眠れるお姫様とエトランジェ Phase-6:『落下流水』
6-13:芽生えた後は育み続けるだけ。
「ん……」
やがて気付いた時は、広いベッドの上だった。
仰向けに寝そべった視界の先は遥か遠い天井と、窓が近い右の方からはレースのカーテンごしに暖かい陽光が洩れている。
静かで爽やかな朝だった。
「…ああ…そっか、わたしいつの間にか…って…」
(あれ、なんかスースーする…?)
そして、次第に鮮明になる意識と共に上半身を起こした所で、自分の現状を確認するわたし。
今まで身体にかけられていた薄い羽毛ぶとんから抜け出したわたしの身体は、一糸纏わぬ素っ裸だった訳で。
「…………」
まったく、他人様の家で裸のまま眠りこけるなんて、いい年した乙女がなんてはしたない事をしてるんだか。
(…いや、もう他人ってのも違うんだっけ?)
改めて”恋人”って表現するのも照れくさいけど、ともかく慌てて何か羽織ろうとしたりする必要が無いのは確かである。
「…………」
「…………」
(何だか、こういうのも心地いいなぁ…)
お預けになっていた一戦(どころの話じゃ無かった気もするけど)交えた後の満足感を実感しながら、お行儀が悪いながらも、こうして生まれたままの姿で無防備に開放していられるってのは、何だか妙に安らかで清々しい。
ただ…。
「ふわぁぁぁ、やっぱりまだ眠い…」
同時に、満ち足りない睡眠欲と何とも言えない気怠さが起き抜けのわたしを包んでいた。
…というか、よく漫画とかで「今夜は眠らせない」とかいう表現があるけど、本当にそんな感じだった気がするし。
(まったく…お嬢様の癖に底なしなんだから、もう…)
女同士は終わりが見えないとは言われるものの、勿論それに意識が遠のくまで付き合ったわたしもわたしではあるんだけど。
…って事で、自然と目が覚めたにも関わらず睡眠不足感が強いのは、きちんとおやすみなさいを宣言してからじゃなくて、いつの間にか意識を失って眠り込んでしまった所為もあるんだろう。
「す〜ぴ〜♪」
そして、そんなわたしのすぐ隣では一夜を共にしていた柚奈が、何だか満ち足りた笑みを満面に浮かべながら寝息を立てていた。
(やれやれ、幸せそうな顔して寝こけてやがるわね…)
考えたら今まで、わたしを驚かそうと眠ってる間に布団の中へ潜り込んできた事とかはあったけど、今みたいに熟睡しきっているのは初めてだと思う。
これでようやく、ガツガツしなくても良くなったからって所だろうか?
「…………」
「んふ、でへへへ…」
やがてわたしは、何だか妙に柚奈の寝顔がいとおしくなってきた衝動のままに、そっと綺麗な黒髪を撫でてみると、幸せそうな表情が更に緩んで崩れていく。
自慢じゃ無いけど、この柚奈の表情を見る事が出来るのはわたしだけなんだろうな。
それを思えば、何だか嬉しいというか、誇らしくもあるんだけど…。
(さすがにもう、この顔を涙で染める訳にはいかないわね…)
同時に、一種の責任感みたいなものがわたしの心の中で芽生えようとしていた。
しかも、それは成り行きだから仕方が無いっていう類のものじゃなくて、自ら導き出した強い意思。
(安心して柚奈。…とりあえず、もう自分から離れて行ったりはしないから)
でも、言葉として本人に伝えるのはこっ恥ずかしいし、そこは推して知るべしって方向で。
「…とまぁ、それはいいとして…どうしよっかな…?」
室内の時計を確認してみると既に10時を過ぎてるみたいだし、そろそろ起きなきゃならない時間っぽいんだけど…。
「…………」
「す〜っ、す〜っ…」
ひとりで勝手に起き上がって服を着てるってのも何だか薄情な気がするし、たまにはわたしの方から起こしてやる…かな?
