anonより 世界で一番不思議な貴方へ

 

 人間ふとある物事が気になり始めたらどうにも止まらなくなるものだ。それは人間の探求心への美徳であると同時に、抑え切れない欲求への醜い具現でもあると俺は思う。
 俺がある日突如求める様になった秋子さんの謎の領域。そしてそれを揺り動かしているものは秋子さんへの好奇心なのかもしれないし、もしくは潜在的な焦燥なのかもしれない。
 ....いずれにせよやはり気になり始めてしまうとどうしようもないもので.....


*****ある日の昼休みの教室
「.....やっぱ気になる。」
 俺は食べかけのカレーパンをぼんやりと眺めながらぽつりと呟いた。とは言っても別にカレーパン自体に異常がある訳ではないが。色艶も味もいつもの変わらぬカレーパンである。
「何が?」
 そんな俺に隣で一緒に昼食を取っていた名雪が、紙パックのオレンジジュースをストローで吸い出しながらさほど興味を示していない素振りで殆ど相づちを打つように問い返してくる。
「いつものカレーパンだよ?」
「......違うって。」
 俺は左手でこめかみを押さえながら名雪のボケを否定する。.....どうやら俺と名雪の思考回路は似ているらしい。
「.....秋子さんだよ。」
「お母さん?具体的にどこら辺が?」
 名雪のきょとんとした顔に特に目をくれることもなく、俺はそのままの視線で答える。
「全部といえば全部.....かな。いつ寝起きしているのだろうか.....とか、どんなお仕事してるのだろうか.....とか、あの謎のジャムの成分はなんだろうか....とか、そして....」
 「一体いくつなんだろうか....」と続けて口走りそうになって慌てて止めた。.....いくら名雪の前でもそれは失礼だろう。
「な?考えてみれば色々あるだろ?」
 俺の問いかけに名雪は腕組みして少し考える仕草をしたが、
「うーん.....まぁそうかもしれないけど何を今更って感じじゃない?」
 とすぐに切り返された。.....まぁそれもそうだが。だからどうした?と言われればそれまでだし。
「それにむしろわたしが気になるのは突然そんな事を言いだした祐一の方だよ。」
 .....それも一理ある。暗黙の了解で納得済みの事を何で今更?
「.........」
 そう考えると今度は自分自身にも混乱が生じてきたので、俺はぼーっと上の空を見つめながら頭の中を整理し始める。が.....
「.....やっぱ気になる。」
 .....どうやら気になるのは確からしい。心の中の何となく煮え切らない感覚がやはり消えない。
「どうでもいいけど、祐一......」
 そんな俺に名雪がじっと見据えてくる。
「.....分かっている。だからといって秋子さんに迷惑になるような真似はしない。」
 俺はここは真っ向から請け負い、真剣な面もちで返答した。
「いや、そうじゃなくて、それ....」
「.....あ。」
 そう言って名雪が指さした先には、いつの間にか俺の手から離れた食べかけのカレーパンが教室のタイルの上に転がっていた。


 .....そしてその夜、何故か俺は誰もが寝静まった夜更けに一人階段に突っ立っていた。いや、正確には秋子さんが通りかかるのを待っているのだが。
『....寒い....』
 あたりに充満する冷たい空気と、靴下越しでも突き刺すような木造の床の冷たさが容赦なく俺を責め立てる。......腕時計を見ると時刻は午前3時を回ったあたりか。
『....これって所謂ストーカー行為....だよなぁ』
 そんな事を考えると一気に罪悪感と情けなさが増してくるが、それでも何とか「今回だけだから」と自分に言い聞かせる。......というか別に大それた事を考えているのではなく、ただ起きて通りかかった秋子さんと偶然を装って鉢合わせればそれだけでとりあえず自分を納得させられるはずだ。とにかく少しでもいいから自分の頭の中の秋子さんに関する情報の空白を埋められればそれで....

