メイド・エージェンシーの派遣読本 〜モンテリナ姉妹編〜 その3
Chapter.3 モンテリナ姉妹
「姉さんって……」 「……どういうことですの?」 トレハの口からいきなり飛び出した「姉さん」という言葉を聞いて、思わず顔を見合わせるわたし達。 「…………」 しかし、スクラはそんなわたし達の方には全く目もくれず、無言でトレハの前へ歩み寄って行ったかと思うと……。 パアンッッ 「…………っ?!」 カウンター越しに手の届く距離まで接近するや否や、スクラから放たれた渾身の力を込めた平手打ちが、派手な音を響かせてトレハの頬に炸裂した。 「トレハ、あなた一体どういうつもり?!」 「ご、ごめんなさい……でも……」 「いきなり居なくなったりして、この私がどれだけ心配したと思っているの?!」 「で、でも、でも……っ、あのまま私が一緒にいたら、姉さんに迷惑がかかるかもしれないって思ったから……っ!」 「……迷惑、ですって?あなた、ふざけてるのっ?!」 そして、叩かれた左頬を抑えながら、怯えた目で弱々しくそう答えるトレハの台詞を聞いて、スクラの方は更に激昂すると、腕を伸ばしてトレハに掴みかかっていく。 ……それこそ、初めて見た時の印象が全て吹っ飛んでしまう位の勢いで。 「うあっ?!姉さんやめ……あうっ!」 「人の気も知らないで、言うに事欠いて迷惑なんて、一体どの口がそんなコト……?!」 「ち、ちょっと待った、待ったっっ!!」 ようやくそこで、止めなきゃという強い衝動で硬直が解けたわたしは、慌てて二人の間へ割って入ると、怒りに任せてトレハの胸元を締め上げようとするスクラを強引に引き剥がした。 「ま、マスター……」 「くっ、邪魔をしないで下さい!これは私達、姉妹の問題……」 「……分かっているわよ、そんな事。だけど、そんなに頭に血が上った状態じゃマトモに話なんて出来ないし、それに他のお客さんに迷惑でしょ?」 それから、トレハの代わりにスクラの激昂を受け止めながら諭すと、わたしは首を回して周囲を見回す様に促してやる。 ランチタイムを過ぎて疎らながらも、店内にいる客達は一様に呆然とした目をわたし達の方へ向けてきていた。 「……あ……」 「…………」 「とにかく、一旦落ち着いて仕切り直しましょう。わたしも聞きたい事があるし。二人共いいわね?」 「……分かりました。お騒がせして申し訳ありません」 それを見て、ようやくスクラも我に返っていつもの表情に戻ると、淡々としたお詫びの言葉と共に、タレットさんや他の客達へ深々と頭を下げる。 「何だかワケありみてぇだな。んじゃ、隅っこのボックス席を貸してやるから、飯でも食いながら話をつけろよ」 「悪いわね、マスター。んじゃ、お言葉に甘えてさせてもらって……ほら、トレハも来なさい?」 「あ、はい……」 すると、わたしに呼ばれてすぐに返事をした一方で、トレハは気が乗らなさそうな顔を浮かべるものの、ここは見逃すわけにはいかない。 元々、訳アリの事情が多すぎるみたいだし、わたしとしても一方だけから話を聞く気は無かった。 「んで、ラトゥーレはどうする?一緒に話を聞くの?」 「も、もちろんですわっ」 あと、ついでに未だ呆然と立ち尽くしていたスクラのマスターにも声をかけてやると、慌てて頷いた後で、既に移動を始めたわたし達を追いかけてくる。 ぶっちゃけ、邪魔といえば邪魔なんだけど、一応は筋を通しておかないとね。 * 「……さて、それじゃ改めてお話を聞きましょうか。ちなみに、さっきみたいにいきなり掴みかかるのは無しの方向で頼むわよ?」 やがて、タレットさんに提供して貰ったボックス席へ全員移動した後で、わたしは静かに話の再開を宣言した。 ちなみに、こちら側にはわたしとラトゥーレ、向かい側にはトレハとスクラがそれぞれ並んで座っている。 「……分かっています」 「は、はい……」 「…………」 それと、ラトゥーレの奴が隣でわたしに仕切られているのを不服そうにしているものの、ここは無視しておく事に。 「よろしい。んじゃまずは、あなた達って本当に実の姉妹なの?」 ともあれ、トレハとスクラの合意を得ると、わたしは早速一番知りたい情報から切り出していく。 「そうです。幼い頃に両親を亡くし、もう十年近く二人だけで生きてきました」 「……って事は、スクラのファミリーネームも、モンテリナなのかしら?」 「ええ。スクラローズ・モンテリナです」 その後、こちらの方から水を向けてみたわたしへフルネームを名乗った後で、「よろしく」の単語を省略して小さく会釈してくるスクラ。 (……ああそうか、どうして気付かなかったんだろう?) それから、並んで座る姉妹を改めて見比べていくうち、ようやく今までわたしの心に残っていた一つのもやが晴れてくる。 (最初にトレハを見た時から感じていた既視感は、スクラの面影を感じていたからか……) 確かに雰囲気は水と油でも、こうして見ると顔のつくりは姉妹らしくそっくりである。 これまた気付かなかったのが間抜けだけど、この二人は王都の住人としては珍しい、蒼色の瞳を持つという共通点もあったのに。 「なるほどねぇ……。んじゃ今度はトレハに尋ねるけど、最初に会った夜、姉と離ればなれになっていると言ってたわよね?本当にスクラの居場所を知らなかったの?」 「離ればなれですって?!私がリースリング・エージェンシーとの契約交渉に出かけている間に、何も言わず出ていったくせに……」 「おっとっと、落ち着いてスクラ。……トレハ、これは一体どういう事なの?」 「……それは……すみません。確かに私は、お姉ちゃんの元から家出をしてしまったというコトになります……」 そこで、再び感情を爆発させかけたスクラを落ち着かせると、代わりにわたしがやや強い口調でトレハを詰問すると、俯いたまま消え入るような声でそんな答えが返ってくる。 「それで、公園で行き倒れかけていた所に、わたしが偶然やってきたってわけ?」 「はい、そうです……騙すつもりはなかったんですが、すみません……」 「……行き倒れ?公園で?」 「ま、まぁまぁ、それは置いておくとして……。どうして家出なんか?喧嘩でもしたの?」 それを聞いて、再びスクラの顔が険しくなるのを苦笑い混じりで宥めながら、別の質問を続けるわたし。 「…………」 「…………」 しかし、その次の問いかけに対しては、姉妹揃って口をつぐまれてしまった。 (やれやれ、ここでだんまりですか……) こちらにしてみれば、そこが一番聞きたい部分だってのに。 「まったく、埒があきませんわね。これ以上続けるだけ無駄ではありません事?」 「だったら、黙っていて。あんたと違って、こっちはそういう訳にはいかないんだから」 「んなっ?!」 「……それは、トレハをコンテストへ出場させる為に、という意味ですか?」 「ええ。うちの責任で人物証明書も作らないといけないしね。出来る限り、隠し事は無しにしておいて欲しいんだけど」 そんな中、今度は感情を押し殺した口調で会話に割り込んできたスクラに、わたしは素っ気無く頷いてやる。 「…………」 「では、私からも一つだけ聞かせて下さい。エトレッド……いえ貴女は、本気でトレハをコンテストに出すつもりですか?」 「勿論よ。参加費と保証金を工面する為に、亡くなった親から貰った一番大切な指輪を担保に入れたし、大切な友達との約束もある。だから、もう後に引く道は無いの」 「えっ?!そ、そうなんですかマスター?」 「本当よ。でも、それは別にトレハが気にする事じゃないわ。ただ問題は……」 「トレハ、貴女はどうなの?」 そして、更に続けようとしたわたしの台詞を、そっくりスクラに奪われてしまった。 「わ、私は……本気です。マスターが信じてくれているから……そして、もし許されるのなら、やっぱり私はメイドのお仕事を続けたいから……」 すると、トレハはスクラの視線に気圧されながらも、胸元で拳をぎゅっと握り締め、気丈な面持ちでそう答える。 「……続けたいですって?あんな目に遭っていながら、まだ懲りないと?」 「それでも、やっぱり私は誰かに仕え、その方の笑顔の為に尽くすのが生き甲斐だから」 「…………」 「……分かった。そんなに戻りたくないのなら、好きにすればいいわ。一応、今はマトモな所へ身を置いているみたいだし」 そして、そんな家出中の妹の返答を聞いたスクラはしばらく黙り込んでいたかと思うと、やがて徐に立ち上がり、不機嫌さを隠さない憮然とした顔でそう告げた。 (一応って……) 悪かったわね、一応レベルで。 「では、これ以上話をしても無意味ですし、そろそろ戻りましょうか、お嬢様?」 それからスクラは一方的にそう続けると、主の返事を待たずにわたし達の前から立ち去ってしまった。 「ちょっ、お待ちなさいスクラ!わたくしを差し置いて勝手な真似は……」 「……ったく、偉そうな事を言いながら、スクラにあしらわれてるじゃないのよ」 続けて、いつもの捨て台詞も無しに慌ててスクラの後を追いかけるラトゥーレの後ろ姿を見送りながら、溜息混じりに吐き捨てるわたし。 (それにしても、スクラにあんなに感情的な部分があったとはね……) 意外というか正直驚いたものの、まぁそれはとりあえず置いておくとして……。 「…………」 「……何だか、騙された気分ね」 ともあれ、それからボックス席に残ったトレハと二人きりになった後で、わたしは誰にともなく呟く。 一応、いくつかの疑問は解決したけれど、やっぱりどうにも釈然としない。 「べ、別に、私はマスターを騙そうとしたわけじゃ……」 「まぁ、生き別れになった姉を探して行き倒れかけていた薄幸の少女と、勝手に勘違いしていたわたしが悪いんだけどさ」 確かに離れ離れイコール、居場所が分からないとは限らない。 屁理屈だけど、そのお陰でわたしはすっかりと違ったイメージを抱いてしまっていた。 「そんなこと……」 「とりあえず、トレハって名前が偽名じゃない事が分かっただけでも安心はしたけどね。もしそうだったら、人物証明書はとても発行出来なかったし」 しかし、そこで言葉を返そうとしてくるトレハを遮って、わたしは肩を竦めて見せながら、嫌味っぽくそう告げてやった。 ……いやまぁ、信じたいと思いながら心の何処かで燻っていた疑惑だけに、安心したのは確かなんだけど。 「…………」 「そして、わたしがそんな風に考える原因は……分かるわよね?」 「すみません……」 「やれやれ、あんたは初めて逢った時から、そればっかりじゃない?」 もう「すみません」も聞き飽きたし、何だか妙にイライラしてきた。 わたしの為なら何でもするとか言いながら、自分の都合の悪そうなコトは、こうやって誤魔化してきているんだから。 「まぁいーわ、話したくないならそれで。別にあんたの口から聞き出す必要も無いし、こっちが指示した事だけやってくれればね」 「……マスター……」 「まぁ待て、メイフェル。人間、糖分が足らなかったり、腹が減ると必要以上にイライラしてくるもんだ。これでも食って一息入れな」 そこで、トレハに向けた中では今までで一番冷淡な言葉を告げて、わたしもスクラと同じく苛立ちに任せて席を立った所で、料理が乗せられたトレイを 持って来たタレット師に引き留められてしまう。 「生憎、そんなに単純に出来ちゃいないわよ。それに、食欲も別に無いし」 「ふん、ここに来た本来の目的を忘れている時点で、無駄に苛立っている証拠だろうが。ほらトレハ、食わせてやんな?」 しかし、タレットさんはそんなわたしへ呆れた顔を見せながらそう告げると、トレイに乗った料理をテーブルに置いた後で、預かり中の弟子に促した。 「あ、はい……」 それを受けて、トレハは小さく頷くとスプーンを手に取り、ポットの中に入っていたホワイトシチューを掬い上げて、もう片方の手を添えながらわたしの前へと差し出してくる。 ……ちなみに、その手は微妙に震えているみたいだった。 「えっと……あの、あ〜んして下さい、マスター」 「あ〜んって……ガキじゃあるまいし……」 もしくは、周りが見えないバカップルか。 「ゴチャゴチャうるせぇ、とっとと食えってんだ!」 「あ〜はいはい、分かったわよ……っ」 そこでマスターにどやされて(というか、わたしよりもタレットさんの方がよっぽどイライラしている気がするんだけど)、渋々とトレハが差し出したスプーンの中身を口に含むと、ふんわりと奥行きのある上品な味が、わたしの味覚を刺激していく。 「…………!」 どちらかと言えば薄味の部類なんだけど、何種類もの食材が絶妙な組み合わせで煮込まれた深い味わいで、正に”上品”という表現が相応しい、気品を感じられる味付けだった。 