イド・エージェンシーの派遣読本 〜モンテリナ姉妹編〜  その2

Chapter.2 宣戦布告

 少女は、実に良く食べた。
 それこそ、もう何日も口にしていないかの様な勢いで。
「…………」
 次々とテーブルに運ばれて来る料理を、まるで大食い大会でもしているかの様な勢いで片っ端から空にしていく珍客の姿に、わたしはフォークを持ったまま、自分の食事も忘れて見入っていた。
「……美味しい?」
「むぐむぐ……っ、ふ、ふぁひ……っ」
「あはは、尋ねるまでもないみたいね。メイシア、まだまだ足りないみたいよ?」
「ふうふう、ただでさえ予定外のお客様なのに、ペースが早すぎて目が回っちゃいそうですぅっ!」
 そして、厨房で忙しそうに手を動かしている小さな給仕さんへそう促すと、こちらを振り向かないまま不平の語気を強めてくる。
「文句を言わない。メイドの仕事をしていると、こういう事はざらに起こるものよ?」
 昨日もアンジェラが愚痴っていたけど、その程度で文句を言っていたら、とても身分の高い貴族のお屋敷での仕事は勤まらない。彼らは基本的にきまぐれで、使用人の苦労なんてこれっぽっちも考えてはくれないのが当たり前なのだから。
「ふひはへん……ほめいふぁくをふぉかけして……」
「いいのいいの。これも修行というか、ちょうど良い機会だったし」
 そこで、食べながらも申し訳なさそうに頭を下げる少女に、わたしは口元をニヤリと歪めた笑みを見せながらそう告げた。
 一流のメイドというのは、こうやって鍛えられていくものである。
「それに、良かったじゃないメイシア。こんなに夢中で自分の料理を平らげてもらうのは初めての事でしょ?」
「……でもでも、あんまり味わって食べてくれてる感じじゃないですよぉ」
 しかし、そんなわたしの皮肉がかったフォローに、新しい一皿を運んで来ながら、やっぱり不満顔を見せてくるメイシア。
「なるほどね。確かに空腹に勝るスパイスはない、か」
「むぅ〜っ、昨日メイシアが言った言葉を、こんな所で返されるなんてです……」
「まぁ、因果応報って奴ね」
 特に、ここ最近のメイシアは腕が上達していく代わりに、ヘンにこだわりを持つようになって相手を待たせる時間を省みず、自分主体で食事準備をしている、一種の”傲り”も見えてきていた事だし、ちょうど良い薬だった。
 そう考えれば、食費は馬鹿にならなくても、噴水公園で拾ってきたこの少女は、ある意味わたしにとって悪くない飛び入り客と言えるのかもしれない。
(ただまぁ、それにしても……)
「……だけど、今時行き倒れなんて珍しいわね?正直、見たのも拾ったのも初めてよ」
 いずれにしても、その健啖な食べっぷりに感嘆しつつ、目の前の少女を値踏みしながら呟くわたし。
 現在の王都は完全に失業したり、身寄りが無くなって路頭に迷った場合でも、過酷な労働と引き換えに、最低限の食事と外で寝るよりは幾分マシって
程度の居住環境を何とかしてくれる駆け込み施設もある事から、路上生活者は殆ど見なくなっていたのに。
「……すひはふぇん、ふぉれにはふぁい事情が……」
「ああ、話は食べてからで構わないわよ。ついでにお風呂も貸してあげるから、食事が終わったら入りなさいね?」
「うう、重ねふぁはね、ふぁりかとうごふぁいまふ……っ」
「だから、お礼も食べてからでいいってば」
 まったく、律儀な子である。
 食事マナーの方は、まるでなっちゃいないけど。
(それに……)
「…………」
「ほえ?」
「あ、ううん。何でもない」
 何だかこの子を見ていると既視感の様なものを感じるんだけど、気のせいだろうか?
(うーん、間違いなく初対面のハズなんだけど……)
 この王都では珍しい蒼い目の持ち主で、長い髪を左右のツーテールに結んだ、これまた希少な髪型をした十代後半くらいの可愛らしい顔立ちをした
少女なんて、わたしの記憶には全く覚えがないのに。
(わたしがメイドをしていた時に、どこかの派遣先で見た……って事もないわよねぇ)
 そもそも、着ている服からして見覚えが無いし。
「…………」
「ふぇ〜っ……ご馳走様でしたぁ……」
 ともあれ、やがてわたしやメイシアの分も含めたテーブルの上の料理をすっかりと平らげた後で、エプロンドレス姿の少女は手を合わせながら、ようやく助かったとばかりに大きく息を吐く。
「結局、綺麗に食べちゃったわね。何日くらい食べてなかったの?」
「ええと、かれこれ三日とちょっと、といった所でしょうか……」
「……なるほど。そろそろ限界が見えていたのね」
 それじゃ、自分の身体の上に誰かが座り込もうとしても、避けたりする気力も体力も残ってなかったって感じだろうか。
「まぁそれはともかくとして、せっかくだから色々と聞きたい事もあるけど、先にお風呂へ案内するわね」
 三日とちょっと何も食べてないって事は、お風呂にもその位は入っていないのだろう。
 モトは決して悪くない顔立ちだと思うんだけど、今は埃まみれで随分と酷いことになっているし。
「すみません、ではお言葉に甘えさせていただきます……」
 すると、やっぱり少女も気にしていたのか、促した後でわたしが先立って歩き始めると、申し訳無さそうに頭を下げながらも素直に付いて来る。
「やっぱり、女の子だもんね……って、歳はいくつ?」
「十七です」
「名前は?」
「……トレハです。トレハローズ・モンテリナといいます」
「トレハね。わたしはメイフェル・エスプリシア。とりあえずよろしくね?」
「あ、はいっ、こちらこそっ」
 それから、ようやく名前を聞いた後で、自分も名乗りつつ握手を求めると、恐縮した様子でわたしの手を取りながらぺこぺこと何度も頭を下げてくる
トレハ。
「別に、そんな畏まらなくてもいいってば。元々はわたしが失礼な事しちゃったしね」
 まぁ本当は、わざわざうちに招いてお詫びをする程のコトでもないのかもしれないけど、これも何かの縁だろう。
 ……それに、わたしは何だか出逢って間もない、このトレハと名乗った少女の事が気に入ってきた事でもあるし。

                    *

「さ、こっちよ……ん?」
「…………」
 やがて、キッチンを出て風呂場へと向かう途中、後ろからわたしに付いて来ているトレハが、何やらきょろきょろと辺りを見回しているのに気付く。
「どうしたの?何か気になる物でも?」
「あの、もしかしてここはエージェンシーなんですか?先ほど通りかかった部屋は学習室で、こちらは洗濯、裁縫の実習室……ですよね?」
「ええ、そうよ。表の看板を見なかった?」
 一応ちゃんと、入り口の上には大きな看板を掲げてあるんだけど、やっぱり経費節減でランプを付けていないから、暗くなると全然目立たないみたい
だった。
「……す、すみません……。空腹で目が回って、それどころではありませんでした」
「なるほど。足取りもふらふらで、大分切羽詰っていたもんね……って、入る前にちゃんと確認しておいた方がいいと思うわよ?」
 うら若き乙女が無防備な……というより、拾ったのがわたしじゃなくて、人身売買まがいの事をしている悪徳業者の事務所だったら、一体どうするつもりだったんだろう?
 ……とはいえ、わたしが肩を貸しつつ引っ張ってくる必要があった程に弱っていたのだから、途中で気付いても同じコトだったのかもしれないけど。
「はい、すみません……」
「まぁいいわ。とにかく、ここはエージェンシーのオフィスよ。エトレッド・エージェンシーっていうんだけど、聞いたことはないかしら?」
「…………」
 すると、まったく記憶に無いのか、申し訳なさそうに首を横へ振るトレハ。
「あはは、別に気にしになくていいわよ。歴史こそはそれなりにあるけど、今じゃいつ潰れてもおかしくない弱小エージェンシーだしね」
 そこで、わたしは自虐を込めて苦笑すると、大袈裟に肩を竦めて見せる。
 自分で言って悲しくなそうで、メイシアを含めて他の人達の前では絶対に言えない台詞だけに、何だかすっきりとした気分でもあったりして。
「そ、そうなんですか……?」
「……いや、だからってあまり真に受けられても困るんだけどね?」
「あ、ご、ごめんなさい……っ」
 事実だろうが、さすがにちょっと凹むとばかり、そこでジト目を向けてやるわたしに、トレハは慌てて立ち止まり、深々と平謝りを続けてくる。
 ……面白いなぁ、この子。
「もう、冗談だからそんなに必死にならなくてもいいってば。……まぁ本音を言えば、同業者には知っておいて欲しかったかなーとは思ったけど」
「同業者?」
「ん?そんな格好をしているから、そうじゃないかって思ったんだけど、違うの?」
 勿論、格好だけで判断するのは浅はかだけど、トレハが今着用している紺色の一体型ドレスに、パーラーメイド用として特別にデザインされたと思われる複雑な構造のレース付きエプロン、更に髪留めや手袋も違和感がない様に誂えられており、やや薄汚れてはいるものの、どう見てもフルセットで仕事用にオーダーメイドされた支給品である。
 所謂、ファッションではなく業務仕様の衣装みたいだから、これで単に趣味が高じて着ていると言われた方が違和感ってもので。
「…………」
 しかし、そんなわたしの台詞に対して、今度は俯いたまま黙り込んでしまうトレハ。
 ……良く分からないけど、何だか訳アリっぽいみたいだった。
「んー、まぁいいわ。とりあえず風呂場に着いたし、ゆっくりしていってよ」
 いずれにせよ、本人が話したがらないなら無理に聞き出すことも無い。
 目的地にも着いたし、わたしはそれ以上質問するのを止めてそう告げた。 
「すみません、ありがとうございます……」
「ああそれと、服も洗濯しておいてあげるから。替えの衣類はわたしので良ければ貸してあげるわよ?」
 見た所、背丈や体格はわたしと大差は無さそうだし、胸がキツくて入らないという、お約束のオチは無いだろう。
 ……まぁ、目の前のトレハが自分より六つも若いというのは考えない事にして。
「あ、はい……。何から何まですみません……」
「…………」
「…………」
「……脱がないの?」
 その後、脱いだ服を回収しようとしばらく待つものの、目の前の少女はもじもじとさせながら一向に動く気配がないので、思わずそんな間抜けな質問を
向けてしまうわたし。
「あ、いえ……そのちょっと、見られていると恥ずかしいです……」
 すると、そんな台詞と共に頬を赤く染め、トレハは困惑の顔を見せてくる。
「恥ずかしいって、女同士じゃない?」
「……それでも、恥ずかしいです」
「わかったわかった。それじゃ、先に着替えを持ってきてあげるから」
 そこで、あくまで頑として譲らないトレハに、わたしは苦笑い混じりで折れると、そう告げて脱衣場から出て行った。
「……まぁ、年頃の女の子なんだし、あの位は奥ゆかしくてもいいのかもしれないけどね」
 わたしがお風呂へ入ろうとすると、羞恥心のカケラも見せずに服を脱ぎ捨てながら一緒に入りたがるメイシアには、ちょっと見習わせておくべきなのかもしれない。
 妹としてなら可愛いんだけど、やっぱりメイドとしては……ね。

                    *

「……あ〜っ、メイシア一人だけずるい」
 やがて、自分の部屋と風呂場を往復し、トレハに着替えを届け終えた後でキッチンへ戻ると、メイシアが一人で食事を摂っている姿が目に映った。
 多分、残り物で簡単に用意したのだろう。
「ずるいと言われても、お姉ちゃんが連れてきたお客さんに自分の分まで食べられちゃったのは、メイシアの責任じゃないです」
「まぁまぁ、つれないコト言わないでよ。わたしとメイシアの仲じゃない?」
 そこで、食事を続けながら素っ気ない態度と台詞を返してくるメイシアに、わたしは苦笑いを浮かべて宥めながら、テーブルに向かっていく。
「むぅ……。せっかく、今日の夕食はお姉ちゃんと一緒に食べようと思って、張り切って用意していたですのに……」
「あはは。その頑張りが、意外な方向で役に立ってしまった訳ね?」
 多忙で食事時間が不規則になりがちなのに加えて、主人とそれに仕えている見習いメイドという、仮想とはいえ主従関係となった立場から、普段の平日はわたしとメイシアが一緒に食事をすることは無くなってしまっていた。
 ……しかし、それでも休日だけは普段の仕事も仮初めの主従関係からも開放されて、わたしがマスターになる前と同じく、同じテーブルで食事をしたり、また一緒にお風呂にも入ったりと、ただの家族に戻れる日と定めていた訳で、つまりメイシアがむくれているのは、珍客のトレハにそれを邪魔されてしまったからである。
「まぁまぁ。わたしもお腹が空いているんだし、残った少ない食べ物を分け合うのも家族ってもんでしょ?」
 そして、わたしはそんな台詞と共にメイシアの隣に座ると、フォークで大皿の上に乗ったカリカリのベーコンと野菜を突っついていく。
「もう、調子がいいんですからぁ……」
 だけど、そんなわたしにメイシアは頬を膨らませながらも、阻止しようとはしてこなかった。
「……それで、あの人のことはどうするですか?」
「さぁ。後でもうちょっと話を聞いてみるつもりだけど、どっちにしても今晩くらいは泊めてあげてもいいかな」
 勿論、うちは見ず知らずの他人を居候させる程の余裕は無いんだけど、何となくエプロンドレスを着て行き倒れかけていた彼女の姿からは、いずれは我が身かもと思えてしまった部分があるだけに、出来る範囲は助けてやりたい気になっていたりして。
 人間、ギリギリの生活をしている時の方が助け合いが出来るというけれど、綱渡りで何とかやりくりしている企業家の心理って、こんなものかしらんと
思える位に。
「さっき、十七歳って言ってたのが聞こえたですけど……家族はいないんですかね?」
「ん〜。とりあえず、家を飛び出したにしても、後先はまるで考えてなさそうではあったけど」
 元々手ぶらだったのか、無くしてしまったのかは分からないけれど、そもそも手荷物すら皆無だし。
 あんなにお腹を空かせていたのを見れば、お金だって当然持ってはいないのだろう。
「……まぁ、そこらも後で聞いてみるわよ。本人に話す気があるなら、だけど」
 ただ一宿一飯の恩義で、わたしには詳しく事情を尋ねる権利くらいはあるだろう。
 ……多分。