『........』
 そのまま漠然と時間だけが通り過ぎていく。辺りはしんと静まりかえっていて、遠くにあるはずの置き時計のコチコチという秒針の音まで聞こえてくる気がする。
 そして、次第に肌に感じる寒さと同時に眠気も強くなっていくが、『若いんだから一晩の徹夜位大丈夫だ』と自分に暗示をかけて何とかそれを回避していった。
 ....俺の予想だと秋子さんが起きてくるのは大体朝の5時〜6時位の間。もうそれ程長い時間では無いはず。だから....あと.....少....し.......

「.....あれ?」
 そして気づいたときは俺は階段に座り込んでいた。意識が戻ると同時に感じる現実と夢の狭間の虚ろなまどろみ後の感覚。......どうやらあのまま眠ってしまっていたらしい。
 俺は「ふわぁぁぁ....」その場で無意識に欠伸を漏らした。さすがに階段に座り込んでの体制だとよく眠れる訳は無い。
 そんな中、ふと体に心地よいぬくもりを感じてふと視線をその方向にずらすと、俺の体には大きな毛布が掛かっていた。
「毛布.....?」
 そして、それと同時に自分の肩越しに毛布のものとは別質の温かさを感じてその方向を向くと、
「くー」
 ....何故か名雪が俺の隣で気持ちよさそうに眠っていた。冷たい階段の入り口付近で二人仲良く毛布を分け合って眠っていたという構図になっている。
「........」
 これがもし俺と名雪で無いなら、目覚めた瞬間お互い思い切り大声を上げて驚いていたんだろうなぁと寝ぼけ頭で漠然と考えながら名雪が目覚めるのを待つ事にした。時計を見ると7時30分くらいだからもうそろそろ起きるだろう。俺は毛布のぬくもりを味わいながらそのままの体制で待つ....のはいいが冷静に考えるとこれって端から見たらもの凄く滑稽な光景な気がする.....
「......うにゅ。あ、祐一......? .....おはよう。」
 予想通り程なくして名雪も目覚めると、最初に自分の視界に浮かんだ俺を見てごしごしと目を擦りながら挨拶してきた。......状況の把握よりも日常の習慣を優先させる行動原理が実に名雪らしい。
「.....ああ、おはよう。寒くないか?」
「.....寒い。」
 そう呟くと名雪は思い出したように辺りを見回していまの自分の状況を確認して一言、
「あれ?どうしてわたし祐一と廊下で眠っているの?」
 .....それは是非俺が聞きたいのだが。
「どうしてなんだ?」
「.........」
 俺がすかさず聞き返すと、名雪は眠気眼で暫くぼーっと考えた末にぽんっと手を打って、
「あ、そうだ。昨晩夜中にお手洗いに一階に降りようとしたら階段で祐一が眠っていたんだよ。」
「んで?」
「.....それだけ。後は目が覚めたら祐一の顔が目の前に出てきたの。」
 ......全然答えになっていない気もするが、まぁ名雪の場合だと何となく納得出来る答えの様な気もしないでもない。要はいつものように寝ぼけていただけだ。
 ......となると毛布をかけてくれたのは秋子さんという事になるな。多分秋子さんがこうやって肩を寄せ合って階段で眠っていた俺達を見つけて毛布を掛けてくれたんだろう。その場で起こさずに毛布を掛けてくれたという行動は実に秋子さんらしいと思う。
「.....眠い。」
「起きろ。もう朝だ。」
 俺は立ち上がって、再びその場で眠ろうとする名雪を強引にずるずると引っ張りながらキッチンに向かう。昨晩の俺の行動を考えると少し顔を合わせ辛い感じもあるが、どのみちこの家で暮らす以上は秋子さんと顔を合わせずにいる事自体無理なので、観念してそのままいつものように秋子さんに顔を見せて朝の挨拶をする。
「おはようございます。昨晩はよく眠れましたか?」
 ......開口一番実に痛い台詞だった。もっとも秋子さんには何の悪気もないのだろうが。
「いえ、あまり.....」
「.....みたいですね。でも廊下で眠ると風邪を引きますよ?」