「……あの、いかがですか……?」 「これ、もしかしてトレハが作ったの?」 「ったく、さっきトレハ嬢ちゃんの成果を見ていくって言ったのは、どこのどいつだ?」 やがて飲み込んだ後で、思わず間抜けな問いかけを返してしまうわたしへ、トレハの代わりに師匠がツッコミを入れてくる。 「ああ、そうだったわね……。頭に血が上ってすっかりと忘れてたわ」 (やれやれ、これじゃマスター失格かしら……) ちょっと自己嫌悪。 「それで、あの……こちらの方も食べてくれませんか?」 それから続けて、大皿の上へ重ね合わせる様に盛り付けられた、オレンジ色のソースがかかった薄いステーキをフォークで一枚取り、ぎこちない動きでわたしへ差し出してくるトレハ。 「…………」 そこで、今度は素直にそれを受けるわたしなものの、これがまた中々の逸品だった。 黒コショウがやや強めに効いているのがポイントで、脂っこさを中和させるフルーツベースのソースとのバランスも抜群である。 これらは、人によってはやや物足りなく感じるかもしれないけれど、でも間違いなくわたし達が狙う層に支持を受ける味付け。 「ど、どうですか……?」 「……うん、どちらも悪くないわ。いや、むしろ良く頑張ってるみたいね」 そして咀嚼を終えて飲み込んだ後、ナプキンで口元を拭いながら、シンプルで率直な感想を告げるわたし。 たった二口だけの試食ながら、今日ここへ来るまでに抱いていた不安を払拭させるには充分過ぎる内容だった。 「……良かった。これでマスターの期待を裏切らずに済みました」 すると、トレハはホッと胸を撫で下ろした後で、にっこりとわたしへ天使の様な笑みを見せる。 「…………」 (……やっぱり、トレハは不思議な子よね) ここで、本来真っ先に思い浮かべるフレーズは、もっと具体的な物であるはずなのに、それでもこんな抽象的な感想が、わたしの頭に浮かんできた偽らざる本音だった。 「ま、そういう事だ。少しは安心したか?」 「……ねぇ、マスター。トレハってやっぱり、元々が料理上手だったの?」 ともあれ、やがてポンと肩を叩きながら得意げに尋ねてくるタレット師へ、素直に頷く代わりに別の質問で応えるわたし。 考えたら、わたしがトレハの作った料理を食べるのはこれが初めてだけど、正直に言えば予想を遥かに超えるレベルだったりして。 「いんや。さっきも言ったが、料理の経験からして殆ど無かったしな。最初にやらせてみた時は、さじを投げて送り返そうかと真剣に考えた位に酷いもんだったよ」 「……んじゃ、やっぱり天才肌って事?」 なにせ、リースリングがコンテストに送り出そうとしている、あのスクラの妹だというコトも発覚したわけだし。 「まぁ、天才とは努力という行為に対して、躊躇いなく全てを捧げられる人物の事を差す、とは聞いた覚えがあるけどな。少なくとも、トレハはおまえさんの期待に応えようと、寝る間も惜しんで修行に励んでいたのは確かだよ」 そこで、改めて問い直すわたしにそう告げると、再び肩を叩いてくるタレットさん。 「…………」 「……分かった。もう余計な事は聞いたりしないから、トレハは脇目もふらずに努力を続けなさい」 それを受け、わたしは少しだけ間を置いた後で、敢えて感情を抑えた言葉でトレハへそう告げてやった。 ……おそらくそれが今、わたしが彼女に送るべき言葉なんだろう。 「は、はいっ!私、頑張りますっ」 少なくとも、トレハのこの天使の笑みを決して曇らせちゃいけない。 もしかしたら、それこそがわたし達を奇跡へ辿り着かせる灯火なのかもしれないから。 「んじゃ、残りの期間も僅かだけど、よろしくお願いしますね、タレット師匠?」 「おうよ。俺もプロだ、引き受けた以上は責任を持って仕上げてみせるさ」 「ええ、頼りにしてますから。んじゃ、トレハもしっかりね?」 そして、わたしは最後にトレハへ軽く手を振ると、それ以上は何も言わずに立ち去る事にした。 「…………」 (もしかして、思い違いをしていたかな?) 以前、わたしは今回の勝算として自分の出場経験を挙げたものの、もしかしたら真の決定打となるのはもっと別のモノなのかもしれないと、漠然とそんな事を考えながら。 「……ほっほっほっ、なかなか睦まじい師弟愛ですな?」 しかし、それから店の出口へと向かう道中で、わたしはいつぞやの様にティー・カップを持ったグレイ卿から声をかけられてしまう。 「あ、こ、これは……いつもいつも申し訳ありません、騒がしくしてしまって……!」 そこで、一応今回は自分だけの所為ではないとしても、やはり慌てて頭を下げるわたし。 ……ただ考えたら、最近はこの店を手伝うどころか、営業妨害をしまくっている気がする。 「いえいえ、構いませんとも。それより、数日中にジャックがお伺いする予定ですので、それをお伝えしようと思いましてな」 しかし、そんなわたしに対して、この前と同じく不機嫌そうな素振りは見せず、マスコット・メニューのアールグレイを静かに嗜みながらそう告げてくる グレイ卿。 「ジャックが?……分かりました。では、待っているので勝手に入ってきて構わないとお伝えください」 「おやおや、レディがその様なはしたない事を言うものではありませんぞ?彼はなかなか優秀ですが、遠慮のない男ですから」 「あはは、確かにそうですね……」 そこで、珍しく悪戯っぽい笑みを向けてくるグレイ卿に、わたしは苦笑いを返して見せた。 * 「……失礼するぞ、お嬢さん?」 それから、グレイ卿の予告を受けてきっちり三日後の午後、わたしが書斎で事務処理をしていた所で不意にドアが開いたかと思うと、すらっとした長身に灰色のフロック・コートを着こなした一人の伊達男が静かに入ってくる。 「…………」 「おっと、これは失礼」 そして、ジト目で迎えるわたしの視線に気付くと、浅黒い顔をした男は既に開けてしまった入り口の内側から、小さく二回程ノックをして見せた。 「事後のノックは大目に見るけど、呼び鈴位は鳴らしたらどうかしら、ジャック?」 今、わたしがここで彼を不法侵入者とみなして通報しても、グレイ卿から抗議を受けない自信はあるんだけど。 「晩餐会のお誘いなら、花束でも持って堂々と訪れさせてもらうさ。出来れば好奇心旺盛なおチビちゃんには内緒の密会にした方が、何かと都合が良いんじゃないかと思ってな」 「まぁね……」 そう言って、後ろ手で書斎のドアを静かに閉めるジャックに、わたしも作業中の帳面を閉じながら溜息混じりに認めた。 確かにわたしとしても、ディテクティブに頼んだ信用調査の結果報告を受けている場面に、メイシアを同席させたいとは思わない。 (……にしたって、音も無くはないと思うけど) ちなみにこの、わたしがジャックと呼ぶ不躾な来客は、グレイ卿が社長を務めるディテクティブ(民間調査会社)の一つ、コンチネンタル・サーカス社のオプティカル(調査員)で、以前から調査依頼をした時は殆ど彼が担当してきた事もあって、親子二代で懇意にしている、ちょっとした旧知の仲だった。 「さて、気に入るかどうかは分からないが、報告書が出来た」 やがて、ドアを閉めた後でジャックは被っていた帽子を取ってわたしの前に座ると、視線を手の上に移動させた帽子のつばへ向けたまま、素っ気なく そう切り出してくる。 目鼻立ちの整ったつくりをしているものの、職業病なのかその端正な顔からは、相変わらず感情という物が喪失してしまっている様だった。 「こちらの知りたい情報で満たされているなら、どんな内容でも気に入るわよ」 それに対して、同じ様に素っ気無い口調で返してやるわたし。 彼の報告書は、自ら集めた情報に何ら主観を含めること無く、こちらの依頼した情報を必要な分だけ簡潔にまとめてくれていて、それをどう受け止めるかはあくまでクライアント次第。 そんな自分の領分を決して越えようとしない所も、信用に足りる根拠と言えた。 「……それは良かった。それじゃ、受け取ってくれ」 ともあれ、ジャックから差し出された簡易製本済みの報告書を受け取り、早速わたしは概要を纏めたアウトライン部分から素早く目を通していく。 「…………」 確かに、淡々とした文面で綴られた報告書は、わたしが求めていた情報で敷き詰められているみたいだった。 ……それが、不快な物かどうかは別の問題として。 「なるほどね……」 珍しく、ジャックがお節介な言葉を添えて切り出してきた訳だ。 いきなり記されていた彼女達の正体を見て、目眩がしてきたし。 「モンテリナ姉妹と言えば、ある筋ではちょっとした有名人の様だ。何せ“身売りされた子供達”というだけでも珍しいが……」 (……身売りされた、子供達……!) 今は殆ど耳にしなくなって久しいその言葉を記憶の隅から掘り起こされて、わたしの背筋に悪寒が走っていく。 それは需要が伸びていき、発展していくメイド雇用システムに今なお残る暗部。 ……しかし、マルフィック事件以来に厳しくなった規制で、もう途絶えたとされていたのに。 「それに加えて、エトランジェ……とはね」 「ああ。結論を報告すれば、この姉妹はランサム・エージェンシーが海の向こうから連れてきた孤児になる。その後、メイドとしての訓練を施して働かせていたのは確かだが、政府へ申請している“表”の登録リストには載っていない。一応、ライオネル王国内で生まれた孤児達、という事にはしているみたいだがな」 「……ランサム・エージェンシーか」 表向きこそ正式に登録されている真っ当な業者だけど、その一方で、同業者からは有力貴族のバックを得て、身よりのない子供達を集めて非合法な メイド派遣業を営んでいると噂される、悪名高いエージェンシーだった。 「まぁ、実際にモンテリナ姉妹が今までどんな仕事を強いられてきたのかまでは分からなかったが、曖昧な言葉で言っても、相当嫌な思いはしてきているだろうな」 「……どうでもいいけど、“連れてきた”って、本当に正しい表現なのかしら?」 「さぁな。それは解釈次第だろう」 そこで、呟かずにはいられなかったわたしの苦肉に、淡々とそう答えるジャック。 「…………」 なるほど、スクラがトレハの「迷惑」って言葉で激昂した訳が分かった。 誘拐も同然なのか合意した上なのかは知らないけど異国の地へ連れてこられ、姉妹二人きりで法の庇護を受けられない苛酷な……いや、絶望的とも言える環境で生きてきたんだから。 「まぁ何はともあれ、とんだ厄介者を拾い込んでしまった様だな?」 「……客観的に見ればそうかもしれないけど、その表現は賛同しかねるわね」 そして、これまた珍しく付け加えてきたジャックの余計な感想を、わたしは視線を報告書から離さないまま訂正した。 「価値観の違いという奴だな。失礼した」 「しかし、よりによってワイズミュラー家に奉公していたとはね。花瓶で当主の息子の頭を殴り、怪我を負わせて逃げ出した……か」 ワイズミュラー家の当主、クロムウェル侯爵は財務卿と国営銀行の頭取を兼任している経済の番人で、王国内でも有数の大物貴族である。 政治家、経営者としての手腕に長け国王陛下の信頼も厚く、更には広大な土地と、そこから発生する底知らずの資産を有している事から金回りの良さには定評があるものの、本人と四人の息子を含めて女癖の悪さも有名だった。 また、雇用しているメイドの数も王国の貴族では一番多いと言われており、上流階級向けのエージェンシーでは、このワイズミュラー家を蔑ろにしては やっていけないとまで言われている。 そんな訳で、このワイズミュラー家へ派遣したメイドへの、ハラスメント関連のトラブルは後を絶たないとの噂だけど、一度もそれが事件として表面化した事は無かった。 ……ぶっちゃけた話、将来うちのメインの顧客層が貴族階級になったとしても、あまり積極的にお近づきにはなりたくい取引先という事になるだろうか。 「ああ。……だが、この件に関してワイズミュラー家からの被害届は出ていない。大した怪我じゃないので、余計な騒ぎを起こしたくないのもあるだろうが、あの屋敷のメイドが花瓶で主人を殴りつける様な状況の原因を考えれば、本当の理由の方も自ずと予想はつく」 「……そうね」 そんなジャックに、わたしはこれ以上ない位の不快な感情を込めて吐き捨てる。 (まったく、あの子は運が悪いのか、何というか……) 別邸を含めて雇用しているメイドの数は一千人にも上ると言われるワイズミュラー家で、よりによって当主一族の目に止まってしまうとはね。 「…………」 でもこれで、スクラが言っていた「まだ懲りないのか」という言葉の意味も分かってきてしまった。 もし、今わたしが考えている最悪の想像通りなら、どうしてあの子はあんな天使の笑みが浮かべられるんだろう……? 