の言わぬ魔王様 その1

序章 暴虐の王の忘れ形見

 今ここで、勇者、そして魔王と呼ばれる両雄が、持てる力の全てを応酬させていた。
 決戦の地は、魔界中枢に聳える魔王宮の玉座。
 おおよそ一千年ぶりに人間界への本格侵攻を企てた魔王ウォーディスに対し、勇者は自らの存在を賭して単身魔界へと乗り込み、遂に宿敵の喉元まで辿り着いていた。
「フハハハハ!嬉しいぞ!魔界の王となりて、我が首へ届く刃を持ち現れた刺客は貴様が初めて。人の身でありながら、よくぞここまで練り上げたものだ」
「当然だ!俺は貴様ら魔族に対抗し得る為に鍛えられし刃。勝利を信じて待ち続ける人々の希望を背負う限り、俺は負けるワケにはいかない!」
 総勢、十億を超えると言われる魔軍の頂点に立ち、また自らも比類なき暗黒の魔力をその身に秘め、人間はおろか魔界の民でさえ畏怖せぬ者はいない、強大で無慈悲な魔王ウォーディス。
 しかし、そんな血の様に紅い魔王の瞳から鋭く発せられ続ける、魂まで凍り付きそうな殺気を前にしようが、勇者は一歩も退くコト無く、真っ向から対峙し続けていた。
「でやああああ……ッッ!」
「ぬうんっ!」
 渾身を込めた聖霊が鍛えし勇者の聖魔剣と、魔王の持つ古の魔神の魂を封じた封魔剣が交叉するごとに、空気をビリビリと震わせる甲高い衝突音が鳴り響き、相容れない力同士の斥力で生じた激しい衝撃波によって、亀裂や瓦礫が乱舞してゆく。
「…………ッッ!」
 無論、この戦いには常に死神が背中に張り付いている事は、勇者も自覚していた。
 だがしかし、こうしている間にも魔王に送り込まれた魔軍により、都市や村、そして故郷が焼かれ、勇者の家族を含めた罪もない人々の命が何千、何万と蹂躙されている。
 ――ただただ、魔軍が、魔王が許せなかった。
 何より、一刻一秒も早く、この理不尽な戦乱を終わらせたかった。
 そんな、これまで見てきた犠牲者達の痛みや悲しみに歪む顔を烈火の如き怒りと勇気に換え、己の魂を滾らせる勇者の心には、恐怖という感情は皆無である。
 ……何故なら、勇者こそが魔王を斃せる唯一の存在なのだから。
「成る程、口先だけではない事は認めてやろう。……だが、この魔界での貴様は所詮、脆弱な人間風情に過ぎぬわ!」
「うるせぇ、いつまでも俺達人間をナメてんじゃねぇッッ!!」
 やがて、勇者は魔王の圧倒的な力の前に幾度も死の淵へと立たされながらも、技と魔力が交錯する両者の戦いは一進一退で、その趨勢は誰にも読めぬがまま、永劫に続くかの様にすら思われた。
 ……しかし、移り気な勝利の女神が最後に微笑んだのは、どんなに追いつめられようと決して諦める事のなかった、勇者の執念だったのである。
 三度の昼夜に渡って続いた戦いで、最早精も根も尽きようとしていた勇者の、相打ち覚悟で懐へ飛び込んだ最期にして最大の一撃が、遂に魔王の胸を貫いたのだ。
「ぐおおおおおおおおおおッッ?!」
「我が剣に宿りし聖霊の意志よ、今こそ魔を滅ぼす力をッッ!」
 すかさず、勇者がこの瞬間まで聖魔剣に温存していた守護神の力を一度に開放すると、魔王ウォーディスの肉体が内部から目映い光に包まれ、魂ごと浄化されながら崩れ落ちてゆく。
「が、がぁぁぁぁっ?!我が、魂が……ッッ?!」
「永久(とこしえ)に眠れ、魔王ウォーディス。悪夢は、終わりだ……!」
「悪夢、か……。ククク、ハハハハハ!だが、楽しかったぞ……ただ一つ、心残りは……」
「心残り……だと?」
「ぐ……ッッ、ゆ、許せ、プルミ……」
 しかし、ウォーディスの断末魔は最後まで紡がれる前にかき消えてしまうと、後には抜け殻となった魔王の肉体が、勇者の身体へもたれ掛かる様にして崩れ落ちていった。
「……終わった、のか……?」
 かくして、勇者は遂に勝利を手に入れた。
 絶対的な支配者が斃された事で、魔軍は撤退を余儀なくされ、たった一人で魔王を滅ぼして戦局を覆した勇者は、世界を救った英雄として永く語り継がれるだろう。
 それは、単にウォーディスの野望を阻止したというだけではなく、今後も異界の脅威から我々の世界を守る上でも、勇者が魔王を打ち倒した事実が三界へと轟く伝説となるのは、非常に大きな意味を持つのである。
「……永かったけど、ようやく仇を討ったよ……父さん、母さん……そして……」
「いやああああああああっっ、父(とと)さま……ッッ!!」
「…………っ?!」
 ……しかし、それから得も言えぬ脱力感と共に安堵も広がってきた勇者の背後より、年端も行かぬ少女の引き裂かれる様な叫びが耳に届き……。
「お、お嬢様……ッ、ダメです……ッッ」
「は、離して、はな……うわぁぁぁぁぁぁぁぁんっっ!!」
「…………!」
 やがて彼はこれが終わりなどではなく、振り出しへ戻ったに過ぎない現実を思い知らされるのであった。

 ラグナス・アーヴァイン著 『ウォーディス戦記 決戦の章』より

「…………」
「…………っ」
「……様……!」
「……い、いけません、お嬢様……ッッ!」
「…………っ?」
 やがて、叫びながら上半身を跳ね起こした所で、見開いた両目の先に広がる風景ががらりと変わったのをきっかけに、意識がはっきりと呼び覚まされる。
「…………」
「……夢……でしたのね……」
 それから、すっかりと静まり返る薄暗い自室の中で、片隅に備え付けたベッドの上に身を置いたまま、今まで見ていた鮮明な光景は夢なのだと理解した私は、何も無い天井を仰ぎながら、ぽつりと呟いた。
 室内に充満する冷たくも澄んだ空気は肌寒いくらいなのに、額からは大粒の汗が止め処なく滴り落ちて気持ちが悪い。
「……ふぅ、またあの時の夢を……」
 毎晩の如く魘されていた数年前と違い、あの忌まわしき光景を夢で見たのは本当に久しぶりとしても、一体今更どうして……。
「…………」
「……ああ、これですわね……」
 そして視線を落とした所で、すぐ側のサイドテーブルの上にある一冊の羊皮紙で装飾された書物が視界に入り、誰にともなく呟きながら手に取る私。
「……ウォーディス戦記……そして、ラグナス・アーヴァイン……」
 無理も危険も承知で、人間界へ送り込んだ調査員が唯一持ち帰った成果だけど、あちらの世界の住人には突如として地獄の扉が開いたも同然だったあの戦いも、今は英雄物語として人気の読み物となっているらしかった。
「…………」
 しかも、それを綴っている者の名が、よりによって……。
「まったく、腹立たしいですわね……」
 どうやら、幾編にも及んで続いてきた長編物語になっているらしく、この書物だけでは、彼らが「ウォーディス戦役」と呼ぶ戦いの終盤しか記されていないものの、勇者がいよいよ魔王宮へ単身乗り込んで、私の仲間を次々と蹴散らしつつ、遂に先代の魔王様と対峙して打ち倒してしまうという、確かに真実に基づいた内容ながらも、こちらにとっては一番読みたくも無い部分が、相手の視点で書き記されていた。
「……ふう……」
 確かに、あの戦いの正当性に疑問を抱いていたのに関しては、不忠ながらこの私も認めざるを得ないけれど、しかしお陰で、お嬢様はとんでもない苦難を……。
「……おっと、こうしちゃいられませんでしたわね」
 しかし、出来れば破り捨ててやりたくなった忌々しい書物を握り締めながらぼやきかけた所で、視界に入った時刻計の針から、そろそろ起床時間を迎えていた事に気付いた私は、再びサイドテーブルの上に戻して身を起こす。
「……ん……っ」
 そういえば、お嬢様も同様に、時々でもあの時の光景が夢に出てきているのだろうか?
 夢の中でも逢えるのはやぶさかじゃないとしても、だとしたら極めて残酷な話である。
(けれど、今はそれを確かめる術すらなし、か……)
 それでも、お嬢様にはまだこの私という最後の砦が残っているのだから、しっかりと支えて差し上げるしかない。
「……さて。それでは今日も一日、励むと致しましょうか」
 ただし、その前にまずは寝汗を落としてから……だけど。

