知な堕天使(ルシフェル)さんは一途で積極的な巫女さんに篭絡される その1

序章 天使が墜ちてきた夜

 お月様が一際に大きく輝く今宵、わたしは何やら奇妙な胸騒ぎに包まれていた。
「…………」
 別に、神社の娘だから霊感なんてものが強く備わっている、なんて言うつもりはないとしても、懐中電灯を手に二百段近くもある長い長い石階段を上ってゆくうちに、言葉では説明しづらい、ざわざわとした昂りが体内を駆け巡ってきているのは否定できない事実である。
(う〜〜っ、できればイヤな予感の方ではありませんように……)
 とはいえ、この時点でわたしの頭に巡っていたのは、幼い頃より妄想し続けていた奇跡の顕現などではなく、目指す先の境内で何か問題が起きてやしないかという心配の方なのだけど。
「……は〜っ……」
 そして、歩みを止めないまま息を上がらせつつも、白く凍った溜息をひとつ。
 普段はこんな平日、しかも年始の書き入れ時も終わった真冬の夜中にひとりで見回りなんてあり得ないんだけれど、しかしテレビでちら見したニュースによれば、今宵は何十年かぶりとなるレアリティの高い満月なんだそうで、そうなればこの町内で最も高い場所に境内があることから絶好のお月見スポットとしても有名なこの御影神社の管理人としては知らん振りをするワケにもいかず。
「ったく、もう……こちとらお眠ですのに……ふぁぁぁ……」
 ちなみに、どうしてこんな高台にあるのかと言われれば、四百年くらいの昔に眩くも美しい白き翼を纏って神々しい後光も放っていたとされる、ご先祖様が天津縁比売命(あまつえにしひめのみこと)と名付けた天よりの使いが舞い降りたのをきっかけに造営されたからという、少しばかり変わった曰く付きだからなんだけど……。
(天よりの使い、かぁ……)
 我が家に代々遺されてきたそんな伝説に心惹かれて足繁く境内へ通っていた中学生の頃だったら、こんな特別な月夜は何かを期待して居てもたってもいられなかったんだろうけれど、今はもう伝承は伝承と割り切ってきているお年ごろだし、せめてお駄賃にお賽銭でも撒いていって貰わなきゃ割に合わないというものである。
「はぁっ、はぁ……」
「はぁ……はぁ……」
「はぁ、はぁ……ふぁ〜っ……」
 ともあれ、心の中で悪態をつきつつ、ようやく石階段の頂上から続く先の風景が見えてくると、天気は良くても寒い夜だからか、境内の人だかりは思ったよりもまばらみたいだった。
 集まって騒いでいる人たちもいないし、これならわざわざ見回りなんて必要なかったかもしれない。
「ん……?」
 ……しかし、せっかく上りきったところで徒労だったかと脱力しかけたものの、すぐに月見客達の視線は星空に輝く何十年かぶりのなんたらムーンではなくて、社殿の屋根の方へ集中しているのに気付く。
「あれ、なんだろ……って、え、えええ……?!」
 そこで、猫ちゃんでも降りられなくなっているのかと鳥居をくぐって見上げてみるや、背中を突き抜けるかの様な勢いでわたしの心臓が高鳴り、右手に持った懐中電灯が石畳の上へ零れ落ちていった。
(うそ……)
 だって、月見客が見上げる先に“居た”のは、動物なんかじゃなくて……。
「…………っ」
 それから、懐中電灯を拾うのも忘れて小走りに近付きつつ観察してみると、夜風の吹きつける屋根の上に立つ“誰か”は、長い銀色の髪を棚引かせた小柄で華奢な裸の女の子の様な姿をしていて、その表情こそはっきりと見えないものの、下から見上げるこちらは全く眼中に無い様子で何やら憂鬱そうに星空を見上げ続けていた。
「…………」
 ただ、そんな真冬の夜中に全裸でお社の上に立っているという異常さもわたしにとっては些細な問題でしかなく、おそらく呆然と動向を見守る他の人たちもそれは同じだろう。
 ……なぜなら、彼女の背中からは二枚の灰色がかった翼が生えていて、ゆっくりと揺らめき続けるその先からは弱々しい光沢を放つ綺麗な羽根を散らしていたのだから。
(まさか、あのひと……?)
 御影神社に代々伝わる伝説によれば、四百年以上の昔にこの地へ翼を纏った神々しい後光を放つ天よりの使いが舞い降り、後に小さな集落から宿場町へと発展させた中心人物となる旅の若者と、伴侶となった地元の美しい娘との縁を取り持ったのだという。
 やがて、その天よりの使いが再び還って行った後にも彼女を祀って遺された社殿は縁結びの神社として信仰を集める様になったんだそうで、そんな言い伝えにがっちりと心を掴まれたわたしは、いつしか再び降りてこないものかと通いつめては想いを馳せていた時期もあったけれど、まさか本当にそんな日がやってきたというのだろうか……?
(い、いや、今は夜中だし、これはもしかしたら……)
「……あ、依子(よりこ)ちゃん、丁度良かったわ!」
 しかし、それから夢見心地のまま頬を抓ってしまったところで、普段から聞き慣れている声に名前を呼ばれて我に返るわたし。
「え……?」
「ほら、屋上に変わった女の子がずっと立っているでしょ?先に来た人に聞いてみたら、屋根の上の方が急にまぶしく光った後で急に姿を見せてきたって言ってたけど……」
 そして、慌てて声をかけられた方へ振り返ると、愛用のデジカメを手にしたご近所のふくよかなおばさまが翼を纏った少女の方へ指さしつつ、困惑した様子でわたしに報告してきた。
「まぶしく光って?……空から降りてきたんじゃなくて、ですか?」
 もしかしてというかやっぱり、胸騒ぎの原因ってこれだったんだろうか。
「あたしも自分で見てないからよく分からないんだけど……。とにかくそれで、時々誰かが声はかけてるんだけど黙りこんだままで返事がないのよ。……でも、依子ちゃんならと思って」
「んっと、そうは言われましても自信はないですが……あ、あのっ、聞こえますかー?!」
 ともあれ、宮司の父よりここを預かっている身としては到底知らんぷり出来る案件ではないので、おばさまに促されるがまま、勇気を振り絞って声をかけてみることに。
「…………」
「えっと、言葉は分かりますー?!まずは降りて来てもらえたら有難いんですけど〜!」
 しかし、やっぱり反応はなかったのにもめげず、とにかく呼びかけを続けるわたし。
 果たして聞こえていないのか言語が通じないのか、ただ無視されているだけなのかすら分からないのが不安だけど、今は他の手段が思いつかない。
「…………」
「あの、ずっとそこにいて寒くないですかー?!もし良かったら社務所の方でお話を……」
「……煩い。私のコトは放っておいてくれ……騒々しいのは好かないんだ」
 すると、必死で呼びかけを続けるうち、遂に屋上の少女はようやく冷淡ながらも澄んだ声で返事をしてくれたかと思うと、威圧を込めた鋭い目で見下ろしてきた。
「…………っ」
 そんな冷たい視線に射抜かれたように、わたしは再び心臓が大きく高鳴って気圧され気味になるものの、しかしそれでも受けたのは恐怖とは別物の感情だった。
 憂鬱さと刺々しさが混じり合っていて、少なくとも友好的な態度じゃないのは分かるけれど、こうして近くまで寄って改めて見てみると、凄く綺麗なひと(?)だったから。
「いえ、わたしは甘菜(あまな)と言いまして、ここ御影神社の管理人なんですけど!」
「ああ、地主の者か。……それは厄介をかけた様だな」
 ともあれ、言葉が通じているのに安堵しつつ、そこから怖気ることなく一歩踏み出して名乗ったわたしに、天より降りてきたかもしれない女の子は素っ気なくもそう告げるや、半透明の羽根を散らせつつ纏った翼をめい一杯に広げて見せたかと思うと……。
「え……?!あ、あの、その前に……う……ッッ?!」
 こちらの制止も意に介さず、強い風圧を撒き散らし満天のお月様へ向けて鮮やかに飛び去って行ってしまった。
「…………ッッ」
「…………」
「へ……?」
 ……かに見えたものの、彼女の濁った銀色の翼はそのまま星空を翔けるコトなく、ほんの少しだけ浮き上がった後で失速し、石畳の上へと叩きつけられる様に墜落してしまう。
「わっ、わわわわ……っ?!」
「……ち、やっぱり……こうなるのか……無念……」
 そして、慌てて駆け寄ったわたし達が恐る恐る様子を窺う中、灰色の翼を生やした透き通る様に綺麗な肌の少女は倒れ込んだまま独り言のようにそう呻くと、そのままがっくり力尽きてしまった。
「ちょっ……ッッ?!」
「…………」
 ……こうして、数百年ぶりにこの場所で再び起こった縁結びの奇蹟は、いきなり目の前で投身自殺を見せられるという、あまりにもイミ不明すぎる始まりとなってしまったのでした。