「エージェンシーを介する現在のメイド雇用システムが確立して、実用的、そして信頼性の上では労働力を求める者、提供したい者の双方にとって、確かに悪くない環境になったと言えるのかもしれない。……だが、それでは物足りない連中もいるって事だな。しかも上流階級層の中でだ」 「そして、泣くのはいつも立場の弱い者だけ……ね」 正直、こういった話は知識として知ってはいたものの、今まではどこか他人事の様に聞いていたのも確かだったと思う。 ……しかし、傍観者でいられなくなった今は、自分でも戸惑う位に凹んだというか、暗闇の深淵へと突き落とされてしまった気分になっていた。 「まぁ、所詮世の中は弱肉強食って事だな。どんなに平和に見える世界でも、必ず暗部は存在する」 「…………」 そんな知った風な言葉で納得出来るうちは、まだ幸せだったって事かな。 「……それにしても、短期間のうちに良くここまで分かったわね?」 いずれにしても、何だか気分が更に沈んでしまいそうになったわたしは、話題の矛先をずらそうと、ジャックにそんな事を尋ねてみる。 本社へ直接赴いて依頼をしたのが指輪を質に入れた後だから、調べ上げて詳細な報告書を作成するのに三週間も経っていない計算になるけれど。 「お前さんが依頼時に持ち込んで来た、彼女の着ていたという制服のお陰だな。まず最初にあれの出所を調べたら、ランサム・エージェンシーが支給している制服の一つという事が分かった」 「……で、後は情報を辿っていけば、あの姉妹の情報はもとより、ランサム・エージェンシーが表、裏共に一番のお得意様としている、ワイズミュラー家で最近起こった非公式の事件へ辿り着くまでに、そう時間はかからなかったさ」 すると、ジャックは特に自慢する素振りもなく、いつもの様に事実を淡々と報告した後で、預かっていたエプロンドレスを思い出した様に返却してきた。 「なるほどね……。どうしてこのドレスを着たままで家出したのかは知らないけど、こちらには好都合だったってワケか」 まぁ、知らないで済むなら、その方が幸せな情報だったのかもしれないけど。 「……それで、どうするんだ?」 「どうするとは?」 「いやなに、新しい御用でも申し付けられるんじゃないかと思ってね」 そう言って、手に持った帽子をクルクルと指で回し始めるジャック。 どうやら、そろそろ報告を締めくくりたいらしい。 「念を押すけど、この件は表沙汰にはなっていないのね?」 「ああ、堂々と言えない方法で雇ったメイドのしでかしたトラブルだからな。一緒に勤務していた姉のスクラローズも本人の希望退職という形ですぐに放出されたが、この姉妹へ追っ手を差し向ける事はしなかったみたいだ」 「そう……」 「……まぁ、基本的には捨て置くつもりだろうよ。二度と自分達の目の前にさえ現れなければな?」 そして、最後の部分に脅しの様な含みを持たせ、ジャックは今日ここへ来て初めて、自分からわたしの方へ視線を向けてきた。 「…………」 ジャックの口ぶりから、何を言おうとしているのかは分かる。確かに吹けば飛ばされる様な弱小エージェンシーの経営者が選ぶ選択肢としては、それが一番賢いのかもしれない。 ……つまり、今からでも遅くないから、人物証明書を発行する前にトレハの登録を解除し、問答無用で叩き出すべきだと。 万が一にもワイズミュラー家を敵に回してしまえば、トレハを助けるどころか自分の身も危うくなるし、身元保証の義務を負うエージェンシーにとって、 そもそも出身不明のエトランジェなど招き入れてはいけないはずだから。 それでも、わたし自身の手でそれが出来ないのなら、ジャックが代行を請け負おうと。 (……だけど……) 本当に、それで割り切って良いのだろうか? 父から教えられた、わたし達エージェンシーの役割は……。 「…………」 「……だったら、わたしも当面は知らないフリをするとしましょうか」 それから暫く考え続けた後に、わたしは読みかけの報告書を閉じると、ジャックへ向けて素っ気なくそう告げた。 「いいのか、それで?」 「少なくとも、最終決断を下す前に確かめておきたい事があるし。もし新しい用事が出来れば、また連絡させてもらうわ」 名声、悪名ともに王国随一で、強大な権力を持つ反面で政敵も多いと言われるワイズミュラー家がトレハ達を見逃した理由は分からないものの、幸いであり皮肉にも、今のうちのエージェンシーでは関わり合いになる機会そのものが無さそうだし、過剰なまでに臆病になる必要も無いだろう。 それに、もしこの先で侯爵家の人間と蜂合うことがあったとしても、こちらから何も言わなければ、安易に波風を立ててくるとも考えにくいし。 「……分かった。しかし、いずれはあんたも……いや、これは余計なお節介だったな」 すると、わたしの結論を聞いたジャックは警告含みの言葉を返そうとしたものの、すぐに取り消した後でゆっくりと立ち上がる。 「ありがとう、ジャック。またお願いね?」 そして、わたしから向けられた見送りの言葉に、帽子を深く被りながら「諒解」とだけ答えると、ジャックは請求書が入った封筒を静かに机の上へ置いて立ち去って行った。 「……それに、やっぱり敵前逃亡はイヤなのよね……」 リースリングだって、スクラの事は同じ様に調べた上で使っているんだろうから。 * 「……ただ今戻りました、マスター」 それから夕方過ぎ、星辰の麓亭へ修行に出ていたトレハが戻ってくると、早速書斎で待っていたわたしの元へ報告にやってきた。 「ご苦労様。師匠からのお墨付きは貰えたかしら?」 「あはは、人生之修行だって言われました」 そこで、まずは成果を尋ねるわたしに、トレハは苦笑いを浮かべながら、タレット師らしいコメントを復唱する。 「あの人らしい台詞ね。他には?」 「えっと、とりあえずこれで上辺だけでも取り繕う事は出来るだろうが、本物にしたければ今後も修行を続ける様に、との事です」 そして、「鍛えたい時はいつでも来ていいと言われました」と付け加えて締めくくるトレハ。 「上出来ね。あの師匠にそこまで言わせたのなら、合格点でしょ」 とにかく、弟子を褒める事が無い職人だけに、わたしもあの人から「これで充分」という台詞を聞けるとは最初から思っていない。修行時代のわたしも、最後までマトモに褒められたコトはなかったし。 ……ただ、姉弟子であり、付き合いもそこそこ長いわたしの脳内辞書で変換すると、タレット師の「上辺だけでも取り繕う事は出来る」は、「コンテストの 一次審査に関して言えば、どうにかなる様にしてやった」と解釈することが出来るし、更に「いつでも来ていい」と言われたのならば、それは自分の愛弟子として認められた、紛れも無い証拠である。 「ありがとうございます!それではいよいよ次のステップですね?」 「……その前に、預かっていた制服を返しておくわ」 しかし、そこで意気揚々と話を進めてくるトレハに対して、わたしは静かにそう告げると、ジャックからの報告でランサム・エージェンシーの物と分かった、彼女が最初に着ていたエプロンドレスを引き出しから取り出し、机の上へと置いた。 「これは……」 「勝手に持ち出して悪かったわね。でも、お陰で助かったわ」 それから予想通り、トレハの顔に動揺が走ったのにも構わず、淡々とそう告げるわたし。 「あ、あの、マスター……もしかして、私の事を……?」 「……ねぇトレハ、次のステップへ進む前に聞かせて欲しい事があるの。このコンテストが終わったら、あなたはどうしたいのかしら?」 そこで、冷汗を滲ませながら恐る恐る尋ねてくるトレハの質問に答える代わりに、わたしはそんな問いかけを返した。 「…………」 「お願い、本音を正直に聞かせて。でなければ、これ以上進む事は出来ないから」 「……その……私は……これからも、マスターのもとでメイドのお仕事を続けたいです」 それから、ヘタをすれば睨んでいると思われそうな位に真剣な眼差しを向けて返事を促すわたしへ、トレハは少しの間だけ視線を泳がせた後で、やがて意を決したのか、口調は控えめながらもわたしの目をしっかりと見据えてそう訴えた。 「どうして?」 「どうしてって……」 「だって、あなたはメイドになる事を強いられてから、人には決して語れない様な辛い目に遭い続けてきたんでしょう?……それとも、何か特別な理由でもあるの?」 「……別に、大義と呼ぶほどの理由がある訳でもありませんし、思い出したくもない想い出ばかりとも限りません。私がメイドのお仕事を続けたいと思うのは、一つは人のお役に立ちたいからです。自分がお仕えする御主人様のお役に立てて、私の存在価値を認めていただければ、それが何よりの報酬ですから」 「だとしても、無理にメイドじゃなくても構わないでしょう?忌まわしい過去を引きずってまで、どうして未だにこだわるの?」 そこで、返ってきたトレハからのあまりにも純真すぎる回答に、わたしの方が幾分ムキになりながら言葉を続けていく。 ……だって、そんな”聖女”こそが、本来は一番メイドになんてなっちゃいけないのだから。 「それは……わたしに出来そうなお仕事は他に思いつかないというのもありますけど、やっぱり姉さんの影響があると思います」 すると、もしかしたら説得の気持ちも無意識に兼ねていたのかもしれないわたしの切り返しに、トレハは何処か遠い目を向けながらそう答えた。 「姉さん……スクラの事?」 「……はい。姉は私が七つの時に両親を失って以来、メイドとして働きながらずっと一人で養ってくれました。ですから、私にとってスクラ姉さんは姉であるのと同時に、育ての親でもあります」 「でも、あなたとスクラって、そんなに歳が離れていないでしょう?」 「ええ、私と姉は三つしか離れていません。勿論、私も一緒に働くといつも訴えていましたけど、姉さんは決してそれを許してくれず、申し訳ない気持ちと 同時に、無力感に苛まれる日々が続きました」 「…………」 なるほど。人の役に立ちたいという強い希求は、その時の気持ちが起因しているのね。 ……ただ、スクラがトレハを一緒に働かせたがらなかった理由も、今なら分かる気がするけど。 「やがて、それから数年後にランサム・エージェンシーの渉外スカウトと名乗る人達に誘われ、スクラ姉さん共々このライオネル王国へ連れて来られて、 わたしも一緒にお勤めをすることになってから、姉の様な立派なメイドになりたいと強く想う様になりました。確かに、私達の存在が正式に認められる事はありませんでしたけど、それでも私にとっては強い意思を持ってあらゆる仕事を完璧にこなしていく姉の姿は正規雇用された他の誰よりも輝いて見えましたし、表立って褒められるコトは無くても、周りから常に一目置かれる存在でした」 「…………」 「……だから、自分にとっての理想像はスクラ姉さんですし、同じメイドとして姉の背中を追いかける事が私の望みでもあります。そして、一度は途切れかけてしまった道でしたが、マスターが手を差し伸べて下さったお陰で再び開けてきた事を何より幸せに思っていますし、深く感謝しているつもりです」 そしてそう締めくくると、何も言えずにただ聞いていたわたしへ向けて、深々と頭を下げてくるトレハ。 「……望み、か。その為に背負うリスクは承知の上での覚悟って事ね?」 「はい……。もう私には、別の道は無いと思っていますから」 「もう一つ、あなたはスクラの元を立ち去った時、どうして忌まわしいランサム・エージェンシーの制服を着ていたの?」 「どうしてと言われても困りますけど、おそらく無意識なんでしょうね……。姉さんの外出中に着替えて出て行こうとして、その時に慌てて選んでしまったのが、これでしたから……」 それから、自分の中でどうしても引っかかっていた疑問を向けるわたしへ、そう言ってトレハは自虐気味に笑ってみせた。 「やっぱりトレハにとっては、エプロンドレスに身を包んでいる時が幸せ?」 「でも、今はマスターが下さった、このエトレッド・エージェンシーの制服が一番です」 「…………」 「……そう、分かった。そこまでの決意があるのなら、わたしはそれ以上何も追求しないし、止めるつもりもないわ。このまま、二人で行ける所まで突っ走りましょうか?」 そこで、質問に答えるトレハから一点の曇りもない強固な意志を受け取ったわたしは、自分自身の最後の迷いを振り切って立ち上がると、改めて彼女へ手を差し伸べながらそう告げた。 「は、はいっ!マスター!」 エージェンシーとは、雇用主の為だけの存在じゃない。メイドを雇用したい者、そしてメイドの道を志す者双方の願いを最大限に叶え、共に幸せな契約となる様にコーディネートすること。 