                    *

「……では、そろそろ私はお嬢様のお部屋へ参ります。万事抜かりはありませんわね?」
「はい、フローディア様!」
 従者の朝は早い。
 主よりも遥かに早く起床し、宮殿の警備状況の確認や朝食の準備のチェックを終えると、今度は衣装部屋で管理者と共にコーディネートに頭を悩ませ、更に本日の予定を一覧に纏めた後で、それらを携えて寝室へと起こしに向かう。
「…………」
 魔界貴族の名門であるメンブレイス伯爵家に生を受けた嫡子として、本来はこの私も当たり前にしてもらっていた立場ではあったものの、当家に代々伝わる慣習に従ってお嬢様に御仕えした後は、こうして主の為にこま鼠の如く水面下で働く立場となってしまった。
「……さて、もう目覚めておいでかしら。いや、そんなハズはありませんわね。ふふふ……」
 ただそれでも、今までそれを苦痛と感じたコトなど無い。
 勿論、伯爵家の次期当主候補として、家督を継ぐ為に必要な通過儀礼だからという義務感もあるけれど、それより何より……。
「……おはようございます、お嬢様……お目覚めになられておいでですか?」
「…………」
 やがて、着替えと予定表を手に宮殿の最上階にある主の寝室の前までやって来た後で、軽くノックをしつつ静かに扉を開くと、豪華絢爛だった先代様と違って、お嬢様の趣味で明るくも可愛らしい雰囲気に調度された広い室内は、しんとした静寂に包まれていた。
(ふふ、今日も大切なお仕事を奪われずに済みましたわね……)
 そして、寝室中央の大きな寝所の側で控えていたメイド達が無言で一礼してくるのに手を上げて応えつつ、音を立てない様に近付いてゆくと、小さな寝息が聞こえてくると共に、真っ白なシーツの上で無防備に寝息を立てる小さな主の姿が目に入ってきた。
(あらまぁ、今朝もなんとお可愛らしいのかしら……!)
 そう、何より私がお仕えしているのはこんな愛くるしいお嬢様なのだから、やる気が出ないワケがない。
 この、胸がきゅんと締め付けられる様なこのあどけない寝顔なんて、まるで天使のよう……。
「…………」
(いや、何をバカなコトを考えているのかしら、私は……)
 だって、目の前に横たわっておられるのは、天使などではなく……。
「…………」
「…………」
「…………?」
 それから、思わず真っ白でもちもちとした美味しそうな頬へお目覚めの口付けをしたくなるのを我慢しながら、持ち込んだ衣装を置いた後で改めてお顔を覗き込むと、私が起こしに来たのに気付かれたのか、お嬢様の瞼がじんわりと開かれてきた。
「……おはようございます、魔王プルミエ様。今朝のお目覚めはいかがですか?」
「…………。(こくっ)」
 そこで、小さく開かれた深紅の美しくも澄んだ眼へ、私が顔を映しつつ一礼を向けると、まだちょっと眠たそうにお父上譲りの金色(こんじき)の髪を揺らせながら、控えめに頷き返してくるお嬢様。
(はぁぁぁ……。その物憂げなお顔が……)
 相変わらず、見るだけで心が溶かされそうになる程の、凶悪なまでの可愛らしさだった。
 というか、毎朝このお寝顔を見る為に、わざわざ自分で起こしに来ていると言っても過言では……。
(……コホン、過言ですわね)
 しかし、それから思わず舞い上がりかけた気持ちを一旦静めて、私は咳払いの仕草を見せる。
「…………?」
「あ、いえ……。少々喉が……」
(……いけない、いけない)
 今や、この私は当代魔王陛下の片腕なのだから、何事も粛々と。
「では、只今寝覚めのお茶を御用意させますので。本日の銘柄は……そうですわね、ブラッドベリー・ティーでいかがでしょうか?」
「…………。(こくり)」
 というコトで、居住まいを正した私がメイド達への指示も兼ねて、はきはきとした声で紅茶の銘柄を選択すると、文句は無いといった風に頷くお嬢様。
 真の従者たるもの、主の注文(オーダー)を受けてから行動するものではない。
 常に主の欲求を先回りしてこそ一流であると、私が御役目を賜った最初に教わった事である。
 ……とはいえ、さすがにそれを完璧にこなすには、それこそ相手の心を読んでしまう程の特殊能力が必要になるだろうけれど、それでも今の私にはどうしても必要になってきていた。
 何故ならば……。
「プルミエ様、お服加減はいかがですか?」
「…………。(こくり)」
「それは何よりです。……それと、本日の御予定をまとめてありますので、後ほどご覧になっておいて下さいませ」
「…………」
(プルミエ様、なんとおいたわしや……)
 昔のお嬢様ならば、ここで美味しいとか、次は何が飲みたいとか、また勝手に決められた予定表を突きつけられて、たまには羽を伸ばしたいと拗ねた様にぼやいておられたけれど、それも叶わぬ身となってしまわれた今は、ただ淡々とティーカップを片手に、冷めた目で眺められるのみ。
 それもこれも、御父上である先代魔王陛下が亡くなられたのをきっかけに、さる呪いに囚われてしまったのが原因なのだけど……。
「……さ、それでは着替えを済ませられましたら、朝食へ向かいましょう。本日も魔界の秩序と民の為、どうぞお励みくださいませ」
「…………」
 それから、カップの中身が無くなったのを見計らって私が改めて声をかけると、プルミエ様はどこか不安そうな面持ちで遠い目をお見せになった。
 ……ああ、御父上へのご愛情が強すぎた故に、なんてお可哀想なお嬢様。
「ご心配は無用ですわ。プルミエ様には、常にこの私が付いておりますから」
「…………。(こくっ)」
 そして、そんな新たなる魔王陛下へ付けられた仇名は……。

第一章 もの言えぬ魔王様

「…………」
 いまとなっては認めたくない事実としても、どうやらわたしは、自分で思っていた以上にあの父親を敬愛していたらしい。
 冷酷で無慈悲な覇王として、力と恐怖で諸侯や民をおさえつけていた先代魔王も、早くに亡くなった母や、一人娘であるわたしにはすごく優しかったからだろうけど、皮肉にもそのせいで大きな災いを受けるはめになってしまったのだから、ホント迷惑な話である。
「…………」
 今はすっかりと修繕されたこの魔王宮の謁見の間で、人間界から乗り込んできた勇者の一撃が父の胸を貫いた光景を目の当たりにしたとき、思わず頭が真っ白になってしまうほどの衝撃を受けてしまったものの、まさかそれが原因で、古くから伝わる厄介な呪いにかかってしまうなんて。
 ……というか、この魔界では昔から「愛」という感情は忌みられ口にするのははばかれる風潮があるけれど、どうやらこれがその理由の一つみたいだった。
(ホント、迷惑……)
 ただ、どちらにしても既にあとの祭りなのだから、いまさらぼやいても仕方がないんだけど。
「プルミエお嬢様……」
「……あ、いえ魔王陛下でしたわね。お疲れでしたら、そろそろお茶でも淹れて参りましょうか?」
 ともあれ、今日も朝から自分には大きすぎる玉座に肘をついて腰かけたまま、いつものようにぼんやりと頭の中を堂々巡りさせながら小さくため息を吐いたところで、隣で控えている従者長のフローディアが、自慢の縦ロールを揺らせてわたしの顔をのぞき込んでくる。
「…………。(ふるふる)」
「畏まりました……。先代様の跡を継がれて未だ間もない時期で、心労もさぞかし大きなものとお察し申し上げますわ。ひと息入れたいと思われた際は、いつでもお申し付けてくださいね?」
 それに対して、飲みたいお茶が頭には浮かんだものの、その銘柄を伝えるのが億劫に感じたわたしは小さく首を横に振って応えると、今度は肩を軽く揉んできながら、いたわりの言葉を続けてくるフローディア。
(お申し付け下さいね、か……)
 以前なら一言で済むオーダーだろうが、今はちょっとしたひと仕事。
 物心がついた頃からわたしに仕えてくれているフローディアが相手なら、ある程度は視線だけで通じるかもしれないとしても、正直いえば誰かに申し付けるより、自分から動いた方が全然気軽だった。
 ……もっとも、魔王にされた今は、それも無理な話みたいだけど。
「しかし、魔王陛下の普段のお仕事といえば、この玉座でどっしりと構えていただくコトではあるんですけど、やはり退屈ですか?」
(そりゃ、ね……)
 ここに座っている間は魔界の王らしいイメージを保って欲しいというコトで、本の一つも読めないんだから、重圧よりも手持ち無沙汰なほうが深刻な感じだった。
 以前は以前で、一日中とっかえひっかえのお稽古ごとや勉強の予定が詰まっていて、自由時間なんて無いくらいに忙しい日々を送らされていたけど、今は逆に懐かしさを感じてしまう。
「…………」
 それでも、この謁見の間にいるのはひとりじゃないんだから、会話でもできればいいものの、生憎今のわたしには叶わぬ望み。
 なにせ、自分にとりつかれた呪いというのが……。
「あ、それとお尻が痛くなってしまわれたのなら、いつでもお申し付け下さいましね?この私が懇切丁寧にほぐして差し上げますわ」
「…………。(ふるふるっ)」
(いらないってば……)
 うああ、言葉に出してつっこめないのが、すっごくもどかしい……っ。
「……っと、それより定例会議のお時間が近付いてきたみたいですわね。そろそろ移動なさいますか、魔王プルミエ様?」
「…………。(こくっ)」
(魔王プルミエ、か……)
 悪いけど、まだその呼ばれかたは慣れないなぁ……。