第一章 飛べない熾天使

「さぁ終焉の餞だメタトロン、貴様の魂もこの私が解放してやろう……!」
「世迷い事を……ぐぅ……ッッ?!」
 一体、どれ程の年月(としつき)を積み重ねて来たのかすら知る者のいない、唯一神という絶対的な存在が統治する平穏なる暗黒時代が続いてきた天界も、遂に暁の刻を迎えようとしていた。
「……思えば貴様は私にとって最大の障壁であり、似た運命を負った同胞(はらから)でもあったな。故に貴様はこの手で葬ると決めていたのだが、美しい散り際となったろう?」
 永劫に続くと誰もが思考すら止めていた体制(システム)の終焉と、それを打倒せし者が創る新たな秩序の黎明は、もう既に手を伸ばせば届く場所にまで辿り着いたのだから。
「ル、ルシフェル……哀れなる道化よ、呪われるがいい……!女神の如き器を持とうが、この私を屠る強さを誇ろうが、数多の天使達を拐かそうが……貴様は決して神の器などでは……!」
「私は“奴”と同じ道を繰り返すつもりなど無い。ただ、貴様に新時代を見せてやれぬのだけは残念だがな、神の自慢の右腕よ?」
「ぐ……っ、偉大なる我らが“主”よ……どうか御赦し……あれ……」
「…………」
「高潔なる魂を持つが故に神より見初められ、自ら傀儡となり果てた土くれよ。……貴様こそが憐れなる道化だったというワケだ。フフ、ハハハハハ!」
 完全なる決着の時を迎えるまで決して笑うまいと決めていたものの、最終防衛天使(メタトロン)が私から致命傷となる一撃を受けた後に遥か眼下へと墜落し、やがて断末魔の代わりに最下層の方から大きな衝撃と爆発音が響いたのを目にすれば、自然と頬が緩んでしまう。
「だが、これで趨勢は決まり……ぐ……ッッ?!」
(ち、想定よりも消耗させられたか……手古摺らせてくれたな……!)
 無論、こちらも無傷という訳にはいかず相応の深手を受けてはいるが、唯一神の最後の切り札が墜ちた今は、もう神の玉座まで阻む者はいない。
「…………っ、ふん……」
 生まれながらに天使の翼を背負い、周囲とは明らかに異質な存在として瞬く間に熾天使(セラフィム)にまで上りつめたこの私が神への叛逆を誓ったのは自分の出生を知った時からとなるが、遂にこうして喉元へと迫り付いたのだ。
「さて、残るは……」
「……ルシフェル様」
 やがて、決戦で受けたダメージの回復に一旦留まっていた私のもとへ、斥候を終えて追いかけて来たミカエルが、御剣(みつるぎ)の墜ちた方へは目もくれずに淡々とした様子で報告に近付いてくる。
「ふむ、戻ったかミカエル。状況は?」
「正直、あまり芳しくはありません。残存兵数こそ未だ我ら叛逆軍が上回るとはいえ、残った上級天使達の抵抗でエデンの塔の制圧率はルシフェル様の想定を下回っております」
「案ずるな、神の居城の制圧などそう容易いものだとは最初から思っていない。……だが、忠実なる兵達のお陰で奴らの最大戦力はこの手で排除した。後はこの奥にある玉座へ赴き、神霊を滅ぼせば悲願の成就となる」
 九つの段階で翼に込められた能力(チカラ)が厳密に制御されている現行のシステムでは、天使の階級による戦力の差は絶対であり、個別の戦いでは明らかな格上相手への勝ち目は皆無に等しい。
 故に、私に最も多く賛同し付き従ってきた中級天使達がエデンの塔を護る上級天使の抵抗で制圧が進まないのは自明の理というもので、寧ろこうしてメタトロンとの決戦に邪魔が入らぬよう「足止め」となっただけでも、彼等は充分に役割を果たしてくれたと言える。
「つまり、彼らは最初から捨てゴマだったと……?」
「これは領土の奪い合いなどではなく、神霊を滅ぼせるか我らが潰えるかに集約された闘争だ。私はただそれだけを考えてここまで辿り着いた」
 この内乱の結末は、私が綺麗さっぱりと天界全てを塗り替えるか、黒歴史として全て葬り去られてしまうか、そのどちらかでしかない。
 つまり、制圧率など1も99も同じコトである。
「ルシフェル様……」
「ん?」
「既に、両軍合わせて六割程度の天使が傷付き倒れていると思われます。この戦いは本当に……」
「それだけの意味を持つ戦と言った筈だ。“翼”という拘束に支配された天使達が自我に目覚める為の、な」
 しかし、それでも釈然としない感情を抱えた様子で言葉を続けるミカエルへ、改めて彼女の眼前に向き直ると、迷いの無い回答を重ねてやる私。
 現に、私の蜂起に半数近くの天使達が応じてきた。
 間違いなく、その転機は訪れている筈である。
「…………」
「かつての同胞同士で弓を引き合う闘争故に、未だ揺らぎを引きずるのは無理もない。……だがそれでも、お前やガブリエル達は私を信じて賛同する道を選び、ここまで帯同して来たのだろう?」
「……は、はい、それは無論です……!」
「では、そろそろ終幕の場へ赴くぞ。ミカエル、お前が担うべき役割は分かっているな?」
 ともあれ、私は諭す様にそう告げると、ここまで忠実に付き従ってきた懐刀の肩を叩く。
「この身に代えても、貴女の悲願を達成させること、ですね」
「塔中枢へ唯一続くこの道にメタトロンが待ち構えていたとはいえ、戦う能力そのものを持ち合わせてはいない神霊の玉座が空とは考えにくいからな」
「……それに正直なところ、私も既に満身創痍状態だ。おそらく、お前の助力が要る」
 唯一神の神霊を滅ぼすには、こちらも相応の神霊力を乗せた乾坤一擲の一撃を叩き込まなければならず、その為にもこれ以上の消耗は一切避けねばならない。
「…………」
「さぁ、私の傍らで見届けるがいい。これで、お前達に正当な評価を与えなかった者共の鼻も明かせるだろう。何せ、この戦いに勝った暁には……」
「……いいえ、それ以上の言葉は不要です」
「な……?!」
 しかし、出立を告げて背を向けた直後に一瞬の殺気を感じ取るや、重たい感触と共にミカエルの剣が私の背中から胸部を貫いていた。
「ミカエル……ッッ?!」
「残念ながら、戦局は既に決しております……。いくら天界史上最強と謳われた熾天使(セラフィム)といえど、メタトロンと相打ち同然となった貴女には、玉座の前に“集結”している七大天使達を滅ぼせる余力は残っていないでしょう?」
「な……に……?!」
 馬鹿な……。
「それに……やはりこの戦、間違っているのは貴女の方です。ルシフェル様……!」
「ミ、ミカエルッッ、お前は私を……うあああああッッ!!」
 それから、一番信頼していた腹心の裏切りという現実を受け止める猶予も無いまま、私の全身はミカエルの握る天使剣から放たれた眩い光に内部から焼かれて意識が遠のいてゆき……。
「…………」
「…………」

