眠れるお姫様とエトランジェ Phase-6:『落下流水』
6-5:自分の力で。
「はい、では今日の授業はここまで」
「起立、礼〜!」
「…………」
「…ふぁぁぁ〜っっ」
終業のチャイムと共にいつもの授業終了の儀式が終わると、わたしは大きな欠伸と共に両腕を天井へ向けて伸ばす。
まだ2時間目が終わったばかりというのに弛んでると言えばそうなのかもしれないけど、朝の眠気が未だに残って脳味噌がフル活動していないのだから仕方がない。
それに…。
「ん〜、平和だねぇ…」
普段なら、そろそろ「み〜ゆちゃん、あそぼ♪」と騒がしいお姫様が教室に入ってくる頃なのに、ここ数日はそれもぴたりと止んで、比較的静かな日々が続いているのもその要因となっていた。
思えば、去年なんて柚奈のセクハラ攻撃に備えて、授業中、休憩時間を問わず常に緊張感を維持していたし。
「そう言えば、最近柚奈が来ないわね。もしかして体調でも崩してるの?」
「ん〜、しばらく来ないでって言ったから」
やがて、そんな呟きに反応して尋ねてくる茜に、机に伏せた姿勢のままで答えるわたし。
三者面談の後で柚奈を突き放してから、今日で3日目。
それ以来、朝迎えに来なくなったどころか、授業の合間の休憩時間やお昼休み、そして放課後と全く姿を見せなくなってしまった。
(別に、そこまで徹底しなくてもいいんだけどね…)
まぁ、確かにその方がけじめとしてはいいんだけど。
「それは穏やかじゃ無いわね。あ、もしかして…とうとう合意無しで無理矢理襲われちゃった?」
「違うっ!今は大事な時期だから、お互いの為に距離を置く事にしただけよ」
大体、発想が柚奈的というか、不健康すぎるっての。
「それで、柚奈も納得したの?」
「…納得したかどうかは分からないけど、結構キツい言葉ではっきり言っちゃったからね。さしもの柚奈も効いたんじゃない?」
実際、泣きそうな顔を見せてた…というより、走り去ってる後ろ姿の向こうでは、実際に泣いていたのかもしれない。
「…………」
あの時の光景を思い出すと今でもチクリと罪悪感は感じるものの、一応後悔はしていない…つもりだけどね。氷室先生に言われなくとも、何処かで一度1人きりになって、今後の事を考えなきゃならない時期が来ているはずだし。
…まぁ、そう言いながらも、わたし自身の自己分析はそれ程進んでる訳でもなかったりするけど。
「ホントにいいの、それで?」
「茜には関係ないでしょ。これはわたしと柚奈の問題だから」
「…ま、そーなんだけどね」
そこで、しつこく食い下がってくる茜に幾分苛立ったわたしが素っ気なくそう言い放つと、ようやく短い捨て台詞の後で黙り込んでしまった。
(誰が何と言おうと、わたしは柚奈離れしなきゃならないの)
だから茜の相手もここで打ち切って、このまま短いひと眠りでも…。
「え〜っ、もう桜庭さん来ないの?」
…させてもらおうと思った所で、今度は横で聞いてたらしい、近所のクラスメート達がにわかに騒ぎ始めてしまった。
「まぁ、この調子じゃしばらくは来ないと思うけど、何か都合が悪かった?」
「だって、今度来た時に解けない数学の問題を教えて貰おうと思ってたのに…」
「私は結構ファンなんだけどなぁ…同性なのに、思わず見惚れてしまう程の美人だし」
「それにあの人懐っこさは、殺伐とした受験生活には癒し系だよねぇ〜?」
「はいはい、そりゃ残念でしたね…」
その後、口々に柚奈が来ない事を惜しむコメントが寄せられる中で、わたしは1人蚊帳の外と言った感じで肩を竦めてみせる。
(…もしかして、柚奈の奴は騒ぎの元凶として疎まれてたどころか、実は人気者だったって事?)
まぁ、元々茜とお姫様&王子様カップルで人気があったとは聞いてたけど。
「もう、つまんない事で喧嘩しちゃったんなら、ちゃんと仲直りしなさいよ?」
「そうそう。あんなに一途なコなんだから、きっと影で泣いてるわよ?」
「うかうかしてると、後ろの王子様にまた立場を奪い返されたりして」
「…だから、喧嘩した訳じゃ無いんだってば」
まったくどいつもこいつも、さっきから大人しく聞いていれば好き勝手なコト言ってくれちゃって。
…と言うか、何だか柚奈が来なくなって余計に騒がしくなってる気がするのは、全くもって本末転倒過ぎるんですが。
「姫宮さんっ!」
(ああ、また煩いのが来た…)
そして、そうこうしているうちに今度はクラスの外から珍客が現れ、思わず頭を抱えてしまいそうになるわたし。
いつもの柚奈の代わりに8組からワザワザ縦ロールを靡かせてやって来たのは、生徒会長の石蕗さんだった。
「貴女っ、一体桜庭さんに何をしたんですのっ?!数日前からまるで覇気が無いというか、抜け殻の様になってますわよっ?!」
「別に何もしてませんっ!二人の問題なんですから放っておいて下さい!」
しかし、いい加減イライラが鬱積していたわたしは、入ってくるなり怒鳴り込んできた石蕗さんに机を強く叩いて立ち上がりながら、逆に問答無用の剣幕で怒鳴り返してやる。
「……っっ?!し、しかし…」
「わたしにもわたしの考えがあって行動してるんです!それを生徒会長がどう思おうと知った事じゃないですが、いちいち絡んでこないで下さい!はっきり言って鬱陶しいですっ!」
「…そ、それは…失礼しましたわね…でも…」
「そんなに心配なら、石蕗さんが元気付けたらどうですか?大体、あなたは日頃柚奈のライバルを自己主張してる癖に、他力本願過ぎですっ!」
まさかこちらが猛反撃してくるとは予測してなかったのか、カウンターを食らってたじろぐ石蕗さんに更なる追い打ちをかけてやるわたし。
普段はこんな風に激しくやり合う事なんて無いのに、何故か不思議と考えるよりも言葉が先に出てしまうのだから仕方がない。
「わ、分かりました…まぁ、貴女にも思うところがあるのでしょうし…で、ではごきげんよう…」
ともあれ、こちらの勢いに完全に気圧されて石蕗さんは冷や汗混じりに捨て台詞を残すと、そのまま足早に出て行ってしまった。
「…ったく、どいつもこいつも…っ」
「みゆ…あんた凄いわね。いつぞやは、生徒会長に詰め寄られて泣きそうな顔してたのに」
「あはは、ちょうどイライラが爆発しかけてたからね。思わず怒鳴り返しちゃったよ…」
思わず苦笑いというか、ほんっとにタイミングが悪い人だなぁ、あの人は。
…まぁお陰で、ちょっとだけスッキリしたけど。
*
「う〜〜〜ん…」
その夜、わたしは宿題である数学の問題集を目の前に悪戦苦闘していた。
一応、まったく解けないって訳じゃないけど、1問解くのにえらく時間がかかったり、中にはお手上げに近い問題があるのが実にもどかしい。
「う〜〜っ、イライラするなぁ…」
今までは分からない問題があったら柚奈に聞けばいいやと、割と早めに見切りをつけて分かる問題だけ埋めて行ってたものの、これからはそうはいかない。
…とまぁ、一応自覚と心意気は持ち合わせているつもりなものの、先程から30分かけても解けない問題を前に折れてしまいそうにもなっていた。
「ああ、もう10時か…」
そして、壁に掛けられている時計の針を確認して、更に苛立ちを募らせるわたし。
出来ればあと1時間以内に終えて、ゲームする時間を少しでも捻出したいんだけどなぁ…。
ほら、受験生だって息抜きは必要だし、そもそもまだ先は長い訳で。
(…って、誰に言い訳してるんだ、わたしは)
しかし、まだ半分程度しか終わっていない進捗状況を考えると、目標達成はかなり厳しい状況と言えた。
…と言うか、英語や歴史などの文系科目は根気よくやっていればいつかは終わるけど、数学とかはその保証がないだけに余計に焦ってしまう。
「やっぱり、理系科目は頭の回転というか、センスだよねぇ…」
その点、柚奈の奴はすいすいと解いてたけどさ。
(柚奈と言えば、あの子はちゃんと勉強してるのかな…?)
…まぁ、わたしと違って今までの積み重ねがある分、少々サボったってそんなに簡単に成績が落ちたりはしないんだろうけど。
「…………」
そんな中、わたしはふと今日の休憩時間にクラスメートや石蕗さんから聞いた台詞を思い出す。
『そうそう。あんなに一途なコなんだから、きっと影で泣いてるわよ?』
『貴女、一体桜庭さんに何したんですのっ?!数日前からまるで覇気が無いというか、抜け殻の様になってますわよっ?!』
「う〜ん…ちょっと心配と言えば心配なんだけど…」
でもまぁ、一応この程度の事は想定済み…のつもりだし。
少々気落ちしたからって、柚奈もいつまでも沈んでる訳にもいかないはずだしね。適当な所で起きあがってくれるわよ、きっと。
…とりあえず、学校にはちゃんと来てるみたいだしさ。
(だから、わたしも頑張らないとね…)
せっかく心を鬼にして柚奈を遠ざけたんだから、結局何も変わりませんでしたじゃ、お互いに浮かばれ無さ過ぎるというもので。
「さて、余計な事ばかり考えてないで、やりますか…ん?」
…と、気を取り直して宿題を再開しようとした時、充電器の上の携帯から、割と久し振りの着信音が鳴ってくる。
「ありゃ、噂をすれば…」
専用曲を指定しているから間違いない、柚奈からのメールだった。
とりあえず、携帯を手に取って開いてみると…。
『ね、みゆちゃん。分からない問題とか無い?』
「…………」
まったく、この子は…。
自分の事に専念しろって言ってんのに、まだわたしの事ばかり心配して…。
『余計なお世話よ。あんたがいなくても順調だから』
そこで、苛立ち紛れに短くも思いっきり素っ気ない返信を返してやるわたし。
「…………」
「…………」
「…………」
しかし、送った後でちょっと冷たすぎたかなーと、後悔の気持ちも出てくるものの…。
(今更、キャンセルして打ち直すのも考えものだし…まぁ、いいか)
やっぱりこの位にキツく言っておかないと、抑止力にならないだろう。
「…でも考えたら、今までは本当に自分の都合良く柚奈を利用してたのよね、わたし…」
普段ベタベタとくっついてくる柚奈を「ええい、鬱陶しいっ」とか言いながら振り解いてたのに、こういう時だけは遠慮なくお世話になってたんだから。
出逢ってそれ程経っていない時は交換条件を飲んだりもしたけど、それから気付けばすっかりと無償で家庭教師の真似事をさせるのが当たり前になってたし。
まだわたし自身は柚奈を受け入れる覚悟も決まってないのに、都合のいい時だけ…。
(ああ、何だかますますイライラしてきた…)
勿論、その対象は自分自身に、だけど。
「…がんばろ」
わたしは改めて息を吐くと、今日買ってきたゲームの事は一旦忘れて、問題集との悪戦苦闘を再開していった。
このイライラを解消するには、自分の力だけでやり遂げていくしかないだろうから。
6-6:すれ違い。
「ふぁぁぁ、おはよ〜」
「あら、おはよう美由利ちゃん。最近は起こされなくてもちゃんと起きてるみたいね?」
起床後、欠伸を噛み殺しながらキッチンへ入ってきたわたしを、お母さんの皮肉まじりの台詞と、淹れたてのコーヒーの湯気が出迎えてくれた。
「そりゃまぁ、手段を問わずに起こしてくれる誰かさんがいないからね」
「大丈夫よ。イザという時はお母さんが、あらゆる手段で起こしてあげるから」
「ご心配なく。ちゃんと目覚ましだけで起きられるし」
滅相もないというか、いきなりパジャマのズボンを下着ごと引き下ろされて、お尻ペンペンされながら起こされるのはゴメン被りたい所で。
(わたしだって、ちゃんとやれば出来るんだからっ♪)
まぁ、今更自慢げに口に出す台詞じゃないと思うので、モノローグで済ませておくけど。
「…それにしても、何だか最近はすっかり静かになっちゃった感じね」
「ふえ?」
やがて、挨拶代わりの軽口が終わって朝食に取りかかった辺りで、洗い物をしながらお母さんが不意にそんな事を呟く。
「ほら、最近は朝食のキッチンが静まってる事なんて無かったじゃない?」
「ああ、いつも柚奈の奴が騒ぎの種を作ってたからね」