                    *

「お風呂いただきました。あと、着替えもありがとうございます。でも、これって……」
 やがて、メイシアと仲良く夕食を分けあったその後、書斎で残っていた報告書の作成作業をしていると、寝間着姿のトレハが風呂上がり特有の上気した顔を見せて入ってきた。
「ん?こんな夜中に追い出す訳にはいかないでしょ?どうせ、ここ数日は柔らかいお布団の上で眠れなかったんだろうし」
「…………」
「まぁ、袖振り合うのも多生の縁ってね。近年の王都は大分治安が良くなっているとは言っても、物騒な連中はいるものだし」
 そこで、「どうしてそこまでしてくれるんですか?」という台詞を困惑した表情に乗せてこちらを見るトレハに、作業の手を止めて控えめな笑みを浮かべるわたし。
 いくらなんでも、先立つ物もアテも無さそうな女の子を、このまま知らんぷりして「これで借りは返したわよ」と放り出すには、どうにも寝覚めが悪い。
 それに……。
「…………」
 元々、最初に見た時から割と綺麗な顔立ちをしているとは思っていたけれど、全面に浮かび上がっていた疲労の色も食事と入浴で大分解消され、更に髪を解いてストレート・ロングになっている今は雰囲気が微妙に変わった事もあって、改めてそれを実感させられていた。
 ただ、綺麗といってもどちらかと言えば可愛いという表現の方がぴったりで、貴族の娘にありがちな刺々しい気品じゃなくて、柔らかい純朴さを感じさせる良い意味での田舎娘って感じなんだけど、でも同時にどこかミステリアスな一面も纏っていたりして、様々な要素が不協和音にならない程度に重なり合って複雑な雰囲気を醸し出しているのが、余計にわたしの目を引き付けている原因にもなっている。
「…………?」
 しかし一方で、やっぱり何処かで見た様な既視感が更に強く感じられているのも確かだった。
(うーん、どうしてだろう……?)
「……あの、どうかしましたか?」
 そして、思わずそのままじっと見つめ続けるわたしに、トレハがきょとんとした顔で尋ねてくる。
「ん?いや、結構悪くないなーと思って」
「え、えっと……」
「い、いや、違うって。エージェンシーのマスターとしての話よ」
 すると、何やら身の危機を感じたのか、両腕で身を守る仕草を見せながら一歩下がるトレハを見て、慌てて首を横に振るわたし。
 ……どうも、マスターになってからこっち、言動が色々と誤解されやすいみたいね。
「マスターとして……ですか?」
「まぁ、ある種の直感みたいなものね。言葉で説明するのは難しいんだけど」
 当然、顔立ちとかプロポーションとか、そんな見てくれだけの単純な話じゃない。
 むしろ、メイドに対して基本的に問われているのは、パーラーの様な仕事を除けば外見よりも勤勉で従順な性格と、確かなスキルであって。
 ……あとは、どれだけ親しみが持てて心が癒されるか、もしくは人を引きつけるモノがあるかのどちらかが人気を集める要素になってくるものの、
何となくトレハにはそのどちらかが備わっている様な気がしていた。
「そ、そうですか……」
 いずれにしても、これはメイドとしてそれなりの年月を過ごし、現場で様々な人と一緒に仕事をする中で得られる感覚だと思うし、直感なんて曖昧な表現とは裏腹に、自分の中での信頼度は高い。
「ええ。だから、さっきあなたの事を同業者じゃないかって思ったのも、服装以外でそんな部分を感じ取ったのかもしれないわね」
「…………」
 それから、わたしは更にそう続けて再び踏み込んでみたものの、やっぱりトレハは肯定も否定もせずに黙り込んでしまった。
(……まぁ、話したくないなら、無理には聞かないけどね)
 本人からの言葉以外でも、彼女がメイドなのかどうか、簡単に確かめる方法はある。
 それは、相手の「手」を見ること。メイドにとって、手荒れやしもやけは職業病の様なもので、普段からどんなにケアをしていようが、全く荒れていない綺麗な手をしている者など皆無と言ってもいい。
 という事で、トレハの手を見れば一目瞭然なんだけど……。
「ところで、手袋はずっと外さないの?結構汚れているから不衛生だと思うんだけど」
「あ、はい……すみません」
 しかし、着替えた彼女の手に、未だ手袋が着けられている事が気になったわたしが指摘してやると、トレハは俯きながらも弱々しく自分の意志を示してきた。
(……つまり、それも訳アリの一部という訳ですか)
 何か、思ったより遥かに面倒くさい事情を抱えてそうだけど……。
「…………」
「……その、手袋じゃなきゃダメなの?」
 そこで、少しだけ考える間を置いた後で、別の切り口で水を向けてみるわたし。
 あまり深く立ち入らない方が良さそうな気がする反面で、ますます目の前の少女に興味を引かれてきている自分もいたりして。
「え……?」
「だからって、いつまでも着けている訳にはいかないでしょ?予備がないなら、別のを貸してあげるから」
「は、はい……。すみません……」
(ふむ……)
 別に、その手袋自体がどうだって話でもないみたいね。
 メイシアに頼んで洗濯中のエプロンドレスの事も、特に気にしている素振りは見えないし。
(とりあえず、こうやって答えてもらえそうな話から尋ねていくしかないか……)
 何だか誘導尋問みたいで後ろめたいけど、まぁ仕方がない。
 出来れば今夜のうちにしておくべき仕事がもう一つ、増えてしまったのだから。
「それじゃまぁ、その話は一旦置いておくとして……それで、これからどうするの?」
「……どうしましょう?……」
 ともあれ、外堀から固めるもって行き方は難しいと判断したわたしは、思い切って一番大事な核心へいきなり迫ってみると、トレハは困ったような顔を
向けてくる。
「どうしましょうって言われてもね……」
 こっちがどうしましょうである。
「トレハ、御両親や家族は?」
「両親はいません……家族は姉が一人いますけど」
「何処にいるの?」
「……分かりません。今は離れ離れになってしまっているので」
「んじゃもしかして、ずっとお姉さんを探していたとか?」
「いえ、そういう訳じゃないんですが……」
 しかし、あっさりと否定するトレハの語尾は明らかに小さくなっていた。
 ……またも、何やら訳アリの匂い。
(うーん、どうしたものやらね……)
 というより、わたしはどうするべきなのかな?
「…………」
「…………」
「……やれやれ、何だか随分と複雑な事情を抱えているみたいね。わたしも一体どこまで聞いていいやら気を遣うのが大変だわ」
 やがて、またしばらく考えた末にとうとう白旗を上げたわたしは、投げやりにバンザイして見せる。
 決定的な亀裂を作らない様に細心の注意を払いながら情報を聞き出していくなんて、こんなのはディテクティブの仕事であって、わたしが続けたところで知恵熱でも出てきそう。
「い、いえ、そんな……っ、私が悪いんですから……」
「だから、今はこれ以上の立ち入った事は聞いたりしないけど、一つだけ教えて。あなたは、これからどうしたいの?」
 それは先程のリピートな様で、決定的な違いのある問いかけ。
「え、えっと、それは……」
「……なんなら、うちでやってみる?」
 とはいえ、この状態で自分の希望を遠慮無しに言ってみろと促されても、無理というものだろう。
 そこでわたしは少しだけ間を置いた後で、風呂場でトレハと別れて書斎に戻った後から密かに用意していた、選択肢の一例を示してやった。
「えっ?……あの、いいんです……か?」
 すると、わたしの申し出を聞いて、突然満面の笑みに変わったりはしなかったものの、遠慮がちに上目遣いを見せてくるトレハ。
「ただし、人物証明書がないなら、最初は見習いからだけどね」
 人物証明書とは、エージェンシーや公式ランクを取った時に王国が発行する履歴書のこと。公式、非公式を含めて取得したメイドランクの証明書でも
あり、エージェンシーは全ての登録メイドに対して人物証明書を発行し、希望退職、解雇を問わず離職時には本人へ渡す事を義務づけられいた。
 という事で、これを持っていない者は未経験者とみなされ、見習いのDランクからやり直しである。
「は、はい……持っていないので、それで構いません……」
「そう、分かったわ」
 持っていないというのならば、逆に話は早い。入ったばかりの新人として扱えばいいだけの話である。
 どのみち、登録したからといって、明日から早速お仕事にって訳にもいかないんだし。
「それじゃ、このアプリケーションに可能な範囲でいいから、必要事項を記入して。しばらくは見習いとして様子を見ます」
「は、はいっ、ありがとうございます!」
 そしてわたしは、これ以上の全てのツッコミを封印してそう締めくくってやると、差し出された書類を受け取るのも忘れて、何度も頭を下げてくるトレハ。
 とりあえず、やる気だけはあるみたいだし、今はそれで良しとしておきますか。
「んじゃ、その書類に記入したら、空き部屋を提供してあげるから、今日はもう眠りなさい。これからの事は明日改めて指示するわ」
「……はいっ!これからよろしくお願いします、マスター♪」

                    *

「……と言うわけで、あの子は結局うちが引き取ることになりました」
「まぁ、そんな予感はしていたですけどね」
 やがて、トレハを部屋へ案内した後で、リビングのソファーに腰掛けて本を読んでいた風呂上りのメイシアを見つけて手短に結果報告をすると、小さく
溜息をつきながらも優しい笑みを返してくれた。
「やっぱり?」
「お姉ちゃんがあの人をあっさりと見捨てられるなら、きっとメイシアも今ここにはいないと思うのです」
「いや、そんなコトはないと思うけど……そっか……」
 それがエージェンシーのマスターとして良い事か悪い事なのかは分からないけれど、全てお見通しみたいだった。
「でも、身分証明の方は大丈夫なんですか?」
「まぁ、おそらく問題ないでしょ。一応、手続き時にリストを確認したけど、トレハの名前は見なかったし」
 ライオネル王国内の公式エージェンシーに加盟が義務付けられている統括組織は政府の機関だけあって、その情報網は広く迅速である。
 仮に、トレハが本当はどこかに所属中の身なら、定期的に届けられる名鑑に名前が載っているし、もし勤務中に問題を起こして逃げ出していたのだとしたら、ブラックリストの通告が届いているはずだった。
 リストに入っていないのなら、とりあえず雇っても問題ない相手という事にはなるものの、ただ本当に未経験なのならば、彼女の能力に関してはこれから自分の目でしっかりと見極めなければならない。
 メイドが実務を行う際に必要となるCランクの発行は、王国ではなくエージェンシーのマスターが自らの責任で行う事になっており、つまり研修期間を経て大丈夫だと判断すれば、わたしが彼女の人物を保証して派遣していく形になるのだから。
「それじゃ、見習いって事は明日からメイシアの仕事を半分こするですか?」
「そうね。とりあえず、どれだけの事が出来るかを見極めなきゃならないし、うまく分担して仲良くやってよ」
「分かりましたです。メイシアの方が先輩ですから、びしっと指示してみせるですよ!」
 ともあれ、協力をお願いするわたしに対して、メイシアは素直に頷いた後で、どんっと薄い胸を叩いて見せる。
 どうやら、年上とはいえ後輩が出来たのは満更でも無いらしい。
「よろしくね。……それと、とりあえずわたしのお古でいいから、制服を支給しておいて。今後はうちのメンバーなんだから」
 メイドがお仕事時に着用するエプロンドレスは、要望があれば派遣先で用意されたものを使用する場合もあるけれど、基本的にはエージェンシーが
支給した制服を着るのが通例だった。
 その為、多少この業界に詳しくなれば、着ているものでどのエージェンシーに所属しているかは分かる様になる。
 ……だから、トレハが着ていたエプロンドレスに見覚えが無いのが、わたし的にはどうしても引っかかる部分ではあるんだけど。
「それじゃ、今乾かしている服はどうするですか?」
「後でトレハに返せばいいと思うけど、まずはわたしの元へ持ってきて」
「分かりましたです。……もしかして、試しに着てみたりするですか?」
「ま、それも一興かもね。んじゃ、わたしもそろそろ寝るとするわ、おやすみ……」
 そして、わたしはそんなメイシアの軽口に対して適当にお茶を濁すと、欠伸と共に蔓延してきた眠気に導かれるがまま、自分の寝室へと戻っていった。