                    *

「……ところで、会議の後は昼食のお時間ですけれど、本日は何を召し上がられたいですか?」
 それから、謁見の間を出て会議場への廊下を進む途中、いつものようにわたしのそばで同行しているフローディアが、他愛なくも面倒くさい問いかけを向けてきた。
「…………」
(食べたいもの、かぁ……)
 正直、あまり重たいモノを口にしたい気分じゃないから……。
(ん〜、フルーツサンド辺り……かな?)
 ただ問題は、それをどうやって伝えるか、だけど……。
「あ、御心配なさらずとも、お顔を見れば分かりますわ。この私はもう、お嬢様とは家族同然の間柄と言っても過言ではない程に、お付き合いが長いですから」
 そこで、わたしが腕組みしながら表現方法を考えていると、自信たっぷりの笑みと共に、存在感抜群の大きな胸を張ってそう続けてくるフローディア。
(……もう、いつもそう言ってるけど……)
 確かに、それで本当に察してくれるのなら、すごく助かるんだけどね。
「…………」
「…………」
 そして、わたし達はしばらくの間、歩きながらのにらめっこを続けたあとで……。
「……あ、分かりました。お嬢様の好物である、コカトリスのクリームシチューですわね?本日は少々肌寒いですから」
「…………」
(ぜんぜん、違うし……)
 相変わらず、かすってすらいないじゃない……まったく。
「……あれ?外れちゃいましたか?」
「…………。(ふるふる)」
(ううん、それでいいよ、もう……)
 それでも、いちいち訂正するのも面倒なので、いつものごとく首を軽く横に振って了承するわたし。
 やっぱり、付き合いが長かろうと、無言の意思疎通なんて簡単にできるものじゃない。
 ……それはもう、とっくの昔に諦めているコトである。
(はぁ〜っ……)
 ともあれ、魔界の絶対的支配者だけでは飽き足らなかった野心家の父(とと)さまが、人間界の支配をも目論んだ果てに、魔王宮へ乗り込んできた「勇者」と呼ばれる宿敵との戦いに敗れたのち、ただひとり残された家族のわたしは、ふたつの重い「業」を背負わされる身となってしまっていた。
 一つは、父に代わって受け継ぐはめとなってしまった、次の魔王の座。
 そして、もう一つは……。最終決戦のゆくえを見届けようと駆けつけた目の前で、父(とと)さまは勇者の刃によって心臓を貫かれ、わたしの名を呟きながら崩れ落ちていき……その時に沸きあがった我を忘れた悲しみが原因で、「悲怨の呪い」にかかってしまった。
 フローディア曰く、これは魔界に古くから伝わっている奇病で、大切な者の非業の死を目撃するなどして、言葉を失うほどの衝撃を受けた際に、そのまま本当に声を失ってしまう呪いらしい。
 特に、感受性の強い者や幼い子供ほどかかりやすいらしく、医術的には治療法が存在しないところが、「呪い」と呼ばれているゆえんなのだそうで。
(ふぅ……)
 一応、わたしも魔王の座を継いだとはいえ、まだまだ子供と呼ばれる年ごろだし、決してありえない話じゃないからと、冷静に告げられても困るような診断結果を突きつけられてしまったけど……ともかく、それから後は喋りたくても喋られない身の上となってしまった。
(まったく、魔王の娘が呪いに苦しめられるなんて、悲劇を通り越して笑い話だよ……)
 あの時から、時間が経つにつれて悲しみも落ち着いてきているし、こうして心の中で呟いたりはできるのに、声だけがでない。
 それでも最初は、フローディアたちが何とかフォローしてくれるだろうと楽観していたものの、言葉なしに言いたいコトを伝えるのが、こんなに面倒くさくて大変だったなんて……。
「…………」
「あら、どうなさいましたか、お嬢様?先程からお顔が優れない御様子ですが」
「…………」
(う、えっと……)
「もしや、先にお腹が空かれてしまいましたか?でしたら、先にお食事の用意をさせますけど」
「…………っ。(ふるっふるっ)」
(あーもう、面倒くさい……ぃっ)
 結局その後、父(とと)さまの死に泣き叫ぶ言葉すら失ってしまった姿を憐れとでも思ったのか、勇者はわたしを見逃して去っていってしまったものの、いまとなってはそれも幸か不幸だったのか。
 しかも、正式に跡を継いでからは、魔王が下々の者に合わせて下手に出ているみたいだから、威厳を守るために筆談とかは極力しないで欲しいなどと、めんどうくさい要望がくるし。
 彼らいわく、主の挙動や表情で読み取れないのなら、怠慢としてその者達を処罰すればいいとのことだけど、フローディアでさえ何十回処刑されているか分からないくらいの正解率なんだから、逆にこちらの方が気疲れさせられてしまったりして。
「プルミエ様はもう魔王たる御身なのですから、会議室の者達へ配慮される必要など無いのですよ?お嬢様のなさりたいコト優先で、諸侯は待たせてもそれが当たり前なんです」
(魔王の身なんだから、ね……)
「…………」
 確かに、肩書きだけはそうかもしれないけど……。

                    *

「……待て、その案は到底受け入れられぬ!」
「これも全ては大勢の為。私は決して私利私欲で申しているのではない」
「ハッ、よく言うぜ。先代陛下の腰巾着が、いつまでも総取り出来ると思ってんじゃねーよ」
「き、貴様、私を愚弄するかッッ!」
「やめなさいっての!この会議室での醜い争いは禁止って決めたでしょう?」
「…………」
(……ほら、結局わたしはいつも置いてけぼり)
 それからやがて、出向いた先の中枢会議室では、出席した諸侯達が身を乗り出しながら、上座に座るわたしには目もくれずに、話し合いだか口論だか分からないやりとりを繰り広げていた。
 会議室へ入ったときこそ、家臣の魔界貴族達が総立ちで出迎えてくるけど、いざわたしが着席して議長が開始を宣言すれば、あとは置物状態。
(ここの人達にとって、わたしが言葉を失っているのは、むしろ好都合なんだろうな……)
 専横君主だった父の時代は終わり、今度は幼くて未熟なわたしをみんなが支えていかなきゃならないという事で合議制になったのはいいとしても、これじゃ自分は何のためにいるのやら。
「…………」
 そもそも、本来は魔界で最強の者がなるべき魔王の座を、どうして無力に等しいわたしが引き継ぐことになったかといえば、父(とと)さまが生前のうちに”証”である封魔剣の所有権を、自分の死と同時に娘へ引き継がせるように仕込んでいたからであって……。
(ほんと、メイワクな話……)
 結局、わたしに継がせたい望みは叶ったのかもしれないけど、実質はこうしてお飾りにされているだけ。
 それこそ、フローディアがいてくれなければ、一体どうなっていたのやら。
「……さて、本日はもう一つ重要な案件が御座います。先代ウォーディス様亡き後、プルミエ様を中心として引き継いだ現体制の責任を不届きにも追及し、解体を目論む者達の動きが活発化しておるとの噂です」
「…………」
(まぁ、そりゃそーでしょうね……)
 ともあれ、いつものように蚊帳の外に追いやられたまま適当に聞き流していた中で、やがて議長の口から出てきた別の議題に室内が静まったのをみて、他人事のように溜息を吐くわたし。
 実際、あの人間界侵攻計画は反対者も多かったのを、父(とと)さまが強引に推し進めた結果だし、そもそもわたしだっていさめようともしたわけで。
 ……まぁ結局、「魔王が魔王たらん為に必要なのだ」と、逆に説得されてしまったけど。
「しかも、その中にはあの“魔将”達も参画しておるとの、看破出来ない情報も入ってきておりますが……」
「ふむ……。奴らの狙いは、プルミエ様の失脚か?」
「で、あろうな……。もっとも、姫様に代わる魔王の器を用意しておるのかは知らぬが」
「…………」
 わたしの代わり、か……。
「その辺りについて、貴公は何か聞き及んではおらぬのか、フローディア殿?」
「……いえ、立場を考えれば俄かには信じがたい話ですし、初耳ですわ」
「確かに、そうではあるのだが……では魔王陛下、この問題はいかがいたしましょう?」
「…………?」
(え……?)
 そこで、まずは関係者であるフローディアが尋ねられた後で、今度は不意打ちでこちらへ水を向けられ、きょとんと目を見開いてしまうわたし。
(いや、いきなり振られても……)
「…………」
(……というか、わたしで不満ならいつでも降りてあげるから、やりたい人が好きなだけ争って決めてしまえばいいんじゃないの?)
 ……と、言葉で返してやれれば、どんなに気分がすっきりとするか。
 そこで、望み薄とはわかっていながらも、背後に立つフローディアの方を見上げて、わたしは訴えかける視線を向けてみるものの……。