いつもセクハラ混じりのトークで絡んでくるか、もしくはたまに静かになったと思ったら、すぐ間近で笑みを浮かべながら、じ〜〜っとわたしの食事してる姿を凝視してきたりと、結局は毎朝ドタバタとツッコミ続ける羽目になっていた訳で。
「それでも、柚奈ちゃんがいる朝食の食卓に慣れてきていたから、ちょっと寂しいわね?」
「そりゃ、無い物ねだりって奴でしょ?柚奈が毎日来てた頃は、たまには静かな朝を迎えたいって思っていたし」
「あら、お母さんは楽しかったわよ?」
「…ああ、そーでしょうとも」
基本的に、うちの母上も柚奈サイドなんだから。
「でも、実際そろそろ寂しくなる頃じゃない?」
「そろそろって…まだ10日も経ってないわよ。むしろ、ようやく慣れてきた頃だと思うけど」
一体、わたしと柚奈のどっちに向けて言った台詞なのかは知らないけど、むしろ本格的に日常が変わってくるのはこれからである。
「うーん、そうかしら…?」
「それと、わたしに関して言えば、最近は茜の他にもクラスの友達が結構出来てるんだよね。お陰でなかなか新鮮味に溢れた学校生活を送ってるわよ?」
実は、先日怒鳴り込んできた石蕗さんを問答無用で追い払った後から、何故かわたしはクラスで一目置かれる様になってしまっていたりして。
元々カリスマ生徒会長として尊敬されたり、怖がられたりもしていた存在だけに、あの時のわたしの反撃は相当インパクトがあったらしい。
…まぁ、今までは割って入る余地が無いくらいに柚奈の奴がベタベタしていたお陰で、他のクラスメート達と交流する機会が少なかったというのもあるんだけど。
「そう…それは悪い事じゃないわね。だけど…」
「多分、柚奈だって同じ様なもんでしょ?元々才色兼備のお嬢様として本人の知らない所で随分と人気者だったみたいだし、綾香や御影さんとか、前のクラスの知り合いだっているんだしさ。孤立してるって事は無いと思うわよ」
というか、みんなして柚奈の事ばかり心配しすぎ。
「…………」
「どっちみち、卒業後もずっと一緒とは限らないしね。そろそろここらで慣れておかないと…って、もうこんな時間っ!」
そこで、壁の時計を見てそろそろヤバくなってる事に気付いたわたしは、残りの朝食を急いで掻き込んでいく。
「まぁ、あなた達の関係に関しては、お母さんも必要以上に干渉する気はないわ。…だけど、自分の意志の強さに固執するあまりに、足下がお留守にならない様にね?」
「大丈夫だって。…でも、とりあえず『鉄は熱いうちに打て』って言うでしょ?」
せっかく少しはやる気が出てるのに、これを逃せば次の波はいつになるやら。
「そうねぇ…」
「まぁ、見ててよ。せっかく早瀬先生が何とかなりそうな道を探してくれてるんだし。…んじゃ、ごちそうさま。行ってきます」
「はい、いってらっしゃい」
ばたん
「…おっと、ちょっと長話しすぎたわね…駅まで走らないとマズいかな?」
そして家を出た後で、今一度時計を確認して切迫してきた状況を把握すると、わたしは初夏が近い暖かな日差しの通学路を、ひとり小走りに駆けていった。
(なにせ、推薦狙いだからね〜。わたしは普段の生活態度から既に戦いは始まってる訳だし)
成績がそれ程芳しくない分、無遅刻無欠席は貫いておかないと。
「…………」
「…………」
…とまぁ去年と比べればそれなりに窮屈な受験生生活を送っているわたしなものの、次第に柚奈抜きの新しい生活にも慣れてきていた。
*
「あ、おはよ〜美由利」
「はよ〜っ♪今日も爽やかな朝ね?」
やがて、ホームルーム開始10分前に教室へ入ると、早速最近仲良くなったクラスメート達と挨拶を交わすわたし。
結局、今日も少々走ったとはいえ理想的な時間に登校出来たし、実に気分がいい。
「確かに、最近の美由利は晴れやかに登校してくる様になったよね?前はいつも眠そうで仕方がない顔をしてたのに」
「あはは、受験生らしく一応それなりに規則正しい生活をしてるもので。そもそも、朝っぱらから余計な体力を使わなくて良くなったしね」
なにせ、あのお嬢様を毎朝相手していた頃は、教室に入ると同時に力尽きて、ぐったりと無駄な疲労感に見舞われていたし。
(はぁ…普通に起きて普通にご飯食べて、普通にいい時間に家を出て、そして普通に通学路を歩いてくる事が、こんなに清々しいものだったなんて…)
実際、柚奈が毎朝の様に通ってくる様になったのは半年前くらいなのに、何だか遠い昔に忘れてしまた感覚を取り戻したかの様な錯覚を覚えるわたしだった。
「これも、間接的だけど柚奈のお陰っちゃお陰なのかなぁ…なんてね」
ただ、それはそれでマッチポンプ過ぎるけど。
「…………」
そんな中、何故か後ろの席で茜が不機嫌そうな顔を浮かべている事に気付く。
「あれ、どしたの茜?」
「…いや、別に。あんまり気分がすぐれないだけよ」
そこで相手の方へ向き直って尋ねるわたしなものの、茜から返ってきたのは両手で作った枕に顔を埋めながら、放っておいてと言わんばかりのぶっきらぼうな返事だった。
「え、ああ…もしかして、例の日?何だか白薔薇の王子様が女の子の日で苦しんでるってのも、いまいちイメージには合わないけど」
「んで、そう言うみゆは、まだ来てないんだっけ?」
「…んなワケ無いでしょーがっっ」
確かにまぁ、まだ色々未熟な部分はありますがね。
(でも……)
例の日は冗談としても、去年まではわたしと同じく勉強しない事に関しては負けないヴォンクラ学生だった茜も、受験生らしく頑張ってるって事なのかな?
(やっぱり、いつまでも甘え気分のままじゃダメなんだよね…)
しっかりしないと、下手したら次は茜にも置いていかれるかもしれない。
(いや、いくらなんでもそれは無い様な、意外と油断ならない様な…)
「あ、そうそう。ねぇみゆみゆ〜、今日お昼一緒にカフェで食べない?」
「へ……?」
そんな茜の姿を見て勝手な妄想を続けるわたしなものの、最近仲良くなったクラスメートの柚月(ゆづき)の間延びした甘ったるい声で意識が我に返されてしまう。
自分と席が近い事がきっかけで仲良くなった柚月は、天使系の優しい顔立ちに人懐っこくて社交的な性格が人気者のクラス委員で、新たに出来た友人としては申し分ない相手ではあった。
「…別に一緒に食べるのはいいけど、その”みゆみゆ”ってのは何とかならない?」
ただ1つ、勝手に妙なあだ名を付ける癖を除けば、だけどね。
ちなみにストレートロングが似合う大和撫子風の外見や妙な押しの強さなど、柚奈と微妙に似ているタイプなのは多分偶然…だと思う。
「え〜?いいじゃない。みゆみゆって呼びやすいし似合ってるよ?それとも、みゆみゆはみゆみゆ以外に呼んで欲しいあだ名があったりする?みゆみゆ〜?」
「わ、分かったから連呼しないで。聞いてるこっちが恥ずかしいから…」
「よっ、みゆみゆ〜?」
「やかましいっ!…んで、今日はカフェで何かあんの?」
そこで、面白がって後ろから茶々を入れてくる茜を一喝すると、強引に話を本題に戻すわたし。
いい加減、背中から鳥肌も広がってきた事だしね。
「うん。今日は、季節のデザートが団体割引の日なの〜♪良かったら、みゆみゆも加わってくれないかな〜って?」
すると、柚月はよくぞ聞いてくれました、とばかりに満面の笑みを浮かべてそう告げる。
うちの学食…というかカフェテリアは、”学食”の相場を逸脱した高価で豪勢な限定コースがあったり、また常時十種類以上のデザートメニューがあったりと、やたらと好き勝手にやっている事で定評があった(お陰で、放課後はここでデザートを食べて帰るのが、うちの学生の定番の道草コースにもなってたりして)。
そして、この季節のデザートというのは、季節の食材を使った日替わりのオリジナルスイーツで、単品で360円とやや高めなものの、早い時には放課後まで残らず昼休みだけで売り切れてしまう、人気メニューである。
…ちなみに、調理担当者に専門のパティシエがいるからこういうメニューが賄えている、というのはうちの生徒だけが知ってる豆知識って事で。
「ああ、確か4人以上で4割引なんだっけ。んで、メニューはなに?」
「えっと、たっぷりいちごとチョコのメランジェアイスデザート。特製ビスケット付き♪…だったかな」
「ふむ、悪くないわね。うっし、乗りましょう」
多分、売り切れ必至の競争率高めだろうけど、内容的にはレストラン並に本格的なものだし、それだけの価値はあるはず。
「んじゃ、お昼休みになったらすぐに突撃するからね〜?」
「ほいほい、了解であります」
ちょうど慣れない勉強疲れで甘いモノに餓えてたし、ちょっとワクワクしてきたかも。
「…んで、柚奈は誘ってあげないの?」
その後、会話が一段落した所で、後ろからぼそりとそんな事を尋ねてくる茜。
「柚奈か…ん〜〜っ…」
いやまぁ、別に誘ってもいいんだけど…。
「…………」
「…いや、やめとく。今わたしから誘ったりしたら、何だかグダグダになりそうだし」
しかし、少しの思考時間を置いた後でそう答えると、わたしはポケットから取り出してメールを打ちかけた携帯を再び仕舞い込んだ。
一応は柚奈の方から、せめてお昼くらいは一緒にってやってきたなら拒むつもりも無かったけど、あれから一度もやってこないのを見ると、あの子も中途半端なのは望んでないって事だろうしね。
「ああ、そう…」
そして…。
「みゆみゆ〜。ほら、急ぎましょ?」
「あ、ほいほい…でも、やっぱりみゆみゆは脱力するから勘弁して欲しいなぁ…」
やがて4時間目が終了すると同時に約束していた柚月に促され、慌てて席を立つわたし。
普段から学食組みは、やはり教室でお弁当組と比べてフットワークの軽さが段違いだった。
(しかし、昨日のうちに言ってくれれば、わたしも学食にしたのにな…)
まぁ、今月は(も)あまり余裕はないから、やっぱりデザートだけって方がありがたいと言えばありがたいけど。
「おっと、そうだ。せっかくだから茜も一緒に行かない?」
「…あたしは遠慮しておくよ」
その後、机からお弁当だけを取り出して教室を飛び出す前に、同じく弁当を机の上に引っ張り出した茜に誘いをかけるものの、素っ気ない態度であっさりと断られてしまった。
「あ、そう…んじゃ、ちょっと行ってくるね?」
「…………」
茜はああ見えて甘党だから、きっと乗ってくると思ったのに。
(…というか、最近はつき合いが悪いというか、不機嫌そうな顔を見せる事が増えたわね…)
「みゆみゆ〜♪はやく〜っ」
「ああ、はいはいっ」
…まぁ、本当にあの日が続いてカリカリしてるってなら仕方が無いんだけど。
*
「ふぃ〜っ、お腹いっぱい…」
やがて昼食終了後、わたしは用事があるという柚月達と別れ、これでもかって位に空腹と甘味欲が満たされた満足感に浸りながら、ひとり教室へ戻っていた。
(というか、ちょっと食べ過ぎたかも…)
イチゴスペシャルとは聞いてたけど、あの値段であんなに乗せてたら明らかに採算割れっぽいものの、そこは独立採算を必ずしも求められない学園経営の強みって奴なのかもしれない。
(本当に、今年で卒業しちゃうのが勿体無い感じよね…)
前の学校に比べたら、カフェテリア(というか、そんな洒落た名前で呼んでもいなかったし)も広くて綺麗だし、これだけでも来年から利用できなくなるのが寂しくなってしまう。
…というか、お嬢様学校なんだから、エスカレーター式で大学部まであれば良かったのに。
(ま、そこまで世の中甘くは無いか…)
他のエスカレーター式の学校も、わたしみたいなボンクラ生徒を楽させる為にある訳じゃ無いんだろうし。
いずれにしても、今の時期に現実逃避していても仕方が無い。だったら、名残を惜しむ前に少しでも楽しんでおくのが吉ってものだろう。
(そう考えると、やっぱり茜も一緒に来れば良かったのに…って、あれは…)
…と、茜の顔を頭に思い浮かべたちょうどその時、校舎の入り口から柚奈と、わたしの脳内で噂していた件の彼女が並んで入ってくる姿がわたしの目に入った。
(…ありゃ、二人して外出してたの?)