 そして、次の日……。

「マスター、起きて下さいマスター?」
「う〜ん……」
 暖かい毛布にくるまれて至福の時間を過ごすわたしに、誰かが身体を揺らしてくる。
 まだ目は開けていないけれど、そろそろ起きる時間なのかもしれない。
「もう、朝ご飯が冷めちゃいますよ?」
「…………」
 しかし、今日はいつもと違い、わたしに呼びかけているのはメイシアの甘ったるい声じゃなかった。
 というコトは……。
(……ああつまり、これは夢なんだ)
 夢の中でまで、無理やり起こされても仕方がない。
 わたしは呼びかけを無視して、そのまま惰眠を貪る事に。
「えっと、こういう時は……」
「…………」
「……ゴメンなさいっ!」

 ばしゃっ

「ぷわっ?!」
 しかし、そこで突然冷たいモノがわたしの頭上へ降りかかり、問答無用で意識を引き戻されてしまった。
「…………っ?!」
(な、何?何が起こったの……?)
「あ、あの……おはようございます、マスター……」
「えっと、トレハ……?」
 そして、上半身を起こして目を丸くするわたしの前にいたのは、両手で洗面器を持ったまま、不安げな顔を浮かべているうちの新入りだった。
「は、はい。今日からメイシアさんと一緒に、見習いとしてマスターのお世話をする様にと」
「……うんまぁ、確かにそれはわたしが昨晩にメイシアへ指示した通りだけど、主人の顔に水をぶっかけるのが、トレハ流の起こし方なの?」
「いえ、その……。メイシアさんが、マスターがどうしても起きてくれない時は、いつもこうしているからと」
 そこで、あまりの予想外だった出来事に、どんなリアクションをすればいいのかすら分からず、わたしは布団の上に乗っていたタオルへ手を伸ばしながら皮肉がかった言葉で尋ねると、トレハは戸惑いの顔をそのままに、おずおずとそう答えてくる。
「なによ、それ……?」
 というか、やってくれたわね、メイシア……。
「いっ、いえ……私も、それはいくらなんでも……とは思ったんですけど」
「……そりゃ、一般常識で考えたら分かるでしょーに」
「でも、慣習や生活スタイルは人それぞれですし」
「だからって、人の言う事を何でも信じて受け入れちゃダメよ?目覚めのキスでもしてくれなきゃ起きないなんて言われたら、本当にする気なの?」
 というか、こういう困ったクライアントも実際にいるのだから、メイドにはダメなものはダメとはっきりお断り申し上げられる毅然さが求められるワケで。
「すみません……」
「……まぁ、いいけどね。確かにお陰で目は覚めたわ」
 今までメイシアに散々脅されてきていた事を、とうとう実行されてしまったという話だから、わたしにとっては因果応報なのかもしれない。
「おはようございますです、マスター。今朝の目覚めはいかがですかぁ?」
 その後、髪を乾かす作業が追加された、いつもより長い着替えを終えていつもの様に書斎へ移動すると、机に朝食を並べていたメイシアがこちらへ振り返り、ニヤニヤとした目で尋ねてきた。
「もう……メイシア、トレハに妙な事は教えないでってば」
「ありゃ。もしかしてトレハお姉ちゃん、本当にやっちゃったですか?」
 そこで、開口一番にツッコミを入れるわたしを見て、グッジョブとばかりに遅れて入って来たトレハへ親指を立てて見せるメイシア。
「あのね……」
 メイシアに、こんな小悪魔な一面があるとは思わなかった。
 勿論、それを額面通りに信じてしまうトレハもトレハだけど、まぁ仲良くやっているならそれでいいか。
「ところで、今日のメイシア達はどうすればいいですか?」
「そうねぇ……とりあえず、今日の午後からの仕事は、トレハと一緒に行って来るわ」
 ヤキモチ焼きなうちの妹と上手くやっていけそうなのは分かったから、続けてわたしが最優先でやるべきなのは、トレハが現状でどこまで出来るのかを把握する事である。
「お仕事?しばらくは研修と聞いていましたけど、いきなり実地なんですか?」
「ん〜、実地というか、なんと言うか……」
「あはは、確かにうちの見習いなら避けては通れないですねぇ」
 すると、歯切れの悪いわたしに続いて、同じく訳知り顔で苦笑いを見せてくるメイシア。
「へ……?」

                    *

「……って事でマスター、今日からは暫くこの子を連れてくるのでよろしく」
 やがて午後になり、いつもの様に星辰の麓亭へと副業に出向いたわたしは、メイシアの代わりに連れてきたトレハをタレットさんに紹介した。
「見ねぇ顔だな、新入りか?」
「は、はいっ!昨日から登録していただいた、見習いのトレハローズと申します」
 そこで、早速値踏みする様な視線を向けるマスターに、ペコペコと何度も頭を下げていくトレハ。
 まぁ、この調子なら少々失敗しても平謝り攻撃で何とかなりそうか。
「とりあえず、この子が使いものになるのかどうかを見定めたいので、ここで試用させて頂こうかと」
「……お前さ、何だかんだ言って、俺をうまく利用してるよな?」
「まぁまぁ。そこは持ちつ持たれつって事で。ジョゼット、わたしの制服の替えを出してくれるかしら?」
「はいはい、その子に着せるのね?」
「制服?着せる……?」
「ええ、うちの制服を着てここまで来てもらったけど、またすぐに脱いでもらう事になるわ。着替えたら、わたしと一緒に接客よ」
「……接客……?」

 そして……。

「いらっしゃいませ〜♪二名様ですか?どうぞこちらへ」
「い、いらっしゃいませ〜」
「ほらトレハ、お客様を迎える声は、もっと大きくハキハキと」
 それから、星辰の麓亭のウェイトレスへ支給される制服に身を包み、いつもの様に次々とやってくる客を案内する中で、こちらに倣いながらも戸惑いを隠せない表情を見せるトレハへ、わたしは腰の辺りをポンポンと叩きながら促していく。
「あ、はい……。でもマスター、これって……」
「うちみたいな弱小ともなると、何でもしていかないと生きていけないのよ。不服?」
 もちろん、皆まで言わなくとも、トレハの言いたい事は痛いくらいに分かる。
 分かるんだけど、仕方が無い。
「い、いえ、そんな事は無いですけど……」
「とにかく、パーラーメイドにでもなったつもりで、しっかりやんなさい。ここでの仕事がしっかりと出来ない様では、本番の仕事も任せられないし」
 少なくとも、まだここで失敗する分は取り返しがつくのだから。
 ……と言葉にしたら、マスターに怒られるだろうけど。
「わっ、分かりました、頑張ります!」
 すると、トレハはわたしへ向けて小さくガッツポーズを見せた後で、今度は自発的に入店してきた客の元へと駆け寄って行く。
「いらっしゃいませ〜♪三名様ご案内致しますね♪」
「……うん。とりあえず、ノリはいいみたいね」
 ノリと言うか、そういう切り換えの早さも時には必要なだけに、まずはうちの見習い合格かな?
(まぁいーわ。今日はもうあまりあれこれと指示をせずに、後方から様子を見ていよう……)
「お〜っほっほっほっ、ごきげんよう。看板娘のメイフェルさん」
「あら、出たわね。恐怖の削岩ヘアお嬢様」
 ……と思った矢先、いつもの甲高い笑い声と共に入店してきた顔馴染みの常連客を見て、わたしはカウンターパンチを浴びせてやる。
 うちの常連さんは温厚で紳士的な人ばかりだけど、こいつだけはわたしが対処してあげないと。
「んなっ、勝手に妙な仇名を付けないでくださるかしら?!」
「だって、あんたのその縦ロール、高速回転させたら発掘作業に使えるんじゃないかって、巷の評判よ?」
 大体、毎朝その髪をセットするのに何時間かけているんだか。
 ……もしかしたら、専門の美容師とかもいたりしてね。
「まったく、ここは何てお店ですのっ、常連客を愚弄するとは!」
 ともあれ、わたしの応対にすっかりと憤慨した様子のお嬢様は肩をいからせ、ずんずんと奥の席へ勝手に向かっていく。
「……だったら、たまには普通に入ってきなさいっての」
 そもそも、毎回突っかかって来ているのは、ラトゥーレの方なんだから。

