Phase-2:『お泊まり』
2-1:お誘い
「おはよー、茜」
「おはよう、みゆ」
「んじゃ、おやすみぃ…ぐぅ…」
とりあえず恒例の挨拶を適当に済ませて自分の席につくと、わたしはそのまま机に伏っ潰して眠り始めた。ぽかぽかとした初夏の陽気が、まるで布団の様にふわりと背中を優しく包んでくれるのが実に心地いい。
「おやすみって、もうホームルーム始まるわよ?」
「いいの…あと5分だけ…ぐぅ…」
「……」
やはり、1日6時間位は眠らないとどーにもつらい。
…でも、このつらさを分かっていても、ついつい目の前の欲望に負けて夜更かしを繰り返すのだから、全くもって人間って奴は進歩が無いと自分でも思う。
『でも、堕落は凡人に与えられた特権だし…』
逆に言えば、堕落するから凡人なのかもしれないけど…まぁどーでもいいや…眠いし。
「……」
「ねーねー、みゆちゃん?」
「……」
それからしばらくして、後の席の辺りから柚奈の呼ぶ声が耳に届くがまだ眠い。
うたた寝を楽しんでいる身体をワザワザ起こして相手をするのを億劫に感じたわたしは、そのまま寝たフリをしてやり過ごす事にした。
「…むぅ、みゆちゃんが死んでる…」
「どうせ、昨日の帰りに買ってたRPGを殆ど徹夜でやってたって所でしょ?」
『う……』
…違うもん。中間テストが近いから、早めに終わらせようとしただけだもん。
「ね〜ね〜、みゆちゃん起きてよぉ?」
呼んでも起きないのを見て、今度はゆっさゆっさとわたしの体を揺らせるが、柚奈の耳障りの良い声とゆっくりと背中を揺らされる心地が、まるで揺りかごの中で子守唄を歌ってもらっている様な感覚すら覚えたりして…。
「ぐぅ〜っ、すぅ〜っっ」
という訳で、そんなの効かないよ、とばかりにわたしはワザと寝息を立ててやるわたし。
「む〜っ、こうなったら無理矢理にでも起こしちゃうんだからっっ」
『…来るか』
やがて業を煮やしてそう宣言する柚奈に対し、わたしは机に伏せたままで第一種戦闘体勢をとった。
ふぅぅぅっっ
『う…っ』
そして予想通り、ツーテールでまとめたわたしの髪をかき上げ、いつもの耳に吐息吹きかけ攻撃が来たところで一瞬びくんっと体が跳ねかけたものの、どうにか耐えてみせる。
「あれれ、効かない…?」
ふぅぅぅぅぅっっ
続いて2度目の攻撃。
しかし、それにも何とか耐えてみせる。
「む〜っ、今日のみゆちゃん手強い…」
『…ふっ、伊達に毎日あんたからセクハラ攻撃を受けてないわよ』
そして、悔しそうな声を挙げる柚奈に勝ち誇るわたし。こいつと一緒に学園生活を送る様になってまだ日は浅いものの、毎日みたいにとっかえひっかえセクハラまがいの悪戯をされていれば、嫌でも慣れようというものだった。
『最早あんたの攻撃は効かないわ。そろそろ諦め…』
かぷっ
「に゛ゃあああああああっ?!」
耳っ!耳たぶに歯が…っっ?!
「あははは、やっと起きた〜♪」
「何しやがるあんたは〜っっ!!」
「だって、起こしても起きてくんないんだもん〜」
「……くっ」
はぁ…これなら息を吹きかけられた時に素直に起きておけば良かったかも。
「まぁいいわ…お陰ですっかり目も覚めたし…」
と言うか、今のままじゃ危なっかしくてしても寝てられたもんじゃない。
これ以上居眠りをする事を諦めたわたしは、溜息と共に足組みをしながら姿勢を起こしていった。
「…で、結局一体何なのよ?」
「うん。それなんだけどぉ♪」
すると、ようやく話に入れたのが嬉しいのか、不機嫌さを隠さないわたしに対して柚奈は極めて上機嫌で本題に入ろうとしていく。
「ねぇねぇ、みゆちゃん、茜ちゃん。明日の夜、学校終わったら私の家に泊まりに来ない?」
「…え?柚奈の家に??」
「へぇ、お泊りの誘いなんて久しぶりじゃない」
柚奈の家にお泊りと聞いて、思わず警戒モードに入りながら動揺するわたしに対して、茜は嬉しそうに声を弾ませる。
「うん♪せっかくみゆちゃんともお友達になった事だし」
『…友達…ねぇ』
こいつの言っている意味が、本当にただのお友達ならば苦労はしないんだけど…。
でもまぁ、確かに柚奈と茜は、1ヶ月前にわたしがこの学校に転校して来て初めて出来た友達という事に違いは無かった。
…ただ、良くは分からないけど、初めて出逢った日の出来事がきっかけで柚奈にはひと目惚れされてしまったらしく、お陰で求愛行動なんだかただの悪戯なんだか良く分からないアプローチを受ける羽目になってしまっているのが玉に瑕というか。
「……」
「…ん?どうしたのみゆちゃん、じっと見て??」
しかも柚奈は成績優秀、ストレートロングの髪に象徴された古風なお姫様を連想させる様な容姿と均整の取れたプロポーションで、学園でも屈指の美少女として名高いときたもんだから、なんでこんな凡庸でちんちくりんなわたしを見初めたのかは今でも謎のままなんだけど。
茜に関しても、女性にしては長身で、ショートカットの似合う中性的で端正な風貌。更にスポーツ万能という事もあって、一部では王子様みたいに呼ばれてたりと、釣り合いで言えば茜の方が全然取れてると思うんだけどねぇ。
「…いや、別に。でも、何だって急に?」
まぁ、人の趣味は千差万別だし、それをとやかく言っても仕方は無いんだけど。
…って、流石にそれは自虐が過ぎるかな。
「だって、前にみゆちゃんにピアノ聞かせるって約束したでしょ?一昨日に調律してもらったし、丁度いい機会かなーって」
「あう…」
…しまった。以前軽い気持ちで言った言葉が、まさかこんな所で墓穴を掘る羽目になるとは。
ゲームで言えば、気づかずにトラップのフラグを確定させた様なものだろーか。
「あたしは行くよ。楽しみだなぁ」
それを聞いて茜は相当乗り気らしく、即答で了承する。
…そりゃ、危険のない茜は気楽でいいでしょうよ。
「それで、みゆちゃんは?」
「えっと、わたしは…」
先人曰く、虎穴に入らずんば虎子を得ず。
さりとて、別に虎子なんて欲しがってない以上は、君子危うきに近寄らずというのが正解だろう。
「まぁ、別にわたしも予定は無いけど…」
…しかし、それでも断る理由が見当たらないのだから仕方が無い。適当な理由を捏造しようにも、嘘を付くのは昔から苦手だった。
『うーっ、馬鹿正直な自分が憎い…』
きっと、他人にとっては誇るべきって言われるんだろうけど、やっぱり損な部分に違いは無かった。
「それじゃ、決まりってコトで。心を込めておもてなしするから、楽しみにしててね♪」
「…おもてなしって、例えばどんな…?」
「そりゃもう。みゆちゃんをお招きするんだから…ねぇ?」
そう言って、ニヤリと悪戯っぽさと邪悪さが混じった様な笑みを見せる柚奈。
「……」
うう…っっ。あの目は絶対何かたくらんでる…。
「さーて、これで準備が忙しくなっちゃった♪うふふふふ…」
『…えっと、わたしは貞操帯でも準備しておくべきかしら?』
いや、冗談じゃなくてマジで。
2-2:ひょうたんからヘビ
「…さてと、こんなもんでいいかな…?」
次の日、帰宅して昼食を取った後で、わたしは柚奈の家にお邪魔する準備を始めていた。
とりあえず、着替えと寝間着と勉強道具とハリセンと…。
「ん…?ハリセン??」
なんでこんなの持ってるんだ、わたしは???