つまり、トレハが本気でメイドとしての再起を目指しているのなら、その願いを叶える為に最善を尽くすのが自分の役割であって、リスクばかりに怯えて こちらからその芽を摘む道理はない。 (わたしの選択……間違ってないわよね、お父さん、お母さん……?) たとえ、トレハを抱え込んだ事で三代続いたエトレッド・エージェンシーが更なる苦難を背負い込むことになったとしても、きっと祖父も父も同じ選択をしていたと思うから……。 「では、意思確認も済んだ所で、最後のステップの話へ移りましょう」 やがて、わたしは覚悟も決めた所で繋いだトレハの手をゆっくりと離すと、緩みかけていた口元を正して話の続きを切り出していく。 「い、いよいよ”最後”なんですね?」 「ええ、“コンテスト出場の為の”ね。……いい、トレハ?わたし達がコンテストに出場する為にどうしても得なければならないもう一つの物は、伯爵以上の階級を持つ貴族の推薦状なのよ」 そして、これが最後にして最大の難関だった。 ……というか、公式ランクも実績も(公表出来るという意味で)無いトレハに推薦状を書いて貰うなんて、普通に考えたら不可能な話である。 一応、ランクに関してはエージェンシーの自己評価による非公式ランクを人物証明書に盛り込む事で 体裁を整えることは出来るものの、実績に関しては如何ともし難く、普通に申し込みに回っても門前払いが関の山であるのは間違いない。 「伯爵以上の貴族からの推薦状って……どうするんですか?」 「結論から言えば、一つだけアテがあるわ。トレハがタレットさんのもとで修行している間に、一応事前交渉も済ませてあるの」 そこで、途方にくれた顔を見せてくるトレハに、わたしは素っ気なくそう告げる。 「ほ、本当ですか?」 「……まぁ、いくら落ちぶれて上流階級層への仕事が殆ど無くなったと言っても、人脈まで完全に失ったわけじゃないからね」 これでも、四十年近くの歴史を持つ老舗ですから。 ……とはいえ、本音を言えばあまり気は進まないものの、選択の余地が無い以上は考えるだけ時間の無駄である。 「良かったあ……流石はマスターです♪」 「ただし、覚悟はしておきなさいよ?これからトレハには最後の試練として、修羅場を潜ってもらう事になるのだから」 そんなこちらの心情を知らず、脳天気な笑みを浮かべて安堵するトレハに、きっぱりと予告してやるわたし。 一応、生真面目なトレハとの相性は悪くなさそうだけど、ワイズミュラー家にいた時とは別の意味で針のむしろ状態な日々になるだろうから。 「し、修羅場……ですか?」 すると案の定、わたしの脅しがかった通告を受けて、無邪気な笑みを見せていたトレハの顔が一気に引きつってゆく。 どうやら、束の間の浮かれ気分は一気に吹き飛んでしまったみたいだった。 「ええ。明後日からトレハには、わたしが懇意にして貰っていた伯爵家へ赴き、二週間ほど住み込みで働いてもらうから。その間は当主様にお仕えする事になると思うけど、試用期間が終わった後で伯爵に気に入られれば、推薦状を書いてもらえる約束になっているわ」 「その伯爵とは、どなたなんですか?」 「ルマージュ・ローゼス伯爵。僅か二十四歳でローゼス家当主になった才女で、わたしが修行時代に仕えていた相手よ」 元々、男性優位のライオネル王国で女性の当主というだけでも珍しいのに、年功序列社会の中において二十代前半という若さも例外的で、しかも自分より優先順位の高かった兄達との世継ぎ争いに悉く打ち勝っての継承なのだから、その才覚たるや推して知るべしと言うべきか。 「仕えていた……つまり、マスターの御主人様ですか?」 「まぁ、慣例に従ってというか、顔繋ぎの生け贄でもあったんだけど、そんな所かしらね」 うちの場合、跡取り娘だろうが持ち駒としてフルに働かなきゃならない台所事情があったものの、一般的に言っても、この手の話は決して珍しくは無い。 将来のマスターとなる為に必要な実務経験を積むというだけでなく、そこで働いた実績が今後に有利なコネクションとなるので、エージェンシー経営者の子女は、ほぼ例外なく懇意にしている貴族のお屋敷へ奉公に行く慣例があった。 そんな訳で、このわたしも公式Bランクに昇格した十七歳から、公式Aランクに合格した二十一歳までの四年間は、このローゼス伯爵家にお仕えして いたんだけど……。 「いずれにしても、マスターが昔に作られたローゼス伯爵との人脈が功を奏した訳ですか。……でしたら、あとは私がそれを無駄にしないように頑張る番ですね?」 「まぁ、確かにそうなるんだけど……」 そこで、改めて意気込んで見せるトレハへ、わたしは苦笑いを浮かべながら歯切れの悪い言葉を返す。 「……何だか、先程から気乗りはしないって様子ですね?」 「確かに、見た目は若くて綺麗な女性だし、綺麗好きで決して悪い人じゃないのは保証するけど、少しばかり変わり者でね。それに完璧主義だから、相当厳しいわよ?」 少なくとも、初心者向けとは言い難い勤め先なのは確かで、かく言うわたしも、昔は色んな意味で相当泣かされたものだった。 正に、その苦労談は聞くも涙、語るも涙で、とても派遣前のトレハには聞かせられないし。 「それで、修羅場というわけですか……それに、変わり者とは?」 「まぁ、お屋敷に行けばすぐに分かるわよ。人によったら天国かもしれないけど」 「はぁ……」 「いずれにしても、わたしの前で宣言した決意がいきなり試される二週間になるだろうけど、期待しているからね?」 もう犀は投げてしまっているから、後は来るべき運命に身を任せるのみだった。 * 「あらあら、お久しぶりねメイフェルちゃん。かれこれ二年ぶり位になるのかしら?」 「……ええ、ベルメールさんも御健勝そうでなによりです」 やがて、どこか落ち着かない気分のまま迎えた二日後、約束の時間にローゼス家が王都に構えているタウンハウスへ赴いたわたし達は、玄関でメイド長であるベルメールさんからの出迎えを受けた。 腰まで届く髪を棚引かせ、ハウスキーパーの証である特別仕様のエプロンドレスとカチューシャに身を包んだその姿は、わたしが奉公していた当時と 変わらず、女神の化身とも例えられる美しさを保っていて、そして相変らず年齢不詳な人だった。 ……だって二年前どころか、わたしが初めて訪れた六年前と比べても、全然変わっちゃいないし。 「どうしたの?じっと見て。もしかして、お姉さんが恋しかったのかなぁ?」 「いえ、お世辞抜きで本当にお変わりないなと思いまして。あと、そろそろ”メイフェルちゃん”は勘弁して下さいよ……」 「だって、メイフェルちゃんはメイフェルちゃんでしょ?」 「…………」 相変らず手厳しいというか、ベルメールさんから見れば、四年間勤め上げて公式Aランクと認められたわたしも未だに半人前ですか。 「それはともかく、話は聞いているわ。伯爵はお部屋にいらっしゃるから、どうぞ上がって?」 「ええ、それでは失礼します」 ともあれ、ベルメールさんに促されて、久々となる純白の色合いで統一されたお屋敷の中へ足を踏み入れると、懐かしい緊張感がわたしの修行時代の記憶を呼び覚ましてくる。 百合をイメージした美しい意匠の建物に、多数の季節の花や美術品で彩られた華やかな風景の中で、常にピリピリと張り詰めているこの空気は、今も相変らずの様だった。 「…………っ」 そこで、トレハも早速当てられたのか、わたしの腕にしがみつく様にしてぴったりと張り付き、出かける時から緊張気味だった顔を、更に強張らせていたりして。 「ほらほら、今から萎縮してたら、最後までもたないわよ?」 それを見て、少しでも緊張を解してやろうと、トレハの手をそっと握りながら小声で囁くわたし。 上級貴族のお屋敷の雰囲気なんて大なり小なり似通った部分はあるし、非公式でもワイズミュラー家に仕えていたのなら、ある程度は慣れていると思ったんだけど、やっぱりここは独特みたいだった。 「すみません……でもやっぱり、コンテストの出場がかかっていると思ったら……」 「確かに、緊張するなって方が無理かもしれないけど、ちゃんと克服しておかないと本番当日も足が震えて動けなくなるわよ?」 ただそれでも、コンテストの二次試験は最大級に緊張する中で行われるのだから、気持ちは分かるとしても、あまり優しい言葉をかけてもいられない。 ちなみに、そういった意味でも、ここでの修行は荒療治ながらうってつけと言えた。 「……大丈夫です。マスターが手を繋いで下さったので、落ち着いてきました」 すると、手を握ってやりながらも敢えて厳しい言葉を向けるわたしに対して、繋いだ指を深く絡ませながら気丈に答えると、上目遣いではにかんで見せるトレハ。 「…………っ」 それを見て、思わずドキッと心臓を高鳴らせてしまうわたしなものの……。 「もう、それじゃ困るんだってば……。ずっとわたしが側で手を握っているワケにはいかないでしょ?」 ここでは、そんな甘えなんて一切通用しないんだから。 「それは分かっていますけど、でも私は……」 「あらあら、ラブラブで妬けちゃうわね?今日は伯爵に仲人でも申し込みに来たのかしら?」 ……すると案の定、端でわたし達のやり取りを見ていたベルメールさんから、笑顔のままで厳しい台詞が飛んで来てしまった。 「まぁまぁ、わたしも母に連れられて初めて来た時はこんな感じでしたし……」 「それもそうねぇ。メイフェルちゃんも最初は緊張のあまりにお漏らししちゃって、夜中にこっそりと下着を洗ったりしていたものね〜?」 「え?」 「わ〜〜〜〜〜〜っ?!」 そこで、トレハへのフォローに対してベルメールさんの口から飛び出した爆弾発言に、手を振り回しながら大声をあげるわたし。 ……トレハの前で、いきなりなんてコトを暴露しやがりますか、この人は。 「あらあら、公式Aランクにもなったメイドさんが、そんなはしたない声を出しちゃダメじゃない?」 「誰の所為だと思ってるんですか……っ!」 確かに、お漏らし自体が思い出したくもない失態だけど、それよりわたしにとっては、よりによって一番隠したかったベルメールさんにしっかりと知られていたのが、一生の不覚だった。 ……だから、いつまでも「メイフェルちゃん」なんだろうし。 「うふふ〜。思い出とは、捨てるものじゃなくて和解するものよ?……それはともかく、ルマージュ様のお部屋は勿論覚えているわよね?ちょっと今忙しいから、貴女達でお伺いを立ててもらってもいいかしら?」 「はいはい、大丈夫ですよ……」 そんなに忙しいのなら、人の黒歴史なんて持ち出さないで、さっさとそう言ってくださいよと突っ込みたくなるのを何とか抑えながら、わたしは溜息混じりに頷く。 ついでに、「勿論」という部分に相変らずの棘が含まれているし。 「それじゃ、よろしくね?」 「…………」 「……これで、わたしが”修羅場”と言った意味が分かった?トレハ」 それから、ベルメールさんが立ち去った後で、がっくりと項垂れながらトレハにそう告げるわたし。 「あはは……何だか掴み所の無い方でしたね。あの人がここのメイド長さんですか?」 「そうよ。ベルメールさんはわたしがお勤めしていた時の上司で、ローゼス家で八年以上もハウスキーパーを勤めている才女なの」 ハウスキーパーとは主人の任命を受けて屋敷で働く使用人達を統括し、指示を出す管理職の事で、わたしやトレハが口にした「メイド長」とは、この役職を任された人の通称である。 ちなみに、ハウスキーパーであるベルメールさん自身が家事をする事は殆ど無いものの、頭の回転が速くて采配能力に長け、常に余裕に満ちた温和な笑みを崩さない沈着冷静な仕事っぷりは、ローズバンクから多額の補償金を支払って秘書兼で引き抜いたルマージュ様はもとより、使用人達の信頼は 非常に厚い。 ……能力の上ではね。 「それじゃ、私もあの人の指示でお仕事をするコトになるんですか?」 「ほんわかした見た目に反して全然甘くないから、覚悟はしておく事ね。失敗しても怒鳴りつけられたり、叩かれたりする心配は無いけど、その代わりに もの凄く毒舌だし」 自分の指示通りに動けない者には全く容赦が無いというか、あの砂糖菓子の様に甘い笑みから出てくる皮肉や毒舌は、下手な体罰よりもよっぽど堪える威力があった。 「ううっ、頑張ります……っ!」 「でもまぁ、好き嫌いで判断したり、嫌がらせとかしてくるような人じゃないから、それだけは安心していいわ。……というか、曲がった事が何より大嫌いなルマージュ様だから、そんな人はこのお屋敷にはいないはずだけど」 そんな訳で、メイド同士でのドロドロとした派閥争いとか、足の引っ張り合いとかも皆無だし、規律がしっかりとしているというだけでも、本来は決して悪くない職場ではあるんだけどね。 ……ベルメールさんの性格と、伯爵の例の趣味さえなければ。 「は、はい……でも……?」 ともあれ、そろそろトレハもこのお屋敷の特異さに気付き始めたのか、わたしとの会話を続けながらも落ち着かない様子で、きょろきょろと周囲を見回していた。 「ん、どうしたの?」 「あの、マスター……先程から気になっていたんですが、ここのお屋敷の使用人さん達って……」 「ええ。察しの通り、全員女性よ。執事やコック、庭師に至るまでね」 おそらく、この様な環境は王国貴族の中では唯一だと思うけど、ルマージュ様が普段生活しているこのお屋敷は、完全な男子禁制である。 食材やワインを運んでくる業者にも配達人に女性を指定するか、そうでない場合は勝手口から中へは入れないし、男性客を招く必要に迫られた時は、わざわざ別邸を用意している程の徹底っぷりだった。 「つまり、男性嫌いな御方、という事ですか?」 「う〜ん。男嫌いは確かだけど、むしろ逆の表現をした方が正しい気がするけどね」 少なくとも、この白百合の園が男子禁制なのはやむを得ない事情があっての話なんかじゃなくて、伯爵の完全な趣味というのは断言できる。 (……ええ、出来ますとも) その証拠も、すぐに気付いてもらえると思うけど。 「えっと、それに……みなさんが着ていらっしゃるエプロンドレスも、少し派手というか、何というか……」 すると、続けてもう一つの違和感に気付いたのか、少しだけ頬を染めながら呟いてくるトレハ。 「あのね、このお屋敷の使用人は、全員ルマージュ様本人がデザインされた制服を支給されて着るという規則があるの」 まぁ、貴族のお屋敷で自前の制服を支給されるコト自体は、決して珍しい話じゃない。 ……しかし、その意匠は胸元が大きく開いていたり、スカートの丈が微妙に短かったりと露出度が高めで、エプロンもレースをたっぷりとあしらって実用性よりも華やかさを優先していたりと、お世辞にも良いご趣味とは言えない代物だった。 「えっと、それはつまり……」 (そりゃ、他の男性客なんて入れられないわよね……) 一応それでも、お下品にならないギリギリのラインは見極められているとは思うけど。 「……まぁぶっちゃけ、美女の皮を被ったエロオヤジなのよ、あの人は」 そう言って、苦笑いと共に肩を竦めて見せるわたし。 指名した美容師にしか髪を触らせない癖に、お風呂の時は持ち回りでお供を引き連れたり、就寝時には寝付くまで側に寄り添わせたりと、無理強い こそはしないものの、正にやりたい放題だった。 「あら。この私に仕えている間、ずっとそんな風に思っていたのかしら?」 「ご、御主人様っ?!」 しかし、そこで突然背後から届いてきた、忘れ様もない凛とした声を受けて、わたしは反射的にその場で直立してしまう。 「それは、いささか心外と言わざるを得ないわね?制服の露出度を高めに設定してあるのは、それだけ立ち振る舞いや自己管理に緩みを与えない為だというのに」 「い、いえ、勿論ほんの冗談です……あ、あははは……」 そして、額に滲んできた冷や汗を拭うことなく振り返ると、純白の薄い衣を重ねた清楚で絢爛なドレスを纏った、かつてわたしが仕えた女性貴族が悪戯っぽい視線でこちらを見ていた。 「ふふふ。確かに、来たばかりのメイフェルちゃんって落ち着きがなくて、よくルマージュ様の前でスカートの中をはしたなく全開にしていたものね?」 しかも、更にその一歩後ろでは、先程忙しいからと別れたばかりの秘書兼メイド長まで控えていて、またも容赦なく人の恥部を掘り起こしてくるし。 「……まったく、がさつを通り越して、誘ってきているのかと思ったわ」 「んなワケないですってば……」 ちなみに、あまりに振る舞いがなっていないからと、見るだけで赤面させられる様な面積の薄い下着を渡された後で、「これを着けて仕事をすれば、もう少しは緊張感も出るでしょう?」と促されたのは、果たして愛のムチなのか、実は機会を伺っていただけだったのかは、未だにわたしの中で結論が出ていないのですが。 「マスターも、叩けば結構ホコリが出たりするんですねぇ……」 「えーい、うるさいわね……。誰だって最初は未熟者からなのよ」 「確かにそうね。あの頃の苦い経験があるからこそ、今の貴方があるし、こうして再び私と見える事が出来たのだから」 「は、はい……っ。この度は……というか、またお世話になります、伯爵……!」 (……それに、他人事みたいに聞いてんじゃないわよ。すぐトレハも同じ様な目に遭うんだから) そこで、さっきまでの緊張もどこへやらで、何だか癪に障る視線を向けてくるトレハに、ルマージュ様には聞こえない程度の小声でボソボソと予告して やるわたし。 (それに、マスターがこんなに萎縮されているのを見るのは初めてなので、何だか新鮮です……) (しょーがないでしょ……。このお屋敷の中では、ルマージュ様こそが絶対君主なんだから) 生殺与奪の権利すら握られていると言っても過言ではないくらいに、ね。 (でも、本当にびっくりするぐらい綺麗な方ですね……?) (ええ、何だか勿体ない位に……だけど) 長身にやや細身ながら、妖艶な曲線美を備える完璧なプロポーションを持ち、そして一つ一つのパーツが高い次元で整った、気品の漂う俗世離れした顔立ちは間違いなく、王国貴族の中でもトップレベルの美女なのは間違いなかった。 「ふふ。ごきげんよう、メイフェル。エトレッド・エージェンシーを継いでから暫く連絡をよこさないと思ったら、また随分と変わったお願いを持ち込んできたものね?」 ともあれ、わたしの古傷抉りというベルメールさんの咄嗟のフォロー(信じがたいけど、おそらくそう)が効果を奏して、最初の無礼極まりない失言は聞き逃して貰えたらしく、久々に戻ってきたかつてのメイドへ好意に満ちた笑みを見せてくれる御主人様。 「……申し訳ありません。出来ればご迷惑をお掛けしたくはなかったのですが、昔のよしみで是非お力添え頂けないかと思いまして」 「ふふ、そう硬くならなくても大丈夫よ。貴女は私のお気に入りですもの。邪険にする訳は無いでしょう?」 それでも、相変わらず凍り付いたみたいに硬直しながら畏まるわたしの姿を見て、ルマージュ様は楽しんでいるかの様な妖艶な笑みを浮かべてくる。 「ど、どうも……恐れ入ります……」 一応、今のわたしは経営者の端くれになったというのに、何らあの時と変わらない。 相変わらずこの方の前では、わたしは蛇に睨まれた蛙も同然だった。 「それで、話に聞いていた出場候補者というのは、その子かしら?」 「は、はい。トレハローズ・モンテリナと申します。よろしくお願い致します……!」 それから、今度はわたしの隣に立つもう一人へ向けて、品定めする様な視線を向けながら尋ねてくる伯爵に、気圧されながらも何とか頭を下げて挨拶を返すトレハ。 (……まぁ、とりあえず上出来かしら) なにせ、今のトレハと同い年だったわたしの方は、ここで例の失敗をやっちゃったワケで。 「ええ。まだ経験は浅いんですが、何とかコンテストまでにモノに出来ないものかと思いまして」 「それはまた、随分と無謀な事を考えたものね?」 「ですから、道理を引っ込めて無理を通していただけそうなのが、伯爵でしたので」 慣習や伝統に縛られたがる貴族の中では珍しく、このルマージュ様は前例が無い事を積極的に試してみたがる方なのは、この四年間で充分に理解しているつもりだった。 「道理を引っ込めてとは、余程の理由があると受け止めていいのかしら?」 「女の意地と、大切な友人との遠い約束、そして一応はエージェンシーの存亡もかかっていたりと、理由は数多くありますが、正直な所は、自分が何処まで行けるのか突っ走ってみたくなったのが本音なのかもしれません」 そこで、改めて理由を問われた所で、正直に自分の本音をルマージュ様へ吐露するわたし。 ……ぶっちゃけ、結局はそういう事なんだと思う。ラトゥーレの挑発に乗ってコンテストへの参加宣言をした時に味わった、心の中で燻っていた何かが弾けた様な感覚。 勿論、自分の持てる全てを注ぎ込んでやりたくなったトレハと出逢った事も大きいけれど、わたしが宝物を質に入れてまでして守ろうとしたのは、そこで取り戻しかけた情熱そのものなのかもしれない。 「なるほどね……。まぁいいわ。そういう事なら、お望み通り貴女の希望をみっちりと鍛えてあげる。ほら、いらっしゃい?」 すると、わたしの心情を理解してくれたのか、ルマージュ様は僅かに表情を緩めて頷くと、今度はまるで新しいオモチャでも見つけたかの様な目でトレハを見据えながら、手招きして見せる。 「…………っ」 「ほら、行って来なさい。……大丈夫、トレハなら出来るから」 その、妖しくも有無を言わせない視線を浴びて、トレハは小刻みに足を震わせながらわたしの顔を不安そうに覗き込むものの、ここは心を鬼にしてそう促した。 「わ、分かりました……」 「ふふ、なかなか健気で可愛い子ね。嫌いなタイプじゃないわ」 そして、手招きに応じて近付いて来たトレハを背中から抱きかかえると、ルマージュ様は満足げに囁く。 「…………っ」 案の定、早速トレハの顔に怯えが入っているけれど、まぁこの程度は挨拶代わりみたいなものだし、慣れてもらうしかない。 「それと、先日までタレット師の元で料理も仕込んでもらったので、味見もしておいて頂けると有り難いのですが」 「ええ、分かったわ。ついでに、この子も味見しちゃっていいのかしら?」 そう言って、今度はトレハの首筋をペロリと舐めるルマージュ様。 「ひ……っ?!」 「い、いえ、それは……」 視線の先では、トレハが涙目で「本当に大丈夫なんですよね?」と訴えてきているものの、わたしは軽いツッコミを返すだけで、敢えて知らない顔をして おく事に。 一応、自分の欲望の為に一方的な権力を振りかざす人じゃないし、メイドとしてやっていく以上は、この程度の絡みは上手く流せるぐらいになってもらわないと。 「ふふ、冗談よ。真に受けて可愛いわね?」 ……ただやっぱり、貴方がやると全然冗談に見えないんですけどね、御主人様。 「ともあれ、これからしばらくトレハの事をよろしくお願い致します。二週間後に引き取りに参りますので」 「あら。何なら、貴女も一緒に泊まり込んで監督していってもいいのよ?」 「い、いえ……せっかくですが、わたしは別に仕事がありますし……」 そこで、ルマージュ様から悪戯っぽい笑みと共にそんな提案を向けられるものの、わたしは慌て両手を振りながら丁重にお断り申し上げた。 「そう?それは寂しいわね」 「うう〜っ、マスター……」 「いや、別に逃げるワケじゃないから……」 だから、そんな恨めしそうな目で見られても困るってば。 今まで疎かにしていた掃除や洗濯の実地訓練をする上でも、完璧主義で厳しくしごいてもらえる伯爵邸が短期間で最も上達が見込めるだろうとアテに している反面で、いきなり誰も知っている人がいない環境の中へ放り込んで心細いだろうとは思うものの、やっぱりわたしが側に付いていたら、どうしても甘えが出てしまう。 とにかく、トレハがこの試練を自力で乗り越えてくれない限りは、コンテストへの道は開けない。本音を言えばわたしも辛いけど、それを信じて待つのも マスターの器量である。 (……とにかく、初心だけは忘れないでね) それと、わたし達はもう運命共同体という事も。 「あらあら、残念ねぇ。公式Aランクになった時に、エージェンシーの後継者として見識を深めたいからと、お屋敷を去って行ったメイフェルちゃんのその後の成果を見せてもらおうと思っていたのに」 「……とか言って、本音は久々にわたしを弄りたいからじゃないですか?」 それから、ルマージュ様の話が終わった後で言葉を挟んでくるベルメールさんに、肩を竦めながら苦笑いを返すわたし。 懐かしさと初心帰りでそれも一興かもしれないけれど、やっぱりもう勘弁して欲しい様な。 「んふふ、まぁいっか。だったらその分、たっぷりとトレハちゃんを可愛がってあげるから♪」 「…………っっ」 「え、ちょっ……」 まさかそんな、ベルメールさんに限って八つ当たりだなんて。 と、思わずぎょっとしてしまうわたしなものの……。 「別に怯えなくても大丈夫よ〜?逆に、きちんと言いつけを守れればご褒美として、メイフェルちゃんが居た頃にしでかした、もっと恥ずかしい思い出話を沢山聞かせてあげるから」 しかし、そこからトレハへ向けて続けられたわたしの元上司の台詞は、更に思いもよらなかった飴とムチだった。 「あら、それはいいアイデアね?