「ところで、今日は一人なの?……もしかして、早速この前見たコから三行半を突きつけられたとかー?」
「ほほほ、貴女と一緒にして欲しくはありませんわね?スクラは今、グラディール侯爵のお屋敷でお勤め中ですわ。コンテスト出場の為の推薦状を頂かなくてはなりませんし」
 そして、どすんといつもの席に腰を下ろしたラトゥーレからオーダーを伺うついでに、わたしが語尾上げで慣れない嫌味を続けてやると、本家から余裕たっぷりの反撃が返ってきた。
「コンテスト出場って、今回のリースリングは、あの子を出すの?」
「ふふふ、公式ランクこそ無いものの、スクラはうちでも近年稀に見る逸材ですもの。……それに、そろそろわたくしも跡取りとしての威信を示さねばなりませんから」
「ふーん」
 威信は知ったコトじゃないけど、コンテスト……か。
 やっぱり、エージェンシーの華なんだよね。出場候補者が一人いるだけで、空気からして全然違うし。
「それで、今回メイフェルさんの所からは、誰が出場なさいますの?」
「え?うち?」
「お〜っほっほっほっ、これは失礼。愚問でしたわね」
「…………っ」
(この、性悪女……)
 うちには候補者がいないと分かった上で、敢えて聞いてくるなんて。
「うるさいわね……。時期が悪いと、こういう時もあるわよ」
「ほほう、では次回ならばアテでもおありになると?」
「う……た、例えばあの子とか……っ」
 そう言って、ラトゥーレからの容赦ない追求の苦し紛れに、少し離れた場所でランチセットを運んでいるトレハを指差すわたし。
「あら、新人の方ですの?」
「ええ。昨日登録した、トレハよ」
「あらあらあら、まだ貴女の所に登録したがる酔狂な方っておりましたのね?」
「……余計なお世話よ。それに、殆ど成り行きで拾っただけだし」
 いやまぁ、実際はわたしが誘った様なものだろうけど。
「なるほど、落ちている物でも意地汚く拾って来なければならないとは、まったく泣けてきますわね?お〜っほっほっほっ♪」
「むぅ……っ」
 人がああ言えばこう言うんだから、この捻くれお嬢様が。
「はいはい、それに比べて苦労知らずの箱入り娘はいいわよね?親のスネをかじっていれば、最初から完成品を貰えるんだから、さぞかし楽でしょうよ」
「しかしメイフェルさんでは、せっかくの素材すら生かせないのではなくて?」
 そこで、わたしは力の限りの嫌味を込めて皮肉を飛ばしてやるものの、まるで意に介していないといった様子で、ラトゥーレにあっさりと返り討ちにされてしまう。
「……どういう意味よ?」
「言葉の通りですわ。貴女が継ぐ事になった際に主力の殆どが抜けてしまったのは、その証明ではないのかしら?」
「ぐ……っ!」
 ううっ、痛い所を……。
「貴女の元を離れたAクラスの中には、リースリングへ移籍した者もおりますの。メイドとしての能力はともかく、マスターとしてのお嬢様は信頼に値しないと申しておりましたわよ?」
「…………」
「かつて、規模こそ大きくならなかったものの、独特の手法で少人数ながらも極めて質の高いメイドを育成して、コンテストではダークホースとして王宮へ
響くほどの評判を得ていたエトレッド・エージェンシーは、貴女の代になって風前の灯。先代方の名声に泥を塗る前に、ここらで大人しくお店を畳まれてはいかがかしら?」
「何を勝手な事を。あんたにそんなコトを言われる筋合いは……」
「これでも、無いとおっしゃいますの?」
 しかし、わたしが言い終える前にラトゥーレはぴしゃりと遮ると、一通の封筒を突き出してくる。
「な、何よ、それ?」
「中をご覧になれば分かりますわ」
 続けて素っ気無く促され、渋々と受け取った後で、封筒の中に入っていた四つ折りの紙を取り出してみるわたし。
 何やら、署名入りの正式な私文書みたいだけど……。
「……んなっ?!」
 そしてその内容は、一瞬でわたしを戦慄させるには充分だった。
「1000万マテリアですって……?!」
 内容は、うちの父がラトゥーレの父親であるヴォルド氏に対する、1000万マテリアの借用書。
「ええ。更に返済期限が来月末で、返せなかった場合はそれ以降の残高に毎月の利子が加算される約束になっておりますわ」
「そ、そんな、聞いてないわよ……っ」
 元々、うちは資金的に恵まれてはいなかったけど、それ故になるべく借金を作らない経営体質を続けていて、現に先代の父が亡くなった時点で銀行への借入れ残高はゼロに等しかったし、それはわたしがエージェンシーを引き継ぐ決心に至る大きな要因でもあった訳で。
 確かに、メイシアや他の登録者達を見捨てられない気持ちはあったけど、返済出来るのか分からない借金を抱えていたとなれば、間違いなく別の方法を考えていたはずだから。
「…………っ」
 しかし、何度確認しても、確かにこの借用書には父の字体で署名が記されていて、ヴォルドさんへ借金をしていたのは確かみたいだった。
「確かに、この借用契約はお父様同士で交わされたものですが、正式に相続した以上は、跡取りである貴女に背負う義務がありますわよ?」
「分かってるわよ、そんな事……っ」
 とはいえ、エージェンシー継続の為に相続した最低限の資産以外を処分して残ったなけなしの財産は、相続税や葬儀、そして事業引継ぎの際にかかった諸費用で既に無くなってしまっている上に、毎月が採算ギリギリの綱渡り状態が続く今のうちの財務状況だと、利子が加算されていく中で利益の中から返済するなんて、言いたくはないけど無理である。
(どうして今まで、こんな借金があるのを黙っていたのよ……っ?!)
「さて、どうなさいますの、メイフェルさん?返すアテはおありかしら?」
「…………」
 いずれにしても、既に後の祭り。
 お陰で、ムカつく程に勝ち誇った笑みを見せてくるラトゥーレに対して、わたしは黙り込むしか出来なくなってしまった。
「ちなみに、貴女がメイドとしてリースリングに下るというのであれば、帳消しも考えて差し上げますわよ?一応はうちでも二十人と居ない、公式Aランクですものね」
「だけど、うちを吸収するのはお断りって言ってたじゃない?」
「当然ですわ。今のエトレッドで用があるのは貴女一人だけですもの。無論、その時はこの私に忠誠を誓っていただきますけど」
「……それで良しと出来るなら、最初から苦しい道を選んだりしてないわよ。だけど、それでもメイドを志して頼ってくる人間が一人でも残ったなら、彼女達に仕事を探し与えるのがエージェンシーの責務じゃない?!」
 みんなを見捨てて自分だけが生きて行くのなら、今からだってどうにでも出来る。
 けど、わたしは……。
「それは単なる理念に過ぎませんわ。エージェンシーも事業であって、大きな成果を期待できない残りかす同士が身を寄せ合った所で、一体何が出来ると?結局は時間の問題ではありません事?」
「違うわ!Cランクでもアイラみたいにその気になればBランクへ昇格出来る者はいるし、メイシアやミルフィ達みたいな若い有望株だっているもの!あの子達がいずれ成長してくれれば……」
「あらあら、願望と予測の区別がお付きになられていないとは、哀れなものですわね?経営者としても論外ですわよ?」
「…………っ!」
 そこで、ラトゥーレからのトドメの追い討ちがわたしの心を貫いた時、ぴしっという音と共に、今まで抑えていた理性にヒビが入るのを感じていた。
「能力不足で公式Aランクにもなれず、コネだけで出場したコンテストでは見事に予選落ちしたラトゥーレなんかに、わたしがそこまで見くびられるとはね?」
「ふ、ふん、だから笑止だと言うのです。メイドとしての能力と、マスターの能力を同じと勘違いなさっているから」
「……ああそう、それじゃ今回はマスターとして勝負したろうじゃない」
 自分でも馬鹿な事を考えてるのは自覚しているけど、もう止められない。
「勝負、ですって?」
「あの、マスター……先ほどから他のお客様へのご迷惑に……きゃあっ?!」
「そうよ。わたしは今から、この子を鍛え上げてコンテストに出場させる。それでもし優勝出来れば借金も返せるし、少なくともあんたの擁する出場者よりも上位だったら、二度と偉そうな口は利かせないからね?」
 それから、わたしはノコノコと忠告にやって来たトレハを捕まえて抱き寄せると、ラトゥーレに対して堂々と宣戦布告をしてみせた。
「え、えええええっ?!」
「ふふふ、何を言い出すのかと思えば、愚かな事を。その様な激情に任せた思い付きで、本当に優勝を狙えるとでも?いや、それ以前に出場まで漕ぎ着けられるのかどうかすら……」
「過去のエトレッド・エージェンシーは、そんな前評判を吹き飛ばしてコンテストを荒らしていたんでしょ?だったら、わたしがそれを再現してみせるわよ」
 どの道、このまま沈みゆく運命に抗って復興する道がそれしかないのならば、無謀な大勝負に賭けて玉砕するのも本望だし、それがどういう結果になろうが、メイシア達もきっと分かってくれるだろう。
「口で仰るだけならば簡単ですが、具体的な道筋は見えていますの?」
「それは、あんたの知った事じゃないでしょ?それで、受けるの受けないの?!」
「上等ですわ。誇り高きリースリングの後継者候補として、売られた喧嘩は買うまで。積年の決着を付けるべく、今度こそ完膚無きままに叩き潰して差し上げますわ!」
「はんっ、負け犬はどっちなのか、二年前と同じくもう一度思い知らせてやるわよ!」
 そして、テーブルを挟んで睨み合うお互いの殺気を込めた視線が、バチバチとスパークさせながら交差していった。
「……あ、あの、ですから他のお客様へのご迷惑が……」
「うるさい。それよりこうなったからには、何が何でもあんたを鍛え上げてコンテストへ出場させるからね。覚悟しときなさいよ?」
 もう、じっくり見極めるなんて悠長な事は言っていられない。
 ……何せ、残された時間は二月も無いのだから。
「ほ、本気なんですか?」
「何よ、嫌なの?」
「そ、そんな事はないですけど……」
「大丈夫よ、トレハは磨けば誰よりも光輝く才能があるわ。わたしの言う事を信じて付いてくればね?」
「え?本当ですか?」
「……ま、そうでも思わないと、これからはやっていけないんだし、そう思い込みなさい」
 わたしはそう告げると、一瞬嬉しそうな顔を見せたトレハの肩をぽんぽんと叩いてやった。
「そんなぁ……」
「では、コンテストの日を楽しみにしておりますわ。精々足掻いて見せてくださいな」
「ふん、そっちこそ精々余裕をかまして油断してなさいよ。……だけど、これだけは言っておくわ」
「……何ですの?」
「結局、今日のオーダーもマリアージュフレールとスコーンでいいのかしら?」
 一流を志す者として、本来の仕事も忘れずこなしますよ、勿論。

                    *

「ほっほっほ、お若い方は活気があってよろしいですな?」
 それから、ようやくラトゥーレからオーダーを受けてカウンターへ戻る最中に、わたしはテーブル席に座る老紳士から声をかけられた。
「グ、グレイ卿……っ?!申し訳ありませんっ、騒がしくしてしまいまして……!」
 そして、その相手が上得意様である事に気付くや否や、すぐに足を止めて頭を下げ続けるわたし。
 しまった、つい頭に血が上ってしまったけど、グレイ卿の見ている前でなんて醜態を……。
「いえいえ、なかなか面白い余興でしたとも。やはり、若いうちは血気盛んでないと」
 しかし、そんなわたしの焦りに反して、子爵様の方は気分を害した様子もなく、ティーカップを片手に好々爺の笑みを浮かべながらそう告げてくる。
 そのテーブルにはいつもの様にライオネル・タイムズ紙と、ティー・カップの中から湯気をたてているアールグレイとセットでオーダーされた、食べかけのスコーンがトレイの上に乗っていた。
「……恐れ入ります」
 いつも大体決まった時間に新聞紙を抱えて灰色のモーニング・コート姿でやってくるこの老紳士は、ハーネスト・グレイマン子爵。この店ではグレイ卿と呼ばれて親しまれている貴族だった。
 現役時代は王国軍情報部に在籍して、内外の様々な諜報活動に関わり、やがてはD.C(部長)を二十年余り務めて退役。その時にこれまでの功績を称えられ、国王陛下より子爵の位を与えられて貴族の仲間入りを果たした、今では生ける伝説と化しているエリート軍人である。
 ちなみに現在は、民間の調査会社「ディテクティブ」の一つである、コンチネンタル・サーカス社の社長を務めており、わたしも度々利用させてもらっているし、何よりうちのエトレッド・エージェンシーが代替わりした時に、貴族層では数少ない、以前と変わらずに仕事を発注して下さるお得意様でもあり、現在うちのBクラスメンバーの仕事の大半はグレイ卿から受けている事情もあって、とにかくわたしにとっては何かと頭の上がらない人物だった。
「……それにしても、これはなかなか興味深い展開になりましたな」
 ともあれ、最高のお得意様の前で失態を働いて冷や汗混じりで畏まるわたしに、グレイ卿は自分のマスコット銘柄を上品に一口すすった後で、意味深な台詞を呟いてくる。
「と、言われますと?」
「いえいえ、こちらの話ですよ。……しかし、今回の件がメイフェル嬢やエージェンシーにとって僥倖となれば宜しいのですが」
 そこで、言葉の真意を遠慮がちに尋ねるわたしなものの、グレイ卿はそんな言葉だけを続けて、これ以上は何も話してくれなかった。
「…………」
 まぁ、いいか。
 せっかくのティータイムを邪魔された事で気分を害されていないのならなによりだし、とりあえずグレイ卿が激励してくれていると勝手に解釈しておこう。
(それより、早急に明日からの事を考えないとね……?)
 とにかく時間が無い分、途中で迷いを生まない様に、しっかりとしたプロットを今日中にも練っておかないと。

                    *

「はっ、はっ、はっ……ほらトレハ、ペースが落ちてきているわよ?」
「はぁ、はぁ、はぁ……っ、ま、待って下さいよぉ……っ」
 やがて訪れた強化月間の一日目、涼しい風を背に公営運動場で規則正しいペースを維持しつつ軽快な走りを続けていくわたしの後方で、既にヘバっている状態を顔や言葉で必死に主張しながら、よたよたと後を追ってくるトレハ。
 しかし、まだまだ予定の半分も進んでいないのだから、ここで手綱を緩める訳にはいかない。
「もう、それ以上遅れたら朝食抜きだからね?ほら、頑張って」
「はぁ、ひぃ……っ、こ、こんなの聞いてませんよぉ……っ」
「だって、昨晩寝る前にやっと特訓メニューが完成したんだから仕方が無いでしょ?いいから黙って付いてきなさいっての」
「ううう、もう足が痛いです……」
 そんな訳で、最近は朝がすっかりと弱くなっていたにも関わらず、普段よりも自発的に一時間早く起きたわたしは、驚くトレハを無理やり近くの公園まで引っ張って行くと、一緒に早朝ランニングをしていた。
 ……というか、本当はトレハだけ走らせてもいいんだけど、わたしも近頃は現場を離れてすっかりと運動不足になっていた事もあって、丁度いい機会でもあったし。
 精神的に堪える仕事ばかりで心は疲弊しきっているのに、肉体の方はしっかりと鈍っているのだから、困りものである。
「そんな情けないコト言ってんじゃないの。メイドは体力が資本よ?」
 ただ、そんなわたしでも、今まで取ってきた杵柄でまだまだトレハには遅れをとらないどころか、逆に先行き不安になってしまう程に圧倒してしまってる
みたいだった。
(やれやれ、やっぱり基礎から鍛え直しみたいね、こりゃ……)
 いずれにしても、止まっているメイドは悪いメイド。常に動き回っているメイドが理想的と言われている通り、一にも二にも体力勝負となる職業なのは確かである。
 それに何より、これからコンテストまで相当無茶なペースでの特訓が続くので、途中で倒れてしまわない為にも、本末転倒にならない程度の身体作りは欠かせない。
「はぁ、はぁ……っ、そ、そうかもしれませんけど……っ」
「わたしだって、見習い時代から走り込みの他に腕立て伏せや腹筋運動とかもしてたわよ。だからトレハと違って、まだ息があがってないでしょ?」
「そ、そうですね……。ペースも乱れずに凄いです……」
「だから、感心してちゃダメだってのに……」
 一応メイドですから、筋肉隆々の領域まで鍛え込むのは考え物としても、第一線で活躍している様な人なら、この程度のトレーニングは誰に言われずともやっているはずだった。
 何せ、貴族の屋敷に住み込みでの勤務ともなれば、生半可の体力と覚悟では、あっという間に過労とストレスで倒れてしまう。
 これは、実際の経験者であるわたしが言うのだから、間違い無い。
「す、すみません……」
「どの道、これからメイドとしてやっていくのなら、今の苦しみは後で確実に生きてくるわ。わたしも一緒に走るから、二人で頑張りましょ?」
 こうやって、マスターとメイドが二人三脚なのが、ずっと伝統として残っているエトレッドの流儀だしね。
「は、はい……っ、分かりました……っ!」
「よーし。理解できたら、外周をもう2周ほど回るわよ?ついでに声も出していく?」
 すると、想いはしっかりと伝わったのか、目つきが変わって残った力を振り絞ってくるトレハに、テンション高めでそう告げるわたし。
 こっちも、ようやく身体が温まってノッてきた所だし。
「ひ、ひええええっ?!」