今まで、散々あの手この手のセクハラ攻撃で強引に起こされてきた事だし…。
(…うん。たまには逆襲してやろうかな)
ちょっと照れくさいけど、きっとびっくりするだろうから。
ともあれ、わたしは眠れるお姫様をフライングで起こしてしまわない様に気を付けながら、そっと自分の唇を柚奈の顔へ向けて近づけ、そのまま目覚めのキスを…。
「……ん……?」
「…す〜っ…す〜っ…(はぁはぁ)」
「やっぱり途中から寝たふりしてたわねぇぇぇぇっっ」
…と思っていたものの、明らかに眠っていない荒い息遣いと、いつの間にか寝顔が期待に満ちた笑みへと変わっていたのを見て、わたしは無意識のうちに間接ワザを決めていた。
「いや〜ん、みゆちゃんったら乱暴〜っっ」
「ええい、狸寝入りのお姫様にはそれで充分よっ」
残念ながら、わたしは王子様じゃなくて無頼のエトランジェなので。
*
「…まったくもう、考えたら昨日は結局、全っ然勉強してないじゃないのよ…」
やがて、食堂で柚奈と朝食をごちそうになりながら、そろそろ本来の目的も忘れてもらっちゃ困るとばかりにぼやいてみせるわたし。
結局、昨日は昼過ぎにやって来て柚奈の部屋で適当にくつろいでたら小百合さんに呼び出されて、戻った後は夕食、お風呂とあとはなし崩しだった訳で。
そもそも、自分だけじゃ勉強が捗らないからって柚奈の家を訪ねたのに、本末転倒にも程があるというか。
「大丈夫、大丈夫♪ちゃんと辻褄は合わせはするから心配無用だよ」
一方で、柚奈の方は余裕を含んだ笑みであっさりとわたしの心配を覆してきて、確かに実績が伴ってる分、頼もしいっちゃ頼もしいんだけど…。
「頼むわよぉ、ホントに。柚奈先生…」
報酬の方も、前払いでたっぷりと持っていかれた事だしね。
「柚奈先生…」
しかし、そこで何か響きがツボったのか、ぴきーんと柚奈の目に輝きが宿る。
「…ん…?」
「…ね、みゆちゃん。これから私が先生のカッコするから、みゆちゃんはセーラー服着てみない?」
「却下。また勉強どころじゃなくなるでしょ?」
「え〜、ご褒美くらいあってもいいじゃない〜?」
「ああ、はいはい。ちゃんとノルマを達成出来たらね」
「おっけーおっけー♪んじゃ、2日分を半日で済ませちゃうからね。ああ、何なら今晩も泊まってく?」
「あのね…」
…ホントに大丈夫なんだろうか。
****そして****
「…あんまり大丈夫じゃなかった気がする…」
それから約半日後、柚奈と並んで温めの湯船に浸かりながら、わたしは溜息混じりに呟いていた。 結局、2日目の夕食やお風呂までご馳走になった上に、もう遅いからと後で送ってもらう事にまでなってたりして。
「まぁまぁ。時間は短かったけどちゃんとやる事はやったし、みゆちゃん的にもその方が負担が少なくて良かったでしょ?」
「いや、それはそうなんだけどね…」
一応宿題も済ませたし、今後の簡単な学習スケジュールみたいなのも作ってもらったしで、確かに本来の目的はきちんと果たした。その辺は流石は柚奈だとも思う。
…だけど、結局勉強してるよりはその後で柚奈と第2ラウンドしてた時間の方が遥かに長かった気がするだけに、やっぱり何処か釈然とはしなかったりして。
そもそも、わたしの為に出来る限り短時間で済むようにしてくれたというより、Hなコトをする時間を稼ぐ為に頑張ってたんだろうし。
「…………」
(…でもまぁ、今日はそれでもいいかな…)
多分、柚奈なりに今までの1年分…いや、この一か月分だけでも一気に取り戻してしまいたかったのかもしれない。
何せ今回はわたしが勝手に迷走していたばっかりに、随分と辛い思いもさせてしまった訳だし…。