 俺達二人分のコーヒーを入れながらいつもの表情で言う秋子さん。
「起こしていただければ自分で部屋に戻ったんですけど......」
「いえ、そうしようかとも思ったんですけど、名雪と一緒に眠っている姿があまりにも微笑ましかったので。」
 そう秋子さんはにこにこしながら、そしてどこか嬉しそうに答えた。.....多分それが秋子さんの本音なんだろう。
「.....そんなものですかね?」
 俺は呟くようにそう返答すると、目の前に置かれたコーヒーカップを手に取って一口すする。入れたてのコーヒーの香りと程良い熱加減が心地良かった。
「ええ。本当に仲の良い兄妹みたいで。」
 またも何処か嬉しそうな秋子さん。.....まぁ実際そんなものなんだろうが、だからといって素直に同意できないのも俺達の年頃の男女というものだ。ので、
「兄妹....そう見えるもんですかね?なぁ名雪.....」
 と名雪に同意を求めて話を降ったが、
「くー....もぐもぐ....いちごジャムおいしい.....くー.....もぐもぐ.....」
 名雪は全く聞こえていない素振りで、半分眠りながらもいちごジャムのたっぷり乗っかったトーストを幸せそうな顔で頬張っていた。
「........」
 その姿を見て、俺も自分の期待していた返事を引き出すのは諦めて自分のトーストに手を伸ばす。.....いつものバターの乗ったトーストの味とコーヒーの芳香。考えてみれば俺がこの家に居候させてもらい始めた時から殆ど毎日同じメニューを食べている気がするが未だに飽きがこないのは結構不思議な気がする。
 いや、実際メニュー自体に飽きが来ていない訳じゃないだろうが、多分それは秋子さんの手作りのこの朝食から伝わる秋子さんの温かみに未だ飽き足っていないんだと思う。そうでなければとっくの昔にメニューを変えているだろうし。現に以前一人で用意していたときはいい加減食べたいものが無くなって朝食を抜いていた時期もあった。
 .......それに俺はこういう食卓に憧れを持っていたんだろう。こういう心が癒される様な家庭の温かみが俺には何より嬉しかった。
「.....しかし珍しいですね。祐一さんが階段で眠っているなんて。」
 自分のコーヒーを用意してテーブルについた秋子さんが独り言の様にそう言う。俺の返答自体にはそれ程興味がある訳ではなさそうに。
「.....まぁ色々ありまして.....」
 俺としても流石に秋子さんと出くわすのを待っていましたと正直に言うわけにはいかないので適当にお茶を濁す。.....あれ?「俺が」って事は.....つまり名雪なら珍しくはないという事か?
『.........』
 .....珍しくは無いんだろうな。カップのコーヒーをすすりながらその事を想像して思わず頭の中で苦笑してしまう。
「祐一でもああいう事があるんだね〜」
 にこにこと何故か嬉しそうにそういう名雪。.....いや、だからといって名雪と同列に並べられるのも少し抵抗あるぞ、俺は。無論俺は未来永劫絶対寝ぼけることはないと断言する気はないが。
「..........」
 しかし結局の所、昨晩は苦労も報われずに何も収穫がなかった訳になる。とは言ってもこの調子では今後とも秋子さんと同じ時間帯に寝起きするのも無理に近い様だし.....流石に毎晩階段で眠り込む訳にもいかない。怪しまれる以前に体が保ちそうもない。
『....これで手がかり無し....か....いや.....』
 .....一つだけあった。俺はテーブルの上に乗っているもうほとんど無くなりかけのいちごジャムの小瓶を見てふと思い出した。それこそ秋子さんを知る者全てに彼女を「謎の人」と形容させている一つの大きな要因でもある存在。
 .....だがしかしそれは並大抵の事ではない。そう。それに触れるという事は、相応の強靱な覚悟が必要となる。果たしてそれが俺にあるのか.....???