(む……?)
 やがて真っ白な世界から再び目覚めた時、私は冷たくも静かな部屋で仰向けになっていた。
「…………」
「またこの夢、か……?ちっ……」
 “あの時”より夢として映し出されるのは幾度目かは覚えていない、無様な敗北を喫した忌々しき記憶の断片。
 堕天使として追放された今となってもこの様なカタチで見せられるとは、これも私に背負わされた贖罪のうちとでもいうのだろうか。
(いや、それよりここは……)
 ともあれ、小さな溜息の後でまずは上体を起こし、寝起きの悪さと見慣れない環境でやや混乱気味ながらも今の状況を確認してみる私。
 どうやら、何処ぞの住居の一室で眠っていたみたいで、宛がわれた全身を優しく包む厚めの寝具や、いつの間にやら着込んでいるサイズの合わないだぶ付いた衣服を見るに、誰かしらに招かれてここへ来たと考えるのが自然の様である。
(招かれた?堕天使のこの私が……?)
 しかも、よりによって神に叛逆した……。

 とんとん

「……えっと、あの、起きてますか?」
「…………っ」
 それから、今度は昨晩に出逢った小柄な少女の姿を思い出しかけたところで、不意に部屋の出入り口が何度かノックされたかと思うと、天使養成学校(エンジェリウム)で支給されている制服に似た衣装の上にエプロンを羽織った“本人”が心配そうな顔を浮かべて入室してくる。
(ああ、そうだ。思い出した……)
「ん……今しがた目覚めたところだ。問題はない。えっと……」
 昨夜と同じく程ほどに長い黒髪を左右に束ねた、純朴であどけない顔立ちのこの娘は奇しくも追放先として墜とされた神域の管理者で、私に行くアテが無いと聞くや、半ば強引に此処まで連れ帰ったのだったが、確か名は……。
「……ヨリコ、だったか?」
「はい♪甘菜依子(あまなよりこ)です。ぐっすりと眠れたのなら良かったですけど、とりあえず、朝ご飯の用意が出来たので一緒に食べませんか?」
 ともあれ、上体だけを起こしたままの私が思い出した名前を呟くと、依子は嬉しそうな笑みを浮かべつつ、朝食の誘いをかけてきた。
「食事?いや、別に私は……」
 無意味とまでは言わなくとも、必要があるのかと言われればそれ程でもないモノだが……。
「おなか空いていないなら無理にとは言いませんけど、ただわたしもこれから学校ですし、よければ一緒に済ませておいてもらえたら助かるかなって……」
「……分かった。頂こう」
 とりあえず、どちらでもいい選択は相手に委ねておくか。
 所詮、この世界での私は異物に過ぎなくて……何より、もう自分は二億を超える天使軍の頂点に立つ熾天使(セラフィム)などではないのだから。