「…ゴメンね、柚奈…」
そんな事を考えているうち、わたしの口からぽつりとゴメンの言葉が零れてしまう。
「ふえ?突然どうしたの…?」
「今更っちゃ今更だけど、ずっとわたしがはっきりしない態度を見せ続けていた所為で、随分つらい思いをさせて来たかなって」
だから、これからその分は取り戻させてあげたい。
もうそろそろ帰らなきゃいけない時間だけど…今日はもう少しだけこのままでいてもいいかなと。
「つらいなんて…まぁ離れなきゃならなかったこの一月はそうだったけど、みゆちゃんと出逢ってから今まで、私にとっては間違いなく幸せな日々だったよ」
しかし、そんなわたしに柚奈はあっさりとそう答えると、言葉通りの幸せに包まれた笑みを浮かべながら、そっと腕を絡めてくる。
「でも……」
「確かに不安とか恐れはあったけど、それでも決めてたから。たとえみゆちゃんに嫌われたとしても、私からは決して離れたりしないって」
「柚奈……」
「…えっと、今そういう空気なのかどうか分からないけど、聞いていい?どうしてそこまで…?」
「きっと、私にとってそれが一番幸せな道だと信じてるから。今度は自分から誰かを好きになろうって決めて、そして『この人だ』って人とも出逢えたんだから」
「自分から誰かを好きになろうって決めた…か…」
そう言えば、前にもそんな事を言ってたってけ。
「うん…やっぱり、それが一番大切な事だと思うから。…だからホントの事言うとね、一番不安だったのが、嫌われてしまうことよりも、みゆちゃんが私に流される形で受け入れてしまうって事だったの」
「え…?」
「でも、みゆちゃんはあんなに汗だくになりながら私を迎えにきてくれた。自分の意思で私を選んでくれたって信じていいんだよね?」
「…信じていいと思うわよ?多分」
確かにあの時ギリギリでも間に合ったのは、柚奈は誰にも渡さないってその気持ちが突き動かした結果だろうから。
「…………」
しかし、そこでいつもみたいに「嬉しいよ、みゆちゃん♪」と抱きついてくるかと思えば、柚奈は意外と静かな反応で、じっとこちらを見つめるだけだったりして。
「…ん?どうしたの?」
「それじゃ、証明してみせて?」
「はいはい…」
そこで、柚奈が何を求めているかを理解したわたしは、一度だけ苦笑いを見せた後で相手の手を取り、既に目を閉じて待ってるお嬢様の唇を奪う様にして重ね合わせた。
「……ん……っ」
「…………」
「…………」
「…………」
「…なによ?まだ何かあんの?」
「いや、そうやってはっきりと意思表示してくれるみゆちゃんも好きだけど、今までみたいに自爆してくれないのも寂しいかなーとか思ったりして」
やがて息が苦しくなってようやく離した後で、何だか複雑そうな顔を浮かべる柚奈に、わたしは怪訝そうな態度を隠さず尋ねると、悪戯っぽい笑みと共にそんな答えが返ってきた。
「あのね…」
結局、今後もわたしは柚奈のオモチャになりそうな予感がするんですけどね。
「…………」
「ね、みゆちゃん…帰っちゃうの寂しいよ…。やっぱり今晩も泊まっていかない?」
それからしばらく沈黙の時間が続いた後で、不意に自分の身体をすり寄せる様にしてしがみつきながら、縋る様な上目遣いを見せてくる柚奈。
「無理だってば…また明日、すぐ学校で会えるでしょ?それに、制服とか持ってきてないからどの道返らなきゃならないんだし」
「うん…それは分かってるけど…でも昨晩からずっとこうやって肌を重ねてたから、きっと今晩ひとりになったら、寂しくて仕方が無くなりそうなの…」
「…………」
うーん…。
「…………」
「…………」