                    *

「……さーて、今日はこんなものかな?」
「はぁ、はぁ、はぁ……っ、あ、ありがとうございましたぁ……」
 やがて、予定していた距離を消化した後、タオルで汗を拭いながらわたしがそう告げると、何とか最後まで付いてきたトレハはその場に蹲りながら、激しく息を切らせていた。
 どうやら、足が震えて動けないらしい。
「まったくもう、この程度の走り込みでヘバってる様じゃ、一流への道は遠いわよ?」
「すみません……」
「…………」
 本来、すみませんはわたしの台詞なんだよね……。
 でも……。
「ほら、立てる?」
 それから、程なくしてトレハの息が整ってきたのを見計らうと、未だに座り込んでいる彼女の元へ手を伸ばしてやるわたし。
「あ、はい……」
 もう、後戻りは出来ないし、する気も無いから。
「まぁ、昨日の今日でまさかこんな展開になるなんて、思いもよらなかったろうしね」
 そして、汗が滲む湿っぽい手を取り、ゆっくりとトレハを立ち上がらせると、わたしは繋いだ手を離さないまま苦笑いを見せた。
「あはは、確かにほんの数日前の私には全く想像も出来なかったでしょうねぇ」
「でも、それも結果的とはいえ、うちに転がり込む形になった因果だと思ってもらうしかないかな?」
「……ええ、分かっています。こんな素性も定かではない私を、何も聞かずに拾い上げて下さったのですから。マスターの為なら、どんな事でもする覚悟は決めているつもりです」
 すると、そんなわたしの軽口に対して、真剣そのものな目を向けながら頷いてくるトレハ。
「もう……あまり深刻に考えないで。トレハは単にわたしの気まぐれにつき合わされているだけよ」
 ただ、利害だけは一致しているとは思うから、決してトレハ自身にとっても悪い話にはならないはず。
「それでも……っ」
「……でもまぁ、それでもアテも無く彷徨うよりはマシでしょ?余計な事とか考える暇が無い位がね」
 そう言って、わたしはトレハにウィンクして見せた。
「……メイフェルさん……」
「何にせよ、一番大切なのは仕えている相手の為だけではなく、何より自分の為に頑張るということ。これはメイドとしては大切な心得だから、是非覚えておいて」
「え?は、はい……」
 その後で、わたしが続けた「鉄則」に、少しばかり戸惑いの顔を浮かべるトレハ。
(やっぱり、そっか……)
 何となく予想はしてたけど、どうやらトレハは心構えの上でも、ちょっとばかり欠けている部分があるみたいで、そちらの教育も不可欠みたいだった。
「だからね、最初に約束しておくわ。わたしはこれから一ヵ月半の間、全身全霊をもってトレハがコンテストで優勝出来るように鍛え上げる。自分自身の為と、あなたの為にね。だから、トレハもあなた自身と、わたしの為に最後までやり抜いて欲しいの」
 そこでわたしは、繋いだ手を更に少しだけ強く握り、トレハの目を真剣に見据えてそう告げてやる。
 特に、”奇跡”を起こすに等しいコトをやろうとしている今回ばかりは、一方通行の気持ちなんかじゃとても成功なんて望めないだろうから。
「は、はいっ、こちらこそよろしくお願いしますっ!」
「……ええ、お互いの幸せの為にね」
 いずれにせよ、準備に費やせる時間がごく限られている中で、必要な知識や技能を教え込むには、最大限に効率良く訓練メニューを組むしかない。
 そして、無謀としか言いようのない今回に勝算と呼べるものがあるとすれば、わたしが前大会では決勝まで残った実績を持つということ。
 つまり、自分の敗因を含めて、少ない時間で何を優先すべきかは分かっているつもりだった。
「…………」
 しかし、やっぱり最後にモノを言うのは、トレハの気力、体力が最後まで持続してくれるか。
 何せ、完璧に近い人事を尽くして、ようやく運を天に任せる事が出来るという、極めて細い可能性である。
(本当に、頼りにしているからね、トレハ……)
 ……それでも、何だかワクワクしている自分もいるのは、今はまだ内緒だけど。

                    *

「さて、いいかしらトレハ?コンテストは二部構成になっていて、予選である一次審査を通過した者だけが、後日行われる二次審査へ進む事が出来るの。……つまり、まずは一次審査に合格出来る為の知識や技能を身に付けるのが目標になるわね」
 やがて、帰宅して朝食を摂った後(ただ軟弱にも、トレハはあまり喉を通らなかったみたいだけど)、今度はトレハを学習室へ連れ込むと、黒板に書き込みながらコンテストの概要を説明し始めるわたし。
 たった二年前は、わたしが説明を聞く側だったのに、時代の移り変わりは早いものである。
「その、一次審査とは?」
「まずは筆記試験があって、その後3グループに分かれて料理、洗濯、掃除の実技試験を行い、その合計点で争われるわ。具体的には上位の二十名が合格ね」
 ちなみに同点決勝もアリだから、多少増える事もあるけれど。
「それで、競争率はどの位なんですか?」
「今はまだ、あまり考えない方がいいと思うけど……まぁいいわ。前回のコンテストの実績で言えば、出場者が合計194人で、一次試験の平均点は400点満点中、292点だったみたい。合格ラインの方は残念ながら公表されていないけど、まぁ最低でも340点程度は必要って所かしらね」
 何せ、出場条件からして厳しいだけに、競争率そのものはそれ程ではないとしても、エントリーされた個々のレベルは極めて高かった。
「参考までに言っておくと、わたしのスコアが362点で10位通過だったから、まぁこのぐらい取れれば間違いなく合格出来るでしょ」
「……ううっ、高レベルですね」
「まぁまぁ、だからと言って悲観する事もないわ。少なくとも、一次試験で重要なのは経験とかの今更どうにもならない部分じゃなくて、審査の評価ポイントをしっかりと押さえておく事」
 つまり、そこが経験者としてのわたしが勝算と呼べる部分だった。
「評価ポイント、ですか?」
「ええ。だからその為には前にも言った通り、トレハがわたしの指示を信じて、忠実に従ってもらう事が必要になるけど、出来るかしら?」
「が、頑張りますっ!」
「よろしい。それでは今後の特訓メニューだけど、まずは一週間でこれだけ頭の中に叩き込んでもらうわ」
 それから、わたしはトレハの意思を改めて確認した上でそう告げると、昨晩のうちに用意しておいた教科書の束を、机の上へ積み上げてやった。
 内訳を言えば、ライオネル王家及び、有力貴族の歴史や系譜、礼儀作法の変遷、文学史、料理本、掃除及び洗濯技術の教本、そして法律書など。
「えええええ……っ?!これを全部ですか?」
「全部と言っても、しおりで挟んでマーキングしている部分だけよ」
 そして呆然としながら、ひー、ふー、みーと積まれた課題を無駄に数えているトレハに、素っ気無くフォローを入れるわたし。
「……それでも、これは結構な量だと思うんですけど……?」
「出来るでしょ?これから一週間は、ここで勉強に専念してくれればいいんだから」
「え?実習訓練とかも無しですか?」
「ええ。実習は後回しで、まずは必要になる知識を詰め込みなさい。一週間後にテストをして、合格なら次のステップへ移行するわ」
「……もし、ダメだったら?」
「んー。その時はまぁ、そこで終わりかしらね」
 そこで、恐る恐る後ろ向きな質問を向けてくるトレハへ、わたしは肩を竦めながら、あっさりとそう告げてやった。
「え……?」
「悪いけど、再テストをする猶予なんて無いの。わたしが組んだスケジュールは、本当にギリギリだし」
「で、でも……」
「トレハ、現状のわたし達はコンテストで優勝する以前に、まずは出場する為に乗り越えなければならない試練が沢山あるの。だから、ここで躓いている
時間は無いわ」
 しかし、この最初のステップをクリアしてもらわない限り、次も存在しない。
 それだけコンテストは、条件がシビアで一筋縄ではいかないのである。
「…………っ」
「だから、わたし達のコンテストは既に始まっていると思って。もう、失敗を取り戻す時間も、後に戻る道も存在しないの」
「……分かりました。私、頑張りますっ!」
 すると、トレハもようやく覚悟を決めた様に強く頷くと、さっそく一番上に積んだ教本から手に取ってゆく。
「コンテストでの筆記試験の出題傾向としては、ライオネル王家の歴史もだけど、王族の系譜が特に大きなウェイトを占めているわ。つまり、自分が仕える相手についてどれだけ深く理解しているのかを問われるワケだけど、これは貴族階級の顧客に気に入られる為には必須の知識だから、良く覚えておいて」
 そもそも貴族というのは、見栄やプライドの他に、歴史を尊ぶ事で生きている様な人種である。
 しかも、貴族の階級は基本が年功序列の為、位が高くなればなるほど家の歴史も古く、保守的な傾向が強くなってくる。
 ……要するに、ここでのポイントは、それを理解して準備をしているかどうかだった。
「は、はい……っ!」
「とりあえずコンテスト対策としては、わたしがマークしている通り、現在の王族であるハイランド家関連に絞って間違い無いわ。後は、労働法の概要と
貴族流の礼儀作法をきちんと覚えておけば、充分合格ラインの得点は望めると思うし」
「なるほど、実際に出場された経験のあるマスターだから、絞れてくるんですね?」
「伝統よ、伝統。わたしの時も先代からそう教わって勉強したんだから」
 それで、わたしが出場した時も90点以上は取れたんだし、今回も大丈夫なはず。
(まぁダメだったら、その時はそれまでね)
 とりあえず、今のわたしやトレハが最もしてはいけないのは、自分達の進んでいる道が本当に正しいのかを疑ってしまう事だし、その位に楽観的でないとプレッシャーに押し潰されるだけである。
「……って事で、わたしはそろそろ別の仕事があるので抜けるけど、しっかりやんなさいね?」
「あ、はいっ」
「途中で一息入れたくなったら、メイシアに頼んでいいわ。むしろ、ついでにお茶を淹れる練習をしようなんてコトは考えないで。いいわね?」
 失敗の出来ない場面で一番大敵なのは雑念であって、たとえ口煩いと思われようが、少しの脱線が致命傷になりそうな今は、心を鬼にするしかない。
「わ、分かりました……っ」
「んじゃ、健闘を祈っているわ」
 そして、わたしは短く激励した後で、学習室を出ていった。

                    *

「さて、と……」
 その後、わたしは書斎へ戻ると、紙とペンを取って自分の仕事をリストアップしていく。
 昨晩はトレハの訓練スケジュールの作成に追われて手一杯だったけれど、わたしの方の仕事もきちんと順序立てて整理しておかないと、取り返しがつかない事になる。
「えっと……まずは何から手をつけようか?」
 紹介状の手配に人物証明書の作成、特別訓練の申し込み等々、するべき事は山ほどあるものの、とにもかくにも、まずはコンテストへのエントリー手続きを順当に済ませていかなければならない。
 ちなみに、コンテスト出場の条件としては、まず王国から送られてきた告知書に同封されている出場申請書の作成、そして参加費と保証金を含めた40万マテリアと出場者の人物証明書、更に伯爵以上の階級を持つ貴族からの紹介状が必要だった。
 その中でも、やはり紹介状を得るのが最大の難関となってくるものの、こちらは人物証明書と共にコンテストの一週間前までに用意できればいいので今は置いておくとして、さし当たって必要なのは、出場申請書に必要事項を書き込み、出場料分の小切手を同封して王宮へと送る事である。
「う〜っ、40万マテリアか……」
 Bランクメイド二人分の月給に相当するこの額は、うちにとってはポンと気軽に払えるものじゃないとしても、さすがに40万程度のキャッシュフローすら
無いワケじゃないし、そもそも出場料の支払いで躊躇する様なエージェンシーが出ようと考えていい大会でもない。
「……ん〜……っ」
 ただ、今回は極めて個人的な感情含みで動いているし、先日にラトゥーレから突きつけられた1000万マテリアという借用書がある事を考えたら、
エージェンシーの資金を使うのは、どうにも気が引けてしまう。
「…………」
(やっぱり、リスクを背負うべきなのは、わたし個人だよね?)