「…まぁいいや。後は貞操帯…って、そんなのある訳無いか」
そもそも、そんなモノ実在するのかどうかすら、わたしには定かじゃないし。
「ん〜、でもせめて何からかの対策は必要かな…?」
ふむ…柚奈と一緒で一番危険な時間帯と言えば…。
「…って、なんで友達の家に行くのに、こんなに警戒しないといけないんだろう…」
そもそも今日は茜という防波堤も一緒だし、大丈夫…。
『にやりん』
しかし、そこで何故か浮かんだのは茜のニヤリとした小悪魔顔だった。
「……」
「……」
やっぱり、今から仮病でも使おうかな…?
でも、今週末は宿題もたくさん出たしなぁ…。
「あら、美由利ちゃん家出?」
「だあっ、なんでそーなるのよっっ」
その後、突然部屋に入り口に現れた母上の台詞を受けて、思わずコケてしまうわたし。
「だって…美由利ちゃんったら、お母さんに何も言わないで突然荷物をまとめてるから」
ああそっか。そーいえば言ってなかったな。
「…わたしは柚奈の家に泊まりに行くだけよ」
「あら、とうとう彼女に決めちゃったの??」
「だーかーらーっっ、柚奈はただのお友達だってば」
そこで「んまっ」という風に口に手を当てながらそう尋ねてくる母上。
…実はこの母上の奴も、何故か柚奈をわたしの友達じゃ無くて恋人候補として認識しているフシがあったりして。
「まぁまぁ、誰でも最初は友達からだから」
「…あのね…」
少なくとも、わたしは未だに友達の領域を出ていない…はず。
…いや、確かにちゅーもしたし、Bまでは行ってしまったけど、これも友情の範囲でちゃんと表現出来る…といいんだけどなぁ。
『むぅ、弱気になってどうする、わたし…』
「あらあら、隠さなくてもいいのよ。という事は、今夜は桜庭さんと2人きりの夜?」
「…茜もいるから、3人いるもん」
「うんうん、ちゃんと口実作ってもらったんだから感謝しないとね」
「だから、なんでそーなるのよぉ…」
そもそも、女の子と2人きりになるのに親への口実を作る奴なんていないと思うが。
「お母さんも美由利ちゃん位の年には、姫百合色のロマンスの1つや2つはあった訳だし」
「ああそう…そりゃ良かっ……んなっ?!」
その後、突然母上の口から出たとんでもない台詞を聞き流しかけた所で、わたしは思わず言葉尻を強めてしまう。
ちょっと待って。初耳だぞ、おい…??
「だから、お母さんは理解があるつもりだから安心して」
そして、今度はがしっとわたしの両肩を掴んで、そう力説し始める我がお母様。
「いや、そう言われましても…」
「…でも、ちゃんとお母さんにも紹介してね。これからきっと2人の間に色々障害が出てくるでしょうけど、きっと力になれると思うから」
「はぁ、それはどーも…」
更に何やら1人で盛り上がり続ける母上に、もはや反論する気も失せてしまったわたしは投げやりにそう返す。
『適当にやり過ごして、聞かなかった事にしておこう…』
これ以上付き合い続けると、ヤブからどんな危険なヘビが飛び出すか分かったもんじゃないし…。
「それじゃ、頑張ってね」
「うん…」
『って、何を頑張れというんだ…??』
…まぁいいや。多分逆なんだろうけど、無事に柚奈の魔の手から逃れられるように励ましてくれてるのだと勝手に解釈しておいてやろう。
「……」
あれ、ちょっと待てよ。
「ちょっと待ったお母さん。確かお母さんってうちの学園の卒業生だったわよね?」
そこでわたしはある事を思い出して、部屋を出ようとする母上を呼び止める。
「ええ、そうよ。お母さんも高校時代はこの辺りに住んでたからね」
元々転校する時にわたしが今の学園を選んだきっかけは、ここにいる母上が「昔お母さんも通った学園だから」と勧めて来た事だった。突然知らない土地の全然聞いた事も無い学校のパンフレットを並べられて、それらをいちいち吟味して選ぶのが面倒くさかったわたしは、そのままなし崩し的に決めてしまい、今に至ってしまっている訳で。
「という事は、もしかしてその”姫百合色のロマンス”とやらはうちの学園での話って事??」
「そうなるわねぇ♪」
「……」
うわ、マジですかお母様。
「うっふふ〜。その時の写真、見たい?」
そして一方的にそう続けると、お母さんは不気味な位に楽しそうな笑みを浮かべながら、返事も聞かずに出て行ってしまった。
「いや、別に見たくないってば…」
もうそろそろ出かけないとならない時間だし。
「…と言っても無駄か」
しかし、今更呼び止めるのを諦めたわたしは、とりあえず家捜しを始めた母上を放置したままで外出する準備を進めていく事にした。
「あ、美由利ちゃん。はい、これ♪」
やがて出かける準備を終えて玄関に出たところで、わたしは後ろから追いついてきた母上からスタンドに入った1枚の写真を手渡される。
「ん……」
とりあえず受け取って見てみると、そこには対照的なプロポーションをした2人の女生徒が幸せそうに腕を絡めて記念写真を撮っている姿が映っていた。
「ちょうど、美由利ちゃんと同じくらいの年に撮ったものよ」
「…むぅ…」
まぁ仮にも親子ですから、どっちがうちの母上なのかについては分からない事も無いんだけど…。
『あのさ、子供生む時にはちゃんと遺伝させてよね…お母さん』
その写真に写っている我が母上の体形は、どちらかというと柚奈の体形を思わせる、適度な身長に凹凸のがくっきりとした非常に美しいボディラインを形成していた。そしてそれは、20数年間経過した今も変わらず、同じ年代の女性にしてはもの凄く綺麗なプロポーションを保っているワケで。
一方で、母上の隣の女性は、今のわたしを思わせる幼児体形の女の子なのだが。
「お母さん、もしかしてロリ趣味…??」
本来は口に出して言う台詞でもないのだろうが、思わずぽろりと言葉にして漏れてしまう。
「その子ね、小百合(さゆり)ちゃんって言う名前だったけど可愛かったわよぉ。園児服とか買ってきて着せたりすると、ほっぺた膨らませながら真っ赤になって恥ずかしがったりして」
「……」
あのね、ノロケるにしても、もっとマシなエピソードを引っ張り出してくれませんか。
「ちなみにその時の園児服、まだこっそり保存してるわよ。美由利ちゃん着てみる??」
「…ううん、遠慮しとく」
何気なく尋ねているようで、実際は着せたがってウズウズしている母上に、わたしは素っ気無くお断りを入れる。
この様子じゃ、園児帽だけじゃなくて名札やらランドセルやら靴やら、はたまた動物のバックプリント入りの幼児用下着やら、各種完璧に取り揃えてそうだった。
「あとね、学校で色々悪戯したりもしたけど、その度に可愛い反応を見せてくれてもう…」
その当時の事を思い出したのか、恍惚の笑みを浮かべながらぎゅっと抱きしめる仕草を見せる我が母上。
『柚奈か、あんたは…』
その小百合さん自身はどれだけお母さんの事を好きだったのかは知らないけど、さぞ散々付きまとわれて弄りまわされたんだろうなというのは想像に難くは無かった。
「わたしとしては、その小百合さんに何だか同情しちゃうんだけど…」
「え〜?でもラブラブだったんだからいいじゃない?これも立派な愛のか・た・ち」
「…さいです、か」
これを愛と取るのか、詭弁と取るのかは多分他人が判断するべきものじゃないだろうけど…。
『こーいう手合いに付きまとわれるのは、やっぱり疲れるわよねぇ…』
少々鬱陶しいと思っても、相手が自分の事を本当に好きなんだって事が分かってしまうと、あまり邪険に出来ないっていう弱みもあるし。
「そもそも、さゆちゃんって天性の弄られキャラだったしね♪」
「さゆちゃんって…」
柚奈みたいな呼び方をするなぁ。
『…ん?』
みゆちゃん…さゆちゃん…??