(まぁ、仕方がないかな…)
きっと、これも自然の成り行きなんだろうし。
「…んじゃ、後でわたしと一緒に帰る?」
やがて少しの思考時間を経てわたしは観念すると、溜息混じりにそう告げた。
勉強以外のコトでかなーり疲れたし、出来れば今晩は静かに過ごして早めに眠って、明日に備えるべきなんだろうけど…。
「え、いいの?!」
「その様子じゃ、明日の朝起こしにきそうだしね。…でも、ホントに疲れてるから眠りに帰るだけよ?遅刻とかしたら、今度はうちの親からダメ出しされちゃうからね?」
「ありがと〜♪」
「別に、礼を言われる事でもないわよ…多分、今晩はわたしも寂しくなると思うから」
「…うん…っ!」
…所詮、双方向のインプリンティングだしね。
柚奈が感じる喜びや悲しみは、つまりはこのわたしも共有してる訳で。
(これが、惚れた弱みって奴ですかい…)
出来れば今後も調子乗りの柚奈をあまり甘やかしたくはないんだけど、それも一体いつまで続けられるものやら、ちょっと自身がなくなってきたかも。
6-14:元通り…でも、ちょっとだけ変わった日常。
「う〜ん、何処にしようかなぁ…」
「あ、ここってキャンパスが綺麗じゃない?」
「でも、ここは県外になるし、通いは無理ね」
「県外。みゆちゃんと一緒ならいい響きだよね〜?むふっ」
そこで瞬間的に不埒な妄想でも浮んだのか、柚奈の口元がイヤらしく歪む。
「あんたね…というか、わたし的には家から通える方が有り難いんだけどさ。親にも負担がかかるし」
「ん〜。だったら、桜庭家の奨学金でも出してあげよっか?」
「それ、今あんたが勝手に作ったでしょ…?」
「もちろん、後でちゃんと返してもらうけどね。みゆちゃんのカ・ラ・ダで♪」
「…素直に、働いて返せといいなさい」
まったく、どこぞのエロ小説じゃあるまいし。
「んじゃ、今週末に来た時は早速メイドさんにでもなってもらおうかな♪ぐふふふふ…」
「だぁ〜っ!まだ受けるって決めた訳じゃないわよっ。…というか、そんなしまらない顔をしたご主人様はゴメンだからね」
見ている限りだと、初仕事はご主人様のよだれ拭きにでもなりそうだった。
「おっと、失礼…。だけど、県外でも一緒に暮らせば安くあがると思うよ?生活費は半分ずつだし」
「まぁ、確かにそうかもしれないけどさ」
ついでに家事も半分ずつだけど、ゆっくりゲームとかさせてくれる暇は無いかも。
あと、四六時中ベタベタし過ぎて早い段階で倦怠期…の心配は別に要らないか。
…良くも悪くもだけど。
「それに、何かと独り暮らしには物騒な世の中でしょ〜?」
「…だからって、狭いアパートで虎を飼おうって人もそうそういないと思うけどね…って、ここは学生寮が完備されてるみたいよ?」
「却下」
しかし、続けてわたしの口から出た学生寮という単語には、即座に拒否の短い言葉が返って来る。
…その間、おそらくゼロコンマの世界。
「はっきり言いやがったわね…」
「だって、そこは絶対に譲れないもん。それに、みゆちゃんが入ったら悪い虫とか付きそうだし」
「悪い虫って…普通は悪い虫を避ける為に入寮するんじゃないの?」
「だって集団生活とかしてたら、絶対弄られたがり電波ダダ漏れのみゆちゃんは、手取り足取りでみんなのオモチャになっちゃうのがオチだもんっ。私には分かるんだからっ」
そして、まるで駄々っ子の様に握り締めた拳を上下させながら、人聞きの悪すぎる主張を力説してくる柚奈。
「え〜?そんな訳の分かんない電波なんて出してる覚えは無いんだけど…」
「大体っ、寮とかに申し込んだら最初から同じ部屋になれるとは限らないじゃないっ?!」