 こんこん

「……はい、どうぞ?」
 そこで、深く考えるまでもなくある決断を下したわたしが立ち上がった所で、書斎のドアがノックされる。
「……失礼しますです」
 急いではいるものの、とりあえずわたしが招き入れる言葉を返すと、折り畳まれた衣服を持ったメイシアが入ってきた。
「メイシア、ちょうど良かったわ。今からちょっと出かけてくるわね?」
「だったらその前に、これを受け取ってくださいです」
 そう言ってメイシアから差し出されたのは、紺色のエプロンドレス一式。
 先日、洗濯が終わった後で持って来るように指示していた、トレハが着ていた服だった。
「ああ、クリーニングが終わったのね。ありがとう」
(……そーいえば、まだもう一つだけやっておくべき用事があったわね)
 これで、益々エージェンシーのお金は使えなくなってしまったけれど、なかなか絶妙のタイミングだった。
「それで、どこへお出かけしてくるですか?」
「まぁ、色々よ。それより、時々トレハの様子を見て、お茶でも淹れてあげてくれるかしら?何なら一緒に勉強してもいいだろうし」
「……分かりましたです……」
「分かったというわりには、不服そうな顔をしてるわね?」
 しかし、そこでいつものひまわりの笑みと歯切れのいい返事が返ってこなかったのを見て、苦笑い混じりにツッコミを入れるわたし。
 ……というか、メイシアがわたしの前でこんな顔を見せたのも久々だった。
「べ、別に、そんなコトはないですけどぉ……」
「やっぱり、メイシアを差し置いてトレハをコンテストに出場させようと構ってばかりだから、面白くないのかしら?」
「……う〜っ、ちょっとメイシアじゃダメだったのかと思っただけです」
 それを見て、わたしは敢えて直球の指摘を向けてやると、やはりビンゴだったのかメイシアは頬を膨らませながら、ぷいっと横を向いてしまった。
「まぁまぁ、メイシアもいずれは出場させたいと思ってるわよ。……だけど、まだその時じゃないもの」
 技術面云々以前に、まだ十三歳のメイシアには体力面での不安が大きすぎる。
 大切な妹だからこそ、早くから無理な背伸びをさせるつもりは無かった。
「そんなの、分かってますですよ〜だ」
「あのね、よく聞いてメイシア。今回はわたしとしラトゥーレの戦いかもしれないけど、うちのエージェンシーの名誉と未来もかかっているし、その為には
メイシアの協力も不可欠なの。だから、今回は脇役に回って助けてくれないかしら?」
 ともあれ、ヤキモチ焼きなメイシアの不満の根源に気付いたわたしは、真剣な目で肩を抱きながら懇々と説得していく。
 わたしとしても、メイシアはトレハのサポート役として不可欠な”戦力”なのだから。
「わ、分かりましたです……。お姉ちゃんの為なら……」
「いい子ね、メイシアは。頼りにしてるからね?」
 すると、ようやく笑みを見せながら頷いてくれたのを見てわたしはそう告げると、メイシアの前髪をかき上げ、おでこに軽く口付けしてやる。
「もう……そういうのは、お姉ちゃんらしくなくて、好きじゃないです……」
 だけど、そんな言葉とは裏腹に、頬を染めるメイシアの顔は満更でもなさそうだった。
「あら、ほっぺにちゅーの方が良かったかしら?」
「ううん、それはいつかメイシアがコンテストで優勝できた時でいいです」
 それから、メイシアは照れた顔を浮かべながらそう続けると、そのまま踵を返して逃げる様に書斎を出て行ってしまった。
「…………」
(でもちょっと、罪悪感かも……)
 別に、嘘をついたワケでもないんだけど、何だか上手く騙して利用している様な後ろめたさに囚われてしまったりして。
 時にはうまく煽てながらその気にさせるのも、マスターに必要な技能だとは聞いたけど……ね。

                    *

「こんにちは。ごめんください」
「はいよ。……おや、これは珍しいお客さんが来たもんだ」
 やがて、出かけた後で中央通りにある最初の目的地のドアをくぐり、ガラクタかお宝か分からない品物が乱雑に並べられているお店の奥へと進むと、
わたしの姿に気付いた年配の女性が帳面を付けていた手を止めて、銀縁メガネを神経質に動かしながら声をかけてきた。
「ええ、ご無沙汰しています、ボンペイさん」
 それを受けて、自分は客という立場でありながらも、深々と頭を下げるわたし。
 この人は、わたしが以前にお世話になった事がある、「ボンペイ質屋」の店主だった。
「……大体、半年振りって所かね。あんたが相続税を支払う為に、遺品の処分に来た時以来だから」
「そうなりますかね。その節はお陰様で助かりましたけど」
「んで、そのあんたが再び来たとあれば、また金に困った事でもあったのかい?」
「ええ、一つ質に入れたい物がありまして」
 それから、早速用件を尋ねてくるボンペイさんに、わたしも前置き無しでそう告げると、ポケットから宝石箱を取り出して蓋を開けて見せた。
「おいおい、本気かい?こいつは確か……」
「いいんです。これなら、40万マテリアの担保にはなるでしょ?」
 すると、予想通りに驚いた顔を浮かべてきた顔見知りの質屋へ、わたしは素っ気無く言葉を返す。
 というか、「本気か?」なんて尋ねられたら、その都度自分に問い返してしまう羽目になってしまうので、出来れば聞いて欲しくはない質問だけど。
「40万マテリア?……コンテストの参加費って所かい?」
 ともあれ、早速わたしが求めた額に対して、さらりと核心をついてくるボンペイさん。
 ……この辺の察しの良さは、さすがは金融業である。
「御名答。しかも個人的な理由なので、エージェンシーのお金は使いたくないんです」
「しかし、こいつは一番大切にしていたモノなんだろう?」
「過去形じゃなくて、現在進行形ですよ。わたしにとって、今でも一番大切な宝物です」
 わたしが借金のカタにボンペイさんへ差し出そうとしているのは、成人した記念に両親から貰ったガーネットの指輪だった。
 ダイヤを散りばめたプラチナの台座に、わたしの誕生石である大粒のガーネットが嵌め込まれている特注品で、本来はこんな物を身に着けられる身分ではないながらも、一生に一度の記念だからと、無理をしてプレゼントしてくれた、本来は何があっても手放したくない宝物である。
「こいつを手放す覚悟で、コンテスト出場とはね。つまりエージェンシーにとっては、優秀な人材こそが掛け替えの無い宝石だとでも言う気かい?」
「そんな、大層な話じゃないですよ。ただ、この位のリスクは背負ってもいいかと思っただけですし、それに、まだ手放す羽目になると決まったわけでも無いですから」
 ケジメとして、わたしもその位の覚悟で挑まないと、過酷な訓練メニューを課しているトレハに申し訳が立たないし。
「……いいだろう、最後の台詞が気に入った。格安の金利で預かっておいてやるよ」
「ありがとう、ボンペイさん。恩に着ます」
「なに、これも縁さね。半年前にあんたがうちの店を選んだ時からのね」
「…………」

「……縁……か」
 その後、取引を終えて質屋を出た所で、わたしはボンペイさんが口に出した「縁」という言葉を思い返し、誰にともなく呟いていた。
 考えてみれば、ラトゥーレとやりあった時に、もし一緒に働いていたのがトレハじゃなくてメイシアだったら、きっとあんなコトは言い出さなかっただろう。
 今朝、わたしはトレハへ「うちに転がり込む形になってしまった因果と思え」なんて言ったけど、それは自分にとっても同じなのかもしれない。
「……まぁこうなったら、なる様にしかならないんだけどね」
 少なくとも、賽は自分で投げちゃったんだから。

                    *

「ふ〜っ、もうこんな時間かぁ……」
 やがて、予定していた全ての用事を終えて家の前まで戻った時、既に辺りはどっぷりと暗くなっていた。
 とりあえず、参加費の問題はどうにかなったし、後はトレハが期待通りに頑張ってくれていればいいんだけど……。
「ただいま〜っ」
「おかえりなさいです〜♪随分と遅かったですねぇ?」
「えぇ、まとめて行く所があったからね。それで、トレハはしっかりやってる?」
「頑張ってますですよ〜?……というか、ちょっと頑張りすぎかもしれないです」
 それから、玄関のドアを開いてただいまを告げるや否や、早速出迎えてくれたメイシアに脱いだコートを手渡しながら尋ねると、苦笑いと共にそんな答えが返ってくる。
「と、いうと?」
「たとえば、メイシアが一息入れてくださいって紅茶を出して、次にカップを下げようとした時に、中が空っぽになっていたコトが無いのですよ」
「なんだそりゃ?実は嫌いな銘柄だったとか?」
「それで、次はトレハお姉ちゃんに好きな飲み物を聞いて出したですけど、結果は同じだったです」
「へぇ……」
 つまり、それだけ集中していたって事?
「…………」

                    *

「……ね、トレハ。調子はどうかしら?」
 ともあれ、メイシアの言葉で何となく不安になってきたわたしは、自ら様子を見てこようと学習室まで向かい、静かにドアを開けて一声かけながら中へ
入ると、すぐに出かける前と同じ席に座ったままのトレハの後ろ姿が目に映ったものの、返事は無い。
「…………?」
 もしかして、集中しすぎて周囲の声すら聞こえていないとか?
 そんな埒もないコトを考えながら彼女の近くまで寄ってみると、その答えはすぐに分かった。
「……す〜っ……す〜…っ」
「ありゃ……」
 部屋に入った時からぴくりとも動かないので、心配になって覗き込んでみると、当のトレハは教科書を開いたまま、静かな寝息をたてて眠り込んでいた。
 どうやら、やる気よりも体力の方が先に限界へ達したらしい。
(……やれやれ。全力で頑張ったって、持続出来なきゃ意味が無いじゃないのよ)
 まぁ、わたしが朝早くから叩き起こして走りこみをさせたのも大きいんだろうけど。
 しかし、それより……。
「すーっ……すぅぅ……っ」
(それにしても、可愛い寝顔ね……)
 まるで、小さな子供みたいに無邪気というか、こうしてみると天使の様にも見える。
 ……そして、こんな無防備な寝顔を見せられれば、ついつい悪戯の一つも考えてしまうのが人情というもので。
(ほっぺたを突っついてもいいし、いきなり目覚めのちゅーでもして、びっくりさせてやろうかしら?)
 一体、どんなリアクションを見せてくれるのか、興味も沸いてきたし。
「…………」
「…………」
 しかし、そんなわたしに芽生えたささやかな野望も、外の廊下からこちらをじっと見据えるメイシアの視線であっさりと阻まれてしまった。
「あ、あははは……冗談よ、冗談」
 さすがは我が妹。わたしの行動パターンを見切っているみたいで。
「う……ん?あれ……?」
 すると、耳元で弁解したわたしの声が目覚ましとなったのか、トレハの瞼がゆっくりと開いていく。
「あら、お目覚め?」
「んあ、どうもおはようございまふ……って、マスター?!」
 そして、手を口元に当てながら、大きな欠伸を見せる途中で目の前にいるのがわたしだと気付くと、慌てて居住まいを正すトレハ。
「ご、ごごごめんなさいっ。私、居眠りするつもりなんて……っ」
「ああ、いいのよ別に。疲れたらいつでも休憩して貰って構わないって、出かける前に言わなかったっけ?」
 その後、何度も何度も頭を下げてくるトレハに、わたしは宥める様にそう告げてやる。
 ……どうやら、生真面目なのはいいけど、加減も知らないみたいね。
「ただ、出来れば机に座ったまま寝るのは止めた方がいいわ。根詰めるのはいいけど、風邪でも引いてリタイアする羽目になったら、本末転倒でしょ?」
 わたしにとっては、それこそが一番の懸念材料だった。仮に力及ばず敗れるにしても、不戦敗ほど納得がいかず、虚しい事はない。
「すみません……私って、何をやってもダメで……」
「……トレハ、その台詞は二度と私の前で吐かないで」
 そこで、しゅんとしょげ返るトレハに対して、わたしは優しい言葉をかけてやる代わりに、不快な感情を隠すことなく、厳しい口調できっぱりと命じた。
「え……?」
「あなた自身がどう思おうと、わたしはトレハに賭けたの。一蓮托生なの。だから、今のトレハが自分を卑下するのは、同時にわたしを否定している事に
なるの」
「そ、そんなコト……っ」
「いい、トレハ?現実的な話をしてしまえば、過程を含めた全ての物事が理想通りに進むって事は、まずあり得ないの。だから大切なのは、要所で結果を残せるかどうかだけ。言ってる意味は分かるかな?」
「は、はい……」
「だから、常に気を張っていないで、もっと気軽にやりなさい。仮に一夜漬けでも、来週のテストで合格点さえ取ってくれれば文句は無いんだから」
 まぁ、本当はそれでは困るものの、トレハにはそのくらい極端に言ってやった方がいい気もした。
「…………」
「そもそも、朝の早くからヘトヘトになるまで運動していたんだから、午後を回った辺りから眠くなってくるのは当たり前でしょ。だったら、自分で昼寝の時間を定めて、仮眠室で休めばいいじゃない?それで頭をすっきりさせて勉強を再開した方が、効率はいいと思うわよ?」
「はい……」
「それと、今朝のわたしの言葉は覚えているでしょ?“自分自身とわたしの為に頑張れ”ってね。これは、一緒に幸せになりましょうって意味だから」
 メイドという職業に、協調性や社交性は確かに必要な資質だと思うけれど、自己犠牲の精神が強すぎるタイプは、得てして自ら悲劇のヒロインを演じて
しまいがちだった。
 世間はそれを美徳として持ち上げるけれど、不幸な事件の犠牲者になってしまいがちなのは、大抵がそんな優し過ぎる子達なのだから、「一緒に幸せになろう」という理念は、うちのエージェンシーに登録したメイド達へ向けて、常に言い聞かせてきているコトである。
「……はい。ありがとうございます……」
「別に、お礼を言われることじゃないわよ。登録メイドへのメンタル・コンディショニングも、マスターの大切な仕事だし」
「いいえ。今のありがとうございますは、マスターへ向けたものではありませんから♪」
「あによ、それ……」
 しかし、それでも満更でもないと思っていた所へ、トレハから満面の笑みで否定され、がくっと項垂れてしまうわたし。
「…………」
 でもまぁ、ようやくトレハの表情に笑みが戻ってきたみたいだし、良しとしておきますか。
「まぁいいわ。トレハには、言葉じゃなくて身体で感謝の気持ちを示して貰うとするから」
「……やっぱり、そういう趣味がおありなんですか?」
「違うわよ……っ!とにかくっ、どっちにしたって来週のテストに落ちたりなんかしたら、絶対に承知しないんだからね?!」
「ひ〜〜んっ」
 ……それに、トレハとのこんな空気も悪くないと感じ始めているわたしもいるし。
(縁……か……)
 もしかしたら、もしかするのかも……ね。
「ふふ……っ」