「……」
みゆり、さゆり…。
「ねぇ、お母さん。今ふと思ったんだけど…」
そんな時、ふとわたしの頭の中で何かが引っかかったわたしは、恐る恐る質問を切り出してみる。
「なーに?」
「…まさかと思うけど、わたしの名前ってその小百合さんをベースにして付けたんじゃ無いでしょうね?」
「お父さんには内緒ね?」
「こら、そこは『そんな訳無いでしょ』って否定する所でしょーがっっ」
そこでウィンクしながら「内緒」のポーズを取る母上に、わたしは力の限り突っ込まずにはいられなかった。
「はぁ〜っ、思えば美由利ちゃんはさゆちゃんそっくりに育ってくれたわよねぇ」
しかし、母上の方は頭の中が完全に少女時代に戻ってしまったのか、うっとりとした表情のままでわたしに熱い視線を送ってくる。
「別に育ちたくて、こんな体形に育った訳じゃないわよ…」
それより、ちゃんと責任を感じてよお母様…。
いやね、もしかしたらお父さんとかおばあちゃんとか、原因は別の相手にあるのかもしれないけどさ。
「ね、美由利ちゃん。明日の晩は一緒にお風呂に入ろっか?」
「…謹んで遠慮しておきます」
そこで段々と話がヤバイ方向にエスカレートし始めた事を感じたわたしは、話の流れを断ち切ろうときっぱりとお断りを入れた。危険なフラグの匂いは回避するに限る。
「もう、つれないのねぇ…」
「んじゃ、行って来るから…」
バタン
「…やれやれ」
そして後ろ手に玄関のドアを閉めて溜息を1つ。
『まさかうちの母上に、あんな百合姉妹の属性があったとは…』
「……」
まさか、わたしもそういう部分が遺伝してるんじゃないでしょうね??
ピリリリリリ
ふとそんな懸念が頭をよぎった後で、ポケットの中の携帯から着信音が鳴り響く。
「…おっと、茜からか」
そこで慌てて携帯を取り出すと、サブディスプレイに表示された時刻は既に約束の時間を経過していた。
「うわ…随分と長話してたのね…」
「あ、もしもし…ゴメン、今出たとこ〜っっ」
そしてわたしは携帯を片手に、約束の駅へと駆け出していった。
2-3:お嬢様・柚奈
「…えっと…」
その後、茜と合流した後で柚奈に指定された住所に着くと、そこには広大な敷地にどどーんと巨大な建造物が建ち並んでいた。
「ここ、なの…?」
「そうよ?住所合ってるでしょ?」
お土産のケーキを持ちながら、半ば呆然としながら半信半疑で尋ねるわたしに、案内してくれた茜はあっさりと答える。
「まぁ、確かにそうなんだけど…」
というか、住所そのものは間違え様が無い。確実にこの家だけで1区間を占めているし。
「あれ、知らなかったんだ?柚奈がお嬢様って事」
「…いやまぁ、確かにそれっぽい雰囲気は漂わせていたけど」
お嬢様系な奴だとは思っていたが、実は本物のお嬢様だったのか。
「とゆーかさ、昔からこういう温室育ちの箱入り娘は変わり者が多いってイメージがあったんだけど…」
「確信に変わった?」
「…うん」
もっとも、柚奈を”変わり者”の一言で済ませてしまっていいのかは分からないが。
「ちなみにあたしはこういう世間ズレした箱入りお嬢様って、良くも悪くも一度気になった相手にはとことん付きまとうっていうイメージを持ってたんだけど…」
「…そりゃ、さぞ確信に変わったでしょうよ」
わたしの名前が”さくら”で無いのは惜しいが、確かにそのイメージは何となくわたしも持っていた。
…とは言え、まさか他人事では無くなるとは数ヶ月前までは夢にも思わなかったのに。
「まぁまぁ、人生は気楽に行かないと」
肩を落としそうになるわたしに、無責任にばんばんっと背中を叩く茜。
「傍から見てると、楽しいんでしょーね…?」
「うん、楽しいねぇ♪」
「……はぁ」
その後、恨めしげにそう尋ねるわたしに、何の迷いもなくきっぱりと頷く茜を見て、自然と大きな溜息が再び漏れていった。
2-4:桜庭家
「いらっしゃい、みゆちゃん、茜ちゃん♪」
「あ、どーもお邪魔します…」
やがて玄関までやって来たわたし達を出迎える柚奈に、幾分気圧されながら頷く。
『…おみやげ、こんなので良かったのかな…??』
いやまぁ、高級なブランデーとか言われても無理だけど。
「待ってたんだよ〜♪さ、入って入って♪」
その一方で、わたし達を招くのがよっぽど嬉しいのか、柚奈は上機嫌この上ないという満面の笑みを浮かべていた。
『…でも、きっとあの天使の様な顔の裏には、狩人の顔を持ってるんだろうけどね…』
忘れてはいけない。既にここは虎穴の中なのだから。
「こんにちは、桜庭家へようこそおいで下さいました」
続いて、柚奈の隣に控えていたモノトーンカラーのエプロンドレスに身を包んだ綺麗な女性がにっこりと挨拶してしてくる。
『…うお、メイドさんもいるっっ?!』
サラサラと滑らかに棚引くセミロングの髪に端正な目鼻立ちをした、スレンダーでやや長身の体つき。
そして普段はイベント会場とかでしか見る事の出来ないフリフリのエプロンドレスが、当たり前の様にそこに存在していた。
『純然たるメイドさんなんて、日本ではとうの昔に絶滅したと思っていたのに…』
それが、友達の家に当たり前の様に存在しているとは。
…世の中、なかなか油断できないものである。
「あ、芹沢さん、どうもご無沙汰してます」
「いらっしゃいませ、茜さん。半年ぶりくらいですか?」
「あはは、学校だといつも一緒なんですけど、放課後は部活が忙しくて…」
「……」
「そちらの姫宮さんは初めましてですね。私、桜庭家にお仕えしております芹沢(せりざわ)と申します」
その後、芹沢と名乗ったメイドさんは、膝くらいの長さのフレアスカートの端をちょこんと摘んで、優雅な物腰でわたしに一礼してきた。
「あ、ど、どうも初めまして…お世話になります…っっ」
それを見て、わたしも慌てて馬鹿丁寧にお辞儀を返してしまう。
「ふふ…そう恐縮なさらないでください。お嬢様の大切なお客様なのですから」
「そうそう、遠慮なんてしちゃダメだからね?」
「う、うん…ありがと…」
まあ、確かに場違いっぽい所に突然やって来て、恐縮しているのも確かなんだど…。
しかし、それよりも…。
『うわぁ、仕草もメイドさんだ…』
わたしの視線はすっかりと芹沢さんに釘付けになっていた。
足は白のストッキングみたいだけど、多分ガーターベルトとかも着けてるんだろうなぁ…。
「……?」
「…どうしたの、みゆちゃん?」
そこで、わたしの視線に気付いた柚奈が、きょとんとした顔を向けて尋ねてくる。
「ん?ああ、メイドさんなんて珍しいなぁって思って…」
少なくともこの国に本物のメイドさんがいたという事実が、既にわたしにとっては驚異だった。
「みゆちゃん、もしかしてメイドさんが好きなの?」
「好きなのと言われても、返答に困るんだけど…」
別に、わたしはメイドさんフェチの類では無い。
「興味があるなら、いつでもみゆちゃん用のエプロンドレスを用意しておくよ?」
「いや、別にコスプレの趣味は無いってば…」
まあ、フリフリでヒラヒラなのは嫌いじゃないけどさ。
「…何なら、コスプレじゃなくて、本物のメイドさんになってもいいんだよ??」
「んーまぁ…確かに昔ちょっとだけ憧れた時はあったけどね」
どうして話がそういう方向に行くのかとツッコミたい気持ちを抑えながら、わたしはぼんやりと答える。
「んじゃ、良かったらアルバイトでうちのメイドさんになってみる?みゆちゃんなら大歓迎だよ♪」
「う゛…っ、それは…」
「良かったわねぇ、みゆ。どうやら、将来就職先には困らないみたいよん?」
「もちろん、みゆちゃんが私のお嫁さんになるって言うなら、そっちの方がいいけどぉ…」
そして今度は顔を赤らめながら、モジモジと悶えた仕草でそうのたまう柚奈。
「あはは、永久就職先もバッチリね」
「…好き勝手に言ってなさい」
そこでニヤニヤとした目で肩を叩く茜に溜息交じりでそう告げると、わたしはスタスタと肩をいからせながら歩いていった。
「あ、みゆちゃん…」
「ええい、うるさい…っ!!」
…まったく、どいつもこいつも、無理矢理にでも柚奈とくっつけようとして。
「……」
いや、まぁ実際には柚奈が嫌いかと言われれば、そんな事はないんだけど…。
『なーんか、全てが柚奈の思うがままに展開しているみたいでイヤなのよね…』
結局、わたしにとって一番気に入らないのはその部分だった。
またそれが、わたし自身の柚奈に対する意識の強さのバロメーターという事も自覚しているだけに、余計悪循環に陥っているというか。
『やっぱり、他に選択肢が無いからなのかも…』
「…って…」
しかし、その後ふと気付くと、周囲に誰もいなくなっている事に気付く。
「柚奈、茜…??」
そこで周囲を見回すものの、だだっ広い廊下の中心で、しんと沈まりかえる空間が広がっていた。
『…しまった。初めてお邪魔した家なのに、何も考えずに歩き回っちゃった…』
「えっと…」
辺りは水を打った様に静まり返っている。
普段はまるで縁の無い宮殿の様な家だけに、何となくふと異世界にでも迷い込んでしまった様な錯覚すら覚えてしまう。
「……」
柚奈も茜も、わたしを放って部屋に行ってしまったんだろうか…?