「…そーいうあんたの方は、いつも本音がダダ漏れよね」
まぁ、こんな柚奈の裏表が無い所は好きなんだけどさ。
「悪い?」
「…いや…」
ただ、そうもはっきりと断言されると、こちらの方としても困ると申しますか。
「でも、だからと言ってお母さんにみゆちゃんと寮で一緒になりたいから買収してくれとは、さすがに頼めないしなぁ…」
「こらこらこらこらこらっ、本末転倒を通り越してアホかあんたはっ」
以前と違って、わたしの為に暴走してくれるのはちょっと嬉しくは思うけど、それでも人様には迷惑をかけるんじゃないっ。
「んじゃ、やっぱり誰にも邪魔されない愛の巣で♪あ、お部屋は出来たら狭い方がいいなぁ」
「別に、まだここにするって決めた訳じゃ無いでしょ?」
「そうだね〜。まだ焦る事無いし、二人でじっくり決めようね〜。んふふふふ…」
「へいへい…」
わたしとしては、選んだ所でまだ入学できるとは限らないのに、柚奈の方は既に卒業後の同棲生活の事で頭が一杯らしい。
まぁ、柚奈の事だから「できる」じゃなくて「させる」つもりで面倒見てくれるんだろうけど。
(でもこの様子だと、もし通える所に入学しても家を出て一緒に住むとか言い出しそうね…)
これじゃ、何だかまるで…。
「…まったく、端から見てると新居を探してる結婚間近の夫婦ね、あんたらは」
そんな中、後ろの席からわたし達のやり取りを見ていた茜が、ちょうど頭の中に浮んだフレーズをそのまま代弁する形で会話に割り込んできた。
「え〜、照れるなぁ〜♪」
「そこ、素直に嬉しそうな顔しない」
「だってみゆちゃん、もう二度と離さないって言ってくれたじゃない〜?」
「…居たければ、好きなだけ居ていいって言っただけだっつーの。わたしゃ」
「それに、前と違って二人きりの時はどれだけ求めても断らなくなったし〜。んふっ♪」
しかし、TPOを弁えて素っ気無く返したわたしのツッコミを柚奈の奴はあっさりとスルーしてそう続けると、脇の下から胸元へと向けて手を伸ばしてくる。
「ば…っ?!そんな大きな声でっ、しかもどさくさ紛れに胸さわるんじゃないっ!」
「あんたら…仲直りしたかと思ったら、もうそんなディープな関係になってんの?」
「あ、いや、そんなんじゃなくて…っ」
「違うの?」
「…いやまぁ、そんなに違わないけど…」
とは言え、本当に柚奈とは他人へは決して言えない様なコトをしちゃってるだけに、強く否定できないわたしだったりして。
…まったく、こういう時に平気で嘘つけないってのは損だよね。
「ま、元々みゆがヘンな意地を張ってただけで、実質は去年から既に有名なバカップルだった訳だし、それがようやく開放されただけと言えばそれまでだけど」
すると、茜は諦めた様に肩を竦めてみせると、「今までの積もり積もった分が決壊してるんだから、みゆも覚悟しときなさいよ?」と補足してくる。
「悪かったわねぇ…っていうか、そんな早い段階からバカップル扱いされてたのは初耳なんだけど」
「気付いて無いのは本人だけってね。そもそも柚奈の方が隠そうともしなかったし」
「えへへ…」
「…ああ、そーですかい」
他人の視点から見たら、1年間もピエロを続けてた訳ですか、わたしは。
…まぁ、わたし自身も柚奈にひと目惚れしていたって事にもっと早く気付いてたら違ってたのかもしれないけど、今となってはどうでもいい話である。
「そんな訳だから、今更あんたらのいちゃいちゃレベルが上がった所で誰も驚きゃしないわよ。ひと目なんて気にせずに好きなだけやんなさい」
「茜……」
「でもま、みゆには今度限定ランチセットでも奢ってもらうけどね」
