乾杯は願掛けじゃないよ?」
「あ〜、なら世界平和でもいいだろ、別に」
「…今って祝える程平和な世の中なの?」
「いや、それは…」
 そこであっさりと入った智美のツッコミで言葉に詰まる。
 うーむ、改めて考えると難しいものだな。
「それじゃあさ、今更かもしれないけど、良也に出逢えた事への乾杯にしようか。はい、かんぱーい」
 やがて一方的にそう告げると、智美はやっぱり一方的に自分の瓶と俺の瓶を軽く打ち合わせた。
「なんだよ、それ?」
 そんな智美を横目で見ながら、俺も彼女に習ってボトルに口を付けて傾けると、特有の口当たりの良い炭酸が喉を通っていった。
「だって、わたしは良也に逢えて良かったと思ってるから」
 そしてアルコールの影響か、僅かに頬を染めながら微笑を浮かべる智美。
「そ、そうか?」
 薄暗い明かりに照らされたそんな彼女の表情に一瞬心臓が高鳴るのを感じながら、俺は照れた様に問い返す。
「うん。それで、良也は?」
「え?俺か?俺は…」
 そこで振られた難題に、考えるフリをしながら答えまでの時間稼ぎにぐびりと更に一口。実際、俺は自分がどう思っているかよりも、どう答えるべきかに悩んでいた。悪いけど、智美の様に「俺もそうだった」と言える程素直じゃなかった。
「えっと……」
 沈黙。
「…もしかして後悔してる?」
「あ、いや、そういう訳じゃないけど…」
「もう、相変わらず煮え切らないよね?」
「生来の捻くれ男なんだよ、俺は…」
「んで、どうなの??」
 しかし、いつもならそこで話題が終わってしまうのだが、ずいっと顔を近づけてきて再び尋ねてくる智美。…どうやら、今晩は最後だけあって、見逃してはくれないらしい。
「まぁ、そりゃ…俺だって良かったと思ってるけどさ」
「思ってるけど何?」
「だから、いちいちツッコむな。意味なんか無いし」
 そして、苛立ち紛れに顔を背けてそう告げると、ぐいっとジーマのボトルを喉に流し込む。
「でも、そういう曖昧な所は、はっきりさせておいた方がいいよ?」
「…うるさい。お前は最後の最後でお説教をする為に、俺の部屋に泊まると言い出したのか?」
 自分でも分かってるだけに、他人から指摘されると妙にムカついてしまう。しかも、同時にそれが正論である事も分かっているだけに、余計にぐっさりと心に響くと言うか。
「まぁ、それもあると言えばあるんだけど…本当はね、ちゃんとお礼を言いたかったんだよ」
「お礼?」
 そこで意外な言葉が智美から出たのを受けて、そっぽを向いていた視線を戻すと、にっこりと優しげな笑みが返ってきた。
「うん。随分とお世話になったから」
「お礼…ねぇ」
 何を他人行儀な事を今更…とは思うものの、まぁ確かにお互いの為にも、ここで清算しといた方がいいのかもしれない。
「んじゃ、聞いてやろう。ただし清算するというなら、俺の方も礼を言わなきゃならない事は沢山あるけどな?」
 ともあれ、智美の意図が読めたので俺も請け負ってやる。
「…それじゃ、意味が無いよ」
「んじゃ、相殺って事でいいだろ?別に」
 そもそも、好意を持って施した行為には、対価というものは発生しない。それを清算しようという事は、まるで昔渡したプレゼントを突き返される様で、俺にとって正直嬉しい事とは言えなかった。
「……」
「何か不満そうだな??」
 しかしそんな俺の台詞に、何か言いたそうな顔で沈黙を向けてくる智美。もちろん、自分でも大人気ないなぁというのは分かってはいるが、それが偽りのない本音なんだから仕方がなかった。
「でも、本当に親切にしてくれたよね。独り暮らしを始めてから苦労した時を思い出すと、大抵良也の顔が思い浮かぶんだよねぇ」
「まぁ、俺の方も俺の方で、すぐ近所に来た時点でそうなるだろうって予想はしてたけどな」
 元々、アパートを探していた彼女にここを紹介したのは俺だった。そして正式に入居が決まると、乗りかかった船だとばかりに、彼女の力になろうとした。
「…それだけ?」
「ん?」
 ぼそっと呟く様にしながら、ちらっとこちらを見た智美の視線を受けて俺は反応を示す。
「あのね、実は少し前から聞きたかったんだけど…良也はわたしの事、どう思ってた?」
 すると、智美はじっと俺の顔を見据えたままでそう尋ねてきた。
「どうって言われても…」
「……。んじゃ、好きだった…って言ったらどうする?」
「…明日、行くの止めちゃおっかな」
「嘘だろ?」
「うん。嘘」
 そんな俺の台詞に、予想通り間伐入れずにきっぱりと答える智美。
「…ちっ。まぁ、好きは好きだけど、妹の代わりみたいなもんだよ」
「そうなんだ?それじゃ、お兄ちゃんって呼んで欲しかった?」
「…いいから。くだらない事聞いてないで、もう寝ろよ」
 俺は素っ気無くそう告げて立ち上がると、1人ベッドルームの方へと向かっていく。
「良也は聞かないんだ?」
「……。何を聞くってんだよ?」
「わたしの本音。良也の事をどう思っていたか」
「今更聞いてどうすんだよ、そんなの…」
「わたしに、本当は良也の事をずっと好きだったって言われるの、怖い…?」
「ふん。怖い、ワケないだろ。ばーか…」