 .....そして、その答えを一晩考えた末、遂に俺は覚悟を決めた。

「秋子さん、例のジャムを.....この俺に下さい。」
 次の日のいつもの朝の食卓の席で、俺はまるで父親に娘との結婚を申し込む時の様な神妙さと真剣さで秋子さんにそう希望する。
「え....ちょっと......祐一.....?」
 例によって半分は眠っていた名雪の寝ぼけ眼が見開き、そして驚愕と心配の表情で俺を見る。その表情からは明らかに「気は確か?」という問いかけが読みとれていたが、俺は無言のままじっと正面だけを見据えながら「嬉しいわ」と言葉通り嬉しそうにジャムの瓶を取りに行く秋子さんを待っていた。
 ....後の名雪の話によるとこのときの俺の表情はまるで生涯のライバルを待っているかの様な闘志と覚悟を秘めた面もちだったらしい。

「はい、どうぞ。遠慮しないで全部食べて下さいね。」
 ことりという音と共に俺の目の前にジャムの瓶が置かれる。俺は今一度自分を奮い立たせて大さじで瓶の中からジャムを掬ってトーストの上にどっさりと盛りつけると、途端にトーストが重量感を増した。
『....う....』
 俺の手に伝わるこのずしりとした重みは果たしてジャムの重みだけなのだろうか......?
「あ、あの.....わ、わたし先に玄関で待っているから.....っ」
 とても見て入られないという感じでこの場を立ち去る名雪。
 .....自分でも分かっている。はっきり言ってこれはとても正気の沙汰じゃない。だが俺がもっと秋子さんの領域に踏み込むにはこの謎ジャムの存在は決して避けては通れないものだという確信が俺にはあった。昔の故事曰く「虎穴に入らずんば虎児を得ず」というが、今がまさにその時。
『....いざ、勝負.....っ!!!』
 俺は勢いを付けて一口にそれを頬張った。

*******そして、
「ねぇ、大丈夫.....?」
 .....死んでいた。いや、正確には生きているのかもしれないが既に生きてる心地はしていなかった。
「........」
「どうしてあんな事したの.....?」
「........」
 .....返事がない。ただの屍のようだ....って所だ。
「ね、もし.....悩み事があるんだったら相談して?わたしで良かったら力になるから.......」
 本気で心配そうな表情の名雪に強がる気力も無くただトボトボと通学路を歩く。どこか平衡感覚も狂っている感じがして、自分は平らの地面を歩いているのかも怪しい感じだ。
 そんな中で俺は先ほどの自分の暴挙の意義を反芻するが、
『....やっぱやめときゃ良かった....』
 浮かんでくるのはただの悔恨のみであった。
『フッ、....認めたくないものだな、若さ故の過ちというものを....』
 俺はそんな言葉を思い浮かべながらその場で大きくため息をついた。


********
 やがて学校に到着すると何事もなく授業がいつもの様に始まり、
「祐一、放課後だよ〜」
 そして気付けば名雪のいつもの笑顔と共に本日最後の授業の終了を告げるチャイムが教室に響いていた。俺はいつもの様に教室で名雪やクラスメート達と一言二言言葉を交わしてから、部活に向かう名雪と教室で分かれて一人学校を後にする。
「.....さーて......」
 校舎から一歩出た後でふと空を見上げて天候の機嫌を伺ってみると、太陽こそは出ていなかったが夕方を間近に控えた空は穏やかで、このまままっすぐ家に帰るには少し惜しい気分にさせられる。
「.........」
 俺はそのまま街の方に向かって歩き始めた。別にアテがある訳でもなかったが、とりあえず真っ直ぐ家に帰る気にはどうしてもならなかった。