                    *

「……はい、どうぞ♪」
「ん、感謝する……」
 ともあれ、それから家主の後を付いて居間へと移動し、朝食の品々が並んでいた丸型テーブルを二人で囲むと、早速依子が何やら機嫌よさそうに炊飯器から食器へ盛った炊き立ての白米をこちらへ差し出して来たのを受け、私はとりあえず素直に受け止って目の前へ置いた。
(ふむ……)
 他には、味噌汁といったか独特の匂いを漂わせる汁物に、野菜や卵、ベーコンといった、人間界は始めての筈なのに見覚えのある食材が並び、何やら不思議な感慨を覚えてしまう。
「……あ、そういえばいつもの癖で自分が普段食べてる朝ご飯を二人分作ってみたんですけど、天から来られた方のお口には合いました?」
「別に問題はない。天界の生活環境が人間界と酷似しているのは聞いていたからな」
 昨今こそ疎遠となってきているとはいえ、元々天使と人間は身近な存在で、文化面で互いに影響を与え合ってきた痕跡は天界の記録にも残っている。
 ……それによれば、大昔に守護天使が盛んに行われていた頃、人間界での任務を円滑に行う為に天界で人間達の生活様式を再現する様になったのがその始まりらしいのだが。
「へぇ〜、それは良かったです♪では遠慮なくどうぞ。あ、でもお箸は難しいですか?」
「……いや、こいつも天界にいた頃に使ったことはある」
 いずれにしても、素直に食べて問題は無さそうなので、促されるがまま二本組みの細長い棒を指で操りつつ、主食を拾い上げては口の中へ放り込んでゆく私。
(そういえば、こいつはミカエルの奴が好んでいたな……)
 何やら顔を思い出したらムカついてもくるが。
「…………」
「……ん、どうした?」
 ともあれ、それから黙々と食べ進めてゆくうち、向かいの依子が食事の手もそこそこに、何やらこちらを興味津々な様子で眺めているのに気付く。
「あは、ちゃんと食べてくれてるなーって」
「当たり前だろう。私を含めた天界の民とて、れっきとした“生物”なのだからな」
 尤も、私の“器”は少しばかり特殊な構造を持つとしても、だ。
「……それじゃ、やっぱり身を寄せる居場所は必要ですよね?ごはん食べされてくれる処とか」
「ん……まぁ、そうかもな……」
 一応、極刑が執行された後の身なれど、今後もマトモに生き永らえたいと願うのならばだが。
「だったら、当面はこのままうちに住んでくれていいですよ?とりあえず、わたしのお古ですけど着るものと寝泊りする部屋と食事くらいは出せますから♪」
「と、言われてもなぁ……」
 無闇に怯えさせたり騒がれたくもないので、未だ自分の正体は明かしていないのもあるのだろうが、昨晩といい何故ゆえにこの娘は見ず知らずの私の世話を焼きたがるのだろう。
 ……そもそも、自分の立場的に敵地である魔界ならばともかく、中立地帯の人間界で現地の住人のもとへ身を寄せるなどと天界の連中が黙っているのかも疑問である。
「でも、今は一番寒い時期ですし、アテなく外を彷徨っていたら最悪は凍死しちゃうかもしれませんよ?」
「う……それは、嫌かも……」
 しかし、続けて今度は脅しがかった言葉を確信めいた表情の依子から向けられ、思わず食事の手を止めて同調してしまう私。
 この期に及んで、生き永らえるコトに執着は無いつもりだが、それにしたってあまりに無様な末路である。
「ふふ、でしたらとりあえず、今後のことを決める間だけでも居てくれて構いませんので。……というか、そこのところはどうなんですか?」
「……分からん。これから何を目指すかの前に、まずは状況の整理をしなきゃならんし」
 そもそも、現在私がここに居るトコロから既におかしい訳であって。
「んじゃ、わたしはそろそろ登校しなきゃならない時間ですから、その間にゆっくりと考えてくださいな。……あ、お昼はさっき二人分のお弁当作ってあなたの分は台所に置いてますので」
 ともあれ、正直に打ち明ける私に依子は素っ気なくそう告げると立ち上がり、食べ終えた食器を丁寧に重ねてゆく。
「えっと、私も手伝うか……?」
「ふふ、それじゃ明日からでもよろしくお願いしますね?」
「…………」
 明日から、か……。

「……それでは、行って参ります♪」
「あ、ああ……気をつけて、な」
「はい♪ふふ……」
 やがて、朝食の後片付けも終わって出かける時間になり、一応は玄関まで同行して見送る私に、またも何やら嬉しそうな笑みを見せてくる依子。
「ん……?」
「いえ、こうして学校へ行く前に気をつけてって言ってもらえたのはいつぶりかなって」
「そういえば依子、君は……」
 そこで、私は朝食の席から引っかかっていたコトを訊ねようとしたものの……。
「おっと、でも時間がそろそろ厳しくなったので行きますね?お話の続きは戻った後で」
「あ、ああ……」
「今日は夕方ぐらいまで帰れませんけど、家の中では自由にくつろいでくれて構いませんから。ではまた♪」
 既に時間が圧していたのか、左手首に着けた腕時計を見やりつつ依子は忙しない様子で会話を締めくくってしまうと、私を家に置いたまま慌しく手を振って出かけてしまった。
「自由に、と言われてもなぁ……」
 ……まぁいい、とりあえず誰も邪魔の入らない状況で一人になれたし、先ほど言った通りに状況の整理をするか。
「……やれやれ……」
 依子の前では平静を装ってはいたものの、正直言えば相当に混乱しているコトだしな。