                    *

「……よし、合格ね。よく頑張ったわ」
「わぁ、ありがとうございますっ!」
 それから一週間後、予告通りにコンテストの一時審査を想定した模擬試験を課した後で、返って来た答案用紙を採点したわたしが胸を撫で下ろしながらそう告げると、嬉しそうにバンザイをして見せるトレハ。
 正直、不安は最後まで付きまとっていたものの、過去に出題された問題を集めたテストで、充分に合格と言える点数をクリアしてくれていた。
「あとは、間違った部分を復習してくれればいいけど、まぁこれなら大丈夫かな?」
 それでも、わたしが指摘した要点は抑えているし、求められる最低限の基礎知識は習得してくれたと判断しても良さそうだった。
「では、いよいよ実践訓練ですか?」
「そうね。まぁ実践というよりは、実地訓練だけどね」
「実地……訓練?」
「詳しい話は現地に着いてからするけど、とりあえず明日までにこのお金で外泊の準備を整えてちょうだい。どの道これからはコンテストの直前まで帰ってこられない日々が続くだろうから、日用品や下着類を買い足しておくといいわ」
 そしてわたしはそう告げると、お財布から支度金(という程の額でもないけど)を取り出してトレハに握らせる。
「はい……?」
「ああそれと、今日は他にはもういいから、買い物が終われば明日までゆっくりしてくれていいわ」
 どうせ、明日からはまたロクにお休みも取れない多忙な日々が続くんだし。
「わ、分かりました……」
「時間が少ないと言っても、まだ目指すゴールは遠いんだから、休める時にはしっかり休みなさいよ?」
 まだ、一番つらい時期はここを乗り越えた先に待っているワケだしね。

                    *

「……んじゃ予定通り、俺にトレハ嬢ちゃんを仕込んでくれってか?」
 それから、翌日の午前中にトラベルケースを持たせたトレハを連れて実地訓練の場所へ赴くと、待っていた主人が肩を竦めながら迎え入れてくれた。
「ええ。コンテストの一次審査をパス出来るだけの付け焼刃で構わないから」
 勝手知ったる関係だけに、決して歓迎された依頼じゃないってのは分かっているものの、敢えて知らないフリをしてそう告げるわたし。
 つまり現地とは、毎度すっかりとお馴染みの星辰の麓亭のことだった。
「まったく、お前ら親子は俺の事情を知っていて、そんな頼み事をしてきやがるんだからな」
 すると、予想通りにタレット師から早速嫌な顔をされてしまうものの、かつて自分が父に連れられて来た時を思い出して、思わず噴き出しそうになって
しまうわたし。
 お師匠には気の毒だけど、料理の腕を短期間で鍛えるのに、これほど頼り甲斐のある相手も他には見当たらないのよね。
「事情?」
「順を追って説明するわ。まずコンテストで作る料理はね、メニューそのものはそれほど難しい物を出題されるワケじゃないの。だから、課題の料理そのものが作れなくて困るコトはないはずよ」
「例えば、どんな料理なんですか?」
「何を作るかは、当日用意された食材次第だけど、課題として与えられるのはお任せのランチメニューよ。前菜、サブ及びメインディッシュを一品ずつ、
そしてデザートもあればボーナスポイント、って所かな」
 この辺は持ち時間との勝負になるけれど、効率を考えて無駄なくやってさえいれば、それほど慌てなくともきちんと品数を揃えられるハズだった。
「つまり、普段通りに作ればいいと?」
「……ただその中で、絶対に見落としてはならないポイントが一つあるの。それは、作った料理を審査するのは伯爵クラス以上の上級貴族や王族であるってこと」
「つまり早いハナシが、この俺に奴らの口に合う味付けを教えてやれって言うんだろ?」
 そしてわたしがそこまで話を進めた所で、やれやれと再び肩を竦めながら、気の向かない感情を隠す事なく口を挟んでくるタレットさん。
「まぁまぁ。わたしがこういう事を頼めるのは、かつては貴族お抱えのコックを二十年近くも渡り歩いてきたマスターだけしか知らないんだから」
「ええっ、そうだったんですか?!」
「……けっ、そんな大層なもんじゃねぇよ。あいつらは揃って味音痴ばかりだしな」
 そこで、驚きと尊敬の眼差しを向けるトレハに対して、タレット師は手を縦に振りながら、苦々しく吐き捨てる。
「味音痴って……」
「あはは、貴族の食卓にシーフード料理を普及させようとしては上手くいかず、その度に喧嘩しては出て行っての繰り返しだったんだっけ?」
「俺は元々港の生まれだ。セイレーンで獲れる魚がどれだけ旨いかは、この俺が一番良く知っている。……それなのに、あの連中ときたら海亀以外は
海産物と聞いただけで顔をしかめやがってよ、だから愛想が尽きたのさ。あいつらは身なりこそ流行ばかり追いかける癖に、食事はてんで保守的ときたもんだ」
「まぁまぁ。ルフィーナはこの店の海鮮料理が好きだから、いつもこの場所を選んでるんだし、最近は直接来なくても貴族層のお客さんが増えてるじゃない?諦めずに頑張っていれば、いずれはもっと広く普及していくわよ」
 少なくとも、近年では女性の間で広がりを見せているのは確かだった。
 やっぱり肉と比べて油が少なくヘルシーだし、海藻類は美肌効果も望めるしと、メリットは大きいのである。
「……ふん。世辞はいらねぇよ。貴族の客ったって、茶ばかり飲んでいきやがるし」
「それだけ、マスターの腕は未だに貴族相手にも全然通用するって事よ。んじゃ、そういうことなのでよろしく」
 ともあれ、このまま師匠の愚痴を延々と聞いていたら、貴重な一日を丸々費やしてしまいかねないので、わたしは一方的にそう告げて会話にキリを付けてやる。
 ……普段は無駄話が嫌いな職人だけど、貴族の味覚批判だけは始めると長いんだから。
「ちっ、胸糞が悪い依頼だが……まぁいい。他でもない親友の娘にして愛弟子の頼みだ。引き受けてやるよ」
「さっすが、話が分かるわね。それじゃトレハはこれから十日間、この店に泊まり込んで貴族向けの食事の作り方を学んできなさい」
「……なるほど、そういう事ですか。分かりました」
 その後で、締めくくりにわたしが改めて指示を出すと、トレハは納得した顔でこくりと頷いた。
「で、その代わりに修行期間中はこの嬢ちゃんをロハでコキ使ってもいいんだろ?」
「ええ、もちろん。ついでに接客や他の訓練もさせたいから、過労で倒れない程度にどんどん使ってやって」
「うええええっ?!そ、そんなぁ……」
 しかし、そこからタレットさんが思い出した様に切り出した台詞に対して、わたしが当然とばかりに頷いた所で、トレハの顔色が変わっていく。
「……トレハ、世の中はすべて取引よ。タレットさんから貴重な技術を得る代わりに、あなたは労働力を提供する。それとも、他に差し出せる対価があるとでも?」
「あうっ、それは……」
「大体、料理人のノウハウを楽して得ようなんざ、甘過ぎるんだよな?」
「ねぇ?かく言うわたしもマスターの元で修行していた時は、何度逃げ出そうと思った事か」
「ううううう……」
「しかし、そこを乗り越えたからこそ、今のわたしがあるの。皆まで言わなくても分かるわね、トレハ?」
 それから、わたしはそう告げると、幾分の圧力を込めてトレハの目をじっと見据える。
「……はぁい……。分かりました」
「よろしい。頑張ってね?トレハならきっと出来るから」
 すると、不安そうな顔を残しながらも、渋々と了承してくれたトレハに、わたしは両方の肩を同時に叩きながら激励してやった。

                    *

「メイフェル、やっとコンテストへ出場する気になってくれたみたいね?」
「へ?どうしてそれを?」
 やがて、トレハをタレットさんの元へ預けて数日が経った次の休日、再びルフィーナのお誘いを受けて恒例の星辰の麓亭で食事をしていた時に、わたしは突然そんな話題を切り出される。
 今日は内緒でトレハの視察も兼ねるつもりではあったけど、まさかお姫様の方からコンテストの話を持ち出されるなんて。
「勿論、メイフェルが送付した応募書類を見たからよ。今回のコンテストは私も関わることになっているから」
「関わる?」
「……実はね、今回の優勝者はそのまま私の従者になる可能性があるの。ロデレールが結婚を理由に、もうすぐ退職するから」
「なるほど。そういえばあの人も三十路に入ってしまった頃だし、ギリギリの寿退職って訳ね」
 そこで、極秘情報を流すかの如く声を潜めるルフィーナに、わたしはさして驚く事もなく頷いてみせる。
 ロデレールさんは最大手の一角であるローズバンク・エージェンシーに所属する前々回のコンテスト優勝者で、現在ルフィーナの従者を務めている、
エリート中のエリートだった。
「ええ。実は私もちょっと心配していたんだけど、ちゃっかり王宮内で相手を捕まえて愛を暖めていたみたいね」
「へぇ、流石はロデレールさん。したたかな事で」
 世間の男性にとって、メイド経験者は礼儀作法がしっかりしている上に、家事のスキルも高いという事で、お嫁さん候補としての人気が高いと言われて
いるものの、それはBランクメイドまでの話であって、Aランク以降は逆に出会いが少なくなる傾向が強かった。
 その理由は簡単。どんなに美しく優秀でも、メイドは貴族の正妻にはなれないから。
 しかし、その一方でランクが上がれば仕える主人の身分も比例して高くなり、更にハウスキーパーなどの重要なポストに就いてしまえば、屋敷をロクに
出る事も適わなくなったりと、どんどん色恋沙汰からは遠ざかっていってしまうという訳である。
 そんな訳で、実は敬遠されがちな高ランクのメイドがお嫁に行こうと思えば、自分の方から積極的にアタックするしかないんだけど、その点はロデレールさんも良く分かってらっしゃるというか。
「それでね、今回は私も審査員に入れてもらう事になっているの」
「なるほど。自分に仕えるかもしれない候補達だもんね」
 いずれにしても、わたしにとっては重畳と言える話だった。
 少なくともこれで、貴重な固定票を一つ得られたのだから。
「後は、どれだけ私の息がかかった審査員を集められるかよね。まだ全員の顔ぶれは決まっていないから、出来る限りお父様に働きかけてみるわ」
 しかし、ルフィーナの方はそれで満足していないらしく、再び声を潜めてわたしにそう告げてくる。
「で、出来るの、そんな事?」
 いくらお姫様だからって、そんな露骨極まりない裏工作が許されるものだろうか。
「大丈夫。……今の私は、少しくらいならワガママも言える立場だから」
 そこで、喜びよりも思わず顔を引きつらせてしまうわたしに、ルフィーナはそう言って小悪魔っぽい笑みを見せてきた。
「確かに、可能なら助かるけど……」
 こういう談合は、正々堂々とは言えなくて気が引けるのも確かだけど、ただ奇麗事だけで優勝出来るほどコンテストは甘く無いのが現実だった。
 おそらくリースリングや他の大手だって、当日まで非公式のはずの審査員を調べあげようとはしてくるだろうし。
 ……ただそれでも、明らかに実力不足の者が優勝して疑惑や批判が噴出したケースは過去には存在せず、あくまでどっちに転んでもおかしくない場合の優先順位の話なので、どの道トレハが優勝者に相応しいレベルまで昇華してくれなれば、可能性はゼロである。
「それで、勝算はどの位ありそう?」
「う〜ん……ぶっちゃけると、結構ダメ元だったりするんだけどね」
 ……というか、それを改めて尋ねられるとつらい。
 トレハには弱気になるのを固く禁じているのに、当のわたしはルフィーナの前で強気な返事が言えないでいた。
「ダメよ!それじゃ!」
 すると、そんなわたしの煮え切らない返答に、テーブルを強く叩いて身を乗り出してくるルフィーナ。
 その、こちらを見据える黒曜石の様な黒い瞳には、とても一言では言い表せない複雑な激情が乗せられていた。
「ち、ちょっ、ルフィーナ……?」
「出るからには勝たないと!私との約束の重みは、その程度だったの?!」
「い、いや……。そういうつもりじゃないんだけど……」
「それに、私にだっていつまでも待ってはいられな……」
「え……?」
 それから、冷や汗混じりにたじろぐわたしと睨めっこしつつ、ルフィーナは続けて何かを訴えかけようとしてきたものの……。
「…………」
「……ごめんなさい。少し感情的になりすぎたわね。元々、コンテストは遊び半分で出られる様な大会じゃないのに」
 やがて、途中で言葉を途切れさせた後で、深い溜息を吐きつつそう続けると、再び席へ座り直していく。
「ううん……わたしの方こそ弱気過ぎた。さっきの台詞を聞かれたら、トレハに怒られちゃいそうだし」
 それで、あの子から嘘つき呼ばわりされちゃったら、当分立ち直れないだろうなぁ。
「トレハって、エントリーシートに書かれていた出場予定の子だっけ?」
「そう。今ちょうどゴードンさんの接客をしている、ツーテールのコよ」
 わたしはそう言って、店内のテーブルでお姫様の護衛からオーダーを受けているトレハの方を指し示した。
 そういえば、まだ紹介してなかったっけ。
「へぇ。なかなか可愛い子ね?」
「でしょ?この前見た寝顔なんて、まるで天使みたいだったし。結構ポイント高……」
「……何、惚気?」
「い、いえ、そんなんじゃなくて……」
 しかし、そこで言い終わらないうちに再びルフィーナの顔が険しくなってきたのを見て、慌てて訂正するわたし。
 ……もしかして、ヤキモチですかお姫様?
「やれやれ、ようやくコンテストに参加する気になってくれたと喜んだら、いつの間にか他の女の子に御執心なんてね」
「人聞きの悪いこと言わないでよ。トレハとは、共に同じ目標を追い続けるマスターとメイドでしかないってば」
「だといいけど……」
 これ以上怪しい方向に話を持って行かれてはたまらないと、少し強めにそう告げるわたしに対して、ルフィーナは視線を逸らせたままで、再び深い溜息を吐いた。
「……ねぇ?気のせいか、最近そんな姿が妙に似合ってきていない?」
「そうかしら?」
「…………」
 ここで、「そうだよ」とはっきり切り返せないのが、わたしの欠点なのだと思う。
 ……ただ、最近のルフィーナはわたしに言い出せない何かを心の中に溜め込んでいる、そんな気はしていた。
「…………」
「……ね、メイフェル。メイフェルは私のこと、好きかしら?」
「はい?」
 しかし、そこで会話の流れが一旦途切れるかと思いきや、暫くの沈黙の後でルフィーナから切り出された唐突な問いかけを受けて、わたしは面食らってしまう。
「はい?じゃなくて、イエスかノーで答えなさい。どっち?」
「い、イエス……。そりゃ、大切な存在だってずっと思ってるけど……」
「けど?」
「一体どうしたの?いつもは改まってそんな今更なコトを聞いたりなんてしないじゃない?」
 というか、わたしの記憶が確かならば、彼女からそう尋ねられたのは過去に一度だけ。
 ルフィーナが宮殿に帰る前日の夜、わたしがいつか立派になって、彼女付きのメイドとして仕えるという約束を交わした時だった。
 あの時は、今後のわたしとルフィーナを繋ぎ止める糸だと思って、やっぱり同じ言葉を返したけど、今再び尋ねてくる意図は一体何なのだろう?
「……別に、ちょっと確認しておきたくなっただけよ」
 だけど、わたしの中で小さく芽生えた猜疑心に気付かずか、ルフィーナは視線をわたしから逸らせたままぼそりと吐き捨てると、何やら物憂げな表情を見せてくる。
「確認って……」
「ううん、なんでもない。……ゴメンなさいね、今日の私は確かに変だわ」
「ね、ルフィーナ。何か悩みがあるのなら、わたしで良かったら相談に乗るよ?」
 ただ、いずれにしても、わたしに言ってあげられるのはやっぱりそんな台詞しかない。
「ありがとう。でも、今は私の心配より自分の事に集中して。審査員になった以上はあまり表立っての応援は出来ないけど、信じているから」
「分かってる。でも、苦しいだけじゃなくて、久々に充実感も味わってるんだよ?」
「……そう。それは良かった」
「…………」
 すると、そこで微笑を返してきたルフィーナの表情は儚げだったけど、やっぱりわたしはそれ以上踏み込めなかった。
 今はただ、ルフィーナの為にも自分のやるべき事を果たすだけ。
 ……少なくとも、そう自分に言い聞かせるのが精一杯で。