 という事で、せっかくなので俺は今日はいつもと違う道を歩いてみる事にした。もしかしたら何か新しい発見があるかもしれない。そんな淡い期待を抱きながら見知らぬ場所を散歩するのは嫌いじゃなかった。偶然記憶の片隅に残っている風景に出くわして俺が住んでいた7年前との変化を見比べるのも一興だろう。それに....
『....秋子さんとばったり出会えるかも....』
 昔良く遊んだと思われる住宅地ではなくてビルの建ち並ぶ街の方に足が進んでいるのはその所為だろう。そろそろ秋子さんも仕事が終わる頃の筈だ。
「........」
 俺は時折吹き付ける冷たい風を受け止めながら何処へともなく適当に歩いていく。何処かにいるはずの秋子さんの姿を探しながら、そして失った自分のこの街の記憶の空白を追い求めながら。


 .....が、小一時間程歩いてようやく自分の行動の無謀さに気が付いてきた。
『....結構広いな、この街....』
 そう、いくら何でも何の手がかりもなく歩いていて何処で何をしているのか分からない知り合いと偶然出会うなんてよっぽどの幸運でも起きない限り無理だと言う事に。数学的に確立統計してみたら、多分天文学的な数字が弾き出されるだろう。

 でも、考えてみたらそもそも人と人との出逢いそのものが奇跡なのかもしれない。......俺が7年の歳月を経て再びこの街に戻って来て、そして再び秋子さんの家庭に招き入れられた事も含めて。
「....もうちょっと歩くか。」
 俺はぽつりとそう呟くと寒空の中を再びトボトボと歩き始める。まだ日没までは少しくらい時間があるだろう。
『....俺は旅人。愛する人の面影を背に風の吹くまま俺は向かうぜどこまでも....』
 吐き出される白い息に寒風で棚引く自分の前髪。そんな中で一人感傷に浸りながら俺は見覚えの無い風景の街並みの中を歩いていく。
『ん?愛する人?....』
 が、無意識に脳裏に浮かんだ「愛する人」という言葉にふと違和感を覚えて、そこで俺は一端その場でぴたと立ち止まる。
『....愛する人?そだっけ?....』
 .....俺が今持っている秋子さんへの強い意識はそういうこと.....なんだろうか?でも俺にとっての秋子さんはむしろ.....
「.........」
 自分が突然秋子さんの情報を求めて奇怪な行動を取り始めたきっかけ。それは間違いなく自分の中で秋子さんの存在が強くなってきたせいだと思う。「暗黙の了解」、「謎の人だから」、そんな言葉が受け入れられなくなって、そして少しでも謎とされていた秋子さんの領域に踏み入りたくなって......それはやっぱり一人の女性としての秋子さんに興味を持ったから、......そして秋子さんと自分との現状の関係に満足出来なくなったから.....?
「.....秋子さん.....」
 はっきりと結論が出ない自分の頭の中で苦し紛れに呟く秋子さんの名前。
「何ですか?祐一さん。」
「俺、秋子さんが.....って、うわっ!!!!!?」
 気付くといきなり俺の目の前に現れていた秋子さんに仰天して、俺はその場に滑り転んで尻餅をつきそうになる。
「私がどうかしましたか?祐一さん。」
 確実に1年くらいは寿命が縮んだと思われる俺の心臓と、それによる俺の錯乱気味の心理状態とは裏腹に、秋子さんはいつもの穏やかな表情で俺に話しかけていた。
「......い、いえ.....」
 とりあえずそんな秋子さんの顔を見ていると何となく落ち着いてくる。俺はそのまま少し気分を落ち着けてから、
「今から、帰りですか?」
「ええ。商店街で夕飯のお買い物をして」
 当たり前の問いかけと当たり前の返答。何故俺がここにいるのかは聞かないのだろうか?
『というか聞かないのが秋子さんなんだよな....』
 と勝手に自己完結すると、
「それじゃ俺もご一緒しますよ。荷物持ちくらいにはなりますから。」
「あら、助かるわ。」
 と嬉しそうに微笑む秋子さんの隣に歩いていって、そして一緒に商店街の方向に歩き始めた。
「もう、夕暮れですね。」
 秋子さんのそんな呟きにふと空を見上げると太陽が沈んで、うっすらと空の色が変わり始めていた。商店街に着く頃にはもう辺りはすっかり夕焼けの赤で染まっているだろう。
「そうですね.....」
 俺もぽつりと呟くとそのまま暫く無言で歩き続ける。本当は聞いてみたいことは沢山あったのだが、それより今はもっとこの時間を大切にしたかった。日が傾いてきて、さっきより心なしか寒さが増してきている気がするが、それでも一人で彷徨っていた先程よりは遙かに幸せな時間だと思える。