                    *

「……では、今日の授業はここまで。学食組は走ってコケるんじゃないぞ?」
「起立、礼!」
(は〜、何だかんだでもうお昼か……)
 それから、我が家へ何百年ぶりかとなる(はず)の珍客を置いたまま普段通りに登校してお昼休みまで迎えたものの、やっぱり今日はずっと落ち着かない心地だった。
(あの人、ちゃんとお昼食べてるのかなぁ……)
 時間もあまり無かったし、電子レンジの使い方を知っているのかも怪しかったから、今日は卵とハムサラダとツナと果肉入りジャムでサンドイッチのお弁当にしたけれど、焼き飯とかのご飯ものの方が良かっただろうか?
「ふふっ……」
 とまぁ、自分以外の相手に食べさせる食事に頭を悩ませるのも久々なので、それも楽しからずやではあるんだけど……。
(でもやっぱり、一人て放置したままってのは心配なのよね……)
 学校が徒歩圏内ならお昼休みに帰っても来られるんだけど、あいにく家からここまでは電車で二駅の距離で通学時間は片道三十分ちょいだから、確実に帰りは遅刻である。
 ……というか、せめてスマホか携帯電話でも持ってくれていれば連絡も取れるのに、所持品も所持金も服すら持ってない状態だったし。
(うーん、ここは私がもう一台契約してきて持たせた方がいいのかな……?)
 だとすれば早い方がいいかもだけど、ただ今日は出来るだけ寄り道したくないし……。
「……ねぇねぇ、甘菜ちゃん。ちょっといいかな?」
「あ、はい……?」
「んっと、朝に聞きそびれてたんだけど、昨晩に神社から落ちたコは大丈夫だったの?」
 と、自分のたまごサンドを手に持ったまま、食べるのも忘れてあれこれと考えをめぐらせていたところで、昨晩の野次馬だったらしいクラスメートの一葉(ひとは)さんと帆立(ほたて)さんの仲良しペアが声をかけてくる。
「あ、えっとまぁ、奇跡的に軽症で済んだみたいです……」
 実際には軽症どころか無傷みたいだけど、どこまで正直に言っていいものか分からないので、苦笑い交じりにお茶を濁すわたし。
 ……ただ、本人は大丈夫と言い張ってはいたものの、わたしも今朝起こしに行って目を覚ましてくれなかったらどうしようかと心配でぐっすり眠れなかったんだけど。
「というかさ、結局あのコなんだったの?今話題のSNSで炎上させたい人?」
「とりあえず、そういう類じゃないとは思いますけど……ただ、わたしも手当てを済ませて一緒に連れて帰った後はすぐに寝てしまったので、詳しい事情はまだ聞いていないんです」
「ふーん、それじゃ今は甘菜ちゃんのうちにいるんだ?」
「ええ。朝ごはんも一緒に食べて来ましたし」
「そっか。……んーやっぱり夢とか幻じゃなかったんだ……」
「あはは……」
 まぁ、確かに非現時的な光景ではあったから、気持ちは分からないでもないけれど。
「……いやね、実は昨晩のコの写真、確かに撮ったつもりなんだけど画像に映ってないんよ?」
「え?……あ、ホントだ……」
 そこで、腕組みする一葉さんに笑って同調するわたしへ、帆立さんがそう続けて自分のスマホを取り出し、昨晩撮ったらしい社殿の屋根を見上げたアングルの写真を表示してきたのを見せてもらうと、確かにそこに居たはずの“彼女”の姿は映っていなかった。
「んで、同じくあの場に居合わせてた他のコに聞いても、同じく撮影できてなくてね。……だから、昨晩に翼を生やしてた女の子なんてホントに見たのか、今となっては自信がなくなってさ」
「それで、もしかしたら幽霊か何かだったりしたのかなー?とか思い始めたんだけど、やっぱり明るくなってもいることはちゃんといるんだ?」
「あはは、ちゃんと足も付いてますし、現実にあった出来事ですからご心配なく」
 でも、そう言われればわたしも帰宅してちゃんと居るのか心配になってくるんですけど……。
「なら、良かったらまた今度にでも紹介してよ?どうせまた今年もやるんでしょ、アレ」
「ええ、その時には落ち着いてもいるでしょうし」
「んじゃ、楽しみにしてるよ〜?あ、それとあたし達はちゃんと帰る前にお賽銭入れたからね?」
「……まぁ、十円しか投げてない人がドヤ顔で言うもんじゃないけど」
「ふふ、お心遣い感謝です♪」
 まぁ、とりあえず人に非ざる存在なのは確かみたいだけど、それにしてもカメラで撮影したはずなのに映っていないとは……。
(これも、あのひとのチカラなのかな……?)
「…………」
 それから、話も一段落して再び教室の片隅に独りぼっちとなったわたしは、窓の外から御影神社の方角へ向けて視線をやりつつ、昨晩のやりとりを思い出していった。

                    *

「……ち、やっぱり……こうなるのか……無念……」
「ちょっ……?!」
「…………」
「も、もしっ、大丈夫ですか?!」
「依子ちゃん、救急車呼ぶ?!」
「え、そ、そうですけどいやでも……」
「……五月蠅い。外傷なんぞ無いが気分が沈んでしまっているだけだ、ほっといてくれ……」
 社殿の屋上から墜落してきた裸の女の子がぐったりと動かなくなったのを見て、真夜中の境内は一時騒然となったものの、やがてすぐに倒れ込んだまま疎ましそうな声が返ってくる。
「怪我はないって言われても……」
 確かにぱっと見たところ、首やら手足があり得ない角度でねじ曲がっている風でもなければ出血も見当たらなくて、ホントに目に見える外傷はなさそうなんだけど……。
「けど、外傷は無くても内臓の方が危ないかもしれないから、やっぱり救急車呼んだ方が……」
「……それも心配はいらん。そもそもこんな程度の落下でどうにかなる器じゃない……」
「こんな程度って言われても……」
 うちはそんなに大きなお社じゃないにせよ、それでも二階建てのお家の屋根から飛び降りたくらいの高さはあるわけで。
「とにかく、今は何人(なんぴと)とも関わりたくないんだ。もう一度言うが放っておいてくれ……」
「…………」
 確かに、息苦しそうな様子は見えなくて弱々しいけど普通に喋られるみたいだし、喀血とかもしていないから案外大丈夫そう。
「……えっと、それじゃ起き上がって歩けるのなら、ちょっと付いて来てもらえます?」
 けど、やっぱりそれで知らんぷりなんて出来るわけもないので、そう言ってコートを脱いでしゃがみ込み、背中から羽織らせようとするわたし。
「む……?」
(あれ、この翼……?)
 すると、腰のあたりから背中の翼の付け根のギリギリまで被せようとしたところで、実は立体映像みたいに触れても感触が無いのは少し驚いたものの、まぁ今は置いておいて……。
「これから社務所を開けますので、そちらで手当てでもと。休むにしたって暖房もありますし」
 ともあれ、二人きりで話が出来る場所へ移動したい。
 手当もあるけれど、わたしの本音はそこだった。
「……別に、いいと言っているだろう?」
「とはいえ、こんな場所にいつまでも裸で転がって居られても、参拝の邪魔ですし……」
「ち……」
 だって……。
「それに……もしかしたら、貴女は数百年ぶりのお客様かもしれませんから」
「なんだと?」
「…………」
「……ああ、そうか。もしやここは昔にアイツが……」
「え……?」
 それから、心臓を昂らせつつ口に出すか迷っていた言葉を思い切って告げると、半透明の翼を生やした女の子は少しだけ驚いたような反応を見せるや、むっくりと背中を起こして何やら訳知りな様子で辺りを見回し始めた後で……。
「……分かった。同行しよう」
 やがて小さく頷くと、わたしのコートを羽織りつつ立ち上がってくれた。
「は、はい……!では、行きましょうか」
「……依子ちゃん、一人で大丈夫なの?」
「ええ、必要ならわたしが救急車を呼びますし、それより今は安静にしてもらいたいので、後はお任せくださいな?」
「そう……」
「ではご参拝客の皆様、お月様を適当に撮影されましたら本日はお引き取り下さい。……あ、もしよろしければお帰りの際には夜更けに神域を騒がせたお詫びとして、縁比売様へお賽銭の一つも奉納しておいて頂ければ幸いかなと。あはは」
 それを見て、わたしは逸る気持ちを抑え、心配そうに尋ねるおばさまや、他の月見客の皆さんにも幾分早口で挨拶して頭を下げた後で、夢だった珍客を伴って社殿の隣にある社務所の方へと案内していった。