 ドンッッ

「無論、プルミエ様を脅かそうとする不届き者は、何人(なんぴと)であろうが断固として排除すべきですわ!」
 すると、フローディアは分かったとばかりに一度頷いてきたあとで、握り締めた拳を机の上へ叩き付けて、実際はぜんぜん分かっていなかった言葉を代弁してしまった。
(フローディア?!……ちょっ……)
「うむ。現在の魔界は魔王という柱あっての秩序であり、先代陛下と比べて穏健なるプルミエ様こそ、傷付いた体制を立て直す象徴に相応しいお方である」
「んで、それが理解出来ねぇ血の気が多くて頭の悪りぃ連中には、物騒な真似を始める前にとっととご退場願う、と。わざわざ議論するまでもねぇ」
「……では、早速にも魔王家付の特務部隊へ調査を指示するとしましょう。裏切り者は早期に燻り出さねばなりませんからな」
「…………」
(穏健なる、ね……)
 確かに、わたしは昔から無駄な戦いとかはきらいだけど。
 ……でもだからって、「もの言えぬ魔王」にされるのをよしとしているかは別なんだけどね。

                    *

(は〜〜っ……)
 やがて定例会議が締めくくられ、控えの間で遅い昼食もすませた午後、わたしは何ともいえない気だるさと戦いながら、再び玉座に腰かけつつ、時おりやってくる謁見者に備えていた。
(眠い……)
 退屈なのに加えて、昼食を食べておなかが膨れているのもあり、少しでも油断したら居眠りをしてしまいそうになってきたりして。
「…………っ」
(でも、眠りたいなら、ねむってもいいのかな……?)
 さっき、フローディアはわたしのやりたいように振舞っていいって言ってくれたし。
(ふぁ……ぁっ)
 そこで、声にはならない欠伸をかみ殺しながら、朦朧とするような眠気に身をゆだねてみることにするものの……。
「…………」

「……よいか、プルミエよ。魔王とは常に孤高たらねばならぬ存在なのだ」
 やがて、目を閉じてすぐに意識が溶け落ちた後で、わたしの前に在りし日の父の姿が映ってくる。
「ここー?」
 たしか、人間界への侵攻をはじめる少し前だっただろうか。
 わたしを玉座へ座らせ、両眼をしっかりと見据えながら、かたわらに立つ父(とと)さまがゆっくりと言い聞かせてきていた。
「うむ。何者をも恐れてはならぬ。退いてはならぬ。……そして、決して流されてはならぬ」
「故に、魔王とは常に孤独を背負った存在。だからこそ、自らに忠実であらねばならない」
「みずからに、ちゅうじつ……?よくわかんない……」
「つまり、お前はもっと我が侭であってもよいという事だ。プルミエは母に似て、魔王家の眷属としては優しすぎるからな」
「……やさしいのが、いけないの……?」
「その優しさは、この父と……お前が本当に信じた者だけに見せるがよい。尤も、我の目が紅いうちは、誰にもくれてやるつもりなど無いがな」
 そして父(とと)さまはニヤリとした笑みと共に、どこまで本気か分からない言葉を告げると、わたしの頭に手を乗せて、ゆっくりと撫でてくれた。
「……やっぱりわたしも、いつかはまおーになるの?」
「そうだな……。お前さえそれを望むのならば、いつかは……」

「……さま……」
「…………」
「……お嬢様……っ?」
「…………っ?!」
(夢……?)
 それから、わたしを呼び続ける声に気付いて再び我にかえると、目の前の父の姿はかき消えていた。
「…………」
(また……か……)
 この玉座に腰かけて眠っていると、生前の父の姿ばかりが夢に出てきてつらい。
「…………」
 でも一番つらいのは、望むならと言われながらも、結局はわたしの意思を一度も聞くことなく押し付けられてしまった現実なのかもしれないけど……。
「プルミエ様、お昼寝でしたら、一旦寝室へお戻りになられてから……」
「…………。(ふるふる)」
 そして、前にうたた寝をしていたときと同じ台詞を向けてきたフローディアへ、わたしは首を横に振って応えると、何となく玉座の横に立てかけてある父の形見を手にとり、鞘から抜き放ってみた。
「…………」
 美しくも禍々しい意匠をした漆黒の刀身は、わたしの身長くらいある大きさだけど、重量は片手で楽々持ち上げられるほど軽く、全く使い込んでいないのにしっかりと腕に馴染んだ感触が伝わってくる。
 ……これが、最初に魔界を制覇して初代の魔王となった者からずっと受け継がれてきた最強の魔剣にして、王の証である封魔剣マーヴェスタッド。
 わたしがこれを持っている間は、魔王である宿命を課せられ、そして孤独を背負うとか。
(魔王は孤高で、ゆえに孤独……)
「…………」
「……それで、プルミエ様。本日のご予定にありました、ヴェンブリー伯爵が到着して御目通りを願い出ておりますが、よろしいですか?」
(ああ、はいはい……)
「…………。(こくっ)」
 それから、太古に魔界を滅ぼそうとした魔神の魂が封じられているといういわくを持つ、父(とと)さまからの形見をしげしげと見つめたまま、ぼんやりと物思いに耽ろうとしかけたところで来客を告げられ、わたしは小さく頷いて剣を鞘に収めた。
(孤高になれるかは分からないけど、でも孤独はイヤかなぁ……)
 だけど、既にわたしは……。

「これはこれは、姫……いえ、魔王陛下、御機嫌うるわしゅう」
「…………。(こくこく)」
 ともあれ、わたしが魔剣を元の場所に下ろして居住まいを正したところで謁見の間の扉が開き、帝都のすぐ隣に領地を持つ、父の代から仕えている伯爵家の当主が恭しく近づいてきた。
(ヴェンブリー卿……一月ぶりかな?)
 いつも見せてくる、何を考えているのか分からないニヤニヤとした笑みは苦手なんだけど、それでもれっきとした父(とと)さまの側近で、わたしが魔王を引き継いだときもフローディアと一緒に忠誠を誓ってくれた一人だから、邪険にするつもりはないんだけど……。
「本日は、久々に愚息をご挨拶に連れてまいりましてな」
「久方ぶりにございます、プルミエ様。ヴェンブリー家が嫡男、ロアシスにございます」
「…………」
 早速の挨拶を向けてきたヴェンブリー卿に続いて、連れられてきたフローディアと同世代くらいの長男さんがなにやらキラキラと気取った態度で片膝をついてくるのを見て、ちょっといやな予感が走ってくる。
(うあー、ヴェンブリー卿も、か……)
 これで、大体の用件は理解できてしまったというか。
「姫様が立派に御遺志をお継ぎになられて、亡き先代陛下もさぞかしお喜びの事と存じ上げますが、その若き御身で魔王という重圧を背負い、さぞかし御心労の日々が続いておられると御察し申し上げまする」
(御心労、ね……)
 だけど生憎、わたしが一番心労を感じているのは、そんな重圧なんかじゃなくて……。
「そこで、もしよろしければ、御父上の代からのよしみを引き継ぎ、手塩にかけて育てた我が息子をプルミエ様の傍らでお役に立てさせて戴ければ、と思った次第でございます」
「…………」
(やっぱり……)
 案の定、嫌な予感が的中して、ため息は我慢したものの中空をあおぐわたし。
 孤独はつらいけど、こういうのはまだちょっと……。
「……お言葉ですが、ヴェンブリー卿。プルミエ様は未だ適齢期にございません。言葉を変えようが、縁談にはいささか気が早すぎるのでは?」
 しかし、それから来客の用件が分かるや否や、フローディアがわたしの視線を待つまでもなく即座にお断りを入れてくれた。
(ふう、こういう時だけでも察しがいいのは助かるかな……?)
 ……というか、もう慣れてきただけなのかもしれないけど。
「無論、存じておるとも。だが、こういう約束は早い方が良いと思ったまで……」
「残念ながら、お嬢様に取り入ろうと申し込んで来た者達は、既に覚えていない数ですわ」
「し、しかし……」
「それに、お生憎さまですが、私は先代陛下よりプルミエ様に近付く虫を払う様に仰せ付けられておりますれば、どうかこれにてお引取りを」
「き、貴様、我が息子を虫扱い……っ?!」
「ヴェンブリー卿……。御家も魔王プルミエ様の為に必要と存じ上げていればこそ、敢えて今一度言わせて頂きます。……どうか、本日はこのままお引取りを」
 そして、顔を紅潮させながら激昂したヴェンブリー卿に向けて、フローディアは幾分の殺気を込めた言葉を続けると、長いスカートのスリットへ手を入れ、その内側にあるガーター付きホルスターに収められた愛銃、サイレント・クィーンに触れる仕草を見せた。
「わ、分かり申した。……ではいずれ、姫様が御成長なされた折にでも改めて……」
「し、失礼致します……」