「…えっと、もしかしてわたしハメられた…??」
「……」
ああもう、相変わらず小学生みたいな悪戯するんだから…。
「さて、どうしよう…?」
さすがに、片っ端から人様の部屋のドアを空けていくって訳にはいかないし。
「…あの…」
「…うーん…」
あの芹沢さんってメイドさん、何処に行っちゃったのかなぁ…。
と言うか、やっぱり柚奈とグルなんだろうなぁ、やっぱり。
「…すみません…」
何処からか、謝る様な声が聞こえるが、今更何を言われてもなぁ…。
「はぁ、まったく…いきなり出鼻をくじかれたとはこの事…うわっぷ」
むにゅ
「んん…??」
その後、深い溜息と共に仕方が無く引き返そうとした所で、わたしの鼻先に何か柔らかい感触が触れてくる。
あれ、この感触は…??
ふにふにっ
「あ、あの…」
「……」
それは、何となく慣れている様な柔らかい感触に、それでいて全く慣れていない肉感。
「……」
「……ぽっっ」
その後、視線を上方へ向けた先には、1人の美しい女性の顔が頬を赤らめたまま、困った様な表情を浮かべていた。
「わ、わわっっ、ゴメンなさい…っっ!!」
そこでようやく事態に気付いたわたしは、慌てて胸の谷間に埋めていた顔を引き離す。
そう言えば、さっきから後ろの方で呼ばれていたような気がしてたけど…。
「…先ほどからお呼びしてましたのに、全然気づいてもらえなくて困ってました」
「お呼び…?どうして?」
「だって、廊下の真ん中で何やら考え込んでましたから…」
「あ、ご…ゴメンなさい」
どうやら、いつの間にか廊下の往来を塞いでしまっていたらしい。
「でも、余程考え事に夢中になってたんですね…?何かお悩み事でも…?」
「え…?あ、いや…まぁ…」
悩みというか、何というか…。
「……」
「……」
そしてその後、しばらく固まった様にお互いを見つめ合うわたし達。
「あの。それで、どちら様ですか…??」
いやまぁ、後で考えれば間抜けな台詞だったと思うけど、この場に生じていた何とか気まずい沈黙を破るべく、わたしの口からひねり出した言葉はこの辺が限界だった。
「これは失礼。申し遅れましたが、私は桜庭 芽衣子(さくらば めいこ)と申します」
そんなわたしの滑稽な問いかけに、おっとりとした表情を変える事無くそう答えると、両手を揃えて深々と頭を下げる。
「あ、どうもご丁寧に…」
ん、桜庭…??
「って事は、もしかして柚奈の…」
「…ええ、姉になります」
そう言って、まるでひまわりの様に暖かくて優しい笑みをわたしに向けた。
『…うわー、お姉さんの方も凄い美人…』
その、柚奈の姉と名乗った芽衣子さんはやや長身で、柚奈と同じく美しい黒髪がサラサラと棚引き、服の上からでも凹凸のはっきりした美しい曲線美を持っており、柚奈にも決して引けを取らない美人だった。
それは、間違いなく柚奈の肉親というか、どうやら桜庭家は美形でスタイル抜群になる遺伝子が組み込まれているらしい。
『ううっ、神様は不公平だ…』
平均以下なんだろーなという自覚はあるものの、別に今まで自分のスタイルを過剰にコンプレックスとして感じた事は無いけど、それでも柚奈といい茜といい、そして今目の前にいる芽衣子さんといい、こっちに来てからはすっかりと当てられっぱなしだった。
「……」
「……」
「あ、す、すみません。わたし、姫宮美由利って言います…」
その後、じっと何かを訴える様な目で自分の顔を見つめる芽衣子さんの視線に気付き、わたしは慌ててぺこぺこと頭を下げながら名乗る。
「そうですか…あなたが美由利さん…」
「は、はい…どうぞよろしく…」
そしてわたしがようやく挨拶を返すと、芽衣子さんはじいっと、今度は好奇心を込めた目でこちらの顔を見る。
おそらく、柚奈からわたしの事は聞いているんだろう。
「……」
「……」
その後、更にしばらくの間、じっとわたしの顔を一点集中で見つめ続けていく芽衣子さん。
『…え、え…??』
もしかして、わたしの顔に何か付いてる??
「あ、ゴメンなさい。ちょっと見とれていたものですから…」
そこで、自分の顔をチェックし始めたわたしを見て、芽衣子さんはぽっと小さく顔を赤らめながらそう告げてくる。
「はぁ…??」
それは、むしろわたしが言うべき台詞だと思うんだけど。
「それより…今はお1人ですか?」
「あー、いや…どうやら柚奈とはぐれちゃったみたいで…」
まぁ、撒かれてしまったと言うべきなのかもしれないが、元はといえばわたしが勝手に歩き回っただけだから、こっちの表現の方が適切だろう。
「そうですか…なら、この先にある私の部屋でお茶でも飲んでいかれませんか?」
「へ…??」
うわ、今度はお茶にまで誘われてるし。
「…あ、えっと…せっかくですけど、多分柚奈達が待ってると思いますから…」
「……。そうですか。残念です」
そして、わたしの返答にほんの少しだけ残念そうな感情を込めてうつむく芽衣子さん。
「……」
何だか、悪いことしちゃったかな…??