                    *

「……さ、どうぞこちらへ。すぐに暖かくなりますから少しだけ我慢して下さいね?」
「…………」
「ちゃんとお掃除もしているので、どこでも好きな場所へ腰かけてもらって大丈夫ですよ。あ、温かいお茶でも淹れましょうか?」
「……いや、いい……」
 やがて、鍵を開けて明かりを点けた控室へと案内した後で、暖房を入れたわたしが楽にしてもらうように促すものの、女の子は落ち着かない様子で立ったまま、きょろきょろと室内を見回し続けていた。
(う〜ん……)
 何やらこれだと、裸の少女を強引に連れ込んだ不審人物になっている気がするけれど、やっぱり警戒心を持たれているんだろうか。
 ついでに、可愛らしい見た目や声とは裏腹に、言葉遣いは硬い感じで口数も少ないし。
「それじゃ、一応もう一度尋ねますけど、どこか痛みは感じてないですか?」
「問題は無い。あの程度で活動に支障が出る器では話にならないからな」
 ともあれ、せっかくここまで付いてきてくれたんだし、話を聞いてくれるつもりはあるんだろうと、まずは気分が悪くなった参拝客用に備え付けてある常備薬のケースを取り出しつつ尋ねるも、やっぱり素っ気ない返事が一言だけ。
「なら、いいんですけど……」
 差支えがなければ、自覚していない傷もありそうなんでひと通り確認させて欲しいものの、何だかそれはそれで言い逃れの出来ない方向へハマってしまいそうな……。
(というか……)
 冬用のコートを羽織ってだいたい覆いかぶさってはいるものの、明かりの点いた部屋の中で透き通る様に白くて綺麗な肌や、見えたら困りそうな部分が先程からチラチラと覗いているのがなんとも目に毒というか、ヘンな気分になってしまいそうというか。
 ……いや、それよりも一番気になっているのはもちろん……。
「……?どうした、何やら私よりもそちらの気分がすぐれて無さそうだが?」
「あ、いえ……その背中の翼、手に触れたときに感触がなかったんですけど、本物なんですか?」
「一応はな。尤も、今はただの飾りに過ぎなくなったみたいだが……」
 ともあれ、釘付けにされていたこちらの視線に気づいた女の子が訝しんできたのを受け、わたしは室内でもぼんやりと発光している曇った翼の方へ逸らせて本題に入ると、肩を竦めつつ投げやりな回答が返ってくる。
「え、えっと、それじゃやっぱり、貴女は“天使さま”って認識で問題ないんですね……?!」
「ん〜……“元”、天使だ」
 それでも、ホンモノと聞いていよいよわたしは身を乗り出したものの、その後でばつが悪そうな顔を見せる相手の口からぼそりと続けられたのは斜め下な言葉だった。
「元……?」
「いわゆる、“堕天使”ってやつだよ。罪を犯して天界から放逐された、な」
 それから、またも投げやりに吐き捨ててくると、堕天使と名乗った少女は大きなため息の後で、どっかりとその場へ胡坐をかいて座り込んでしまう。
「堕天使……罪……?」
 いや、下には何も履いてないのにそんな恰好したら見えちゃ……ではなくて、えっと良く分からないけどつまり、こんな可愛らしい身空で何かとんでもない犯罪行為でもやらかしてしまったってコトなんだろうか?
「それより、こちらも一つ確認しておきたい事がある。……やはりここは、魔界でなくて人間界なのだな?」
 ともあれ、わたしの方は返す言葉に詰まってしまったところで、今度は堕天使さんの方からこれまた良く分からない質問を投げ返される。
「はい……?魔界と言われましても……」
「……やっぱり、そうか。ここへ飛ばされた直後に感じた気配からしてどうにも違和感を受けていたが、お前さんの先程の言葉で確信に変わってきていた」
「先程って、数百年ぶりのお客様というのが?」
「ああ、その話には私にも心当たりがあるのでな。……しかし、こうなってくるとただの事故や偶然で片づけて良いものかどうか……」
 そして、それだけ続けると堕天使の少女は腕組みしながらひとり考え込み始めてしまった。
「…………」
 まぁ、頭が混乱しているのなら、ゆっくり話を整理させてあげたいのはやまやまなんだけど……。
「……あの、それでさっきひとりで飛び立とうとしてましたけど、一体どこへ行くつもりだったんですか?」
「ん?単に誰もいない静かな場所へ移ろうとしただけなのだが……」
 ただ、壁にかけられた時計の針を見るともう午後十一時半を過ぎていたのもあり、わたしが話を急ぐと、またも投げやりな回答が素っ気なく返ってくる。
「でも、飛べずに落ちてしまったと」
「全く、無様な姿だろう?これでも天使時代の私は……」
「私は?」
「……いや、堕天使となった時点で我が雷名も失った。今は名もなき存在に過ぎない」
(うーん……)
 何やら、思ったより全然ワケアリの人(?)っぽいけど……。
「……さて、聞きたいのはそのくらいか?では……」
「そうですねぇ。今日のところは一緒に帰って休みましょうか?明日はわたしも学校ですし」
 ともあれ、再び言葉に詰まってしばらく沈黙が続いてしまった後で、名も無きとなってしまったらしい堕天使の人が話は終わりだとばかりに立ち上がったのを見て、ここへ一旦連れて来る時から決めていた申し出を告げるわたし。
「……今日のところはって、まだ聞き足りないのか?それに、まさか私も一緒に連れ帰ろうと?」
「だって、ちょっと思っていたのとは違いますけど、この神社に天使様がまた降りてこないかなって、わたしずっと憧れてましたもん。……まぁ、最近は熱も落ち着いていたんですけど」
 それでも、今夜の遭遇はそんな想いを一気に再燃させられてしまった出来事だし、もしさっき墜落せずに飛び去って行ってしまっていても、きっとわたしは見つかるまで追いかけていたと思う。
「言っておくが、“そいつ”は私じゃないぞ。……まぁ知らん奴でもないが、それに何度も言うがもう天使ですらない」
「いいんです。元が付こうが、わたしにとってはずっと待っていた天よりのお客様ですから」
 何より、ちょっと無愛想だけどその西洋人形みたいな綺麗な顔立ちや白い肌、それに飛べなくなってしまったそうだけど半透明の綺麗な翼を見ていると胸の昂ぶりが止まらないし、わたしは既にこの堕天使さまに魅入られてしまっているのかもしれなかった。
「…………」
 ……とまぁ、そんなわたしの告白を受けて、明らかに厄介な奴と鉢合わせてしまったという顔はされているけれど、それも気にしない。
「どのみち、そのままじゃ夜が明けたら悪目立ちしてお巡りさんに通報されてしまいますよ?」
「む、それは勘弁願いたいな……」
「では、諦めて一緒に帰りましょうね?この御影神社の巫女として、天より降臨された方のお世話は宿命というものでしょうから♪」
「まぁ、好きにしてくれ。……こっちは確かに手詰まりだ」
 すると、いよいよ観念したのか、堕天使さまは短いため息の後で観念した様に吐き捨てると、背中の翼を消してしまった。
「あ、その翼……出したり引っ込めたり出来るんですね?」
「出しっぱなしでは不便な事も多いだろう?これから此処で暮らす羽目になるのなら尚更、な」
「あはは、確かに♪」