そこで、廊下の柱の影へ潜り込んだ後でよく見てみると、それぞれお弁当箱を手に持っているのが見えたので、もしかしたら一緒にお昼を食べていたのかもしれない。
(ああ、なるほど。茜が心配して様子を見に行ったのね…)
それでわたしの誘いを蹴って、柚奈の元へ行ったって訳か。
だったら、正直助かる話ではあったりして。茜がフォローしてくれているなら、わたしも必要以上に心配しなくて良くなるし。
「…………」
(いやまぁ、それはいいんだけど…)
よく考えたら、どうしてわたしは柚奈達から隠れてしまってるんだろう…?そして、廊下で立ち話を始めた二人に、こそこそと聞き耳を立ててるなんて。
別に、あの二人に対して後ろめたい事なんて無いはずなんだから、堂々と話に加わったっていいはずなのに。
「…ゴメンね、茜ちゃん。気を遣わせちゃって」
「別に気にしなくていいわよ。以前もこうやって二人で中庭に行って食べてたじゃない?」
「思えばあの時も、茜ちゃんのお陰で立ち直れたんだよね…」
「それに、あたしは別に人助けのつもりで誘ったワケじゃ無いしさ。友達でしょ?」
(ありゃ、何だかいい雰囲気…?)
久しく忘れていた、白薔薇の王子様とお姫様のツーショット。相変らず見た目が非常に絵になるだけじゃなくて、会話の節々からも、この二人が強い絆で結ばれているのは充分に伺えた。
(やっぱり、柚奈にはわたしよりも茜の方が似合ってる気もするんだけどね…)
ついでに、これもわたしの中で久しく忘れていた劣等感。いい意味で柚奈と対照的な茜と比べられたら、外見的にも内面でも正直、わたしが勝てる要素なんて殆ど無いし。
最近、すっかりと自虐癖がついてしまったわたしには、正直目の毒だったりして。
(まぁ、でも……)
「うん…ありがとう、茜ちゃん」
「よろしい。ゴメンじゃなくてありがとうなら、あたしも甲斐があるってもんよ」
(とりあえず、柚奈は大丈夫みたいね…)
やっぱり、何処か無理して笑ってるって雰囲気はあるものの、顔がやつれていたりとか明らかな健康面での疲弊は無いみたいなので、ひと安心って所かな。
学校にもちゃんと来てるし、食事も摂ってるなら、とりあえず倒れたりする事は無いでしょ。
…というか、そもそも柚奈が無理してうちに通って倒れないかを心配して突き放したんだから。
「それで…さっきご飯食べてる時は受け付けてくれなかったけど、みゆちゃんはどうしてる?」
「ああ、最近はすっかりと柚奈の事を忘れて能天気に過ごしてるわよ。むしろ、新しい知り合いが出来て浮かれ気味って所かしら」
やがて、遠慮がちにわたしの話題を切り出す柚奈に、肩を竦めながら皮肉たっぷりの口調で答えを返す茜。
(おいおい、何だか酷い言い分ね…)
浮かれてるんじゃなくて、今まで柚奈や茜やその関係者以外とあまり接触してなかった分、もっと他の人とも交流してみようとしているだけだって。
一応、わたしとしては努力の範疇のつもりなんですけどね。そうは見えないかもしれないけど。
「…そっか…」
「それに、柚奈が毎朝押しかけてこないから、余計な体力を使わずに済むとか笑い話にしてたのは、さすがにちょっとムカっと来たけどさ」
「…………」
…なるほど、茜が今朝から不機嫌そうだった理由はそれか。
確かにまぁ、ちょっとデリカシーに欠けたかもしれないけど、事実だから仕方が無いじゃないのよ。
「でも…みゆちゃんが楽しくやってるなら、私はそれでいいよ。3年に上がってから、ちょっとナーバス気味になってて心配してたし」
「本当に、そう思ってる?」
「…そう思う事にするの…でないと、いつ泣き出してしまうか分からないから」
そして茜の念押しに弱々しい声でそう答えると、何かに耐える様に、ぎゅっと自分の手を握りながら俯く柚奈。
(…………)
その姿を見て、柚奈を突き放したあの日と同じく、またわたしの胸にちくりと痛みが走る。
「…柚奈、何ならあたしがガツンと言ってあげようか?あんたのしている事は間違ってるって」
「ううん…みゆちゃんが私の事も含めて、よく考えた事だから。それに…今でもみゆちゃんの側にはいたいけど、やっぱり重荷にはなりたくないし…」
「みゆの奴は、自分の怠け癖を柚奈の所為にしてるだけよ。ついでに、最近ちやほやされる様になって天狗にもなってるし。…本当は、自分だけじゃ何も出来ないくせに」
(悪かったわね、天狗になってて……)
わたしだって、転校する前でも絵里子以外の友達はちゃんといたし、あんた達に助けられないと何も出来ないって、勝手に決め付けないでくれる?
「でも、それでみゆちゃんの気持ちが上向いて頑張れるなら…」
「あたしが言いたいのは、そうじゃないの。今まではっきりしない態度で柚奈の気を引くだけ引いておいて、自分の都合だけで勝手に突き放したりするのが気に入らないのよ」
(ち、ちょっと待ってよ…そこまでタチの悪い女だったっけ、わたし…?)
…というか、心の内ではわたしってこんなに茜から反感を持たれたの?
普段は、端からニヤニヤしながら見てるだけなのに…。
(さすがに、ちょっとショックかも…)
そして、何だか足元がず〜んっと重くなってきた感覚がわたしを襲ってくる。
きっと茜なら、わたしの気持ちも理解して見守ってくれてると思ってたんだけどな…。
「茜ちゃん…」
「あ、ゴメン…勝手な事ばかり言って…。確かに、色々事情はあるのかもしれないけどさ…」
「…心配してくれてありがとう、茜ちゃん。でも、大丈夫だよ…みゆちゃんは私の事が嫌いになって突き放して来た訳じゃ無いって…それだけは信じてるから」
「それはそうだろうけど…でもみゆの一番の問題は意志の弱さと、見ていてイライラする程の鈍感さだからね。自分が柚奈無しでも平気になってくると、柚奈の方も大丈夫だろうと勝手に思い込んでるみたいだし」
(…………)
そんなわたしが実は物陰から聞いてるとはつゆ知らず、茜のわたし批判に熱がこもってくる。
一応、友達を辞めるつもりまでは無いのか、言葉遣いこそは配慮してるものの、それはまるで今まで鬱積させていたモノを一気に吐き出している様な。
「茜ちゃん…みゆちゃんを悪く言わないで。でないと、私が悲しくなっちゃうよ…」
「でも、あたしは納得してない。もし柚奈をもう一度泣かせたりしたら、あたしは…」
「…………」
やがて、それ以上聞くのが辛くなってしまったわたしは、まだ二人の話は途中ながら、先に退散させてもらう事にした。
…あのまま最後まで聞いていたら、茜に怒鳴り込んで行って喧嘩になってしまうか、感情が深遠へ沈んで塞ぎこんでしまう羽目になるかの、どちらかだったろうから。
(大体、茜の奴…なによ、人の気も知らないでわたしだけ悪者にして…)
これでも、柚奈の事もちゃんと考えたからこそなんじゃない。
わたしだって、柚奈が自分の事を本気で好きでいてくれてる事位は分かってるし、だからワザと邪魔者扱いして嫌な役回りだってやりたくは無かったわよ。
(…そりゃまぁ、ちょっとだけ浮かれてたかもしれないし、茜ほど真剣に柚奈の事を気遣ってやってなかったかもしれないけど…)
「…………」
悪かったわね…どうせ、茜の言う通りですよ。
「…………」
「…………」
「…………」
「ありゃ。どしたの、みゆ?今度はそっちが不機嫌ね?」
それからしばらくした後で教室に戻って来た茜が、先に戻って机にうつ伏せたまま憮然としているわたしに声をかけてくる。
その口調はいつもの茜のままで、当たり前だけど先程の会話をわたしが聞いていたというのは知る由も無いといった所か。
「…別に。わたしだってそういう日もあるわよ」
しかし、一方で何も知らない顔して普段通りに会話出来る自信が無かったわたしは、敢えて茜の方を見向きもしないで冷たくあしらうものの…。
ぺろん
「ひゃあっ?!」
それが油断大敵、とばかりに突然スカートを捲られてしまった。
「ななななな、いきなり何すんのよっ?!」
「いや、本当にみゆにも来てるのかなーって…」
すると、反射的に飛び上がりながらスカートの裾を掴む手を振り解くわたしに、茜がぼんやりとした顔でそう告げる。
「そういう意味じゃないわよ、ばかっっ!」
まだ続けますか、そのネタ……っ。
「うーん、やっぱりみゆはそうでなきゃねぇ」
そして、茜の奴は頬を上気させてスカートを押えるわたしの反応を見てニヤニヤとしながら、満足気にそう続けた。
「あ、あんたねぇ…」
ここ最近、柚奈が来なくなって大人しくなってたかと思えば…っ。
「そう言えば、みゆみゆって前のクラスでも弄られ役だったんだっけ〜?」
「うんうん。なかなかいい反応だったわね?」
すると、今度は横で見ていた柚月達がわたしを取り囲みながら、口々に好き勝手な事を呟き始めていく。
「え…あの…その…ちょっと待って…」
こ、このパターンは…。
「そうそう。人が悪戯する気満々なのに、わざわざ寝こけてくれてたりとか、見せて回りたいからってメイド服着て御崎先生の授業に現れたり、この前なんてローレグのパンツ入りのチョコをナース服で取り戻しに来たかと思えば、盛大にずっこけて大サービスしてくれたりと、何かとネタには事欠かなかったわねぇ。しかもその時は、なんとはいて…」
「だ〜〜〜っっ!!」
そしてそこまで言いかけた所で、絶叫しながら茜の口を慌てて塞ぐわたし。
ええい、良くも人の黒歴史をずげずげと…っ。
「みゆみゆ…あなた…」
「いや、だからね…誤解なんだってっっ。大体、メイド服だって綾香に無理矢理やらされたんだし、ナース服だって柚奈の奴が風邪で熱があるのをいい事に…っ」
「聞きしに勝る弄られっぷりねぇ。去年に引き続き、今年も誘い受け大賞ノミネート候補よ?」
「ちょっ、勝手にそんな大賞作ってノミネートさせないでっっ!」
大体、去年にそんなコンテストがあったなんて初耳なんですけど。
「でも…確かにみゆみゆを弄り回していた桜庭さんの気持ちは、何となく理解出来るのよねぇ…」
「うんうん。何かこう、見てたらくすぐってみたくなるというか…?」
「あ、そんな感じ〜♪例えば、ほら…」
「ひゃうっ?!ちょっ、やめてよぉ…っっ」
そして、脇腹や背筋の敏感な部分へ4本の手が伸びると、わたしは飛び跳ねながら逃げ回る。
「はぁ〜っ、なんだろ?この心の底からゾクゾクと湧いてくる感覚は…?」
「これが、噂の弄ってくださいオーラって言うのかな?私、今まではノーマルのつもりだったけど…」
「はぁ、はぁ…っ、あ、あんたらねぇ……っ」
もう、クラスが変わったというのに、どいつもこいつも…っっ。
「…だから、やっぱり去年からのクラスメートのあたしとしては、みゆは常にそうやって弄られていないと落ち着かないのよねぇ」
「そりゃ、あんたの都合でしょうが〜〜っ!」
そう言って、うんうんと腕組みで満足そうに頷く茜に、全力でツッコミを入れるわたしだった。
(まったくもう、茜の奴は…って)
…もしかして、これが茜なりのささやかな復讐なのかしらん?