「……まったく。この調子では、子息がいる魔界貴族の殆どが申し込んで来そうですわね、お嬢様?」
(あはははは……はぁ……)
 それから、ヴェンブリー親子がすごすごと退散して行ったあとで、両肩を竦めながら呆れのため息を吐くフローディアへ、引きつった苦笑いを返すわたし。
(まったく、人が断りにくい立場なのを分かっていて来るんだから……)
 ……とまぁこんな調子で、父(とと)さまの跡を継いで以降は、わたしの婚約者の地位を巡って水面下の争いが起きているとも聞くけど、なんとも身勝手な話である。
「…………」
(はー、なんだかなぁ……)
 それでも、いつも側に控えているフローディアがこんな感じで毎回撃退してくれているものの、ただ他の諸侯達から恨みを買っているんじゃないかというのは、ちょっと心配だったりもして。
「…………」
「あらあら、じっと見つめてどうなさいましたか、お嬢様?……もしかして、いっそこの私のお嫁さんにでもなれば楽なのに……とか、お考えだったりします?」
「…………。(ふるふる)」
 わざわざツッコミの手を伸ばすのも面倒くさいけど、あなたもですか。

                    *

「……しかし、やはり言葉が出ないのは何かと不便ですわねぇ。私としても、どうにかお嬢様の呪いを解いて差し上げたいとは思っているのですが……」
「…………。(うんうん……)」
 やがて、本日の謁見の間の受付も終わり、夕食を終えて迎えたお風呂の時間、いつものようにわたしの頭をごしごしと洗いながら、フローディアが心配そうに呪いの話を切り出してくる。
「ほら、お母様譲りのこの美しい髪が心労でいつ痛んでしまわれないかとか、日々心配しておりますのよ?」
 ……ちなみに、主の身体を洗ったり髪の手入れをするというのは、貴族出身の従者長が直接やる仕事でもないはずだけど、昔からずっと他の誰にも譲らずに続けている役目だったりして。
 とまぁ、それはどうでもいいんだけど……。
「…………」
(そりゃ、どーもね……)
 たしかに魔王となって以来、何かとストレスが溜まってきている自覚はあった。
 しかも、その苦しみを誰にも訴えられないために、余計に心が蝕まれる心地になってくるわけで。
「ただ、呪いを解く方法が方法ですからね……」
「…………。(こくっ)」
 ともあれ、医術で治療できないこの悲怨の呪いも、解く方法自体はちゃんと存在していた。
 しかも、言うだけならばきわめて単純な話で、受けた悲しみを自らの手で晴らせばいいだけ。
 ……要するに、わたしが父(とと)さまの仇を討てば、このうとましい呪いは解けるはずなんだけど……。
(でも、無理すぎ……)
 理屈では分かりやすかろうが、今は雲を掴むような話だった。
「一応、”彼”を探す為に隠密の調査員を人間界へ派遣してはいるのですが、生憎二つの世界を繋ぐゲートはあの戦い以降に全て塞がれてしまっていて、こっそりと穴を開けて忍び込ませたとしても、すぐにあちらの守護神である聖霊に見つかって追い返されているのが実情なのです」
「…………」
「それに、よしんば相手を発見した所で、ここまで連れて来るなどという芸当が口で言うほど簡単に出来るのならば、そもそもお嬢様は呪いになどかかっておられないでしょうから……」
「…………。(こくり)」
(だよね……)
 仮に再びここまで連れて来たとして、あの父(とと)さまが敗れた相手に、わたしはもとより、一体誰が勝てるというのだろう?
「……ですが、いずれ私がどんなコトをしても何とかしてみせますので、どうかもう暫くご辛抱なさってくださいましね?」
「…………。(こくこくっ)」
(ありがと……)
 だから、今はたとえ根拠が薄くてもフローディアの心づかいにお礼を言うしかないものの、やっぱり言葉にできないのがもどかしい。
 ……というか、こんな調子だとフローディアにも感謝の気持ちが伝わらなくて、いつしか見放されてしまわうんじゃないかって不安も涌いてきそうだった。
「それに、当面は仇討ちよりも、お嬢様の御身の心配が出てきたコトですし……」
「…………?」
 しかし、それから憂鬱な気分に沈むひまもなく、何やら不穏な話題を続けられて、一瞬だけ固まってしまうわたし。
「本日の会議でも議題に上がっておりましたが、人間界侵攻計画に反対派だった者達が、今になって現体制の解体を目論んで、まずはウォーディス家を魔王の座から引き摺り下ろしたいと考えているらしいですわ」
(……ああ、そういえばそんなコト言ってたっけ?)
 ぶっちゃけ、わたし自身は正規の手続きを踏むのなら、べつに譲っても構わないというのに。
「しかも、問題はその反対派に与する者達の中に、生き残った魔将が含まれているという噂まで付随しているというコトですけれど……まぁ、かくいう私も今だから言える本音としては懐疑派でしたが」
「…………?」
(やっぱり、フローディアもそうだったんだ……?)
 いくら父(とと)さまの片腕として、先の戦いで猛威を振るった十三魔将とはいえ、魔軍の最高戦力としての正義とか責任に対する想いは、それぞれ違っていたってコトなのかな。
「結局、当初の想定では圧倒的な戦力差で一方的な侵略になるハズが、あちらの切り札である勇者達によって十三魔将の大半が討ち取られ、更に予想以上の迅速さで天界より天使軍が人間達の援軍として派遣された所為で戦局が泥沼化した挙句、遂にはウォーディス様までが討ち死になされて、あってはならない歴史的大敗を喫してしまいましたから」
「…………」
 たしかに、人間界の勇者がこの魔王宮へ単身乗り込んできたという報告を受けたときは、わたしも耳を疑ったけど……。
 でも、あの時には既に大勢のゆくえや、父(とと)さまの命運は決まっていたのかもしれない。
「そしてその後に、次代の魔王となられたのが、魔軍の指揮経験すらお持ちでないプルミエ様とくれば、確かに不安や不服を感じる者が出てしまうのも、いた仕方が無い部分はあるのでしょうが……」
(うん……)
「しかし、少なくともこの私は、お嬢様が引き継がれるのが最も望ましい道と信じておりますわ。他の諸侯がどの様な目論見でお嬢様を主と迎えているのかは存じませんが、私自身は疲弊してしまった今の魔界にとって必要な魔王陛下は、プルミエ様のような御方と疑っておりませんもの」
「…………」
(うーん、そんなコト言われてもなぁ……)
 どのみち、喋れないから返事はできないとしても、こんなザマでわたしはその期待にどう応えろと……。
「……あの、フローディア様、よろしいですか?」
 それから反応に困りつつ、ざばぁと音をたてながらフローディアの汲んだお湯で髪をすすがれたところで、背後からエプロンドレス姿のメイドが恐る恐る声をかけてきた。
「何事ですの?」
 そこで、普段からお風呂の時間を邪魔されるのを何よりも嫌っているフローディアが、手を止めながらも露骨に不機嫌っぽい声で応対するものの……。
「も、申し訳ありません……。しかし、もうじき会合のお時間なのですが……」
「……ああ、そうでしたわね。承知しましたわ」
 しかし、それから遠慮がちに続けられた用件を聞くと、渋々といった様子でうなづいた。
「申し訳ありません、プルミエ様……。すっかりと忘れておりましたけれど、本日はもう一つの定例会合も控えておりましたわ」
 それから、そそくさと出て行ったメイドを見送った後で、面倒くさそうにそう告げてくるフローディア。
(もう一つの定例会合……)
 えっとたしか、魔将達の集まりだっけ?
 なぜか、こちらの方にわたしは呼ばれていないけど。
「正直、私としても、お嬢様との楽しいお風呂タイムを早めに切り上げてまで参加したいものではないのですけれど、まぁ顔を出さなきゃ煩い年寄りもおりますから、仕方がありませんわね」
「…………」
「ああそれと、少しばかり不穏な噂を聞いた後ですし、せっかくなので少々探りも入れてまいりますわ」
「…………。(こくっ)」
 お役目とはいえ、フローディアには苦労かけてるなぁ。
 ……だから、こういうときこそ、ねぎらいと感謝のひとつも伝えたいんだけど……。
「ささ、そういうことですので、そろそろお湯に浸かりましょうか、プルミエ様?」
「…………」
「ん?こちらをじっとご覧になられて……。あ、申し訳ありません、泡が目に入ってしまいましたか?」
「…………っ。(ぶんぶんっっ)」
(あー、もう……っっ)
 ホント、今の生活に嫌気がさしてくるコトがあるのは、正にこんなときである。