…いや、ぶっちゃけ受けても良かったんだけどね。芽衣子さんの部屋で時間を潰していたら、今度はおそらく柚奈の方がわたしを探し始めるだろうし。
とは言え、流石に初対面の相手に「はい、是非♪」と言える程、面の皮も厚くは無いワケで。
「ちなみに柚奈の部屋は…玄関から別方向です…」
やがて残念そうな顔のまま、芽衣子さんはわたしが通ってきた道の反対側を指しながらそう教えてくれる。
「ありゃ、そうでしたか…」
つまり、スタート地点から根本的にズレてた訳ね。
「そのあと、突き当たりの階段を上がって2番目のドアが目的地です。ぱちぱち」
そう言って、音を立てない程度で手を叩く仕草を見せる。
「……」
う…やっぱり、何処か変わってる人みたいだ。
「どうも、ありがとうございます。とりあえず行ってみますね…」
「それで、今日は…お泊りですか?」
そして、ちらっと大きめのかばんを持った私の手元を見ながらそう尋ねてくる芽衣子さん。
「え、ええ…すみません。お邪魔します」
いや、出来れば長居はしたくは無いんだけど、随分と歓迎してもらっている手前、今更夕方に帰りますとも言えないし。
「……」
「……」
「…それでは、後で時間が出来たらで構いませんので、お話しでもしませんか?」
その後、わたしの台詞を聞いてしばらく考え込むような沈黙があったと思うと、三半規管を擽る様な聞き心地の良い声で、そう続けてくる芽衣子さん。
「え…??」
「出来れば私も、あなたとお友達になりたいです…」
そう言って微妙に口元を緩めた笑みを見せた後、芽衣子さんはそのまま廊下を立ち去っていった。
「……」
「…な、何なんだ…??」
もしかして、わたしって桜庭家の人間を引き寄せるフェロモンでも出してるの…??
いや、それよりも…。
『…何を考えているのか、イマイチ読めない人だなぁ…』
後ろ姿をぼんやりと見つめながら、わたしは心の中でそう呟く。
結局馴れ馴れしいのか、それともおっとりとしてるだけなのか。そして、わたしをからかっているのか、もしくは全部本気なのか。それら全てが結局分からないままだった。
『そういう意味だと、本能の赴くままに行動してる柚奈とは正反対よね…』
…まぁいいか。どうせこれから帰るまで柚奈の相手でそれどころじゃ無さそうだし。
わたしは頭に浮かんだ芽衣子さんのイメージを振り払うと、それ以上は気にしない事にして1人残された廊下を小走りに駆けていった。
2-5:不意打ちっ
「…はぁ…やっとたどり着いた…」
その後、ようやく柚奈の部屋に着くなり、わたしはぜぇぜぇと肩で息をしながらそう呟く。
「あはは、お疲れ様〜♪」
「もう…どうせなら、探しに来てくれてもいいじゃない…」
そして、楽しそうに迎え入れた柚奈達にそう呟きながら、わたしはぐったりと項垂れる。
「いや、あたしはそう思ったんだけど、迷子になってわんわんと泣くみゆも見てみたいって柚奈が言うから」
「わたしゃ幼稚園児か…っっ!!」
「でもでも、茜ちゃんだって同意したじゃない??」
「…あんたら…」
やっぱり、茜の奴はわたしの味方として認識しない方が良さそうだった。
「まぁまぁ。柚奈の家で迷うのは、初めての来訪者にとって、ある意味通過儀礼みたいなものだから」
「茜ちゃんもあの時はお手洗いに行ったまま、当分帰って来なかったんだよね〜?」
「うう…っ、そんな風習なんていらない…」
まったく、広すぎる家というのも考え物ではある。
「……」
「…それにしても…ふえ〜〜っっ、すごい部屋ね…」
ともあれ、これ以上口論する気も失せたわたしは、きょろきょろと初めて見る室内を見回しながら溜息を漏らす。
どーでもいいけど、一体わたしの自室の何倍あるんだろう…???
「そう…?小さい頃からずっとこの部屋にいるから、あまりそういう実感は無いけど」
「だったら、一度わたしの部屋に来てみたら分かるわよ」
所詮、住む世界が違うという事を実感できるから。
「…え、行っていいの??」
すると、何故かそこで驚いた様な顔を見せてそう尋ねてくる柚奈。
「なによ、あらたまって?」
「んじゃ、次はみゆちゃんの家でお泊り会だねっ♪」
「え、えええ…っ?!」
誰もお泊りとまでは言ってないってばっっ。
「それに、前々からぜひ一度みゆちゃんのお母様にもご挨拶したかったし…ああもう、今から何を着ていくか考えないと♪」
「…こらこら、話が妙な方向に行ってるから」
と言うか、あの母上の事だ。絶対「みゆちゃんを私に下さい」とでも口走ろうモノなら、「不束な娘ですが、よろしくお願いします」とでも答えやがるに違いない。
「くっくっくっ…墓穴掘ったわね、みゆ?」
「も、もちろん茜も一緒に来るんでしょ?」
いや、茜が一緒だからって安全って保障は何処にもないけど。
「さぁ。あたしは結構部活で忙しいからねぇ〜?」
そう言って、ニヤリとした笑みを見せる茜。
「……」
このアマ…。
「んじゃ、新たな野望…もとい、楽しみも出来た所で、ちょっと待っててね。お茶淹れてくるから」
その後、柚奈は楽しそうにそう告げると、ドアへと向かっていく。
「…あれ?さっきのメイドさんに頼むんじゃないの?」
「みゆちゃん達の分は、私が淹れたいの♪」
そして私の台詞にそう答えると、柚奈は小さくスキップしながらドアの向こうへと消えていった。
ぱたん
「…んー、ああいう所はいじらしいと思うんだけどね」
少々押し付けがましいのは否めないとしても、それでも柚奈は自分の手で想いを伝え様としてくる。一体、わたしの何処がそんなに気に入っているのかという疑問を差し引いても、柚奈のそういう部分に関しては、とりあえず悪い気はしていないみたいだった。
「そう思わせておいて、実は一服盛るつもりかもしれないわよ?」
「……」
むう、油断も隙も無い…。
「んじゃ、飲む時にわたしのと交換してくれる、茜?」
「でも、盛るつもりなら、多分あたしの分も盛っていると思うけど?」
「……」
…ここらで突然、母上辺りから急用を告げる携帯でも鳴らないかなぁ?
この際、死ななきゃ急患でもいいし。
「あはは。でもまぁ、そこまで心配しなくていいんじゃない?」
「その根拠は?」
「……」
しかし、そこでワザとらしく目を逸らせながら黙り込んでしまう茜。
「…やっぱり根拠は無いのね…」
「んーん。言っていいのかどうか考えただけ」
そこでジト目で見てやるわたしに、茜は思わせぶりな視線を乗せてそう答えた。
「どういう事?」
「…ん〜、どうやらあたしが思ってたより、柚奈の奴は本気みたいだから」
「……??」
と言うか、本気だから困るんじゃないの?