そして茜はそう締めくくると、最後に悪戯っぽい目でわたしにウィンクを飛ばしてきた。
「あはは、どうかお手柔らかに…」
本当に茜には申し訳ないコトしちゃったとは思うけど、ごめんなさいは言わない。
もしかしたら、今も目の前でベタベタしている姿を見せられているのは辛いのかもしれないけど、逆にわたしが柚奈をしっかりと離さないからこそ、茜とはこれまでと変わらない親友同士でいられると思うから。
ただ…。
「んふ♪お墨付きも出た事だし、それじゃ遠慮なく見せつけちゃおうね〜」
「だ〜か〜ら〜っ、今更隠しても無駄ってのは分かったけど、でもやっぱり学校にいる時は自重しなさいっての」
やっぱり人前で堂々とってのは気が引けるというか、いつの間にか太ももの方まで手が伸びてるし、これじゃバカップルを通り越して痴女カップルじゃないのよ、この変態お嬢様っ。
「…全くその通りね。せめて在学中はけじめを付けておいてもらえると有り難いんだけど?」
「あ……」
そこで、わたしが本格的に調子に乗ってきた柚奈を振り払い始めた所で、不意に背後から淡々とした大人の女性の声が溜息混じりで届いたのを受けて振り返ると、いつの間にか次の授業担当の氷室先生が苦々しい顔を浮かべて立っていた。
「まったく、そんなに2組がいいなら今からでも編入させてあげましょうか、桜庭さん?」
「え〜、本当ですか?」
「…冗談に決まってますっ!それよりもう次の授業の時間ですから、さっさとお戻りなさいっ!」
「はぁ〜い♪んじゃね、みゆちゃん。続きはまた後で〜♪」
「はいはい…いいからさっさと帰りなさ……んっ?!」
しかし、そこであしらう様に振った手を掴まれるや否や、わたしの身体は一瞬で柚奈の胸元へ引き寄せられると、茜や氷室先生を含めたクラスメート達が見ている前で強引に唇を奪われてしまう。
「ん〜〜〜〜♪」
「〜〜〜〜っ?!」
きゅぽん
「あは、これで1時間はもちそう♪じゃあ、まったね〜!」
それから息苦しくなってきた辺りで唇を離したと思うと、柚奈の奴は最高に上機嫌な笑みを浮かべたまま、わたしにウィンク&投げキッスを飛ばして走り去って行った。
「…どあほうっっ」
これじゃ、路チューとかしてるバカップルと変わらないじゃないのよぉ。
「…………」
「あの、言っておきますけど、わたしだけの所為じゃないですからね、先生…?」
やがて、今度こそ柚奈が出て行った後で、何か言いたそうな顔を浮かべてじっとこちらを見る氷室先生に、わたしは苦笑いを浮かべながら話を切り出す。
…いやまぁ、もちろん部分的には責任を感じてますが。
「…………」
「…It is no use crying over spilt milk.」
すると、しばらくの間を置いた後で苦々しい顔を浮かべたまま、何やら英文を呟く氷室先生。
「はい…?」
「覆水盆に返らず、です。…これは次のテストに出るし、英語の入試問題としても頻出してるから、きちんと覚えておきなさい」
そしてそう続けると、先生は教本で一度わたしの頭を軽く小突いた後で教壇へと歩いていった。
(覆水盆に返らず…か)
あの日柚奈とぶつかった時、既にここに至るまでの道は開かれていて、所詮もう後戻りは出来なかったって事かな。
(でも、多分大丈夫だと思いますよ、氷室先生)
あの子と偶然の出逢いを果たしてからここまで、周りの人達に心配されながら紆余曲折を繰り返したけど…。
それでも、正しい後悔のやり方だけはしっかりと覚えたから…ね。
******おわり******
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