流石はベルメールと言うべきかしら」 「は、はい……!私、全て聞ける様に頑張ります……っ!」 「こ、こらあ……っ!」 やっぱり、ベルメールさんは恩人だけど、わたしの天敵だわ……。 * 「ふう、ただいまぁ……」 「お帰りなさいです、マスター」 やがて、無駄に疲労感を引きずりながら、ルマージュ様のお屋敷から一人戻ったわたしを、いつもの様にメイシアが満面の笑みで出迎えてくれた。 ……ただし、たった一つだけの変化を除いて。 「あら、ようやくお姉ちゃんは卒業してくれたのかしら?」 「メイシアだって、いつまでも甘えんぼさんじゃいられないですよおっ」 そこで早速、軽口混じりにわたしが指摘すると、頬を膨らませてムキになるメイシア。 「なるほど、いい心がけね。……また一つ成長してくれて嬉しいわ」 「……だって、いつの間にかメイシアはトレハお姉ちゃんに追い越されてしまったですし」 しかし、そんな私の褒め言葉にも無邪気に喜ぶどころか、その表情を悔しさと寂しさが混じった愁いを帯びたものへと変えると、メイシアは視線を外してぼそりとそう呟いた。 「いやまぁ、トレハは色々と訳アリだから、メイシアが気にする必要は無いんだけどね」 表向きの実績として残らないだけで、実際は五年近くもワイズミュラー家などの貴族の屋敷へ仕えさせられていたんだから、見習いどころか内部格付けならBランクを上げてもいいレベルである。 「そんな話じゃないです。何をするにも必死で頑張っているトレハお姉ちゃんを見ていると、メイシアがどれだけ甘えていたかを痛感させられたです……」 「メイシア……」 「……最初は何だかお姉ちゃんを取られたみたいで面白くなかったですけど、今は仕方が無いと思っているです。だから、これからは気持ちを入れ替えて頑張るですよ!」 そして、最後にメイシアは強い意思を込めた上目遣いで、わたしの目をしっかりと見据えながら、そう宣言して見せた。 「そっか……えらいわね、メイシア。本当に嬉しいわ」 どうやらトレハとの出逢いは、メイシアにもいい影響を与えたみたいね。 そこで、何だか妙に嬉しくなってしまったわたしは、込み上げてくる衝動に任せて、頼もしいホープの頭をがしがしと撫で始める。 「うあ〜っ、髪が乱れるからやめてくださいです〜っ」 「でもまぁ、今日からしばらくトレハはルマージュ様のお屋敷で修行だし、戻ってくるまではメイシアに専念するからね?」 「はいです!頑張るですよマスター♪」 (……だけど、やっぱり”お姉ちゃん”と全く呼ばれなくなるのも、ちょっと寂しいかな……?) その後、そんな自分勝手な事を考えながら、わたしはボサボサになって怒られるまで、メイシアの頭を撫で倒していた。 * やがて、それから一週間が過ぎた平日の午後、わたしは星辰の麓亭の隅にあるテーブル席を陣取り、ウェイトレスの仕事に励むメイシアを監督する 傍らで、テーブルの上にある書類に頭を悩ませていた。 メイシアも順調に成長してくれているみたいだし、そろそろ今までの様に側で付きっきりではなく、少し距離を置いて一人でやらせてみようという意図も あるんだけど、まずはこちらを終わらせないと何をするにもイマイチ落ち着かないというのが本音であって。 「う〜〜〜ん……」 すっかりと冷めてしまったレディ・グレイがまだ半分残っているティー・カップを意味もなく見つめたまま、頭を抱えて小さく唸り続けるわたし。 正直、取りかかるまではこんなに手こずるとは思っていなかっただけに、余計に焦りを感じてしまう。 「しまったなぁ。トレハを伯爵邸に連れて行く前に片付けておけば良かった……」 そこで、今更手遅れな事は分かっていながら、やっぱりぼやいてしまうわたし。 結局、何をしているのかと言えば、一週間後にルマージュ様から頂く(予定)の推薦状と一緒に王宮のコンテスト実行委員会へ送る、トレハの人物証明書を書いていたわけだけど、これがいざ始めると、一人でそれらしくまとめるのが実に難しい作業だという事に気付かされてしまった。 一応、人物証明書と推薦状は手続き上に必要な書類であって、その中身が結果に影響する事は無いものの、やっぱりコンテスト出場者として明らかに不自然な内容だと、後々になってあらぬ疑いをかけられそうだし、それにトレハにとっては、これが今後のメイドとしての身分証明書にもなるので、単なる帳尻合わせで適当に書いてしまうワケにもいかない。 「ん〜〜っ……」 とりあえず、エージェンシー独自の評価基準に基づいてランクを付け、それに相応しい根拠を記さないとならないものの、(公表可能という意味で)実績が乏しいトレハに、非公式ながらAランクを付けられるだけの理由を示すというのは、なかなか難しい話であって。 ……そもそも、メイドを評価する上での根拠と言えば、王国公式の検定試験に合格して公式ランクを得る以外では、基本的に名のある顧客へ派遣した実績である。 (さすがに、実績を捏造してしまうわけにはいかないしなぁ……) それは、三代に渡って誠実に営んできたエージェンシーとしてのプライドと倫理が許さない。 「……でもまぁ、これに関してはごり押し出来ないコトもないのよねぇ」 そして、今度はペン先で下書き用の紙の隅をとんとんと叩きながら、ぼんやりと独り言を呟くわたし。 エージェンシーが付ける非公式ランクはあくまで自主審査だから、マスターであるわたしが相応しいと判断し、自らの責任において評価したと言ってしまえばそれで終わりだし、短期間ながらもローゼス家へ派遣して、当主であるルマージュ伯爵から推薦状を得るに至ったという事になれば、苦しいながらも何とか言い通せなくはない……はず。 (それより、問題はこっちの方なのよね……) しかし、ランクに関する問題を解決したとして、実はもう一つ難題が残されていた。 それは、トレハの出生をどう記すのか。 ジャックの調べで、トレハとスクラは他国から連れてこられたエトランジェというのは分かっているものの、だからと言ってもちろん正直に書いてしまう訳にはいかない。 何せ、エージェンシーに登録出来るメイドは、原則として王国領内で生まれた者か、もしくはきちんと申請して住民登録された正規の国民である。 おそらく、トレハ達も連れて来られる際に、ランサム・エージェンシーから何らかの「細工」はされているんだろうけど、今は姉妹共々解雇されて宙ぶらりんな立場だし、場合によったら出場を断られる理由になりかねなかった。 (……せめて、トレハ達の出身地が親しい国なら良かったんだけど) 残念ながら、遠く海を隔てたプラット・パーレ共和国とは敵対こそしていないまでも、非同盟国である。 「…………」 ここはやっぱり、王都の貧民区で生まれた孤児であるという事にでもしておくのが、一番無難な線なんだろうけど……。 (……そう言えば、スクラの人物証明書はどんな感じになっているのかな?) 考えてみたら、実の姉妹であるトレハとスクラで出生に関する内容が食い違っていたらまずいんだよね。 当然、リースリング・エージェンシーもスクラの人物証明書を用意するんだから、出来れば参照させて欲しい所だけど。 (でもなぁ……) だからと言って、頼んだところですんなり見せてくれるだろうか? そもそも、まだコンテストに出場出来るかどうかすら確定していないのに。 (ぶっちゃけ、お前の所だけ諦めろってあしらわれるのがオチな気がする……) リースリングにとって、うちなんて虫けら同然なんだろうし。 「…………」 「……メイフェルさん」 「え……?」 そこで、自分の思い込みで勝手に意気消沈しかけた時、ふと名前を呼ばれて顔を上げると、そこにはサラサラと棚引く美しいロングストレートの髪に、 吸い込まれそうな蒼い瞳を持った、見覚えのある美しい少女がこちらを見下ろしていた。 「スクラ?今日は一人なの?」 「それはこちらの台詞です。今日はトレハと一緒じゃないんですか?」 「トレハは派遣先でお勤め中よ。もうしばらくは離れ離れね」 「……そうですか。私は休日です」 それから、先に答えたこちらの返事を聞いてスクラも淡々とそう告げると、わたしの向かいの席へと座り、給仕の呼び鈴を鳴らす。 「結構、強引なのね……」 「何がですか?」 「……いや、メイドとしては悪く無い資質だなって」 少々強引だろうが、確かに言うべき時に自分の主張をはっきりと通せるのは、メイドとしてやっていくには必要な条件と言えた。 いくら社会的な認知度が上がり、国の庇護で地位向上がはかられてきているとは言っても、何かと弱い立場なのは違いないのだから。 「少なくとも、トレハよりは上手くやっていける自信はあります」 「でしょうね。その腕ひとつで、ずっと妹を養ってきたんだから」 陳腐な言葉だけど、並大抵の事じゃないと思う。その感情が乏しい表情の奥には、今まで強いられてきたどれ程の苦難が焼き付いているのかすら、 わたしには想像出来なかった。 「……やはり、私達姉妹の事は既に調査済みですか」 すると、相手に合わせて素っ気なく応じたわたしの台詞を聞いて、スクラは眉をひそめつつ、諦めた様に小さく溜息を吐く。 「そりゃ、エージェンシーが新規登録メイドの調査をするのは当たり前でしょ?」 当然、リースリングもスクラに関する調査は独自にしているはずだし。 「つまり、貴女はそこまで分かっていて、トレハを利用している訳ですね?」 そんなスクラの言い回しこそは淡々としていたものの、わたしに対する明らかな敵意が込められていた。 「利用って……」 「あの、すみません……そろそろオーダーを伺ってもよろしいでしょうか?」 そこで、わたしは一瞬絶句した後で反論しようとしたものの、スクラの鳴らした呼び鈴を受けてやって来たパナシェが、テーブルの横から恐る恐る声を かけてくる。 「……では、エスプレッソとクッキーを。クリームとシロップもありで」 「あ、わたしは紅茶のおかわりをお願い。銘柄は同じでいいわ」 「はい、かしこまりました♪」 どうやら、この前に主人と一緒だった時とは違い、スクラ自身は甘党らしい。 いやまぁ、それはいいとして……。 「…………」 「……スクラの目にどう映っているかはともかくとして、これだけは勘違いしないで欲しいんだけど、別にわたしは自分の為だけにあの子を利用している訳じゃないわ。トレハ自身がメイドとして再出発したいという強固な希望を持っているからこそ成り立っているの」 それから、向かい合って座ったまま、しばらくお互いを牽制しあう様な無言の時間が続いていたものの、パナシェが運んで来たオーダーを受け取った後で、わたしは新しいティーカップを手に取りながら、再び話を切り出していく。 「……強固な希望、ですか?」 「ええ、わたしも呆れる位の頑固さでね。……まぁ、そうでなければ、短期集中の厳しい訓練にも音を上げずに付いて来られたハズもないんだろうけど、 ルマージュ卿のお屋敷でも、何とか追い出されずに頑張っているみたいよ?」 トレハには敢えて言わなかったけれど、あのお屋敷に仕えた後で見切りを付けられるか、もしくは自分から耐えかねてお暇を願い出る最初の目安は、大体一週間である。 だから、今日の午前中にトレハが送り返されなかったのを見ると、どうにか最初の壁は乗り越えてくれたらしかった。 「ルマージュ卿?ローゼス伯爵家へ?」 「ええ。知っての通り、コンテストに出場する為の推薦状を得ないとならないからね。ルマージュ卿が気に入ったら書いて頂けるという条件で、二週間ほど無償で預けているの」 「…………」 すると、ルマージュ様の噂は聞いているのか、スクラの顔から不安の色が現れてくる。 「まぁ、うちにとっては実質上の予備審査ね。ここでルマージュ卿からダメ出しを受ければそこでお終いだけど、見込まれて推薦状を書いて貰えるなら、 二次選考まで残る可能性はあるわ」 結局、わたしがあの人を頼った本音はそこだった。 旧知の仲だからといって、遠慮も容赦も一切しないだろうけど、同時に凄く面倒見がいい方でもあるから、トレハの覚悟と素質さえ本物なら、きっと高みへと押し上げてくれるはずである。 「……あなたは、本気でトレハがコンテストで優勝出来ると考えているのですか?」 「さぁね」 そこで、鋭い目つきを向けて攻撃的な口調で尋ねてくるスクラに、わたしはあっさりと肩を竦めながら短い本音で答えた。 「さぁねって……」 「元々、そういうものだから仕方がないでしょ?ただどういう結果になろうとも、今回の経験はトレハにはプラスになるわ。今後、正式なメイドとしてやっていく為にね」 少なくとも、わたしはトレハを見捨てる気など無いし、散々振り回した最低限の償いはしてやれるだろう。 