「本気だからこそ、心の底ではみゆに嫌われてしまわないか怯えているのよ。同時に、誰にも渡したくないっていう独占欲と葛藤しながらね」
そして、独り言の様にそう呟くと、茜は後ろからわたしの肩に手を回してくる。
「茜…?」
「…それで、みゆは実際どう思ってるの?柚奈の事」
「わたし…?」
「うん。みゆが」
「……」
どう思ってるって言われてもなぁ…。
「……」
「…お友達」
色々答えられる選択肢はあるのかもしれないけど、とりあえず最も嘘偽りの無い答えを返すとなれば、この言葉になるんだろう。
「それだけ…?」
「…んー、大事なお友達」
「あたしより?」
「えっと…比べられないよ、そんなの」
そもそも、比べる必要があるのかどうかも疑問だし。
「あは、本人目の前にそりゃそーだ」
「……」
「んで、茜は…?」
「んん?」
「茜は、柚奈のコトどう思ってるの…?」
そこで、わたしは逆に茜の方へ水を向けてみる。意地悪な質問に対する仕返しに違いないのだが、同時に前々からちょっと気になっている事でもあった。
「んー、仲のいい親友同士以外の何かに見える?」
「…保険医の先生がね、眠れるお姫様を起こしたのが茜だって言ってたから」
正確には”王子様”なのだろうが、それは茜に違いなかろう。
「眠れるお姫様って、柚奈の事…?」
「うん。なんでそう呼んだのかは、良く分からないけど」
「……。眠れるお姫様…ね。まぁ、確かにそうだったかもね」
そして、そんなわたしの台詞にぼんやりとそう呟く茜。
「やっぱり、心当たりはあるんだ…?」
「ま、色々とね…気になる?」
「別に…ただ、ふと思い出しただけだから」
いやまぁ、正直聞いてみたい事は聞いてみたいんだけど、あまり茜に柚奈の事を気にしてるって思われるのも癪に障るし。
…それに、柚奈にとって触れて欲しい話なのかどうかも分からない事だしね。
「……」
「…柚奈はいい子だよ。ちょっと悪ふざけが好きだけど、とっても一途だし」
「え…?」
それからしばらく沈黙の時間が続いた後で、そっと壊れやすい物に触れるかの様な優しい口調で、そう語る茜。その口元は緩んでいたが、目は真剣そのものだった。
「でも、その一途過ぎるのが欠点といえば欠点なんだけど…」
「茜…?」
「ふふふ。これ以上知りたかったら、今晩ベッドの中で沢山聞けばいいんじゃない?」
「もう…妙な言い方やめてってば…」
とは言え、やっぱり今晩は色んな意味で眠れないんだろーなぁ。
「でも、本当は覚悟とかしちゃってるんでしょ?」
「んなワケないでしょーがっっ」
と言うか、何の覚悟だ、何の…っっ。
「ふふ…」
「むー、結局茜はわたしが柚奈にまとわりつかれているのを見て楽しんでるって訳ね」
「なら、恋敵っていう答えでも期待してた?」
「うー、親友同士で三角関係というのは勘弁して…」
…しかも女の子同士でなんて。
「そうね。柚奈と修羅場を演じるのはイヤだし」
「え゛…?三角関係って、そっちなの??」
「だって、みゆは可愛いから♪」
そう言って、茜はまるで縫いぐるみを抱き締める様に、ぎゅっと後ろから腕を絡ませてくる。
「可愛いって言われてもねぇ…」
女の子として可愛いと言われると嬉しいという感情は情報では知っているものの、正直わたしにとっては皮肉になってしまう事が圧倒的に多い訳で。
…特に柚奈や茜に言われると、どーにも素直に喜べないのが本音だった。
「人って、無いものねだりをするものかな?可愛いと言われても嬉しくないんだ?」
そして、自虐気味にそんな事を呟きながら、どさくさ紛れにペタペタとわたしの体に触ってくる茜。
「…むぅ、どーせ高校生にもなって、胸もなければ毛も生え揃っていないロリみゆですよ、わたしは」
それに対して、わたしも同じように自棄気味に答えてやる。
ちなみにロリみゆというのは、転校前の学校での友人だった絵里子が付けたアダ名だったり。
「ほほう、そうなの…??」
「あ、いや…ただの例えだからっっ」
そこでついうっかりと口を滑らせてしまった台詞の後で、背後から茜の好奇心が具現化した様な、ゾクゾクとする様な寒気を感じたわたしは、慌ててそう取り繕う。
「…ねぇ、みゆ。『親友』としてのお願い、聞いてくれる?」
「ええと…あ〜、これが例のグランドピアノね」
そこで何だか話がヤバい方向に向きかけている事を感じたわたしは、矛先を逸らすべく、出来るだけ自然に茜の手を振り解いて視線の先に映ったグランドピアノの方へと向かっていく。
「ちっ、逃げたか…」
「割と何気なく置いている様に見えても、実際はもの凄いコトなんだよねぇ…」
しかも、グランドピアノを置いても、まだ部屋の1/4も占拠していないってのは大したものである。
「みゆの家には無かったの?」
「うちのは、応接間に普通サイズしか無かったわよ。もっとも、その普通サイズのも引っ越す時に邪魔だからって手離ししちゃったけど」
実際、グランドピアノなんて弾く機会があるのは、年に一回の発表会くらいのものだった。
そもそも、中途半端の手習いでしかやっていないわたしに、グランドピアノなんて宝の持ち腐れではあるんだけどさ。
「あ…鍵が掛かってる」
そして、興味の赴くままに開こうとしたところ、ピアノの鍵盤を覆っている蓋には、しっかりと鍵が掛かっている事に気付く。
「うん。あたしが初めてここに来た時はもうそうなってたから」
「……」
「…うーん。これは、何か訳アリみたいね」
「どうして?」
「だって…ただやめたってだけなら、普通ここまでしないもん」
こうしてワザワザ鍵を掛けて封印している辺りが、わたしの目にはまるで柚奈が自分はピアノをもう弾かないと、過剰なまでに意思表示している様に見えていた。
「そんなもんかな…?」
「ね、柚奈はどうしてピアノをやめちゃったの?」
その意思表示の矛先は…一体何処にあるんだろう?
「…さぁ。その辺はあたしも良く分からない」
「茜が柚奈と友達になった時は、既にやめてたの?」
「多分ね。あたしが初めてこの家にお邪魔した時には、もう封印されてたから」
「ふぅん…」
「気になる?」
「まぁ…柚奈の演奏を聞いてみたいって言ったの、わたしだしね。もしかしたら触れちゃいけないものに触れちゃったのかなって」
楽器の演奏は、結構人の心を映し出す鏡の様な側面を持っているから、もしかしたら見えなくていいものまで見えてしまうんじゃないかと、ふとそんな漠然とした不安感がわたしを襲う。
「だったら、最初から柚奈の方がピアノの話題なんて持ち出さなかったわよ。みゆに聞いて欲しかったから招いたんでしょ?」
「そうかな…?」
「案外、何か再開するきっかけが欲しかったんじゃないの?」
「まぁ、だったらいいけど…」
「…それとも、もしかしたら桜庭家はピアノの演奏を聞きたいというのがプロポーズの言葉とか」
「んな訳あるかいっっ」
いやまぁ、実際そういう笑い話で収まるオチならいいんだけどね。
ドンドン
「開けてぇ〜っっ」
そして茜にツッコミを入れた直後、部屋のドアを叩く音と共に、柚奈の声が廊下の方から届く。
「ああ、はいはい」
それを聞いてドアを明けると同時に、ふわりと薔薇の香りが鼻先をくすぐり、ティーポットとカップが乗せられたお盆を両手に持つ柚奈の姿が現れた。
「えへへ…お待たせ〜♪」
「おっ、ローズマリーね?」
流石はお嬢様。殆どオレンジペコ一辺倒のわたしとはえらい違いである。
「ん…みゆちゃん、ちょっとコレ持っててくれるかな?」
「あ、うん…」
そう言って柚奈が差し出すお盆を、わたしは特に疑いもせずに受け取る。
「あは。ありがと♪そして…」
…しかし、それは即ち隙アリだった。
んちゅっっ
「……っ?!」
次の瞬間、柚奈の柔らかい唇の感触が、わたしの唇越しに伝わってくる。
お盆を渡して両手が塞がった隙を見計らって、柚奈は素早く顔を近づけ、わたしの唇を奪ってしまった。
「んんんーーーっ?!!!」
「んふ…ごちそうさま、みゆちゃん♪」
そして、その場で硬直してしまったわたしに、満足そうな笑みを浮かべる柚奈。
「ゆ、柚奈…あんた…っ!!」
「あはは、いいじゃない。初めてのちゅーは私が貰ったんだし♪」
身体に熱を帯びていくのを感じながら、お盆を持ったままでワナワナと体を震わせるわたしに、ウィンクを向けてそうのたまう。
「ほほう、そうなんだ…?」
更に、それを聞いた茜がニヤニヤとワザとらしい視線を向けてくる。
本当は、とっくの昔に知ってる癖に…っっ。
「ちっ、違う…っっ、いや実際は違わないけど違うの…っっ」
「うふふー、今回のお泊りであと私がみゆちゃんと何回ちゅー出来るか賭けない?」
「いいわねー。何を賭ける??」
「冗談じゃないわよっっ!!」
ああもう、油断も隙もないんだから…っっ。
2-6:旋律と芽衣子さん
「はい、それじゃお茶をどーぞ」
そんなやりとりの後、してやったりと上機嫌な柚奈が、ティー・ポットに入った紅茶をそれぞれのティー・カップに注いで差し出す。