*
「ふ〜ん…」
次の日の昼休み、わたしは教室でひとり昼食を摂りながら、パンフレットの束を斜め読みのペースでパラパラと眺めていた。
…と言っても、別に夏休みに行く旅行のプランを選んでいる訳じゃなくて、先日の三者面談での約束通り、早瀬先生がわたしに推薦可能な大学(含む短大)のリストとパンフを取り寄せてくれたので、推薦に必要な内申点や扱っている学科等の条件と照らし合わせながら、まずはどんな行き先があるのかを確認しているものの、今までの成績でもどうにかなりそうな所から、ちょっと頑張らないと難しそうな所まで、とりあえずは選ぶ余地が本当にあった事に感動しているわたしだったりして。
(どうやら、まだ完全に手遅れって訳でも無いみたいね…)
一応、遅くとも1学期中には志望校を絞って欲しいとの事なので、今週末から始まる中間試験の成績が出た辺りから、親にも相談しながら本格的に選ぶ事になるだろうけど、これでようやく受験生としての実感が沸いてきた気がする。
「でも、近場は無さそうね…出来れば、家から通える方がありがたいんだけど…」
独り暮らしだと、ちゃんと毎朝自分で起きられるか心配だし、寮も堅苦しくてゲームオタクなわたしには向いてるとは思えないしで。
(…ホントに、つくづくヴォンクラよね、わたしって)
ただまぁ、やっぱり心細いってのが一番の本音だし、誰か親しい友人が一緒に入学してくれるといいんだろうけど…。
「…………」
そこで真っ先に思い浮かんだ顔は、勿論ただ1人。
「…………」
「…………」
(いやでも、やっぱりそういう訳にはいかないわよね…)
氷室先生の心配している通り、学生の本分で言うならば、各々が自分の学力に応じた場所で相応しい教育を受けるべきものだろうし、もしそのバランスが釣り合っていなければ、最悪そこに通った4年間は全く無駄になってしまう可能性だってあるんだから。
勿論、何より一番大切なのは本人のやる気なんだろうけど、ここからは本気で今後の将来に直結してしまうワケで、「今楽しければいいの」で済ませていいものかどうかは別問題である。
(何だか脅迫まがいだったけど、確かに先生の言ってる事は極めて正論なんだよね…)
そして、その為に嫌な役割演じるのも大切な友人の役目、か…。
(…でも今考えたら、その役をわたしに押し付けるのって、自分の担任としての力不足を露呈してる証拠なんじゃ?)
まぁそれだけ、本来柚奈は教師にとって手強い存在って事なのかもね。
なにせ、成績が下手に優秀なだけじゃなくて、うちの学園の出資者の1人でもある(これは最近になって知った事だけど)天下無敵のお嬢様だし。
「おろ、今日はひとりだったの、みゆ?」
「あ?うん…早瀬先生に呼び出されてたんで」
…と、パンフを眺めるのもすっかりと忘れて柚奈の事を考えていた時、いつの間にか教室に戻ってきていた茜に声をかけられ、はっと我に返るわたし。
手には弁当箱を持っている所を見ると、また今日も柚奈と一緒に食べていたのかもしれない。
(…というか、もうわたしを誘いもしないのね、茜…)
でもまぁ、この件に関しては茜に感謝こそすれ、わたしが文句を言う資格は無いんだけど。
「んで、それなに?大学のパンフ?」
「そ。前の三者面談でわたしでも入れそうな所をリストにまとめてくれるって話してたんで」
「なるほど。それでお弁当を食べるのも忘れて夢中になって眺めてたってワケだ?」
「あ、ううん…別にそういう訳じゃないんだけど…」
でも確かに、茜に指摘されて視線を移してみると、まだわたしのお弁当箱の中身は半分程度しか減っていなかった。
(ありゃ、柚奈の事を考えてたら…)
やっぱり、人間って一度にいくつものタスクは同時に実行出来ないものね。
「……?ま、いずれにしても追いかける柚奈も大変だろうから、何処にするのかは早く決めてやんないとね」
「…ううん。志望校を決めても、柚奈には教えないつもり」
そしてその後、当たり前の事を確認する様な口調で言葉を続ける茜に、わたしは弁当箱の蓋を閉めながら、素っ気無く自分の意志を告げた。
「え?なんでよ?!」
「だって、わたしにとっては必死で頑張って入れるか入れないかってレベルでも、柚奈が選ぶべき所とは思えないもん」
すると、途端に顔色を変えて食ってかかってきた茜に、素っ気なくそう返すわたし。
「みゆ、あんた…っ、柚奈の気も知らないでよくもそんなコト…っ!」
それから、激昂しながらブラウス越しにわたしの胸ぐらを掴んだ茜の目は、今までわたしに見せた事の無い怒りの感情で満ちていた。
「…仕方が無いじゃない。可哀想だとは思うけど、もうわたしが柚奈のレベルに追いつくのは無理なんだから…」
「可哀想…?この期に及んで、出てくる言葉はそれなの?!」
「んじゃ、他にどう言えって言うのよ?!」
やがて、とうとう自分自身の苛立ちも最高潮になったわたしは、茜に気圧される事無くそんな台詞と共に睨み返してやる。
大体、自分の思い通りの展開にならないからって八つ当たりしないでよね。わたしが見てない所だと、一方的に悪者にしている癖に。
「…………」
「…………」
「…もういいわ。何だか、あたしも気が抜けちゃった」
それからしばらく無言での睨み合いが続いていたものの、茜は深い溜息と共にようやくわたしを開放すると、すっかりと興が冷めたとばかりに自分の席に座り込んでしまった。
「…………」
(…そりゃさ、わたしだって寂しくないかって言われれば、そんな事も無いんだけど…)
新しい友人が出来た日常の新鮮味とか、自分の力で少しずつでも勉強が進んでる充実感の狭間で、ふとぽっかりと心に穴が空いた様な空白感というか、そういうのは時々感じてはいる。
それは間違いない。
でも、大切な友人の為に嫌な役回りを演じると決めた以上は、最後までやり通す義務だってわたしにはあるから…。
(ゴメンね、茜…わたしの決断を理解してもらえなかったのは残念だけど、それでも柚奈の事を誰より心配してくれてるってのは、ちゃんと分かってる)
だから、わたしは孤立してでも自分の戦いを続けなきゃいけない。
…ただ、出来れば卒業式の日は三人で仲良く迎えたいっていう希望が無い物ねだりになってしまわない事は祈りたいなぁ…とは思うけど。
*
「そう言えば、もうすぐ中間テストだけど、勉強は進んでる?」
「うん、まぁ一応はね」
その日の夕食時、テスト前のお約束の話題を持ち出してくる母上に、短い言葉ながらやや得意げに返すわたし。昨年度までは触れられたくない話題の筆頭だっただけに決まって生返事だったものの、一応今回は自分なりにちゃんと勉強している自負はあるので、曖昧な返事ながらも幾分の自信が込められていた。
「結局、今回は一切柚奈ちゃんに助けてもらわずに、自力で頑張ってるの?」
「当然でしょ。でなきゃ、何の為に突き放したか分からないじゃない?」
茜にあれだけ反発されたりもしてさ。
「…………」
しかし、何を今更とばかりに素っ気無く返したわたしの返答を聞いて、お母さんは何故か複雑な顔を浮かべて黙り込んでしまう。
「なに?」
「正直ね、お母さん的には今の美由利ちゃんのやり方がいいとは思えない部分もあるんだけど」
「そりゃ一体、どういう意味よ…?」
その後、珍しく遠慮がちにそう続けるお母さんを、軽く睨みながら尋ね返すわたし。
「少なくとも、こうして距離を開ける羽目になったのは柚奈ちゃんの所為じゃなくて、美由利ちゃん自身の至らなさが原因という事は、自覚してるのかしら?」
「…どうしてそうなるのよ?!一番の原因は、柚奈のクラスの担任に頼まれたからなのに」
すると、茜にも言われた(というか、盗み聞き)した台詞を繰り返されて頭にきたわたしは、やや感情的に声を荒らげてしまう。
「頼まれた?」
「そ。柚奈の奴は8組に編入されたにも関わらず、毎朝みたいに迎えに来てるから授業中居眠してる事もあるし、休憩時間の合間もうちのクラスを往復して遅刻がちに戻ってくるし、進路指導でもわたし次第だなんて臆面も無く言っちゃうしで、心配かけまくってたのよ。んで、このままだと必ず後で後悔するからって、わたしに泣きついて来たの!」
「やれやれ、情けないわね…ちょっと甘やかしすぎたのかしら?」
しかし、それを聞いたお母さんは一度大きく溜息をついてみせたかと思うと…。
「何だかんだ言っても、ワガママお嬢様だからね、あの子は…」
「…あなたの事よ、美由利ちゃん?」
今度は、わたしに咎めるような厳しい視線を向けて、きっぱりとそう告げた。
「わ、わたし…?」
「結局、柚奈ちゃんから受け取るだけ受け取って、自分からは何もしてあげられていないじゃない?」
「い、いや…だから、一応してあげてるつもりなんだけど…」
ううっ、人が一番気にしている事を…っ。
「…まぁいいわ。まだ猶予はあるし、手遅れにならない様にしっかりやんなさい」
「もう、余計なお世話。わたしだって、自分なりにちゃんと二人分の事を考えてやってるんだから、放っておいて」
いつもはここで素直に「はぁ〜い」とでも頷いて済ませるのに、今回はお母さんの言葉が何だか妙に気に障って反発してしまうわたしだった。
「そう願いたいわね…親子で同じ過ちの繰り返しってのは、さすがに凹んでしまうから」
「同じ?過ち…??」
「…………」
そこでお母さんの口から気になる言葉が出てきたので思わず食いつくものの、結局その後は黙り込まれてしまって答えは得られなかった。
「まぁとにかく、わたしは後で後悔したくないだけだから」
「…そうね。その気持ちだけは忘れないでちょうだい」
「ん…ごちそうさま。さて、もうひと頑張りするかな…」
ともあれ、何だか食卓が重苦しい空気になった事に耐えられなくなったわたしは、夕食もそこそこに切り上げて自分の部屋へと戻っていく。
(どうしてだろ…あるべき方向へ進んでるつもりなのに、どんどん周りの空気が悪くなってる様な…)
茜もお母さんも…一体、わたしにどうしろって言いたいんだろう…?
6-7:お嬢様の甲斐性。
それから、10日後…。
「ん〜、もうちょっと伸びたと思うんだけどなぁ…」
中間試験の成績が発表されたお昼休み、成績順位が並べられた張り紙を前に、わたしは腕組みのまま首を捻りながら自分のポジションを見据えていた。
結果から言えば336人中、164位。2年次の3学期に受けた中間試験より総合点で50点近く上がったのに、ランキングで言えば思ったより伸びてない。去年までだったら、少なくとも140位以内に入ってる点数ではあるハズなんだけど…。
(やっぱり3年生らしく、みんな勉強してるわねぇ…)
平均点が60点弱で、ギリギリで中間点を超えた程度の位置付けとは。
ちなみに、担任の先生にもらったリストに書いてあった条件の目安によると、総合順位面での当面の目標値は130番台。今後はもっと厳しくなりそうなのに、ホントに今のペースで巻き返しできるのかしら?
「…姫宮さん、なかなか頑張ったわね」
そんな中、不意に背後からやってきた誰かがわたしの肩をぽんっと叩いたかと思うと、聞き覚えのある優しい口調でお褒めの言葉が続いてきた。
「あ、早瀬先生…でも、もうちょっと位は上かなーと思ってたんですけど…」
しかし、わたしとしては素直に喜ぶ気にはなれず、せっかくわざわざ自分を捜して褒めてくれた担任の先生の前で肩を竦めてみせる。
「いいえ、この時期にこれだけ上げられれば大したものよ。この調子で頑張りなさい」
「どうもです…でもやっぱり、3年になると急激に成績アップって訳にはなかなかいきませんね?」
個人的な願望としては、もう10位ぐらいは一気にジャンプしたかった所だったんだけど。
「…ん〜、内訳見たけど姫宮さんは科目によって随分とバラ付きがあるみたいね。今回、国語や日本史は頑張っていた反面で、数学などの理系科目は下がって平均点以下だし。逆に言えば、今後はそこが伸び代になると思うけど?」
すると、わたしのぼやきに、クラスの成績一覧表らしきメモを見ながら指摘してくる早瀬先生。
「まぁ、それは自覚してるんですけどねー…」
確かに、単純に今までより勉強時間を増やした分、暗記科目は順当に伸びをみせていた。お陰で日本史なんて初めて80点を超えられたし。
…ただ、それでも数学と化学がどちらも40点半ばと低迷してしまったのが伸び悩んだ原因なのは指摘されるまでも無く明らかだった。
「でも、理系科目が落ちたのはどうして?ちゃんと勉強はしてたんでしょ?」
「いやまぁ、元々苦手ってのはあったんですけど…」
原因は分かってる。だって、今まで柚奈に一番頼ってた科目だから。
こればっかりは、時間をかけた分だけ比例してって訳にはいかないのよね…、
「…やっぱり、桜庭さんに教えてもらわないと厳しい?」
「ど、どうしていきなりそんな事…?」
そして、そんな事を考えていた所で早瀬先生に核心を不意打ちされ、思わず動揺して声が上ずってしまうわたし。
「今、桜庭さんと離れて自分だけで頑張ってるんでしょ?そう考えると、今回は順当な結果なのかしらね?」
「えっと…もしかして、知ってたんですか?」
「そりゃ、毎日通い詰めてた人がある日突然来なくなれば、嫌でも気付くわよ」
「…あ、あはは…そう言えばそうですね…」
確かに、柚奈の奴は良くも悪くも目立ってたしなぁ。
「それで、どうするの?これからもずっとこのまま?」
「まぁ、一応そのつもりですけど…」
もしかして、今度は早瀬先生にまで何か言われるの…?