                    *

「やれやれ、めんどくせーですわね……」
 やがて、不本意ながらお風呂の時間を早めに切り上げてお嬢様を寝室へ送った後で、私は溜息交じりに夜更けの宮殿内を移動していた。
(今更、魔将達が顔をつき合わせて定期的に話し合わなきゃならない事なんて無いでしょうに……)
 それでも、一応呼び出しに応じて向かっているのは、代々魔王陛下と、その魔王直属の側近である魔将達で軍議を行ってきた特別の会議室である、「円卓の間」。
 先代魔王であるウォーディス様が初めて人間界侵攻計画を口にされたのもこの円卓の間だったコトもあり、かつては魔界の行く末を決める程の会合が開かれた場所だったものの、プルミエ様が即位されてからは、まだ一度も本来の形での会議は開催されていなかった。
 ……勿論、時世的に必要が無くなっているからというのもあるけれど、今は主君を護れなかった敗残兵達の最後の砦みたいになっているのが、何とも切なさを禁じ得なかったりして。
「…………」
(まぁ尤も、この私もその敗残兵の一人なのは間違いないのだけれど……)

                    *

「……フローディア・L(ルミナス)・メンブレイス、参りましたわ」
「うむ、フローディアよ。待っておったぞ」
「遅かったと思えば、お風呂上りあがりみたいね。……ふふ、なかなか色っぽいわよ?」
 ともあれ、それから今は亡きウォーディス様の寝室近くにある目的地の扉を開くと、中央に設置された円卓に腰掛けていた老練の紳士と、年齢不詳な淑女が妖艶な笑みを浮かべて私を迎えてくる。
 それぞれ、「魔狼」のクェイルードに、「魔躁」のヴェルジーネ。
 共にウォーディス様から別格の信頼を得ていながら、遠征軍の指揮を担当して魔王宮から離れていた為に、勇者と直接に見えること無くして敗れてしまった魔将達である。
「ええ、お陰様でいつもより短縮する羽目になってしまいましたけれど。……ところで、他の者達は?」
 そこで、いつもの大切な時間を邪魔された嫌味を交えつつ頷き返した後で見渡すと、室内にはこの二人だけしかいない事に気付く。
「うむ、今宵は三人だけじゃよ」
「あら、そうだったんですの……」
 それを聞いて、一気に力が抜けてしまう私。
 ただでさえ、大して意味のある集まりでもあるまいに、人数が揃わないのなら延期でもするか、いっそ……。
「ふふ、だったらいっその事、今回は中止にすればよかったのにって顔をしてるわね、フローディアちゃん?」
「…………」
 すると、そこで意地の悪い笑みを見せながら、心の中のぼやきを代弁してくるヴェルジーネに、私は無言で肩だけを竦めて見せる。
 魔軍の参謀長も勤めた魔女相手に無駄な言い合いをする気は無いけれど、貴女だって同じでしょうに。
「否、そういうワケにはいかん。我ら魔界の行く末を憂う者、少々の欠席者が出た程度で、会合の機会を絶やすわけにはゆかぬからな」
「はいはい……分かっておりますわ」
 やれやれ、本当に憂いているのは、片隅へ追いやられようとしている自分達の立場でしょうに……。
(……まぁでも、これもお嬢様と、武士の情け……ですわね)
 ただ、お仲間としてクェイルードの気持ちも理解は出来るし、こうやって老人の愚痴に付き合ってあげるのも、今の私のお役目の一つだから、暫くは付き合ってあげるとしますか。
「ふふ、そういうコトみたいだから、そろそろ始めちゃう?」
「……うむ。ではまずフローディアよ、本日に行われた定例会議では、我等を締め出してどの様な話を?」
「そうですわね……。一応、主な議題は遅れている魔軍の再編問題や魔界貴族の領土見直し、復興整備に必要な予算の負担割合などでしたけれど、相変わらず参加諸侯はプルミエ様にお構いなしで、自らの利権の奪い合いといった感じでしたかしら」
「……それはいかんな。奴ら、最近調子に乗りすぎではないのか」
「まぁ、それは否定しませんわ。……しかも、彼らの専横に対する不平の矛先が、プルミエ様に向かっているのも事実ですし」
 ただ、これに関しては実に腹立たしいながらも、彼らの支え無しでは魔界政府の運営が成り立たないのも事実であって。
「あらあら、大変ねぇ。フローディアちゃんも、気が気じゃないでしょ?」
「……他人事みたいに言わないで下さるかしら?しかも、それ以上に気になる話として、気勢を上げ始めているらしい魔王家の失脚を狙う反体制派の中に、魔将が絡んでいるという噂話まで出ましたわ」
「ほう!つまりわしらの誰かが、反逆を企てているとでも?」
 それから、主君の危機というのに、魔将の一角とは思えないヴェルジーネの態度にむっときた私は、尋ねるタイミングを慎重に伺っていた本題をあてつけがましく切り出してやると、これまで陰気な顰め面を見せていたクェイルードが興味深そうに食い付いてくる。
「うふふ、それも楽しそうじゃな〜い?」
「……冗談じゃありませんわ、二人とも。自らの立場を忘れたわけではないでしょうに」
 しかも、更にヴェルジーネまで無責任に笑いながら話に乗ってきたものの、私の方は戯れと分かっていても付き合ってやる心の余裕なんて無かった。
「まぁまぁ、そんなに目くじら立てなくてもいいじゃない?ホント、生真面目なんだから」
「大体、立場も何も、今のわしらは中央より引き離されておるではないか」
「……それを言われれば、そうなんですけど……」
 魔軍の指揮権限を持ちながら、魔王様に直属で仕え、原則的に魔王の為だけに動く十三魔将とは、魔界政府の運営の為に起用されている他の仕官達とは一線を画する存在である。
 それ故に、ウォーディス様が御健在だった時代から、魔将達は魔軍の最高戦力でありながら、御し難い目の上のタンコブとして疎んでいた者も少なくなかった事もあって、先の戦いで主を護れなかった上に半数以上が戦死した今は、その地位だけは保証されながらも、実質は閑職に追いやられている者が多いのが現状だった。
 私の場合は、最初からプルミエ様の従者として任命された身だけに、今も立場は殆ど変わらないものの、ここにいるクェイルードやヴェルジーネ、そして今日欠席している「魔剣士」などは、戦後の再編成の名目で一旦魔軍の組織から外されている上に、まるでお嬢様が存在ごと忘れておられるのではと勘繰ってしまうほどお声が掛かる機会もないので、すっかりと開店休業状態になっているみたいである。
「ま、どちらにしても私達がその反体制派とやらに与する理由は無いわねぇ。彼らの狙いって首の挿げ替えじゃなくて、魔王という制度そのものを消し去る事だと聞いたけど?」
「うむ。魔王陛下あっての我らが、自ら魔王の存在を破壊するなど、本末転倒も甚だしいからの」
「…………」
 確かに、それは二人の言う通りなんだけど。
 ……でも、私の直感には、やっぱり何処か引っかかるモノを感じていたりして。
「けど、未だ増員や具体的な再編成の話が持ち上がってこないのを見ると、もしかして魔将の方は私達の代で看板を下ろしてしまうおつもりなのかしら?」
「……いえ、私としては、出来れば早めに新たな布陣を整備すべきとは思っておりますけど……」
 ただ、こればっかりは当代の魔王、つまりプルミエ様の方から動いていただかないと、私の方が勝手に選んで用意するワケにはいかない。
「魔将とは、魔王の権威の象徴でもあるからの。結局、姫様が魔将への関心が薄いままである事が、現状を招いた元凶の一つではないのか?」
「それは……」
 そこで思わず、お嬢様への批判は御法度と返したくはなったものの、私の方も思うところがあるだけに、言葉を飲み込んでしまう。
「……分かりましたわ。ともかく魔将の再編成に関しては、お嬢様へ私の方から改めて進言してみます。それでよろしいですわね?」
「ええ、期待しないで待っているわ。ふふ……」
「…………」
 期待しないで……か。
「ただ問題として、戦の傷跡が癒えない今は候補者が揃うかどうかの懸念もあるが、そんな心配をせねばならぬというのも、哀しき話よの」
「ねぇ?もしも今、人間と天使の連合軍が攻め入ってきたら、魔界なんてあっさりと滅ぼされちゃうんじゃないかしらん?」
「……ふざけないでくださいまし。もし本気でそう考えているのならば、魔将から降りていただかないと」
 まったく、このヴェルジーネは軍略家としても戦士としても魔界屈指の実力者だというのに、相変わらずどうしてこうも悲観的なのやら。
 ……尤も、悲観的というよりは、状況の悪化を楽しんでいる風にも見えるけれど。
「だから、いちいち本気にしないの、もう」
「まったくじゃ。我らを魔将から追い出して立ち行けるとでも?」
「…………」
(分かっていますわよ、そんなコト……)
 だから、こうして付き合ってあげてるんじゃない。
(……はぁ、早くお嬢様のもとへ帰りたいですわ……)
 けど、そういえばそろそろお休みになられる頃合かしら?