 やがて俺はベッドルームのドアを閉めると、明かりを点けずに先程手伝ってもらって設置した、智美のベッドに腰掛けた。
「それにしても、なんだってあいつクィーンサイズにしたんだろうな?」
 引っ越した時点では独り身だったんだから、別にシングルでも良かったろうに。
「……」
「……」
 本当はそのまますぐに眠りたかったのに、すっかりと目は冴えてしまい、代わりに智美との余計な回想がまるで意気地の無い自分を苛む様に脳裏に浮かんでくる。
 せっかく、大量に摂取したアルコールも、俺の脳みそを強制的に休ませるには至らなかった。
「……」
 …結局、最後の最後まで俺は何も出来なかった。いつまでも智美と一緒に留学生活を送っていられる。そんな甘えが、幾重の「あした」を浪費していき、いつしか気付かぬうちに、彼女は俺の手が届かない所へと離れてしまっていた。
 せっかく友達として仲良くなれた関係が壊れてしまうのが怖い。だけどこのままでは進展しない。だから明日こそはきっと踏み出してみせる…と、その繰り返し。その間にも、彼女の心は別の相手に向いてしまっていたというのに。
 最早、今の俺が出来るの事は、智美がブラッドと幸せな人生を送れる様に祈るだけ。全ては自分の不甲斐なさが招いた結果だった。
「……」
 本当は良也の事をずっと好きだったって言われるの、怖い…か。
「……」
「…くそっ、最後だからって容赦なしかよ。智美の奴…」
 いつしか、説明できない痛みと共に、目の奥から熱いモノが溢れてくるのに気付く。それは贖罪であり、智美からの最後の贈り物だった。
「……」
「…悪いな、面倒かけたのは俺の方みたいだ」

 翌朝、見送りを終えて部屋に帰ると、綺麗に片付けられていたテーブルの上に一通の手紙が置いてあった。差出人の名前は正面に書かれていたので、すぐに智美からのものと分かる。
『良也へ 今まで本当にありがとう。良也にはずっと迷惑かけっぱなしだったよね。…でも、お陰で助かったし、楽しかったよ。良也がいてくれて良かったと、いつも思っていたから』
 迷惑…ねぇ。まぁ、本当に迷惑をかけたと思われていたなら、所詮そこまでだったのかもしれないけどさ。
「……」
 やがて、俺との想い出を手短に纏めた彼女の手紙は、最後にこう締めくくっていた。
『良也ほどいい人っていないと思うから…もし良かったら、これからも良い人でい続けてください』
「…余計なお世話だ」
 俺は、誰も居ない部屋に独り呟いた。

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