「そう…まぁ、あなた達の問題だから先生からは何も言う事は無いけど…」
「…………」
しかしわたしの予想とは裏腹に、歯切れの悪い言葉を途中まで続けた後で、そのまま沈黙してしまう早瀬先生。
「…あの、別に言いたい事があれば、はっきり言ってもらって構わないですよ…?」
わたしにしてみればそうやって思わせぶりなままってのは、余計に気になるし。
「ううん…ちょっとあなたのお母さん、春奈様の事を思い出してね」
すると、早瀬先生は顔を上げて成績表の方へ視線を向けると、懐かしそうに語り始めた。
「お母さん?…そう言えば、うちのお母さんって、やっぱり成績優秀だったんですか?」
「そうねぇ…パートナーの小百合さんも負けず劣らずの優等生だったし、そんなに毎回トップを取ってたって訳じゃなかったけど、必ず上位に食い込んでいたのは確かだったわね。…ただ、春菜様自身が何より重要視されていたのは、自分の順位なんかじゃなかった所が素敵なんだけど」
「と、言いますと…?」
「あのね、春菜様は自分の順位が上であれ下であれ、愛する小百合さんと名前が並んでいないと露骨に不機嫌だったのよ。いつだったか、春奈様がトップで小百合さんが3位だった時、2位の人に『あなた、私達の邪魔をする気?!』と食ってかかったかと思えば、『何なら、私の点を分けてあげるから、代わってくれない?』とか真面目な顔で言い出したりと…本当に小百合さんへの愛に生きてるって感じで、とっても素敵だったわ」
そして目を輝かせながら、うっとりした表情でそう語る早瀬先生の目は、自分の御歳も忘れて夢見る乙女そのものだった。
「は、はぁ……」
何だか言ってる事もやってる事もふざけんなって位に無茶苦茶なんだけど…。
(…でも、確かに赤薔薇と呼ばれて伝説になるだけあって、お母さんカッコいいな…)
わたしにも、その位の甲斐性があればね。
今の自分じゃ、どう逆立ちしたって柚奈の背中すら見えないし。
「……って、あれ?」
と、そこで柚奈の名前を確認しようと上位者リストの方へ視線を移した直後、わたしはある違和感に気付いた。
成績表の一番右端に大きく記されたいつもの上位グループの中に、何故か柚奈の名前が無い。
(おりょ?もしかして、今回調子が悪かった…?)
しかし、そこから少しずつ順位を下げてみるものの、なかなか柚奈の名前は出てこない。
「……????」
おかしいな。もしかして、何かのミスで名前が載ってないとか?
まさか、試験をサボったって訳でもあるまいに。
「…………」
「…………」
「…あ、あった…って、え…っ?」
やがて、もうしばらく遡ってようやく目的の名前を見つけた時、わたしは思わず自分の目を疑ってしまった。
「ご、56位…?」
それでも、勿論わたしよりは比べ物にならない位に上だけど、これまでの自分の記憶の中では考えられない数字。
…というか、8組としては落第点である。
「あらあら…桜庭さん、どうしたのかしら…?」
そして、目を見開くわたしの隣で見ていた早瀬先生も、動揺を隠しきれない様子で呟く。
「ちょっ…どうい……」
「姫宮さんっ!これは一体どういう事ですのっ?!桜庭さんが…」
しかし、そこでわたしが呟き終わる前に、突然出てきた自称ライバルの石蕗さんが残りの台詞を勝手に補足して怒鳴り込んでくるものの…。
「わたしは知りませんっ!といか、こっちが聞きたいくらいですっ!」
「…………っっ」
この前と同じく問答無用で怒鳴り返してやると、生徒会長はまるで殴られでもしたかの様にびくっと身体を揺らせて、そのまま捨て台詞を吐く間も無く立ち去ってしまった。
(もしかして、実は打たれ弱いのかな…?)
普段は押して押しての繰り返しだから、反撃を食らうのには慣れてないのかもしれない。
(もしくは、ドSに見せかけて、実は本性はヘタレのドMとか…)
…って、まぁ石蕗さんの事はどうでもいいとして。
(でも、本当に一体どうしちゃったのよ、柚奈…?)
その後、再び静かになった所で、わたしは今一度ぼんやりと成績表に視線を向ける。
「…………」
まったく、今更心配の種を増やさないでよね、頼むから。
その夜…。
「…やっぱり、知らん顔は出来ないよね」
帰宅後、夕食を終えた後で部屋に戻ってからも柚奈の事が気がかりで勉強も手につかなくなってきたわたしは、思いきって1ヶ月ぶりにメールを入れてみる事にした。
「えっと…『成績表見たけど、一体、どうしちゃったのよ、柚奈…?調子でも悪かったの』…と」
…よし、送信。
「さて、後は宿題でも片付けてますか…」
ついでに、丁度いいから数学の宿題でも久々に手伝ってもらおうかな?
(…いやいや、ここで緩みが出たら今までが台無しだし…でも、この1問に詰まってずっと進まないままってのも効率が悪いし…いやいや…)
「…………」
まぁ、その辺は柚奈からの返信が来てから考えますか。
…葛藤を永久ループさせるのが、一番効率が悪いし。
「…………」
「…………」
「…………」
しかし、それから20分経っても携帯から着信音が鳴る事は無かった。
(あれ、おかしいな…?)
今までだったら、わたしがメールを出したら間違いなく10分以内には来てたんだけど。
(まぁ、もしかしたらお風呂に入ってるのかもしれないし…)
そんなに慌てる用事でも無いから、別にのんびり待てばいいしね。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
しかし、それから1時間が経過しても柚奈からの返事は無し。
(もしかして、着信してる事に気付いてないのかしら?)
席を外した時に着信音が鳴って、そのままになってるとか。
ここ最近送ってない事を考えれば、柚奈もあんまり携帯の方には意識していないのかもしれない。
「…ったく、世話が焼けるわねぇ…」
そこでわたしは再び携帯を手に取ると、2通目を打ち始める。
『おーい、柚奈。起きてる〜?メール送ってるんだからチェックしなさいよね』
送信。
「……うむ」
何度も同じ用件を書くのは無駄にダルいので、この辺りで。
(…ったく、いいからさっさと気付きなさいよね)
何だかんだで、携帯が気になって集中できないんだから。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「……ええい……」
しかし、それからまた1時間が経過しても、携帯からの反応はゼロ。
(おかしいな…)
一応、ちゃんと送信完了はしてるし、不通報告が戻ってきてる訳じゃ無いから、別にエラーで送れていないという訳でも無いし。
「…………」
「…………」
(ああもう、一体どうしたってのよ?)
そこで更にイライラが募ったわたしは、三度携帯を手に取る。
『こら柚奈っ、まさか無視してんじゃないでしょうね?!』
「…………」
いや、これはちょっとストレート過ぎか。
取り消し。
(ええと…)
『柚奈、体調崩したりしてない?それと、やっぱり3年になってみんなしっかり勉強してるみたいだから、いくらあんたでも油断しちゃダメよ?』
…うん、まぁやっぱりこの位で。
送信。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
しかし、やっぱり待てど暮らせど柚奈から返信は返って来なかった。
(あ〜もう…)
これじゃ、せっかくやる気になってる勉強も手につかないじゃないのよ。中間テストが終わって問題点も出てきた所で、苦手科目とか克服しておきたいんだけどなぁ…。
「…………」
『…やっぱり、桜庭さんに教えてもらわないと厳しい?』
まぁ確かに、厳しいっちゃ厳しいですけどね。離れて1か月経つというのに、何だかんだですぐ柚奈の事で頭が一杯になってしまってるし。
「……柚奈……」
あ、ダメだって…。
「ちょっと早いけど、今日はもう勉強は切り上げて、ゲームでもして寝ちゃおうかな…」
そこで自分にとって一番怖れていた感情が芽生えそうになってしまったわたしは、いちいち言葉にする事も無い台詞を呟きながら腰を上げた。
(まぁ、返事は明日の朝でもいいか…)
そして、次の日…。
「ねぇ茜、一体柚奈はどうしちゃったの?」
わたしは登校するや否や、既に自分の席に座っていた茜に向かって単刀直入に話を切り出した。
朝起きても返信は届いてなかったし、それから出かけるまで短い感覚で送り続けたけど応答無し。
柚奈に直接連絡がつかないなら、後の心当たりは茜だけである。
「さぁ…いきなりそんなコト言われても…」
しかし、やや焦り気味で尋ねるわたしに茜から戻ってきたのは、あまりに素っ気無い返答。
「さぁねって…昨日張り出された成績表、茜も見たでしょ?明らかに様子がおかしいわよ」
「そう思うなら、自分で確認してみればいいのに」
「一応昨晩からずっとメールしてるわよ。でも、一向に返事が無いの」
というか、ここまで来たらもう意図的に無視されているのは明らかだし。
「…んじゃ、ようやく柚奈も吹っ切れてみゆ離れしたんじゃない?」
「ま、まぁ別に、それならそれで仕方が無いんだけど、それで成績があんなに落ちてたんじゃ意味無いじゃないのよ」
ホントに一体、わたしの苦労は何なんだかと愚痴りたくもなる。
「…みゆ、あんた本気で気付いて無いの?」
すると、それから少しだけの間をおいた後で、ようやく茜がわたしの目をマトモに見据えながらそう尋ねてきた。
「なにがよ?」
「…………」
「…やっぱり、間違いだったかなぁ…」
そしてそう呟くと、今度は呆れと憂いの混ざった様な顔を見せる茜。
「間違いって何よ?」
「…ともかく、このままだと柚奈は期末でも更に成績落ちるわよ?多分2学期に入ってもね」
「いや、いくらなんでもそれは…」
仮に全く勉強しなくなったとしても、今までの土台があるんだから、そこまでズルズル行くとは思えないんだけど。
「ない、と言い切れる?」
「…茜こそ、どうしてそう言い切れるのよ?」
「少なくとも、あたしはみゆ程ニブくはないし」
「ああそう、ニブくて悪かったわね…」
その台詞も、いい加減聞き飽きた。
わたしは露骨に不機嫌な顔を見せて吐き捨てると、そこで会話を打ち切って茜から背を向けた。
(まったく、どいつもこいつも訳知り顔でニブいニブいと…)
うう〜っ、なんかイライラしてきた。こうなったら、今日はサボっちゃおうかなぁ…。
そこで、何だか無遅刻無欠席とか、今学期に入って無事進学する為に守ってきたものを全部壊してしまいたくなる様な衝動に駆られてしまうものの…。
「はい、それじゃみんな席について。HR始めるわよ」
しかし、それも絶妙のタイミングで担任の早瀬先生が入って来てバッドルートへの選択肢は潰されてしまい、同時に充満していたイライラも中和させられてしまった。
(まぁ、これも一種のナイスタイミングよね…)
とりあえず、心の中で拍手でも送っておこう。
HRが終わったらすぐに1時間が始まるし、これで当分は余計な事考えてる暇もない。
「ああ、姫宮さん。氷室先生から伝言を言付かってますよ?何でも、お話があるとかで」
…と、気分を入れ替えようと意気込むわたしだったものの、教室に入ってきた早瀬先生は何故か教壇へ立つ前にこちらまでやってきたかと思うと、プライベートな事でも話すかの様に小声でそう告げた。
「へ、氷室先生が…?」
そして当然の如く、寝耳に水とばかりに目をぱちくりとさせてしまうわたしだった。
6-8:焦燥の王子とエトランジェ。
「…待ってたわ。良く来てくれたわね、姫宮さん」
やがてお昼休み、わたしは早瀬先生の伝言通りに指定された場所へと赴くと、既に呼び出し主がいつもの冷たい視線を眼鏡越しにこちらへ向けながら待ちかまえていた。
「いえ…それより、お話なら手短にお願いしますね?」
奇しくも、というか敢えて選んだのだろうか。進路指導室に近い、氷室先生に呼び出されたこの廊下は、一ヶ月前の三者面談の後にわたしが呼び止められた、いわば発端となった場所だった。
あの時、三者面談で自分への無力感に苛まれていたわたしは、柚奈の将来の為に身を引けという氷室先生の言葉を受け入れ、そして柚奈を泣かせてまで突き放して…。
(…そして、結局どうだったって言うんだろう…?)