                    *

「…………」
(ふう、いい風が吹いてるなぁ……)
 お風呂の時間が終わったあとで、フローディアに送られて寝室へ戻ってきたわたしは、すぐにベッドには入らずにテラスへ出ると、いつもより比較的穏やかに吹きつけてくる心地のいい夜風を浴びていた。
 いつもなら、お風呂上りは湯冷めするからとフローディアが止めてくるものの、いまはこの部屋には新入りらしいメイドが一人だけ。
 おそらく、フローディアには大人しく寝かしつけるように言われてるんだろうけど、このわたしとて星空の下でひとり佇んでいたいときもある。
「…………」
(ふわぁ、いつみても綺麗……)
 魔王宮の最上階に位置するこの寝室のテラスからは、圧倒的なまでに壮観な夜景が、わたしの視界一面に広がっていた。
 ここでこうやって、魔界の中心部である帝都を眼下に見下ろしているというのは、すなわち世界の頂点に立っているコトを意味するはずなんだけど……。
(……だけど、実態としてのわたしは……)
 正当な魔王の証こそ押し付けられているものの、結局は生き残った者たちによって父の威光に縋ろうと持ち上げられた、実権の無いお飾りに過ぎないわけで。
 しかも、父(とと)さまを失ったショックで言葉を失う呪いを受け、もの言えぬ魔王として殆ど一方向の疎通しかできない孤独感に苛まれているのだから……。
「…………」
(はぁ……)
 これじゃ支配者どころか、まるで魔王宮へ幽閉された籠の中の小鳥も同然だった。
(ホント、なんて滑稽なんだろう……)
 考えているとなんだか全てが嫌になってきそうというか、いっそ誰かがわたしをさらいに来てくれたら……。
「…………」
(……うん。それこそ滑稽か)
 せめて、呪いさえ解ければまた状況も変ってくるだろうし、今はフローディアの言葉どおりに辛抱するしかないんだろうけど。
「…………」
『私自身は疲弊してしまった今の魔界にとって必要な魔王陛下は、プルミエ様のような御方と疑っておりませんもの』
 それから、やや強まってきた夜風になびかれるがまま、ふと先ほど告げられた言葉を思い出すわたし。
(うーん……)
 蔑ろにされるのもイヤだけど、フローディアもフローディアで期待しすぎというか、一体このわたしに何をさせたいのやら。
(まったく、父(とと)さまも含めて、みんな無責任すぎ……)
 今でもこのまま押し潰されそうなのに、誰も本当の意味で助けてくれそうな者はいない。
「…………」
「姫様、そろそろお休みになられるお時間ですが……」
「…………。(こく)」
 そこで、せっかくの夜景を前に、またも気持ちが沈みかけたところで、寝室の方から遠慮がちに就寝の時間を告げるメイドの声が聞こえ、小さく頷くわたし。
 確かに、ここへ留まるのもそろそろ潮時かもしれない。
(でも、姫様にお嬢様、か……)
 何だかんだで、フローディアも含めて、未だにわたしの呼び方って固定されていないよね。
 実感が未だ薄いのはわたしも同じだから仕方がないとしても、それこそ、都合のいい時だけ「魔王様」って呼ばれているような……。
「…………」
(……まぁ、どーでもいいか……)
 魔王だろうが召使いだろうが、各々には為さなければならぬ使命を持っている、というのは父から聞かされた言葉だけど、この境遇に耐え忍ぶのも、今のわたしに課せられた役目とでもいうのだろうか。
(ふう……)
 ともあれ、そんな自虐だか諦めだか分からない自問にため息を吐いた後で、ようやく戻ろうと夜景から背を向けると、先ほど声をかけてきたメイドがすぐ間近に立っていることに気づく。
「…………?」
(え……?)
「……大変申し訳ありませんが、姫様に今宵お休みいただくのは、いつもの場所では御座いませんので」
「…………っ?!」
 そして間伐入れず、背筋がゾクっとさせられるような殺気をはらんだ笑みと共に、小さなパフュームボトルが向けられると……。

 シュッ

(いけない……っ!)

 ドンッ

 続けて、鼻先へ猛烈に嫌な予感のする何かが吹きつけられた瞬間、ほとんど無意識に相手を突き飛ばして寝室の方へ逃げ込むわたし。
「あらあら……。ふふ……」
「…………?!」
(な、何なの、一体……?!)
 小瓶の先から出てきたのは無臭の霧だったものの、あれが危険な薬品か何かっぽいコトは、相手のまとっていた殺気でわかる。
(ううん……それよりも、いきなりどうしてこんな……)
 魔界貴族、しかも魔王家に生を受けた者の心構えとして、いつ命を狙われるか分からないから用心は怠らないようにと、物心ついた時から教えられてはきたけど、でも今までは一度も無かったのに……。
「…………」
 まさか……。
『それに、当面は仇討ちよりも、お嬢様の御身の心配が出てきたコトですし……』
『人間界侵攻計画に反対派だった者達が、今になって現体制の解体を目論んで、まずはウォーディス家を魔王の座から引き摺り下ろしたいと考えているらしいですわ』
(……ホントに、直接わたしへその矛先を向けてきたってコト……?)
「…………っ?!」
(あ……っ?!)
 そこで、テラスから寝室の出入り口へ向けて横切りながら、お風呂でフローディアから言われた言葉が頭に浮かんだ直後、両足の力が抜けてその場にへたり込んでしまうわたし。
(う……そ……っ)
「誠に残念ですが、お逃げになろうと既に手遅れですよ?先ほど僅かながらも吸い込まれた昏睡薬は、いかに魔王家の嫡子といえど、ひ弱なお嬢様が耐え切れるものではありませんから」
「…………っ」
 そして、冷たい殺気をはらんだままゆっくりと追いついてきた刺客の言葉通り、今度は強烈なめまいと共に視界がぼやけ、意識が奈落へと吸い込まれるように沈みかけてゆく。
(ダメっ、ここでおちたら……)
「それに……。下手に抗おうなどとはなさらず、そのまま意識を失っておいでの方が、この先は楽だと思いますよ?後は眠っておられる間に御父上のもとへ送って差し上げますから」
「…………っっ」
 やっぱり、このひと……わたしの命をねらって……。
(く……っ、フローディア……だれか……!)
「お可哀相なお嬢様……。しかし、助けを求めようが無駄な足掻きです。フローディア様は当分戻っては来られませんし、魔王様の寝室へ入れる者も他にはおりません」
(うう……っ、そんな……)
「つまり、叫び声もあげられぬ貴女を助けられる者など……」
「…………!」
(うそ……!)
 このまま、何もできずに死んでいく……なんて……。
(ゴメン、フローディア……わたし……)
「……ん〜、あたしを除いたら、かな?」
「…………?!」
(え……?!)
 しかし、意識が遠のいて諦めかけようとしたそのとき、突然に刺客の背後より聞き慣れない声が耳に入ったかと思うと、腕組みをした一人の少女がテラスから姿を見せてきた。
「な、何者……ッ?!」
(だ、誰……?)
「いや、ナニモノ?と聞かれても、正直答えづらいんだけどさー……」
 そこで、わたしと同時に刺客の方もぎょっとしながら振り返ったのをみると、どうやら互いに知らない侵入者みたいだけど、その頭に大きなリボンを着けた女の子の方はとぼけたように首をひねってくる。
「……ならば、一つだけ答えなさい。私の邪魔をする気?」
「…………」
「ジャマ、ねぇ……。つーかさ、あたしにはさっぱり事情は分からないんだけど……」
「……でも、こんな場面に鉢合わせちゃったら、やっぱこーするしかないよね……ッ?!」
 それから、突然の乱入者はそう告げるやいなや、低い姿勢で滑り込むようにして距離を詰めてきたかと思うと……。
「んな……ぐう……っ?!」
 目にも留まらぬ早業でメイド服を着た刺客のみぞおちへ鞘ごと抜いた剣で当て身を決め、一撃のもとに倒してしまった。
「…………っ」
(……えっと、とりあえず助かった……のかな?)
 一応、不審者には変わりないとしても、わたしにとっては思いもかけない英雄の登場である。
「…………」
「やっ、ダイジョウブだったかね?」
 ともあれ、命の危険を脱してほっとしつつ視線を送り続けるわたしへ、助けてくれた侵入者は屈託のない笑みを浮かべながら、こちらへ片手をあげてきた。
「…………。(ふるふる)」
「……あー、毒薬が回ってるんだっけ?ちょっとお手を拝借……」
 そこで、あたりまえだけど刺客は倒れても昏睡薬は意識を蝕み続けてあんまり大丈夫じゃないわたしが首を横へ振ると、女の子はすぐそばまで駆け寄ってきてこちらの手をとり、ブツブツと詠唱みたいな文言を唱え始めてゆく。
「…………?」
「えっと、体内浄化の効果は、水と無の組み合わせだったかな?とにかく、何とかしちゃって♪」
「…………!」
(……あ、治った……)
 そして、女の子がずいぶんと曖昧な命令で実行を告げた途端、繋がった手から青色の波動がこちらの身体へ伝わってきて、瞬く間に体調が回復してしまった。
 見ためのイメージからは想像しにくいけど、どうやら相当に強力な精霊魔法の使い手でもあるらしい。
「これで、今度こそだいじょーぶ……かな?立てる?」
「…………。(こくこく)」
 それから改めて女の子に促され、手を貸してもらいながら、ゆっくりと立ちあがるわたし。
(このコ、一体何者なんだろう……?)
 お陰で助かったのはいいけど、いったい何の目的でこんなところへ……。
「…………」
 間近で改めて見てみれば、わたしとあまり変わらない年頃の、こういう殺伐とした場には不釣合いなくらいに明るい顔立ちをした魔界人みたいだけど……。
(……?いや、でも……)
 その瞳の色は、魔界の民の象徴である紅色じゃなくて、黒曜石のような澄んだ黒で、まとっている魂の波長も、まるで自分たちとは異質なものだった。
 しかも、それはまったく覚えがないようで、そうでもない感じが……?
「…………」
「…………」
「…………」
「……」