                    *

「…………」
 こうして、わたしは半ば強引に連れ帰って当面のお世話をすることにしたんだけど……。
(堕天使、かぁ……)
 話しているとぶっきらぼうながら真っ直ぐで誠実そうなのに、ほんと一体何をやらかしたというんだろうか。
(……まぁ、いつか話して貰えるくらいの仲になるのが、当面のわたしの目標かな……?)
 がんばろう。

                    *

「ふぇっくしょい……っ?!」
「……む、なんだ……?」
 やがて、依子の家に留まるがまま昼食の時間となり、食欲はあまりないとしてもせっかくの好意を無碍には出来まいと、台所のテーブルの上にあったバスケットの中身を平らげていた私だったものの、不意に背筋を走った悪寒と共にくしゃみが吹き出てしまい、備え付けられていた手ぬぐいで汚した部分を拭き取ってゆく。
(……私が風邪など引くワケがないんだが、不吉な予感じゃあるまいな?)
 そういえば、依子は親切で節介焼きみたいなのはいいが、何やら身の危険を感じる時もあるのは気のせいなのだろうか……?
「…………」
 いや、そういうのは今は捨て置くとして。
「……やれやれ、これ以上は考えても堂々巡りか」
 それから、くしゃみも一度で収まったところで、先程までの考えごとの続きに入ろうとしたものの、すぐに億劫になってきて飲み物を口に含む私。
 ……とりあえず、大雑把に纏めれば主な悩みの種は二つ。
 まず一つは、神への叛逆に失敗し天界での極刑である“堕天使墜ち”を言い渡された筈なのに、何故か執行後に魔界ではなく人間界へ飛ばされてしまっているというコト。
(これは果たして事故なのか、それとも……)
 天界から他の世界へ繋がるゲートの転送事故自体は過去にも記録が残っていた筈だから、負け犬に相応しい悪運と言えばそれまでだろうが、しかし墜ちた場所が場所だけにそれで済ませて良いものか。
「…………」
 そしてもう一つは、翼のチカラが綺麗さっぱり失われているらしいということ。
 無論、堕天使が追放される際は天使の翼に込められていた神の加護を失うものだし、少しばかり事情が違う私にしてもこんな姿にやつしている時点で本来のチカラの殆どが消失しているのは覚悟していたつもりだったが、まさか飛べなくなる程というのは流石に堪えてしまった。
「はぁ……」
 お陰で、ただの小娘にまで成り下がってしまった今の私は、籠の中の鳥も同然。
 それでも、退屈だったので少々散策して見たところ、ここは古い時代に建てられて改築されていった旧家で、依子一人が暮らすには無駄に広い敷地の籠みたいだが……。
「……やっぱり、食事が終わったら少し出かけてみるか?」
 依子には自由にしていいと言われたし、これ以上ここにいても何も得られないだろう。