確かに、わたし自身はあれから少しは頑張らなければいけないって自覚は芽生えたつもりだし、一応成績も上がった。
だけど、柚奈の方は…。
「話の内容は大体察しはつくでしょう?桜庭さんの事よ」
「…先生に言われた通り、わたしはあれから柚奈と一度も会ってませんよ。まぁ、今はこちらから連絡を取りたくても取れなくなってるみたいですけど」
「では、どうしてこんな事になったのかしら?確かに最近の桜庭さんは元気は無かったものの、授業態度に顕著な変化は見られなかったし、家庭学習もしっかりとしていたみたいだから、心配はしていなかったのに…」
「知りませんよ。先生の見込み違いじゃないんですか?」
わたしはわたしで、自分なりに最良と思った行動をとったまでだし。
「正直に言ってちょうだい。姫宮さんに本当に思い当たる事は無いの?桜庭さんに余計な事を言ったりしたりはしていないのね?」
「…………」
(あくまで、わたしの所為にしたいのね…)
冷たく鋭い視線で威圧的な態度を誇示しても、所詮は無能教師か。
まぁ、桜庭家はこの学園の主要な出資者の一人らしいし、結局は担任として柚奈が心配というより、小百合さんの怒りを買うのを何より怖れてるってだけなのかもしれないけど。
「…しつこいです。知らないったら知りません」
わたしは心の中で小さく溜息を付いた後で素っ気無くそう告げると、氷室先生から背を向けた。
既に、わたしの中でメッキが剥がれた先生からは、以前の様な畏怖に近いプレッシャーは感じられないし。
「ま、待ちなさいっ、話は…」
「そんなに話がしたければ、柚奈と直接好きなだけ話し合えばいいじゃないですか。それとも、自分がした事を正直に話した上であの子と向き合うのが怖いから、わたしに八つ当たりしてるんですか?」
「な、なんですって?!」
「…………」
あれ、今自分で言って自分にぐさっと来た様な…。
「ともかく、わたしは指示通りに行動しましたから、その結果の責任は先生が負ってくださいね?正直ここから先は…わたし自身がどうしていいか分かりませんし」
「姫宮さん…」
「…失礼します」
もうこれ以上、この人と話していられない。
わたしは強引に会話を締めくくる様に挨拶すると、そのままわき目もふらずに立ち去って行った。
*
「ここから先は、わたし自身がどうしていいか分かりません…か…」
やがて氷室先生と別れた後で、わたしは先ほど自分自身で言い放った言葉をぼんやりと復唱しながら反芻していた。
(確かに、そうなんだよね…)
自分だけの話なら、別にこのままでも構わないのかもしれないけど、柚奈にとってはどうなのか、これで全く分からなくなってしまった。
さっきの氷室先生の話だと、別に全く勉強していないって訳でもなさそうだけど…。
「やっぱり…ここらでもう一度、きちんと話をしておくべきなのかなぁ…」
でも、何だか今更顔を合わせるのも気まずいというか、イマイチ気が進まないわたしだった。
そもそも、昨晩は定期的にメールしてたのに、一向に返事が返ってないし。
(やっぱり、嫌われちゃった?…いやいや…)
自惚れかもしれないけど、その程度で心が離れてしまうなら誰も苦労はしないと言うか、成績が落ちた理由とは直結しにくいんだよね。
(…だけどなぁ…って、あれは…柚奈?)
そんな時、ふと廊下から見下ろした先に見える中庭の片隅で、柚奈と茜が一緒にいる姿を発見して、心臓が一瞬ドキっとしてしまう。
ここからでは、何を話しているのかは勿論分からないんだけど、何だか茜が柚奈の手を取りながら、熱心に何か話し込んでいる様だった。
そして、柚奈の方も手を取る茜に拒否反応を示す事も無く、遠くから見ると何だかイイ雰囲気にすら見えていたりして…。
(…このまま放って置いても、茜がなんとかしてくれる…かな?)
元々友達のキャリアとしては、茜はわたしよりも一年長いんだし、本来は自分よりも遙かに柚奈の事を良く知っているはずだし。
これ以上、わたしが自分の浅知恵で余計な事を考えるより、茜に任せてしまうのが今となっては一番の道なのかも…。
「…………」
「…………」
でも…本当にそれでいいのかな?
結局、氷室先生と同じく、他人に押し付けて逃げてるだけなんだよね…。
しかも、大事な友達…いや、もしかしたらそれ以上の存在かもしれない相手に。
(…そう言えば、最近は柚奈の温もりもすっかりとご無沙汰になってるんだよね)
視線の先だと、相変わらず茜は親しそうに柚奈の肩を抱いたり手を握ったりしてるけど、わたしが最後に握ったのはいつだったっけ?
ほんのちょっと前までは、柚奈の奴はわたしが望まなくても勝手にベタベタと張り付いてきてたのに、何だか今はすっかりと距離が遠く感じたりして…。
「…………」
何だろ、今ちょっとだけあの二人を見てイラっとしてしまったわたしがいる…。
(もしかして、わたし…)
「…おや。何やらお困りみたいですね、姫宮さん」
「え…?あ…っ、み、御影さん…おひさしぶりっ」
しかし、そこで背後から聞き覚えのある声の不意打ちを受けて、わたしは慌てて振り返った。
その視線の先にいたのは…去年までのクラスメートである、御影さん。
近所にある御影神社の巫女兼、跡取り娘で、ストレートロングの黒髪が似合う大和撫子系としては柚奈にも負けない美貌の持ち主に加えて、百発百中とも言われている的中率の占いスキルを持つ、正に神秘的という言葉がぴったりの女性である。
…ああ、ついでに今年度から柚奈と共に8組に編入されてるという事で、頭の方も申し分無さそうだけど。
「お久しぶりです、姫宮さん。年度が変わってからお見かけする機会が減って、寂しい限りです…」
「あはは…やっぱり去年と違って、8組は静か?」
確か、柚奈からも寂しがってると伝え聞きはしてたけど、本人からも直接言って貰えるとは思わなかったりして、思わず苦笑いを浮かべるわたし。
「いえ、8組にもやたらと騒がしい人はいますけど、姫宮さんの様に見ているだけで楽しいとは感じられませんので」
「そ、それはどうも…です…」
(それって、もしかして石蕗さんの事かな…?)
あの人って、空気をあんまり読めない人っぽいし。
「…とまぁ、それは置いておくとして…あのお二人の姿を見て、妬いてしまいましたか?」
「べ、別にそんなんじゃ…」
しかし、お褒めにあずかって(?)空気が弛緩したのも僅か、その後に突然核心を付いた本題を切り出してきた御影さんに、わたしは慌てて首を振る。
…というか、わたしが柚奈との事で妬くなんて、みっともないにも程がある。
「なら、今すぐ降りて行って加わればいいじゃないですか。何なら、階段を下りている間に私が大声で伝えておきますよ?」
「あ、いや、待って…っ、別にそういうつもりじゃないからっ!」
そして、本当に視線の先にいる二人へ声をかけようと、身を乗り出そうとする御影さんを後ろから抱きかかえる様にして慌てて止めるわたし。
「あらあら…強引ですね。もし桜庭さんが見たら、私は8組にいられなくなりそうですが?」
すると、何処まで冗談なのか分からない台詞と共に、ぽっと頬を赤らめる御影さん。
「…今更、柚奈が妬いてくれますかね?」
「ならば、試してみますか?私は…姫宮さんの事は嫌いじゃないので構いませんけど?」
「へ…?」
ま、まさか、御影さんも…?というか、わたしはこの学園の美少女に片っ端から惚れ薬なんて盛った覚えは無いんですけど…。
「まぁ、それは冗談としておくとして、心配しなくても桜庭さんの愛は変わっていませんよ?」
「…そう、だといいけどね。何だか、ここ一ヶ月で随分と酷い事して来た様な気もしないでも無いんだけど…」
…して、”おく”として?
「まぁ、友人筋の情報と桜庭さん自身の様子から大体の事情の程は御察ししてますが、別に、姫宮さんの行動そのものは責められるものじゃありませんよ?」
「そ、そうかな…?」
「…まぁ、その過程で多少の浮つきはあったみたいですが、基本的には姫宮さんの愛が、桜庭さんの想像より大きかったというだけで」
「あ、愛って…せめて友情と言って欲しいけど…」
(…というか、何処まで知ってるんだろう、御影さん…)
いつぞやの初詣の時といい、相変らずの得体の知れない部分のある人ではあったけど…。
「言葉を言い換えても同じ事です。少なくとも、姫宮さんは自分よりも桜庭さんの為にした事でしょう?」
しかし、そんなわたしの猜疑心に気付く様子もなく、御影さんは淡々とした口調で言葉を続けていく。
「…どうして、そう思えるの?」
「それは愚問です。転校生の分のハンデがあり、尚かつ元々成績の振るわない貴女にとっては、クラスは離れたとは言え、語弊を恐れない表現を用いれば桜庭さんを利用し続けた方が楽だったでしょう。現に桜庭さんはクラスが離れてから…そして、姫宮さんに突き放された後も、貴女のクラスの授業の進行状況は何処かで仕入れて、いつ頼られても対応出来る様に準備をしています」
「……っ?!」
柚奈が…未だにそんなコト…。
「まさか、その所為で柚奈は成績が落ちた…ワケはないか…」
「無いですね。恋愛はともかく、学習能力に関して言えば桜庭さんは決して不器用なタイプではありませんから。特に、貴女との時間を作る為に、最小限の時間で最大限の効率の勉強法を編み出したとか言ってましたし」
「…………」
わたしに見えない所で…あの子は、どれだけ頑張ってるんだろう…。
…こんな、ロクデナシの為に。
(でも…だからこそ、わたしは…)
「だからって、受験生になった今まで、わたしとしてもおんぶにだっこを続けるって訳にはいかないわよ…柚奈が見えない所で頑張ってくれてるのは分かったし、嬉しいけど…でも…」
「…やれやれ。本来は語るに及ばずって奴ですが、まぁどこまでもニブい方の様ですし、仕方がありませんね。別に桜庭さんに頼りすぎて、彼女無しでは困る状態だって構わないじゃないですか。貴女が桜庭さんの側を離れさえしなければね」
しかし、涙目になりながら表情を落とすわたしに対して、御影さんは優しさの代わりに呆れた様な溜息を落とすと、諭す様にそう告げた。
「う……っっ」
「それと、もう1つの理由の進路についても、学力レベルのかけ離れている自分と桜庭さんが同じ学校へ進学するのは相応しくないと思い込んでるみたいですが、こちらも根本的に間違ってますね。学問だろうが習い事だろうが、本来は確固たる”志”を持って挑んでこそ、初めて大成するものですよ?確かに高校までは義務教育、または実質その延長みたいなものですし、それそのものが志の代わりとなりますが、ここから先は全く別です。偏差値の数字だけに囚われてここが貴女の行くべき所と、しかも他人が勝手に決めつけた所で、一体何の意義があるというんです?」
「…………」
そして、更に続けて断定口調で一刀両断されて、正にぐぅの音も出ないわたし。
…まったく、わたしの事を嫌いじゃないって割には容赦ないなぁ御影さん。
いや、嫌いじゃないから…かな?
「…志、か…」
「桜庭さんの志は…きっと今でも貴女の中に、ですよ。姫宮さんはどうです?」
「わ、わたしは…」
そう言えば進路を考えた時って、何だかんだで柚奈の事ばかり気にしていた様な…。
わたしには自分なりの志が無いから?それとも…わたしの志も、あの子の中に…?