「……」
しかし、わたしはティー・ソーサーを両手で受け取ったまま、じっとカップの中でゆらゆらと揺れる琥珀色の液体を用心深く見据えていた。
「どうしたの…??」
「あー、いや…大した意味は無いんだけど…」
ティー・ポットから入れている以上、この中に入っているのは、柚奈が飲むのと同じものだから安全だとは思うけど、何となく踏ん切りがつきにくかったりして。
「もう、大丈夫だって。さっきのは冗談だから」
それを見て、茜が苦笑を浮かべながらフォローするものの、それでも素直に油断する気にはならなかった。
「何か言ったの、茜ちゃん?」
「いや、茜がこの紅茶の中に、何か怪しい薬でも仕込んでるかもしれないっていうから…」
「あ、茜ちゃんっっ!!」
そのわたしの台詞を聞いて、茜のほうへ怒った様な顔を見せる柚奈。
「あはは、冗談だって…ごめ…」
「もうっ、そんなコト言ったらやりにくくなるじゃないっっ!!」
「……」
「……」
…おいおい、そーじゃないだろ。
「はぁ〜っ、せっかく2杯目のお茶にこっそりと媚薬を仕込んじゃおうかと思ってたのに…」
そして残念そうにブツブツと呟きながら、小さな小瓶をポケットの中へ仕舞っていく。
「…わたし、柚奈のこーいう潔い所は好きだけど、でもやっぱり迷惑娘よね?」
「まぁ、それだけみゆの事を愛するが故なんじゃない?」
「いや、わたしは普通の愛でいい…」
むしろ、少女漫画系のさわやかな純愛希望で。
「それじゃ、普通の愛なら受け入れてくれる?」
すると、今度は素早くわたしの手を取りながら、そう尋ねてくる柚奈。
「あ…いや…それは…」
「くくくっ、また墓穴掘ったわね、みゆ?」
…うっさいわね。
「そ、そもそも普通ってどんなのよ…??」
「ん〜っ、例えばこうやってぎゅっと手を握りながら、相手の目をじっと見据えて…」
『…ううっっ』
ちょっと待てわたしの心臓。そこでドキドキしてるんじゃないっっ。
「そして愛を囁きながら、そっと唇を…」
「こらこら待った待った…っっ。いつの間にか右手がスカートの中に入り込んでるからっっ」
「あやや…つい…」
「愛とは、与えるだけでは無く奪うもの…か。どこかで聞いた事がある言葉ね」
「そんなの知らないわよ…っっ」
とゆーか、こいつにわたしの定義する”普通の”愛を求めるのは無理な話なんだろーなぁ。
「そ…それより、ピアノを聞かせてくれるんでしょ?」
「えー、時間はたっぷりとあるんだし、そんなに慌てなくてもいいじゃない?」
ともあれ、何とか話題を変えて逃れ様とするものの、柚奈の方はあっさりとそう答えて離してくれなかった。
『こいつ…やっぱりピアノはただの口実か…』
…色々考えて損した。やっぱり全然何も考えてないのか、こいつは。
「で、でも…柚奈の演奏を聞いてたら、もしかしたら惚れちゃうかも…」
「それじゃ、弾く♪」
「……」
…なんて単純な奴。
ともあれ、どうやらわたしの台詞を真に受けたらしく、意気揚揚と準備に取りかかっていく柚奈。
「そう言えば、どうして鍵なんてかけてたの?」
その後、特に躊躇いも感じさせずに鍵を戻していく柚奈を見て、何となく尋ねてみる。
「使わないなら、きちんと仕舞っておいた方がいいじゃない?それに、鍵をかけないと埃が入り込んでくるし」
すると、わたしの予想とは裏腹に、まるで何事も無い様なあっさりとした回答が柚奈から返って来た。
「いや、まぁそれはそうだけどさ…」
問題は、その使わない理由なんだってば。
「それで、何かみゆちゃんの方でリクエストはある?」
そこで実際に声にして尋ね様かどうか悩んでいる所へ、柚奈は首をこちらに向けてそう尋ねてくる。
「何でも弾けるの?」
「んー、この中なら大体大丈夫だと思うけど…」
そう言って、ピアノの上に置いてあった譜面集を束にして差し出す柚奈。
「うわ…っ??」
受け取って見てみると、ソナチネやらソナタやらの練習曲から、クラシック系の有名どころが選り取りみどり掴み取り状態で重なり合っていた。
どうやら、有名どころは一通りこなしているみたいだ。
「……。…んじゃ、このソナチネの9番を…」
「はいはい、了解♪」
そしてわたしがリクエストをすると、柚奈はお安い御用とばかりに、アルバムを受け取って譜面台に立て掛けていく。
「割とあっさりと選んでたみたいだけど、お気に入りの曲なの?」
「…んーん。昔習っていた時に、どうしても弾けなかったから」
そこで、隣に座って尋ねてくる茜に、わたしは柚奈の方を向いたままでそう答える。
お気に入りの曲だったのに、どうしても上手く弾けない。当時のわたしにとっては、超えられない壁の様なものだった。
一応、間違えずに弾く事までは行けたものの、それも楽譜に指示された速度の半分以下では、弾けたうちには入らない。
「んじゃ、御清聴お願いしま〜す♪」
しかし、そんなわたしの思考をからかう様に、柚奈の綺麗な指先が白い鍵盤の上を踊り、旋律が絡まりあいながら美しい音色を響かせていく。
「……」
「……」
即興の前奏まで付けて、それは正にわたしが求めていた完璧な音色。
「うわぁ、あっさり弾いてるし…」
これが才能の差という奴なんだろうか…??以前先生に聞かせてもらっていたお手本通り…いや、それ以上かもしれない位に、柚奈は完璧にこのアップテンポで複雑な曲を弾き込んでいた。
「……」
まぁ、だからって今更悔しいとも思わないけど。
…いや、むしろ…。
「んー、こうして見ると、ホントにお嬢様なんだなぁって感じがするよね…?」
「う、うん…」
『…柚奈、ちょっとカッコいいかも…』
普段はあまり見ることの無い柚奈の鍵盤に向かう真剣な横顔が、本来の端正な顔立ちを引き立てて、わたしの視線を釘付けにしていく。
…ヤバい。さっきは冗談で言った台詞が、冗談で無くなってしまいそうだった。
「……」
ガチャ…。
「柚奈…」
しかし、そこで自分の目を覚ます様なタイミングで部屋のドアが静かに開いたかと思うと、見覚えのある1人の女性が入って来た。
『あれ、あの人は…?』
「…お姉ちゃん?どうかしたの?」
それを見て、わたしが声をかけるよりも先に、今まで順調に弾いていた演奏を不意に止めて、振り向く事無くそう尋ねる柚奈。
先ほど故意ではないとは言え、胸に顔を埋めてしまった柚奈の姉、芽衣子さんだった。
いや、それよりも…。
『…柚奈…?』
淡々とした言葉の調子からは柚奈の感情は伝わらなかったが、その態度は明らかにいつものわたしが知っている柚奈とは異なっていた。
「…柚奈の部屋から、ピアノの旋律が聞こえたから…」
「誰が弾いてるのか…気になったんだ?」
おっとりした静かな口調でそう答える芽衣子さんに、柚奈は振り向くこと無くそう続ける。
「…いいえ…弾いてるのは柚奈だって事はすぐに分かった。たとえ同じ曲を演奏したって、人の手で奏でる以上は十人十色だもの」
「それじゃ、気になったのはどういう風の吹き回しか…って所?」
「…それも、部屋を覗いたら、すぐに分かっちゃったけど」
そう言って、わたしの方をちらりと見る芽衣子さん。
「それで、まさか妬いちゃったとでも言う気…?」
「…ううん。嬉しいだけ。柚奈には才能があるから」
「……」
その口調そのものは静かだったものの、柚奈が彼女を拒否している意思表示が存在していた。
『…あの人に聞かせたくは無いんだ…?』
現に芽衣子さんが入って来てから、柚奈の手は鍵盤の上で止まったままだし。
「…それじゃ、頑張ってね」
やがて芽衣子さんの方も、柚奈が一向に演奏を再開しないのを意思表示と受け止めたのか、微笑だけ浮かべると再びドアのノブに手を掛ける。
「…別に頑張るつもりは無いよ。みゆちゃんが聞きたいって言ってくれたから、弾いてるだけだし」
「そう…」
「今の私とって、そのコト以外はどうでもいい事だから」
「……」
そして微かな反発心を含ませて素っ気無くそう告げる柚奈の台詞を受け止めると、芽衣子さんは静かに立ち去っていった。
ぱたん
「芽衣子さん…」
「あれ、芽衣子さんを知ってるのみゆ?」
「知ってるって言うか、さっき廊下で会っただけだけどね」
その後、意外そうな顔で尋ねてくる茜に、肩をすくめながら答えるわたし。
…まぁ、ただ”出逢った”と言うには幾分エキセントリックな感じではあるんだけど、ワザワザ話をややこしくする事もない。
「……」
「それより柚奈、芽衣子さんと何かあったの?」
「ん…まぁ、色々ね。大した事じゃないよ」
ぼんやりと鍵盤の前で背を向けて座ってる柚奈に尋ねると、こちらに顔を向けないままで曖昧な返事が返って来た。
「何か複雑な事情でもあったりとか…?」
「…そうでもないよ。過去の事なんて、適当にひと括りにしておけばいいだけ」
それだけ言うと、柚奈は再び鍵盤の上で指を躍らせる。
その柚奈が弾き始めた曲には覚えがあった。
『カノン…追複曲…か』
その指先に、どんな気持ちを込めて奏でているの、柚奈…?