 ぐにっ

(ぶ……っっ?!)
 そこで、惹きつけられるようにしばらく無言で互いに見つめ合っていたものの、相手からいきなり頬の筋肉を強張らせた変顔を見せられ、ふき出しながら視線を逸らせてしまうわたし。
「あははは、にらめっこはあたしの勝ちいー♪」
「…………っっ」
 ち、違う、そんなんじゃ……。
「んでさー、ちょっと確認しときたいんだけど、ここってやっぱ魔王の寝室で合ってるよね?」
「…………。(こくこく)」
 ともあれ、向き直ってツッコミを入れる間もなく、女の子が手を繋いだままどこまで本気で言ってるのか分からない質問を続けてきたのを受けて、わたしは小さく頷き返してやる。
 魔王宮の最上階が魔王の寝室というのを知らないのも不思議だけど、そういえばどうやってここまで入ってきたんだろう?
「へー。んじゃやっぱり、キミが今の魔王サマなんだ。よろしくね?」
 すると、こちらの返答(といっても、頷いただけだけど)を見て、女の子は何やら嬉しそうな笑みを見せたかと思うと、今度はわたしの両手を取って、ぶんぶんと揺らせてきた。
「…………?」
(えっと、よろしくと言われても……)
 まったくの初対面のはずなのに……いや、それ以前に当代の魔王に対してなんなんだろう、この馴れ馴れしさは?
「ね、それでキミの名前は?」
「…………」
(えっと……)
 知らないってのがそもそも驚きなのはともかくとして、まずはこの手を離してくれなきゃ答えようがないんだけど……。
「ん〜。しかし、キミは随分と無口だねぇ?そんな言葉も出ないくらい怖かった?」
「…………っ。(ぶんぶんっ)」
(ああもう、言葉ですぐに伝えられないのがもどかしすぎぃ……っ)
 本当は、お礼だってちゃんと言いたいのに、せめて自分の代わりに伝えてくれる相手がいれば……。

 バタン

「……そこまでです。プルミエ様から離れなさい」
(フローディア……っ!)
 そこで、ちょうど顔が頭に浮かんだところで、ようやく戻って来たわたしの従者がドアを派手に開けて突入してくると、右手で愛銃を構えながら侵入者の少女へ警告を送る。
「おわっ?!」
「魔王陛下の寝室へ忍び込むとは、いい度胸をした賊ですわね?……まさか、お嬢様を狙って来たとでも言うつもりですか?」
「…………っ」
(ダメ……っ!)
 それから、フローディアが即座に引き金を引いてしまいそうな雰囲気を感じるや、あわてて彼女を庇うように立ち塞がるわたし。
 いったい何が目的なのかはまだ分からないけど、少なくともこのひとはわたしの命の恩人なのだから、事情を聞かずに撃ち殺させるわけにはいかない。
「お嬢様……?!」
「ちょっ、待った待ったっっ、あたしは別にこのコへ危害を加える気なんて無いってば!」
 すると、怪訝そうな顔を見せながらも握った銃を引くフローディアに、侵入者の女の子はぶんぶんと両手を頭上で振りながらそう主張してくる。
「……それを、一体どんな根拠で私に信じろと?折りしも今、魔王様を狙う不届き者の情報が……え……?」
「…………っ」
(だーかーらーっ!)
 そこで、わたしはフローディアのそばへ駆け寄ると、床に倒れているメイドを指差し、いろんな仕草を織り交ぜながら、身振り手振りで必死に事情を伝えてゆく。
「なに、プルミエちゃんって、パントマイマーな魔王サマなの?」
「外野はお黙りなさい……。えっとつまり、あちらに倒れているのが本当の刺客で、お嬢様は危ない所を彼女に助けられたというコトですか?」
「…………っ!(こくこくっ!)」
 ……ああ、よかった。今回はちゃんと伝わったみたい。
「そーそー、あたしはただの度胸試しで来ただけだってば」
「度胸試しですって?貴女は一体……」
「あー。そういえば、自分からはまだ名乗ってなかったっけ?あたしはリコリス・W(ウィングハート)・
アーヴァイン。改めてよろしくね、プルミエちゃん?」
 それから決死の事情説明も終った後で、改めて侵入者へ不審な視線を向けるフローディアに対して、リコリスと名乗った女の子は「うっふん」と片目を閉じながら、こちらへ向けてセクシーポーズを見せてくる。
「…………」
(ちょっと、うざい……)
 でも、それ以上に油断なく殺気を向け続けているフローディアを前にして、こんな余裕を見せられるなんて、やっぱりただものじゃない……のかな?
「生憎、私が訊ねたいのは貴女の名前などではなく……って、アーヴァイン……?」
(ん……?)
 すると、そんなリコリスに対して、フローディアは興味無さそうに受け流しかけたものの、セリフの途中で彼女のファミリーネームにぴくりと反応したかと思うと……。
「……それに、貴女の胸のメダリオンは……まさか……」
 続けて、侵入者の胸元にペンダントとしてつけられている、六芒陣が刻まれたきらきらとしたメダリオンを見て、珍しく目を見開きながら驚いた顔をうかべた。
(あ……)
 そういえば、わたしも何となく見覚えがあるような、無いような……。
「おほ、分かっちゃった?実はついこの間に襲名したんだけどね、せっかくだから度胸試しに当代の魔王サマの顔でも拝んでこようかなーって。てへ☆」
「…………?」
(え、なに、どういうコト……?)
 あと、やっぱり「てへ☆」はちょっとうざい。
「でも、パパから話には聞いてたけどさー、こんな可愛らしい女の子が魔王だなんて……」
「…………っ」
(か、可愛いらしいって……)
「…………」
 そこで、照れと戸惑いが混ざって混乱しかけるわたしの傍らで、フローディアの方はふるふると手を震わせながら、しばらく沈黙していたかと思うと……。
「……それは良かったですわね。ならば、これでもう思い残すことは無いでしょう……ッ!」
 やがて、いきなり鋭い殺気を視線に込めてそう言い放つと、そのまま水平に構えなおしたサイレント・クィーンのトリガーを、侵入者へ向けて一気に引いていった。

 ガウンガウンガウンガウンッッ

(ちょっ……!)
 だから、撃たないでって言ってるのに……っ!
「うわっち!……っと、んじゃ今夜はこれで……っ、まったねぇ〜♪」
 しかし、それに対してリコリスはすばしっこい身のこなしで全て避けてしまうと、自分の背中から白銀色に輝く翼を広げながら踵を返し、残光を振りまきつつテラスを飛び越えて、漆黒の夜空へと逃げて行ってしまった。
「…………」
(な、何なの……?)
 どうやら、あの子はあの翼でここまで飛んでやって来たみたいだけど……。
(でもやっぱり、あの翼も見覚えがあるような……?)
「…………」
「……お嬢様、あの侵入者の正体が判明致しました」
 それから、自分の記憶を引き出している間に、フローディアが追撃はせずにリコリスの飛び去って行った先を見つめながら、静かに切り出してくる。
「…………?」
「驚かないでくださいね。おそらくあの者……人間界からやって来た、当代の“勇者”です」
「…………っ?!」
(えええええっ?!)
 そして、「驚くな」と前置きはされたものの、それからフローディアの口から出てきたのは、目を見開いて驚愕せずにはいられない結論だった。

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