「……私は、トレハはメイドには向いていないと思っています。あの子はこの世界で生きるには優しすぎるし、何より純粋過ぎますから」 しかし、そんなわたしに対して、スクラは静かに首を振りながらきっぱりと否定してきた。 「まぁ、それは否定しないわ。だからこそ、あんな目に遭ったんでしょう?」 「…………っ!」 そして、わたしが敢えて口にしてみた「あんな目に」という言葉を聞いた途端、スクラの眉が一瞬で吊り上がり、その目には凍り付かされそうな殺気すら孕ませていた。 ……それはまるで、逆鱗に触れられたかの如く。 「スクラ……?」 「……メイフェルさん。トレハがどんな目に遭ったのか……全て知っているのですか?」 「いや、わたしが知っているのは、ワイズミュラー家で働かされていた時に、トレハが当主であるクロムウェル侯爵の長男、ラクゥエルを花瓶で殴って逃げ出したって事だけ。だけど、エージェンシーの間でも悪名高いワイズミュラー家が頻繁に起こしていると言われる悪事に、あなた達の境遇を重ね合わせれば、ある程度は予想できるわ。……正直、考えたくはないけどね」 というか、トレハに惹かれてきている今のわたしだからこそ、余計に分かってしまう。 父親譲りな女癖の悪さで有名なラクゥエルに目を付けられたとしたら、きっと……。 「そうですか……しかし、一つだけ訂正しておきます。トレハがあの男に怪我を負わせたのは、私を止める為ですから」 そこで、今の自分が知っている情報の全てを正直に話すと、まるで嘲る様な冷たい目で静かにそう告げてくるスクラ。 「え……?」 「……歪んだ加虐心を満たす為に冤罪を擦り付け、トレハを仕置き部屋と称した地下室へ連れ込み虐待し続けた彼へ復讐を果たそうとした、私の代わりに罪を被ったんです」 それから、能面の様な顔で淡々とそう語るスクラの蒼い瞳には、深い悲しみや怒り、そして憎しみが混ざった負の感情が、冷たい炎となって宿っていた。 「…………っ?!」 「あれから時間と共に多少は癒えたかもしれませんが、今でもあの子の手首や足首、そして背中にはその痕跡が残っているはずです」 「……そう、そういう事だったの」 トレハが頑なにグローブを着けて、そしてわたしの前で脱ぎたがらなかった理由は……。 そんな、トレハと初めて逢った日のことを思い出すのと同時に、わたしの心が激しくざわめき始めるのを感じていた。 「いずれにせよ、私の復讐は失敗しました。決行の夜に台所から持ち出したナイフを袖に隠し、まずトレハを呼びつけた私は、勝手口から屋敷の外へ出る必要のある適当な用事を指示すると、あの子は素直に頷いて立ち去っていきました。……それから、間もなくの事です。屋敷内が蜂の巣を突いたかの様に騒がしくなったのは」 「つまり、トレハに悟られていたってコト?」 袖に隠したナイフが見えなくても、スクラの殺意を感じ取ったのかもしれない。 そこは実の姉妹だけに、尚更そういった変化には敏感だろうし。 「……この私にとって、二度目の不覚でした。一度目は、両親を失った後で遠戚などという薄っぺらい繋がりを信じてしまい、最初の雇い主から向けられた偽りの親切心を真に受けた挙句に裏切られて、ランサム・エージェンシーに姉妹共々身売りされてしまったこと。二度目は、同じ屋敷で一緒に働いていた最愛の妹を守りきれなかったコト……」 そんな、相変わらず淡々と語り続けながらも、時折強く唇を噛みしめる彼女の姿は、見えない涙を流しながら懺悔をしている様だった。 「そして……メイフェルさんが言われる通り、トレハがメイドとしての生きる道を本気で求めているのならば、三度目の不覚と言えるのかもしれません」 「でも、だからと言って、いつまでも自分の籠の中に閉じ込めておくわけにもいかないでしょう?トレハは、あなたにばかりつらい思いをさせて養われている境遇に無力感を抱いていたんだから」 「……私の方は構いません。唯一の家族として、トレハを一生養っていく覚悟は持っています」 しかし、そこで諭す様にそう告げるわたしへ、スクラは躊躇い無く断言してしまった。 「勿論、それは極論としても、トレハには学校へ行かせて、何か別の道を見つけて欲しいと思っています。私が今回、下らない茶番だと知りながらお嬢様に付き従っているのは、全てその為ですから」 「ラトゥーレの?茶番?」 「ええ、私がリースリングに拾われたのは、お嬢様が後継者として認められるのに必要な実績を得る為ですから。その方法として、ラトゥーレお嬢様が自ら見いだした無名のメイドを鍛えてコンテストに出場させ、見事優勝させるという筋書きをヴォルド氏が目論み、それを現実とする為に私が手駒として選ばれたという事になります」 「……なるほど。それで、ラトゥーレは名誉を、スクラは賞金とSランクメイドの称号を得るという約束で取引を交わしたと?」 以前、タレットさんがラトゥーレにも名門の跡取りとしての苦労があると言っていたけど、みんなそれぞれ譲れない目的を持って、今回のコンテストに挑んでいるって訳ね。 「ええ。私が優勝したあかつきには、賞金の六割を頂くことになっていますから。トレハの新しい人生への資金にはなります」 「でも、残念ながら、トレハ自身にそんな気は無いみたいよ?あの子は、今後もうちのエージェンシー所属のメイドとして生きる道を望んでいるんだから」 「では……愛する妹の夢の芽を自ら摘んでしまうのは不本意ですが、仕方がありません」 そこで、わたしは少しだけ挑発がかった台詞を返してやったものの、スクラは特に動じる様子も無く、静かにそう告げた。 「やっぱり、そうなるのね……」 まぁ、今更諦めて降りてくれるとは、最初から思っていなかったけど。 「……メイフェルさん。貴女が個人的にお嬢様と張り合っておられるのは存じていますが、私個人とも一つ、差しで握りませんか?」 しかし、ここで話も終わりかと思いきや、続いてスクラの口から思いもかけない提案が飛び込んでくる。 「差しで……握る?」 「ええ。今度のコンテストで、私が勝てばトレハは返してもらいます」 そして、面食らいながらも話に食い付いたわたしに、スクラはまず自分の要求を身も蓋もない言葉で告げてくると……。 「こちらが勝てば?」 「その時は、私は貴女のものとなります」 続けて、わたしが向けた質問に対しても、これまた短い言葉できっぱりとそう宣言した。 「わたしのものに?そんなコトが出来るの?」 「……ええ。リースリング・エージェンシーとは仮契約中に過ぎませんから。コンテストの後の契約についてはまだ何も決まっていませんし、補償も発生しないかと」 「なるほど……」 自分の全てを賭けて、わたしから最愛の妹を取り戻そうってつもりね。 「私は本気です。受けて下さいませんか、メイフェルさん?」 「……分かった。その勝負、受けましょう」 おそらく、これは引けない岐路だろう。そう感じたわたしはスクラの視線を正面から受け止め、静かに受けて立った。 ……確かに、負け犬にトレハを守る資格は無いのかもしれないし、この勝負でわたしが得られるメリットも決して小さくはない。トレハだけでなくスクラまで得られるのなら、エトレッド・エージェンシーの復興の道筋もしっかりと見えてくるだろうから。 「ありがとうございます……では、これを」 すると、スクラはわたしにお礼の言葉を述べた後で、紙の束が入った大きめの封筒を差し出してきた。 「何それ?まさか、追加の借用書じゃないでしょうね?」 「……いえ、おそらく必要になるのではないかと思いまして」 「え、これは……?!」 そんな猜疑心と共に、受け取った封筒の中身を取り出した途端、わたしの目が大きく見開く。 中身はリースリング・エージェンシーが発行した、スクラの人物証明書の写しだった。 「トレハの人物証明書を書きあぐねているのなら、参考になさって下さい。便宜上の関係ですが、私達はライオネル王国生まれの孤児で、王都で作家を 営んでおられる未亡人のナジェーナ婦人の養子という扱いになっていますから」 「は〜〜っ、流石はリースリング。しっかりと土台は作っているのね」 縁組できちんと辻褄を合わせている辺りは手際が違うというか、これなら疑われる心配も無さそうだった。 もしかしたら、ナジェーナ婦人はリースリングの顧客なのかもしれないけど、仕事に追われる未亡人って辺りが、また上手い相手を選んでいるし。 「……でも、いいの?勝手にこんな事して」 人物証明書の中身って、解雇されるまではエージェンシーが大切に預かり、正当な理由が無い限りは門外不出とするのが掟である。 だからわたしも、見せて貰いに行くのは躊躇していたワケで。 「構いませんよ。この件に関しては、マスターであるヴォルド氏の意志ですし、ナジェーナ婦人との縁組は、私だけでなくトレハも含まれていますから」 その後で、「実はこれを届ける為に事務所を訪ねたら、留守番の方にここだと聞いて来たんです」と付け加えるスクラ。 「ヴォルドさんが?どういう事?」 まさか、敵に塩でも送ったつもりなんだろうか? 「さて……おそらく、楽しんでおられるんじゃないですか?貴女とお嬢様の勝負を」 しかし、スクラはそんな事には興味無いとばかりに吐き捨てると、ゆっくりと腰を上げた。 「では、私はそろそろこれで。妹を取り戻すチャンスを与えてくださったコト、感謝致します」 「……スクラ」 そして、最後にそう締めくくって踵を返した所で、わたしは彼女の背中へ声をかける。 「はい?まだ何か……?」 「もう一つ言い忘れていたけど、トレハがメイドに拘っている理由ってね、自分もスクラ姉さんの様になりたいからだって。つまり、あの子にとっての憧れであり、理想のメイド像はあなたなのよ」 「……ありがとうございます」 すると、そんなわたしの言葉に、スクラはこちらを振り向かないまま短くお礼の言葉を返すと、今度こそ立ち去って行った。 「…………」 (まぁ、皮肉と言えば皮肉な話よね……) 彼女達の純粋な想いを踏みにじった、外道な連中さえいなければ……。 「…………」 「……いや、だからこそわたし達がいるのか」 もう二度と、トレハにはワイズミュラー家で起こった様な悲劇を繰り返させやしない。 けど……。 (でも出来れば、トレハだけじゃなくて、あなたの事も幸せにしてやりたいんだけどね、スクラ……) わたしはそんな事をぼんやりと考えながら、精算を済ませて店を出る彼女の後ろ姿をずっと見守っていた。 * 「あら、いらっしゃい、メイフェルちゃん。そろそろ来るんじゃないかと思っていたわ」 そして、スクラとの会談から更に一週間が経過した大切な日の午後、わたしは今日でお勤めを終える予定のトレハを迎えにルマージュ伯爵のお屋敷を再び訪ねると、以前と同じ様にベルメールさんが玄関から出迎えてくれた。 「こんにちは、ベルメールさん。うちの子を迎えに来たんですけど……」 「トレハちゃんね。今日で終わりだなんて、残念だわぁ」 そこで、早速用件から入るわたしに、名残惜しそうな顔で呟くベルメールさん。 「残念って事は、ベルメールさんのお目がねに適ったと解釈していいんですか?」 「だって、あれほど弄り甲斐があるコも珍しいし♪ホントに楽しかったわ、この二週間」 「…………」 やっぱり、ベルメールさんがそう言うと、激しく心配になってくるんですけど。 「本当、メイフェルちゃんといい勝負だったわね〜、うふふふふ♪」 (何の勝負ですか、何の……) 勿論、詳しく聞いたりはしないけど。 「それより、トレハは今何処に?」 とりあえず、これ以上余計な藪を突付きたくはないので、さっさと用件を済ませるべく、ツッコミを我慢して話を引き戻すわたし。 一応、トレハがこの二週間どうしていたのかを詳しく聞きたい気持ちはあるけれど、まずは再会してねぎらいの言葉をかけてやりたかった。 「伯爵のお部屋よ。今日はトレハちゃんとずっと二人きりにして欲しいと言われて、面会謝絶中」 「……そ、そうですか」 甘えが出たり、緊張の糸が切れたら困るので、途中で様子を見に来なかったけど……大丈夫でしょうね? * 「あら、ごきげんようメイフェル」 やがて、幾分駆け足になりながら伯爵のお部屋へ向かうと、室内では椅子に座って優雅な姿勢でお茶を嗜んでいるルマージュ様と、その側で控えていた、ローゼス家の制服に身を包んだトレハの姿が目に映る。 (おお……) やっぱり、スクラの妹だけあってスタイルがよく、露出度の高いエプロンドレスを羨ましいくらいに着こなしているのもあるけれど、何よりルマージュ様の お付きに相応しい綺麗な姿勢で立っている姿を見れば、中身もしっかりと鍛えられている事はすぐに分かった。 ……どうやら、期待以上に頑張ってくれたみたいである。 「ト……いえ、お世話になっております、ルマージュ様」 そこで思わず、開口一番にトレハの名を呼びかかった所で慌てて口を噤むと、咳払いを挟んでお屋敷の主人への挨拶に切り換えるわたし。 「へぇ、途中で一切顔を出さなかった割に、よほど心配していたみたいね?慌しく駆け込んできたかと思えば、この私を蔑ろにしようとするなんて」 「も、申し訳ありません……」 すると、手に持っていたティーカップを置いて皮肉たっぷりの台詞を向けてくるルマージュ様に、わたしは何度も頭を下げていく。 ……流石は御主人様。そんなにバタバタと歩いたつもりはなかったけれど、メイド時代ならお仕置きを受けていた所だった。 「それで、メイフェルの焦りはこの子の成長具合についてかしら?……それとも、この私が妙なコトを仕込んでいないかの心配ゆえかしらね?」 「あ、あはは……。どうかその辺でお許しください、ルマージュ様……」 そして更に、こちらの狼狽っぷりを楽しむかの如く続けられる伯爵の言葉攻めを受けて、わたしは顔中から冷汗を噴き出させながら、引きつった笑いを返す。 「ふふ、ベルメールにあんな言い方をさせれば、どんな反応を見せるかと思っていたけれど、予想以上だったわね。それだけこの子が大事なのかしら?」 「まったく、ルマージュ様もお人が悪い……と言うか、昔を思い出しましたよ。似た様なお戯れには沢山引っ掛かってきましたから」 そう言って、わたしはがっくりと項垂れながらそう告げた。 ジョークを上手く捌けなければ貴族の相手は務まらないけれど、ルマージュ様の場合は嘘が大嫌いな方だけに、とにかく反応に困ってしまう事が多い ワケで。 「そうね、本当に退屈しのぎには持ってこいだったわ。貴女も、このトレハも」 「あ、あはは……恐縮です……」 正直、あんまり笑えないんだけど、それでも笑うしかない。 ……そして、どうやらトレハも同じ様な経験を積み重ねてきたのか、ルマージュ様の隣で苦笑いを浮かべていた。 (やっぱり、トレハも短い間で随分と苦労してきたみたいね……) 表情こそは穏やかなものの、やっぱり顔からは疲労が色濃く浮かび上がっているのが見える。 ……ただ、預ける前と比べて、間違いなく今のトレハは修羅場を潜り抜けたメイドの顔をしていた。 「それで……伯爵からご覧になったトレハの評価の方は、いかがでしょうか?」 しかし、それでもルマージュ様に認めて頂いていなければ意味は無い。 わたしは真顔に戻して伯爵と改めて対峙すると、心臓がドキドキと高鳴る緊張感を飲み込みながら審判を求めた。 「……はっきり言えば、まだまだね。思ったよりは場慣れしているみたいだけど、それでも経験不足は否めないし、詰めが甘いわ。それと、貴族の従者と なるには昔の貴方と同じく、卑屈になりがちで落ち着きが無さ過ぎよ。まぁ、貴女の頼みだから我慢してあげたという所かしら」 すると、早速ルマージュ様の口から、隣に本人が居るというのに遠慮も容赦も感じられない口ぶりで、淡々と辛口のコメントが並べられていく。 「…………」 それでも、伯爵の個人的な好き嫌いではなく、あくまで根拠のある正当な評価だから、反論の余地は無い。トレハも自覚しているのか、ショックを受けている様子も見せずに、ただ神妙な顔で受け止めているし。 「……やっぱり、無謀でしたかね?」 「無謀ね。もっと長期的な展望でしっかりと教育をしていかないと、上辺だけの金箔なんて、あっさりと剥がれてしまうものよ?」 そこで、奥歯を強くかみ締めた後で短く尋ねるわたしに、諭す様な目を向けながら通告してくるルマージュ様。 鋭く見据えるその視線には、明らかにわたしの見通しの甘さに対する非難が込められていた。 「は、はい……」 いくら情熱を抱いたとはいえ、やはり勢いに流されて無理を通そうなど、仮にもマスターともあろう者が考える事では無かったのかもしれない。 「……ただ、ことコンテストに限っては、必ずしもこの評価が当てはまるとは言えないのよね」 「え……?」 しかし、そこで項垂れたまま諦めかけた所で、続けて切り出された伯爵の言葉に、わたしは目を見開きながら顔を上げる。 「コンテストは短期決戦だから、総合能力がそのまま結果に繋がるとは限らない。最低限の基準さえクリアしていれば、あとは純粋な実力以外の要素も 深く関わってくる。……それは、前回大会に出場した貴女になら言うまでもない事よね」 「それはつまり……わたし達にもチャンスはあると?」 「……先程も言った様に、この私を満足させるには程遠いけれど、それでも熱意だけは本物と認めるし、最初に来た頃に比べれば随分とマシになったのは事実だから……一応、合格点をあげましょう」 そうして、ようやくルマージュ様は優しさを含めた笑みを見せてくれた。 「あ、ありがとうございます……!」 これで、伯爵もトレハの可能性は認めて下さった事になる。 「ではまず、約束の物を渡しましょうか」 その後、テーブルの上に置かれていた便箋の一つを手に取り、悠然と立ち上がるルマージュ様。 ……つまり、最初からそのつもりではあったらしい。 「ありがとうございます!助かりました」 これで、多くの人達の協力を経て、ようやくコンテストの出場を確定することが出来る。 ……思えば、夢の様にここまで駆け抜けて、ちょっと実感は薄いけど。 「……ただし」 「…………っ?!」 しかし、差し出された紹介状入りの封筒を、わたしが両手を伸ばして恭しく受け取ろうとした瞬間、ルマージュ様から鋭い声で制止がかかる。 「もし、コンテストで我が家名を汚す無様な振る舞いを行った場合、その覚悟は出来ているわね?」 「……承知の上です。賠償金をお支払いするアテはありませんが」 そして、続けて向けられた脅しにも等しい確認の言葉に対し、逃げること無く頷いて見せるわたし。 貴族の名誉は命と同義。それは理解しているつもりだし、伯爵の台詞も想定済みだった。 「なら、身体で払ってもらうしかないわね、メイフェル?」 「か、身体で……ですか?」 「……聞いての通りよ、トレハ。昔はそうやって借金の担保に自分の娘や親族を差し出す例は珍しく無かったの。そして、両者の間で正式な合意が結ばれた場合、貸主はその娘に対して命を奪う以外は何をしても公認されたって時代があったのよ」 そこで、只ならぬ響きを感じたのか驚くトレハに、わたしは素っ気無くフォローしてやる。 ……つまり、それこそがジャックの言う“身売りされた子供達”だった。遠い親戚らしい元雇い主に売り飛ばされて連れて来られたモンテリナ姉妹も、 その不幸な子供達にあたるものの、トレハには自覚が無いみたいなので、余計な事は言わないでおくけれど。 「話が早いわね。貴族の家名を動かすからには、それに見合う代償は必要になる。その覚悟があるのなら受け取りなさい」 ともあれ、ルマージュ伯爵はそう締めくくると、改めて推薦状をわたしの前へ差し出した。 「…………」 そりゃね、自分だって馬鹿な事をしているって自覚が未だに消えたワケじゃないけど。 「勿論、受け取らせて頂きます、ルマージュ様。前にもお話した通り、トレハと何処まで行けるか、自分達の可能性を試してみたいと思いますから」 でも、今更悩む余地なんて無い。わたしはあっさりとそう答えると、両手でしっかりと敬愛する御主人様からの推薦状を受け取った。 「マスター……」 「ふふ、それでこそ私が見込んだメイフェルね。いいかしら?優勝がノルマとは言わないけれど、最低でも予選は突破なさい。それが出来なかった場合、貴女の所有権を含めてエトレッド・エージェンシーのオーナーはこの私という事になるわ。そして存続させるのか解散させるかは、全ては私の気まぐれ 次第という事になるわね」 「ええ、その時は煮るなり焼くなり、好きになさって下さい」 もっとも、スクラとの約束があるので、トレハはどうなるか分かりませんが。 「よろしい。……それと、これはお給金よ。受け取りなさいトレハ」 そして、わたしに向けて頷いた後で、ルマージュ様は続けてトレハの方へと向き直ると、テーブルの上に残ったもう一通の封筒を手にとって差し出した。 「い、いえっ、そんな……滅相も無い……」 「別に、遠慮なんて必要ないわ。私の目から見て、給金を支払うに見合う働きをした分だけ入れてあるから」 すると、全くの寝耳に水だったのか、慌てて首を横に振るトレハへ、押し付ける様にして受け取りを促すルマージュ伯爵。 「し、しかし……」 「……いいから。有り難く頂いておきなさい、トレハ」 その御主人様の意図をすぐに察したわたしは、両手や首を精一杯振り続けるトレハに、自分からも命令口調で促してやる。 「マスター……わ、分かりました。えっと、その……ありがとうございます、伯爵」 「恐縮しなくとも、大した額は入っていないわ。もし不満に感じたのなら、いずれ売り込みにいらっしゃい」 そこで、ようやく照れながらも恭しく受け取ったトレハへ、ルマージュ様は軽く肩を叩いた後でそう告げた。 「は、はい……」 「良かったわね。これでようやく、真っ当なメイドとして新たな第一歩よ?」 「……本当にありがとうございます、ルマージュ様、マスター……。このご恩は決して忘れません」 つまり、伯爵の御心遣いは、トレハに自信を付けさせる為である。 「よろしい。では、誇りと信念を持って高みへと挑みなさい」 「はい!」 ……だから、やっぱり頼るとなれば、どうしても御主人様が本命として思い浮かんでしまうのよね。 * 「ともあれ、これで推薦状も手に入ったし、出場に関しては問題無くなったわね」 やがて、伯爵邸からお暇した後の夕暮れ時の帰り道、トレハと並んで帰路を歩いていたわたしは、腕を頭の後ろで組みながら、どこか他人事の様に ぼんやりと呟く。 ……これで人事は尽くしたし、あとは天命の赴くままって所かな。 「この台詞はまだ早いのかもしれないけど、ここまで本当に良く頑張ってくれたわ、トレハ。戻ったら、まずはゆっくりと休んで疲れを癒してちょうだい」 推薦状と人物証明書の期限が明日だから、コンテストまで残り約一週間。後は、トレハが万全のコンディションで挑める様に調整するだけである。 「……でも、本当に良かったんですか?あんな約束をして」 「ん〜?わたしは構わないわよ。別に命まで取られる訳じゃないし」 しかし、それに対して隣で歩きながら心配そうな顔を見せるトレハに、わたしは能天気な言葉を返してやる。 「だけど、もし……」 「……まぁ、その時はその時。ルマージュ様も鬼じゃないし、メイシアや他の人達を路頭に迷わせる事はしないでしょ」 そう言えば、1000万マテリアの借金の事は言ってなかったけど、ローゼス家にとっては問題にする程のお金じゃないだろうし。 「そうですね……その時はマスターもメイドに戻って、一緒にルマージュ様にお仕えしましょうか?」 「……だから、先に負けた時の事を考えないでよ……」 今のわたし達は、脇目も振らずに突っ走っている身なんだからさ。 「ふふ、それも悪くないかなって、ちょっと思っただけですよ」 「あんた、まさか既に伯爵に……」 「ち、違いますよぉ……っ、そうじゃなくて……っ」 そこで、思わず後退りしかけたわたしに、トレハは慌てて弁解しながら、こちらの方へ飛び込んで来たかと思うと……。 「……え……?」 「マスターと、ずっと一緒に居られたらいいのにって、そう思っただけです」 自らの両手をわたしの腕に深く絡ませてきた後で、照れた様に俯きながら、そんな言葉を告げてくるトレハ。 ……その頬が微妙に赤らんで見えるのは、夕日の所為なのだろうか? 「トレハ……?」 「お屋敷でのお勤め自体は何でもなかったと言えば嘘になりますけど……それ以上にマスターの顔が見られなくて寂しかったのが辛かったですから……」 「…………」 だけどね、もしあなたがコンテストでスクラに負けたら……。 (……いや、今はいいか) 先に負けた時の事を考えるなって、さっき自分で言ったばかりだしね。 それに、たとえどんな結果になろうとも、わたしは決して……。 「……ところで、マスター?」 「なに?」 「いくらなんでも、お風呂のお供を命じられた時に、ルマージュ様の目の前で滑って転んで恥ずかしいトコロが丸見えになったりしたというのは、さすがに 同じ乙女としてどうかと思いましたけど……」 「んな……っ?!こ、こらっ、あんたベルメールさんから一体どこまで聞いたのよっ?!」 「んふふふふ、さて、ナイショです♪」 「〜〜〜〜っっ」 前言撤回。 わたしの身も心もここまで削らされた以上、負けたら承知しないからね……っっ。 次のページへ 戻る |