「…………」
「…じゃあ、これからわたしはどうすればいいと思う…?って、人に聞くのも情けない話だけどさ」
「お悩みなら、占って差し上げましょうか?」
そこで、わたしの半分投げやりな質問に御影さんはそう告げると、制服のポケットから、タロットカードの束を取り出した。
「え、こ、ここで…?」
「ええ、一番シンプルな方法ですので。ですがその前に…」
「その前に?」
「…名残は惜しいのですが、この体勢だと少々やりなくいので、一旦離れて頂く事になりますけど」
「あ、ご、ゴメン…っっ!」
そう続けて、ぽっと頬を赤く染める御影さんに、慌てて後ろから抱きかかえていた手を離して距離を開けるわたし。
しまった…考えたらさっき御影さんを身体で止めてから、ずっと後ろから抱きしめた体勢のままだったりね…。
「いいえ…しかしやはり、姫宮さんも人肌が恋しいみたいですね?」
「…………」
ここで普段なら、「忘れてただけよ」とでも誤魔化すものの、今のわたしには否定出来なかった。
何せ、御影さんには茜が柚奈の手をずっと握ってるのを見てイラっとしてしまった理由を知られてしまっているみたいだから。
「貴女が望むなら、私で良ければ心ゆくまで温もりをお与えしてもいいんですが…それより、今姫宮さんに必要なのはこちらの方でしょう」
そして、改めて仕切直しとばかりに御影さんはわたしに向き合うと、タロットの束をシャッフルする体勢に入った。
「では…これから私がシャッフルしますので、姫宮さんは心を落ち着けて、いいと思った時に止めてください。そして、その時に一番上にある一枚が占いの結果となります。所謂、”ワンオラクル”と呼ばれる方法ですね」
「…分かった」
「では…始めます」
そこでわたしが頷いたのを見て、御影さんは精神を集中した後でタロットをゆっくりとシャッフルし始めた。
(ええと…まずは心を落ち着けて…)
とりあえず、わたしは目を閉じて深呼吸してみた。
(その後は…)
もう、いつでもいいのかな…?
いいと思ったとき…と言われても、タイミングが分からないのよね…。
「…………」
でもまぁ、気休めみたいで実は結構アテにしてたりするし…。
(お願い、何かいい答えが見つかります様に…)
みんなから散々言わてるニブちんなわたしと、その為に苦労してる柚奈の為にも…。
「…………」
「…………」
「…ストップ」
やがて、答えが欲しいって衝動が瞬間的に強くなったのを受けて、わたしは閉じた目を見開いて止めた。
「では、姫宮さんへの神託はこれです。運命の輪…ホイール・オブ・フォーチュン」
すると、御影さんはシャッフルを止めた後で神妙な顔を浮かべてそう告げると、一番上の一枚を手にとって、わたしの前へ絵柄をかざして見せた。
「運命の輪…?」
女神らしい女性の姿と、ワッカが描かれているけど…。
「…どうやら、姫宮さんを取り巻く現在は、極めて不安定な情勢みたいですね。このアルカナの正位置は運命的な出逢いを示しますが、逆位置は破局を意味しますから」
「つまり、今後の展開次第では、柚奈との仲はどう転ぶか分からないと…?」
御影さんから発せられた”破局”という言葉で、漠然とした不安感がわたしを包んでくる。
「そうなりますね。…ただ、このカードを引いたという事は、結末を左右するのは美由利さん…貴女自身の心の強さです。第三者からの干渉に翻弄されるかもしれませんが、最後の決め手となるのはあくまで貴女の意志次第と覚えておいて下さい」
そして、そんなわたしの不安を肯定するかの様に、御影さんは真剣そのものといった目で見据えながら忠告した。
どうやら、本当に深刻な状態になってるってのは間違い無いらしい。
「わたしの…意志次第…」
「残念ながら、もうゆっくりと悩む時間もなさそうです。破局点によって作られた赤い糸は再び本来の糸と交わり、岐路へと差し掛かっている様ですから」
「破局点って…前にも言ってたよね、それ?」
「…それについては、今回の結末が確定すれば解説してあげます。今は、自分の意志を一度真摯に確認して下さい。そうすれば、自ずと取るべき行動も見えてきます」
「分かった…ありがとう御影さん」
そう締めくくった後で、「もっと自信を持って、頑張ってください」と付け加えてくれた御影さんに、神妙に頷きながら礼を言うわたし。
結局、具体的にどうしろって指示は貰えなかったけど、そこまで甘えるなって事なんだろうね。
「いいえ…それでもし、美由利さんが悲しみに包まれる結果になってしまった時は戻ってきて下さいね。私で良ければ、慰めて差し上げますから」
「え…あ、重ね重ねありがとう…って言うか、やっぱり御影さんって、私の事…?」
というか、そろそろ冗談にしては重なりすぎなんですけど…。
「貴女の恋愛フラグチャートの1つには、そういう道もあったというだけです。…私も最近気付いたんですけどね」
すると、御影さんは意味深な笑みを見せながら、どことなく寂しそうにそう告げた。
「フラグチャートって…御影さんも、もしかしてゲームとかするの?」
「いいえ?美由利さんに分かり易いように言葉を置き換えただけです。でも本当に…罪な人なんですよ、貴女は」
そう言うと、今度は小さく肩を竦めてみせる御影さん。
「う〜ん、そう言われてもね…仮に知らずのうちに罪を犯していたとしても、もう償う以外に道は無いだろうし」
「…それが自覚出来ているなら充分です。さっさと償ってきて下さい」
そしてそれだけ一方的に告げると、後は何も言わずに立ち去ってしまった。
「…………」
(今一度、自分の意志を真摯に考えてみろ、か)
御影さんの話だと、このままだと本当に柚奈との縁が切れてしまうらしいけど…。
でも、それは一体どういう形で…?それに、本来の流れって…。
(いや…それは後でまとめて解説してもらえるらしいから、今は自分がどうするかよね…)
「…………」
ぐぅ〜っ
「その前に、まずは腹ごしらえ、ね…」
しかし、そこでアイデアよりも先に空腹を告げる音が体内から響き、思わず苦笑いを浮かべるわたしだった。
*
「…おりょ?今日は1人で食べてんの、みゆ?しかも、みんなとっくに食べ終わってる時間に」
やがて、教室に戻って自分の席でお弁当を掻き込んでると、遅れて戻ってきた茜がきょとんとした顔を浮かべて話しかけてくる。
「しょーがないでしょ?氷室先生に呼び出された後で、御影さんとも話し込んでたし」
というか、何なら御影さんと一緒に食べても良かった気もするけど。
「御影さんと?なに、占いでも頼んだの?」
「まぁね。結果的に占って貰った事は占って貰ったんだけど…参考になったかどうかはまた別の話」
「でも、御影さんの占いの的中率は100%に近いんじゃなかったっけ?ありゃ、洞察力とか、そういうのでは片付けられない能力の持ち主だとか何とか言われてたけど」
「…………」
その御影さんが、わたしと柚奈の関係に黄色信号が灯ってると告げている訳だ、これが。
「…あのさ、茜。ちょっとヘンな質問していい?」
「別に構わないわよ?今更あたしのスリーサイズとかでも聞きたいの?」
「その手の質問は、わたしが聞いても絶望するだけだから別にいいです。そうじゃなくて、その…」
しかし、そこでやっぱり口にするのを躊躇ってしまうわたし。
「何よ、そんなに言い出しにくい事?」
「うん…まぁなんて言うか、本当にもしもの話なんだけど…あのね、仮にわたしが柚奈と、その…完全に別れちゃう事になるとしたら、どんな場合だと思う?」
「はぁ?みゆ、あんたまさか…」
「違うわよっ!だから、単なるもしもの話。御影さんの話だと、わたしって実は特異な存在で、本来の柚奈の運命の相手じゃないんだって。んで、わたしか余計な事をしたからなのかどうか分からないけど、運命の流れが変わる可能性があるから、場合によったら破局って結末になる可能性があるって、タロットの占いで出たのよ」
でも、その本来の相手ってのが、一体誰なんだか…。
「なるほど、それで…」
「…茜、最近お昼はいつも柚奈と食べてるんでしょ?さっきも一緒だったよね?何か変わった様子はなかった?」
「……。そうね…教えてあげてもいいけど、ちょっとここじゃ何だから…」
すると、茜は少しだけ考える素振りを見せた後で、きょろきょろと辺りを気にしながらそう告げた。
「え?場所変えるの?」
「その方がいいわね。さっきからたらい回しになってるみたいで悪いけど、ちょっと付き合ってよ?」
そして…。
「んあ〜っ…屋上なんて初めて来たよ、わたし」
やがて茜に連れられて校舎の階段を一番上まで上り、その先にある鉄の扉をくぐって視界の開けた屋上へ出ると、わたしは思わず感嘆の声をあげた。
今日は体育も無かったし、登校時以外は表に出ていない事もあってか、わたし達を出迎えてくれたポカポカの春の陽気が実に気持ちいい。
「鍵とか掛けられてる訳じゃないから一応は出入り自由状態なんだけど、3F以降は階段に電気が点いてなくて昼間でも薄暗いから、閉鎖されてると勘違いしてる人は多いみたいね」
「なるほど。確かに誰もいないね。前の学校とかだと、いつも誰かいたみたいだけど」
お昼を食べるだけじゃなくて、そのまま昼寝も出来るスポットとして、人によっては随分と重宝されてるってのは、絵里子から聞いた事はあった。
「ま、今はいいけど夏は直射日光ギラギラで一番暑いし、冬は吹き付ける風が冷たいしで、あまりいい場所でもないんだろうけどさ。ただ、その分密会するにはいい場所なのよん」
「密会…ねぇ」
そう聞いて、何だか怪しい響きを感じてしまうわたしは、ちょっと毒されてるのかもしれない。
「例えば、敷物を敷いたりして寝転がったり、あそこの入り口の陰とかに隠れちゃえば下からは見えないし、何をしたって誰にも見つからないわよ?」
そう言って、ニヤリと邪悪な笑みをチラつかせる茜。
「えっと…茜さん、まさか常連とか言うんじゃないでしょうね…?」
何だか、妙に手馴れてる雰囲気を感じられるんだけど…。
それに何だか、身の危険を感じてしまってるのは、果たして気のせいでしょうか?
「…あらあら、こんな人気の無いのが分かってる場所へノコノコと付いて来ておいて、今更何を言ってるのかな?」
すると、微妙に動揺したわたしを面白がってるのか、茜は突然近づくと、両手の指を自分の指と絡ませながら不敵に笑う。
「ち、ちょっと待ってよ…他の場所で話がしたいからって言ったからわたしは…」
「ええ。誰も邪魔の入らない所でゆっくりと、ね…それはみゆも望んだからここまで来たんでしょ?」
そう言うと、茜は絡ませた指を優しく擦りつけて刺激しながら、ゆっくりと顔を近づけてきた。
「や…そんなの話が違う…っ」
「それとも、あたしの事はそんなに嫌い…?」
「ず、ずるいっ!ここでそんな言い方…」
最近はちょっと険悪にもなりかけたけど…転校した時からの親友に今更嫌いなんて言えるワケないのに…っ。
「んじゃ、いいじゃない。減るもんじゃ無いでしょ?」
「ち、ちょっとまって…やぁぁぁ…っ!」
どうして、こんな展開になるのよぉ…っ!