                    *

「さて、マスター。トレハの様子はどうかしら?」
「ああ、それなんだがよ、メイフェル。あの嬢ちゃん、今まで何処に仕えてたんだ?」
 それからやがて、星辰の麓亭へトレハを預けてから一週間ほど経った頃、そろそろ時期的には仕上がり段階に入る訓練の進捗を尋ねるわたしに、
タレット師はいきなり怪訝そうな顔を見せながらそう切り出してきた。
「さぁ。今までエージェンシーには所属してないみたいだけど?」
 一応、その件に関してはリストを見て裏も取ってあるし。
「……ふむ」
 ともあれ、一体何の話か飲み込めずに肩を竦めるわたしへ、マスターの方は首を捻ってくる。
「一体どうしたの?何か気になる事でも?」
「気になるって言うかよ、もしかしたらワザワザ俺が仕込むまでも無かったんじゃねぇかと思ってさ」
「なによ、それ?実は天才的な才能でも秘めていたとか?」
 それならそれで非常に有り難い話ではあるものの、一方でタレットさんの態度を見て何だか胸騒ぎがしてくるわたし。
 この時期に違和感って、凄く心臓に悪いんですけど。
「いや、料理の経験は殆ど無いらしく、技術は素人と変わらねぇんだが、時々『何でそんな事知ってるんだ?』って聞きたくなる様な知識を持ってたりするんだよな」
「ふーん……でもまぁ、わたしにとって今重要なのは、トレハが使いモノになるのかどうかだけど」
 ただ、タレットさんの疑問も気にならない事はないけど、わたしとしては一番肝心の評価を聞かない事には、他の話を持ちかけられても集中出来なかったりして。
「まぁ、どうにかなるんじゃねぇか?」
 すると、わたしとは裏腹にタレット師の方はそちらの話題にはさして興味も無さそうに、あっさりとそう答えた。
「……そりゃまた、微妙な返答ね」
 正直、「どうにか」じゃ困るんだけど、それでも料理人として人を褒める事は殆ど無い師匠だけに、少なくとも悪い評価ではないと受け止めるべきかな。
「多少器用さには欠けるが、本人なりに一生懸命やってるからな。俺が教え込んだ事は出来る範囲で忠実に再現してくれるだろうよ」
「なるほど……。まぁ、妥当な線かしらね」
 そもそも、自分で「付け焼き刃程度でいい」とオーダーしたのだから、高望みのし過ぎは禁物というものだろう。
 要は当日に味付けを間違わず、審査員達に悪くないと言わせればOKという、正に一発勝負なんだしね。
「何なら、成果でも見ていくか?今ちょうど、賄いをトレハに用意させてるんだ」
「あら、それはいいタイミングで来たみたいね。んじゃ、お茶でも飲みながら待たせて貰おうかしら」
 そして、続けて向けられた師匠からの有難い提案に、わたしは頷きながらそう答えると、そのままカウンター席へと腰掛けた。
 お店の迷惑にならないようにと、忙しいランチタイムが終わった直後にやってきたものの、どうやら大正解だったらしい。
 ……それに、マスターも上手い具合にトレハを使ってくれているみたいだし、これなら安心して一息つけるというものである。
「やれやれ、随分といい身分になったもんだな?恩返しに手伝っていこうという気はねぇのかよ?」
「仕方がないでしょ?これでも忙しいんだから。今日はまだお昼も食べてないどころか、お茶の一杯も飲んでいないの」
 すると、それを見てチクリと嫌味を向けてくるマスターに、疲労感をたっぷりと込めて言葉を返すわたし。
 トレハを鍛えてコンテスト出場を目指すと言っても、当然ながら普段の仕事を休業状態にしているワケではない。ただでさえ貧乏暇無しのスケジュールに無理矢理ねじ込んで動いているだけの話である。
 ……という事で、今日はこれからまだ二件の契約交渉と、ミルフィとアイラを連れて、貴重な新規客である会計士のヘザーさんの屋敷へ一緒に伺う予定が入っていた。
 それに勿論、最近は忙しくて目を離しがちになっているメイシアの育成もあるし。
「しゃーねぇな。んじゃ、今回の貸しは後でたっぷりと返して貰うとするか」
「へいへい、何でもするわよ。コンテストが終わったらね」
 もっとも、ラトゥーレに負けてしまったら、それどころじゃないだろうけど。
「…………」
(そう言えば、あのお嬢様は何をしているんだろう……?)
 コンテストに出場予定のスクラを任されたって事は、やっぱり準備に追われているんだろうけど、リースリングが実際にどんな対策をしているのかは気になる所だった。

 がちゃっ

「お〜っほっほっ、調子はいかがかしら、メイフェルさん?」
 すると、あまり思い出したくもないライバルの顔が頭に浮かんだ所で、まるでタイミングを見計らったかの様に本人が入店してくる。
「まぁ、ボチボチね。あんたの縦ロール程にゴキゲンじゃないわ」
 しかし、この前の様にやり合う気は起きないので、いちいち相手にしてられないとばかりに、素っ気なくあしらってやるわたし。
(……どうでもいいけど、まさかわたしの事をストーキングしてない?)
 それとも、コンテストって言葉で引き寄せられたとでも言うのだろうか。
「ふふん、相変わらず減らず口だけは一級品ですわね。ちょうどさっきお店を通りかかったら、貴女の姿が見えたからご挨拶をしておこうかと思いまして」
 どうやら、勢いの方も相変わらずなのか、わたしの嫌味にも動じる事なく、勝ち誇った笑みでそんな台詞を返してくるラトゥーレ。
「挨拶って、今更一体何の挨拶をするつもりよ?」
 負けた後のお礼参りにはまだ早いと思うんだけど。
「それは勿論、こういう事ですわ。ほら、スクラ」
「……はい、お嬢様」
 すると、冷めた目を向けるわたしに対してラトゥーレが促すと、後ろからストレートロングの髪が印象的なエプロンドレスを着た美少女が静かに現れた。
(スクラ、か……)
 こうして見るのは久々だけど、相変わらず高級人形の様に綺麗で無表情の顔立ちながら、その神秘的で威圧感すら感じさせる佇まいと蒼色の瞳は、
見る者の視線を引きつけるのと同時に近寄りがたいオーラを発していた。
 それは正に、うちのトレハとは真逆の属性とも言うべきか。
(……でもやっぱり、モノが違うわね)
 実際のスクラの能力はまだ目の当たりにしていないというのに、それでも白旗を上げてしまいそうなこの迫力。
(いや、ここで弱気になっちゃダメだって……)
 この子が対抗馬と知って、わたしは自分の宝物を担保に入れてまでトレハに賭けたんだから。
「お嬢様じゃありませんわ。マスターと呼べと言いつけたでしょう?」
「……分かりました。マスター」
「まったく、もう……何をさせても完璧な癖に、それだけはいつまで経っても直らないんだから」
 そこで、さして興味も無さそうに言い直すスクラに、不満げな顔を浮かべて首を横に振るラトゥーレ。 
 どうやら、あの”お嬢様”はまだ自分のメイドに主人と認めて貰っていないみたいだった。
「申し訳ありません。何分、お父上であるヴォルド様に拾っていただいた意識が強いものですから」
「……まぁ、よろしいですわ。ともかく、つい先日スクラがお勤め先から戻って来ましたの。コンテスト出場に必要な推薦状を携えてね?」
「んで、そのスクラを連れてきてどうしようっていうのよ?」
 どうせ、嫌味でも言いに来たのは確かだろうけど。
「もう、察しの悪い方ですわねぇ。貴女の所の出場候補者はこちらで働いているのでしょう?せっかくですし、顔合わせでもしておこうかと思いまして」
「……そりゃどーも。性悪お嬢様」
 まったく、有り難すぎて涙が出そうよ。
 わたしだけじゃなく、トレハにもプレッシャーを与えておこうって魂胆ですか。
「それでえっと……ドレルさんでしたっけ?店内には見あたりませんけど、今日はおりませんの?」
「トレハよ。確か厨房にいるはずだけど。今賄い料理を作ってると言ってたから」
「……トレハ?」
「タレットさん、お昼出来ました〜♪どうぞお先に召し上がってください」
 そこで、スクラの眉がぴくりと動いた所へ、カウンター越しにトレハが満面の笑みを浮かべながら顔を出してくる。
(でもやっぱり、見ていて癒されるのはトレハの方よね……)
 イメージ的にスクラが月なら、トレハは太陽といった所だろうか。
「ご苦労様。元気にしっかりやっているみたいね、トレハ?」
「あ、マスター?それに……」
「お〜っほっほっほっ、お久しぶりですわね。私は……」
「トレハっ!トレハじゃない……っ?!」
 しかし、そこでラトゥーレがいつもの高笑いと共に名乗りを上げる前に、後ろで控えていたスクラが血相を変えた顔でカウンターの方へと進み出る。
「ね、姉さん……っ?!」
「へ……?」
 そして、驚きの顔と共にトレハが発した言葉に、当事者以外の一同はその場で固まってしまった。

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