「……」
「…ね、茜。柚奈と芽衣子さんって仲が悪いの…?」
その後、再び始まった柚奈の演奏を聞きながら、わたしはこっそりと茜に耳打ちして尋ねてみる。
「ん…別にそんな事はないと思うけど…」
「だって…さっきの柚奈の態度…」
確かにその口調は穏やかだったものの、明らかな敵意の様な物を感じていた。
それが学校でも誰に対しても笑みを絶やさない柚奈だから、尚更違和感となって伝わってくる。
「…ね、みゆちゃん?良かったら教えてあげよっか?」
「え、何を?」
そこで不意に飛び込んできた柚奈の言葉に、わたしは一瞬ドキっとしながらそう尋ね返す。
「ピアノの弾き方。興味があるなら、お稽古してあげるよ?」
そんなわたしに、視線を鍵盤から離さないままで、試す様にそう水を向けてくる柚奈。
「…見返りはなしで??」
「そりゃもう。みゆちゃんの為なら、無料で手とり足とり…」
そんな柚奈に対抗してそう返すと、涼しい顔のままでそんな答えが返ってくる。
…しかし、その口調に反して、旋律の調子が明らかに変わってたりして。
「いや、手とりは分かるけど、なんで足までとる必要があんのよ?」
「ん〜、やっぱり演奏する時の姿勢は大切じゃない??」
そして、今度は明るく弾んだ調子になっていく。
「言ってる事は正しい様でも、何か邪念に満ちているような気がするんだけど…??」
そもそも、奴の口元はだらしなく歪んでるし。既に柚奈の頭が煩悩にまみれている所為か、先ほどまでの整然とした美しさは既に消えうせていた。
「き、気のせいだよぉ♪…あ…」
しかし、そこで手を滑らせて音を飛ばす柚奈。
「…どこが気のせいだ」
「こういう時ってのは、心理状態がモロに出てくるわねぇ?」
「はう〜〜っっ」
『でもまぁ…』
それならそれでいいのかもしれない。わたしにとってはその方が柚奈らしいし。
「まぁ、考えとくよ」
ふとそんな考えが頭をよぎった時、軽く緩んだわたしの口から無意識にそんな返事が出ていた。
「本当??だったら、私も沢山練習するからね♪」
そして、柚奈の演奏に喜びの躍動が加わっていく。
どうやら、完全にやる気を取り戻したらしい。
「…いいの、みゆ?」
そんな柚奈を見て、茜が「もう後には引けないわよ」とでも言いたそうな顔でそう告げてくる。
「考えとくって言っただけだし。別に了承した覚えなんてないわよん」
「ふふ、それでも結局は受けるんでしょ…?」
「まぁ、その前に”絶対変なコトしない”っていう誓約書を書いてもらうけどさ」
そんなモノが、実際に有効なのかどうかはさて置いて。
「……。…ねぇ、みゆ」
「なに…?」
「…多分柚奈はあたしじゃなくて、みゆの様な存在が必要なんだと思う」
その後、茜の表情からからかう様な笑みが消えると、楽しそうに鍵盤で美しい音色を奏でていく柚奈の顔を見ながらポツリと独り言の様にそう呟いた。
「…どうして?」
「柚奈は純粋すぎるから。だから、いつも心が剥き出しになってる」
「……」
だから、それを無理なく受けとめてあげられる人間が必要…って事?
「そうかな?わたしより茜の方がずっと柚奈の事を理解してるんじゃない?」
しかし、そこで何だか柚奈を押し付けられている様で癪に障ったわたしは、茜の方を向かないままで素っ気なくそう告げてやる。
「何?やきもち…?」
「…どーせ、今日部活を休んでまで柚奈の誘いに乗ったのも、そうじゃないとわたしが断ると思ったからでしょ?」
そしてわたしの台詞を聞いてニヤリとした笑みを見せる茜を無視して、更にそう続けてやる。
「まぁ、やっぱり”親友”の恋は応援してあげないとね」
「はぁ…わたしの方は、いい迷惑なのに…」
”親友”…ねぇ。
「大丈夫よん。別に必要以上にお節介はしないから♪」
「…ああ、出来ればそー願いたいものね」
茜の定義している”必要”という言葉の加減具合が、わたしの定義と近い事を祈るのみだった。
どうせ、やめろと言っても無理なのは分かってるし。
「まぁまぁ。あたしはただ単に、きっかけを与える手助けをしたいだけだよ」
「きっかけねぇ…」
柚奈は既に、わたしを好きになったきっかけを持っている。それに対して、わたしの方は、そんな柚奈のペースに流され続けているだけで、「別に嫌いじゃない」なんていう、曖昧な感情のままだった。
そんなワケで、確かにわたしにも何らかのきっかけが無い限りは、これ以上柚奈との距離が近づく事もないんだろうけど…。
『……』
それは、果たしてわたしにとって幸福なのか、不幸なのかは未だに判断の難しい所ではあった。
「う〜ん…」
「あはは、何だか考え込んでるみたいね??」
…ホントはそうやってわたしが悩むのを見るのが楽しいだけなんでしょ、茜?
「それより、わたし的には柚奈と茜が”親友”になったきっかけが知りたいわね」
しかし、そんなツッコミを口に出す代わりに、わたしは茜にそう水を向けてみる。
「ん〜?あたしは別にいいんだけど…」
「柚奈の方が嫌がるかもしれない…?」
「…いや、それ以前に…」
「う〜っっ、ちゃんと私の演奏も聞いてよぉ…っっ」
そこで気付くと、いつの間にか泣きそうな顔を浮かべた柚奈が、顔をつき合わせて話し込んでいたわたし達の背後に立っていた。
「…あ、ゴメン…」
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