「…とまぁ、みゆにもこの位の強引さ…ううん、甲斐性があってもいいと思うわよ?」
そして、こつんと額と額を一度合わせた後で、にっこり笑いながらそう告げる茜。
「あ、あんたね…っ」
「それとも、本気で襲われちゃうとでも思った?」
「悪いけど、茜ならやりかねないかなーって気持ちもあったのは否定しないわ」
なにせ、いつぞやはプールの更衣室で、可愛い後輩との密会を目撃(というか覗き)しちゃいましたからね、わたしゃ。
「あら、それは心外ねぇ。あたしはこんなにも一途でピュアなのに」
「そんな人が、いきなり友人を人気のない所へ連れ込みますかっっ」
「…だって、仕方が無いじゃない。さすがに教室で出来る話じゃないし」
そこでようやく茜はわたしから手を離してそう切り返すと、今までの場の空気を替える様に口元を締めて真面目な顔つきになっていった。
「…………」
「さて、それで話の続きだけど…その前に、あたしから1つ質問させて?」
「う、うん…いいけど…」
それから、真剣な顔のままで切り出す茜に、緊張感を肌で感じながら頷くわたし。
「…あのさ。みゆにとって、柚奈って何なのよ?」
「な、なにって…その…大切な…その…友達…かな?」
本当は、そんな言葉だけじゃ不足なんだろうけど、面と向かって言えと言われればそんな表現しか出来なかった。
…多分、さっきの茜の行動には、そんな踏み込みの甘さを指摘されたんだろうなーとは理解できなくもないんだけど。
「友達…ね。だったら、柚奈に盲目的な愛を捧げる恋人が出来て、自分がお邪魔虫だと思ったら身を引ける?」
「え?そ、それは…」
「あたしは、一応引けるつもりだよ。…だって、一番好きな人だから」
その後、続けて向けられた質問に一瞬返答を戸惑ったわたしに対して、茜はこちらが答えるよりも先に、何の臆面も無くきっぱりとそう告白してきた。
「あ、茜…?まさか…」
同時に、屋上に吹き付けてきた風が横顔を凪いでいく。
「…やっぱり、全く気付いてなかったのね。片思いのライバルだったのは承知してたけど、張り合いが無いったらありゃしない」
そして、寝耳に水とばかりに目を見開くわたしに、茜は溜息をついて見せる。
「だ、だって…今までそんな素振りなんて見せなかったじゃない?わたしにも凄く好意的だったし、さっきみたいにふざけて口説いてきたりとか、柚奈をくっつけていつもニヤニヤしてたじゃない?」
お陰で一時期は、わたしの事が好きなんじゃないかなんて思い込んでた時期もあったし。
「別に恋のライバルだからって、みゆの事が嫌いって訳じゃ無いわよ。…まぁ、ここ最近の態度にはちょっとイラ立つ事も多かったけど」
「そりゃ、悪かったわね…。まぁ、今となったら反論もする気は無いけどさ」
「…でもまぁ、お陰で再びあたしにもチャンスが巡ってきたのも確かだけどね」
そこで投げやりに肩を竦めるわたしに、茜はニヤリと意地の悪い笑みを浮かべてきた。
「う……っ」
「まぁいいわ。せっかくだから、少しだけ昔話を聞かせてあげる。あたし達の、みゆが知らない頃の話をね」
そして、そう告げた後で茜はわたしに背を向けると、遙か空へ遠い目を向けながら、ゆっくりと喋り始めた。
「あたしが最初に柚奈と知り合ったのは、1年生のプール開きの日かな。泳げなくてプールサイドで呆然としているあの子を見かけて、声をかけたの」
「…でも、あたしは別に水泳部だからとか、クラスメートだからって親切心で教えた訳じゃ無い。今まで仲良くなりたいと思いながら遠目で見るだけだった柚奈との接点が出来そうだったから。勿論、柚奈には親切心と見せかけたけど、実際の本音はそれだけの理由でね」
「…………」
「柚奈はそれまではクラスの誰にも心を閉ざしていて、実際あたしが初めて声をかけた時も、無視に近い反応を見せられたけど…でも、泳げなくて困っていたのも確かだったから、粘り強く食い下がるうちに、とうとう渋々ながらもあたしの手を取ったわ」
そこまで言うと、茜の口元が僅かに緩んでいく。
「やがてそれから、あたし達は友達と呼べる関係になって、今まで誰にも心を閉ざしていた柚奈があたしを介して他のクラスメートとも交流していきながら、少しずつ変わっていって…日に日にあの子の表情に生気が戻っていく様を見るたびに、幸せな気分になってたわ。あたしが眠れるお姫様同然だった柚奈を目覚めさせて、少しずつ二人の距離が近付いてるんだってね」
「…眠れるお姫様…そう言えば、以前に養護教員の先生が柚奈を眠れるお姫様と呼んでたわね。ついでに、それを目覚めさせたのは王子様である茜だってのも。あれって、結局どういう事なの?」
その疑問は、今までわたしが柚奈を受け入れる事を躊躇わせていた理由の1つだった。
今までも柚奈本人に聞いた事はあった気がするけど、その都度自分の過去の事を話すのは嫌がるかの様にはぐらかされてたし。
「実際、あたしもそこまで詳しい事は聞けなかったんだけど、でも柚奈の心は深く傷ついてた。何でも、中学を卒業して今の学校に入る直前に、今まで一番好きだった人に酷く裏切られたんだって」
「今まで、一番好きだった人…?」
つまり、少し前までのわたしに対してみたいに、柚奈がひたすら側に寄り添って一途に愛を捧げていた相手がいたって事…?
しかも、そいつは何処の馬の骨なのかは知らないけど、思い込んだらひたすら一途な柚奈に、心を閉ざしてしまう程の裏切りをしてみせたって…。
「…一体、何処のどいつよ、そいつは…」
「さぁね。でもみゆはとりあえず、自分の胸に手を当ててみれば?」
「う……っ、べ、別にわたしはそんなつもりは無いもん…」
でも、茜に指摘されて胸がチクリとしてしまったのは内緒だけど。
「まぁ、それはともかく…そんな訳で、柚奈の心が完全に癒えるには時間がかかったの。やがて、あの子がそろそろ新たな恋でも探してみようか、なんてようやく言い出した時は、もう修了式を迎えようとしてる頃だったわ」
「そして…学年が変わって新しい生活が始まった最初の日に、柚奈は転向してきたみゆと偶然に出逢い…そしてひと目惚れしちゃった。正確には、誰かを好きになろうと思っていた所に、偶然としても本人が運命的と信じられる出逢いを果たした事で、その相手を自分が恋するべき相手だと信じ込んでしまったと言うべきかな。所謂インプリンティングね」
「…………」
そう言えば、「誰かを好きになってみたかったから」って台詞を柚奈自身から聞いた事があるのは覚えてる。
(…つまり、そーいう事ですか。多分、誰でもいいからとりあえず相手を探してみようかって所へ、ノコノコと出てきてしまったのがわたしだと)
しかも、茜の話と自分の今までの記憶を辿ると、その時点で一番柚奈が好意を持っていた相手は茜で、しかもわたしでも良かったって事は、別に相手は女の子でも構わなかったんだろうし…。
(そして、茜は柚奈への想いを胸に秘め、時期が来るまで待ち続けていた、と…)
「…………」
つまり、以上の事から導き出される答えは…。
「…あ、あはは…。いや、笑い事じゃなくて、えっと…ごめん、茜…」
そして頭の中で結論が出た時、わたしは思わず苦笑いを浮かべながら茜に謝っていた。
確かにわたしは特異点というか、空気を読めなさすぎのお邪魔虫だった訳ね…。
「そりゃ、最初は納得いかなかったわ。1年近くかけてあたしが柚奈を眠りから目覚めさせたってのに、突然やってきた転校生が美味しい所を持って行ってしまったんだから」
「あはは…別に、持っていきたくて持っていったじゃないんだけどね…本当に偶然というか、何と言いますか…」
まぁ、偶然にしてはやや重なりすぎてる気もしないでもないけど。
「でもまぁ…確かにみゆと出逢ってからの柚奈は、まるで生まれ変わったかの様に変化したわ。毎日が本当に幸せそうで、今までは殆ど見せてくれなかった自然な笑顔をたくさん浮かべる様になって…そこで思い知らされたの」
「…………」
「…もう、柚奈はあたしの手から巣立っていってしまったんだ、ってね。…つまり、あたしの役目はここまでって事で」
そこまで告げると、何処か痛々しい笑みと共に、ぎゅっと両手の拳を握りしめる茜。
「茜……」
「そう心の中で割り切ってしまえば、比較的気が楽だったわ。今後は一番好きな人が一番幸せになれるように精々見守っていきましょうって、新しい自分のスタンスも思い浮かんだし」
「…それに、みゆ自身の事も何だか気に入ったしね。優柔不断な癖に馬鹿みたいに律儀な面もあって、自爆を繰り返す姿は見ていて飽きないから」
そしてそう続けた後で、茜は意地悪な笑みを浮かべながらわたしの方を向いた。
「悪かったわね…自爆女王で」
(でも…柚奈と同じく、茜もちゃんと見ていてくれたんだ…)
転校して数奇な出逢いに随分翻弄されたけど、わたしは友達には恵まれたのは確かだと思う。
「だけど、今回はそれが極めて悪い方向に作用してしまったというか、みゆが勝手な思い込みで自爆して、今までの柚奈にとっての幸せな日常を壊しかけてるお陰で、あたし達はあの頃の雰囲気を取り戻しかけているの。実際、このままみゆが完全に手を引けば、柚奈はまた自分の元へ戻ってきてくれるって手応えも掴んでるわ」
「…………」
確かに、最近の柚奈と茜が一緒にいる姿を見ていると何処か疎外感というか、近寄り辛い空気を感じてるのは確かなのよね。勿論それは、それが最良の選択だと言い聞かせながらも、自分のやってる事に対する後ろめたさを払拭できなかったのもあるんだけど…。
(…どっちにしても、やっぱりそういう事か)
御影さんの言ってた、本来柚奈の運命の相手となるべきだったのは…。
(茜…あんただったのね…)
「だから…みゆ、あたしと最初で最後の競争をしましょ?柚奈を賭けて」
「競争?」
それから、会話の締めくくりに茜から持ち出された「競争」という言葉を聞いて、思わずきょとんとしてしまうわたし。
「方法は簡単よ。今日の授業が終わって、どちらが先に柚奈の元へ辿り付くか。ただそれだけ」
「…それって、8組までのかけっこって事?」
となると、運動神経が圧倒的に劣るわたしに勝ち目なんて無さそうなんだけど。
「ううん。ルールは一応考えてるの。今からあたしが柚奈にメールで旨を伝えるから、今日の授業が終わったら校舎の何処かに隠れていてもらうわ。んで、みゆは制限時間内にその柚奈を見つけられれば勝ち」
そしてその後で、「つまりねあたしとのかけっこというより、柚奈との隠れんぼと言った方がいいかもね」と補足する茜。
「制限時間…?」
「そう。あたしは今日の放課後は部活動に出なきゃならないから、その間ね。あたしは部活が終わった後で柚奈のいる場所へ迎えに行くから、それまでに見つけられるかが競争の分かれ目って訳」
「迎えにって事は、茜は柚奈の場所を予め知ってるって事?」
「予めというか、あたしは部活が終わったら改めて柚奈にメールするから、その時に居場所を聞いてから迎えに行くの。その後、あたしが柚奈の元へ辿り着けばその時点でタイムアップでみゆの負け」
「なるほど…でも、まだ勝負を成立させる為に一番肝心な事が抜けてるわよ?」
聞いてる限りだと、その場のノリに流されて今思いついたって訳でもなさそうだけど。
「その辺は大丈夫。今回の内容については柚奈と既に話はつけてるわ。あとはあたしがメールすれば動いてくれるはず」
「…………」
つまり、少なくとも柚奈はこの競争を受け入れてるって事か。
(それが、茜の勝算であり…)
御影さんの言ってた、”岐路”である…と。
「…それで、もしこの競争に負けたら、みゆは柚奈から完全に手を引いてお別れを告げてちょうだい。多分、柚奈はまた深く傷付いてしまうだろうけど…でも今度もきっとあたしが癒してみせる。たとえ何年かかろうと、あの子の側でね」
そして茜はそう告げた後で、「大体の内容はそんなもんかな」と締めくくった。
「えっと…どうしても、その勝負を受けなきゃダメ?」
我ながら空気を読んでいない質問だと自覚しながらも、やっぱり確認せずに入られない台詞。
「受ける、受けないの返事はここでは聞かないから、行動で示してちょうだい。もし、みゆが柚奈とこのまま別れるのが嫌なら探しに行ってあげて。ただ、それだけの事よ」
しかし、それを聞いた茜は怒ったり呆れたりする素振りも見せずに素っ気なくそう答えると、わたしを残して先に屋上から立ち去ってしまった。
「…………」
(行動で示して、か…)
正直、受けたくはない勝負だけど…。
…でも、きっとわたしには茜の想いを受け止める義務があるんだろう。
(そして、わたし自身の為にも、これ以上逃げる事は許されない…か)
『世の中には、良い後悔と悪い後悔の2種類あるって、知ってた?』
『…自分で選んだ道を進んだ末の後悔なら、悔いは残らないって?』
「…………」
一応、自覚はあるんだけど…ね。
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