                    *

「は〜〜っ……」
 やがて、昼食を終えて少しばかり時間も食ってしまった後でようやく外出へと漕ぎつけた私は、慣れない寒さに肩を震わせつつ、玄関から庭を横切って古い木造の門を出て、真っ白な息を吐きながらの一人散策を始めていた。
「……う〜っ、これでもまだ寒いな……」
 先程は室内着のまま出かけようとして返り討ちに遭い、一旦戻って依子の部屋からコートを調達して出直したものの、これでもまだ充分とは言えないのかもしれない。
(ち……まさか、飛べないのに加えて保護機能まで失うとはな……)
 元々、天使の翼には標準機能として風や衝撃を防ぐ不可視の保護網が常時全身へ張り巡らされていて、それが辛うじて生きていた昨晩は裸でも平気だったのに、今朝起きてみればそれも消滅してしまったらしく、もしも依子に連れ帰られて厄介になっていなければ、今頃は本当に凍死していたのかもしれなかった。
(熾天使ルシフェルの最期としてはいくらなんでも間抜けすぎだな、それは……)
 しかも、飛べないお陰で移動時間が無駄に長くなっているのもあり、余計に真冬の寒風が身に染みるのがつらい。
 ……無論、天使時代も自分の足が飾りだったワケじゃないにせよ、これまで翼で飛べば瞬く間だった距離を徒歩でモタモタと移動させられるのはもどかしくて仕方がなかった。
(やれやれ、全く先が思いやられるな……)
 とはいえ、再び飛べる様になるアテが無い以上は慣れるか、他の移動手段でも探すしかないのだろうが、いずれにしても翼をもがれたままでは行動可能な範囲などたかが知れている。
(飛べない中で雲をつかむような状況というのは、やっぱりしんどいな……)
 正直、この外出にも暇つぶしや気分転換以外の意味なんてあるのか自信は乏しいものの、それでも私は徒歩で行けるのは確認済みのとある場所へと向かっていた。
「…………」
 のだが……。
「にしても、ここが人間界、か……」
 それから、もうしばらく閑静な住宅街を手ぶらで横切ってゆく中で、いつしか独り言を呟いてしまう私。
 現役(セラフィム)の頃は降り立つ機会も興味すら無かったが、本来飛ばされる筈だった魔界と違い、閑静で殺伐とした気配は感じられず、こうして堕天使が無防備に歩いていようが命の危機に瀕する心配など無用っぽいのは重畳としても、居心地は決して良いとは言えないみたいである。
「…………」
 平穏な代わりに世界を構成するエレメントの密度も、人間界なのだから一応は及んでいる筈の神霊力も希薄で、それが自分の様な存在を自然と拒んでいる風に感じさせられてしまうというか。
(……やはり、この世界での私は異物というコトだな)
 魔界ほどに堕天使を含む多種多様な種族が共存している訳でも無ければ、今となっては天使の存在などこの人間界では夢物語の住人なのだろうから、私は本来ここに居るべき存在で無いのは分かる。
「……ふん……」
 ただ、それでもこんな私を強引に留まらせようとした物好きがいきなり現れたのを考えれば、必ずしも直ちに排除されるべきとは限らないのだろうが……。
(居場所、か……)
 それが確立するまでは魔界へ落とされるよりマシだったかどうかも定かじゃないが、いずれにせよ私が今こうして人間の世界をウロついている方が異常な事態なのは間違いない。
(やっぱり、まずは原因なり理由なりを突き止めなければ先へは進めない、か……)
 果たして、この私にそんな先の道がまだ残されているのかすら不明としても、こうして未だに“生きて”はいるのだから。

                    *

「……むう、これを上るのか」
 ともあれ、やがて昨晩の記憶を頼りに目的地である御影神社の入り口まで辿り着くや、鳥居を潜った先で高く聳える石階段を前に思わず足を止めつつ冷や汗を滴らせてしまう私。
 この神社を預かっている依子は境内の掃除の為に普段から頻繁に通っているらしいが、小柄で華奢な見た目と裏腹に、もしかしたらあれで足腰は相当鍛えられているのかもしれなかった。
(やれやれ、飛べさえすればこんな階段など……)
 しかし、愚痴っていても始まらないので、一段一段をゆっくりと上り始めてゆく。
「…………」
「…………っ」
(くっ、やっぱり長い……)
 途中、何度も立ち止まりたくはなるも、人間の依子が涼しい顔で上り下りしているのに自分が無様な姿を晒すのは元熾天使(セラフィム)としてのプライドが許さないので、同じペースを意地でキープしつつ足を止めない私。
 まぁ、お陰で身体の方はすっかりと熱くなってきて汗も滲んでいる程なのだが……。
「……はぁ、はぁ……っ」
 とはいえ、こんな足労の果てに見返りが待っているとは限らないものの、ただこの神域は天界や天使とは因縁の深い場所だけに、今回の私の転送事故と本当に因果関係が無かったのか、誰にも邪魔されずに調べておきたい衝動が背中を押しているのも確かである。
「…………」
 それと、具体的な形が見えている訳ではないものの、階段を上るたびに予感めいた胸騒ぎを感じる様になってきているし、何が出てくるかはさておき、全くの無駄足というコトにはならないだろう。
(ふん……)
 魔界へ墜とされた堕天使はその殆どが失意の中でただ死を待つのみとは聞いているが、私の場合は未だ罰の執行が始まってすらいないのかもしれなかった。

                    *

「……ぜぇ、ぜぇ……やっと着いたぞ……!」
 ともあれ、ようやく石階段を上りきって風音と烏の鳴き声だけが聞こえてくる静謐な領域へと辿り着き、私は乱れた呼吸を整えつつ、昨晩に墜とされた社の屋根を見上げてゆく。
「……はぁ……っ……」
 一応、この場所は地方の守り神を奉っている神域であり、巫女としてこの社を司る依子が本来に属しているのは天界の神とは違う系統の筈である。
 しかし、かつて唯一神の威光を広め信仰を集める使命を受けてこの地へ降臨した大天使ハニエルは愛を司る天使として民達の縁を結び、それが後に大いなる繁栄を齎した事で、図らずも彼女自身が地祇として当地の神々の序列に加えられ崇められる様になったという、いささかややこしい曰くを持つ神域となっているのは聞いた覚えがあった。
「…………」
 そして、依子はそんな彼女の伝説に強く惹きつけられ、偶然にも同じ場所へ追放された元天使のこの私に興味を抱いているみたいだが、本当に偶然なのだろうか?
 昨晩に依子から数百年ぶりのお客様と言われて直ぐに納得したのも、未だここには残り香の様に馴染み深いアイツの気配を感じ取れたからでもある。
「ん〜、実は最初からここへ飛ばされる予定だったのか、もしくは何かのチカラで引き寄せられたのか。それとも……」
「……ええ、その両方か、って所でしょうね」
 それから、空を見上げたまま社殿へ近付きつつ思わず声に出して呟いてしまった私に、前方から同調する台詞が返ってくる。
「ん……?」
 そこで、声に覚えがあるのにも引っかかってすぐに視線を落としてみると、ここに居るのは自分だけと思っていた中で、他にも本殿の賽銭箱の前にすらりとした細身で長身の女がこちらに背を向ける形で立っているのに気付く私。
「…………ッッ、貴様は……」
 しかも、その肩口まで伸ばした金色の髪や、白薔薇を纏うように複雑な意匠の正装を着こなすその姿には確かに見覚えがあった。
「ここで待っていれば、手掛かりを求めて再び訪れて来るだろうと予想していましたが……思ったより早かったですね?」
 ……というか、忘れたくとも決して忘れることはない。
 何故なら、彼女はかつて私が最も信頼していた腹心であり、そして……。
「……ミカエル……!」
 私を斃した、裏切り者なのだから。

次のページへ   戻る