 そうやって並んで歩きながら、やがてたどり着くいつもの商店街の入り口。先程から秋子さんと共に商店街を歩いている中で、俺は何か懐かしい様な感覚と共に、心の中で安らぎの様なものを感じていた。そしてそんな不思議な感覚の中で歩いている途中、夕飯前の商店街の大通りの喧噪の中で自分の母親にくっついて嬉しそうに夕焼けの商店街を歩く小さな男の子の姿がふと俺の視界に映る。
「........」
 俺はその姿を遠目に見つめながらその子供と幼少の頃の俺を交錯させていた。秋子さんの夕飯の買い物に嬉しそうに付いて行っていた昔の俺と。
 .....そう。俺にとって秋子さんは母親代わりの人だった。多忙な仕事の都合で決して両親の愛に恵まれていたとは言えない俺に母親のぬくもりを与えてくれていたのが秋子さんだった。あの頃の俺は自分の母親から受け足りないものを秋子さんに無遠慮に求め続けて、そして秋子さんはいつもあの優しい顔でそれを与え続けてくれた。本当の家族同然に迎え入れてくれていた名雪と秋子さんの優しさが俺の心を決して飢えさせないでくれていたのだ。
 .....そして月日は流れて、俺は今こうして再び夕暮れの商店街を秋子さんと共に歩いている。もう母親の買い物に喜んで付いていくという年齢では無いが、その時の安らぎの記憶は未だ変わらず俺の心に残り、そして今も.....
「祐一さん、何か食べたいものあります?」
「え.....あ、ああ....」
 と、昔の自分に浸っていた所に秋子さんの言葉で我に返る。自分の目の前には昔の記憶と殆ど変わらぬ風景が広がっていた。
「どうかしたんですか?」
「.....いえ、ちょっとだけ昔を思い出してたんです。7年前もこうして良く秋子さんの買い物に付いていったな.....って。」
 でも考えたら俺はこんなに大きくなったのに秋子さんの姿やこの街並みはあの時のまま全然変わっていない気がする。この街で7年前から時間が進んでいるのは俺の方だけの様な錯覚すら覚えていた。
 .....と名雪に言ったら怒られそうだが。
「そうでしたね。」
 と楽しそうに相づちをうちながら秋子さんは歩いていく。
「.....でも、祐一さんがまたこの街で暮らすことになって、少しほっとしました。」
「え?」
 ふと秋子さんの口から出てきた言葉。
「祐一さんが来なくなってから、名雪は寂しそうでしたから。」
 .....考えてみればもう7年だしな。でも、だったら.....
「んじゃ秋子さんはどうでした?」
「.......」
 秋子さんは自分の事を振られると思わなかったのか、ほんの一瞬だが虚を付かれた様な表情を見せる。しかし直ぐにいつもの表情に戻って、
「....どう思います?」
「うわひでぇ.....」
「冗談よ。」
 少し大げさに肩をすくめて見せる俺に歩きながらうふふと笑う秋子さん。
 そしてこのまま自分の聞きたかった返答は得られないままこの話題は途切れてしまった。けど.....
『....一本取った....かな....』
 今はそれで十分満足だった。
「あ.......」
 そんな時、ふと気付くと商店街に冷たくて白い結晶が降り落ちてきていた。
「あら....雪ね。」
 まだ疎らに落ちてきている雪の結晶を手で受け止める秋子さん。.....学校を出たときより寒さが増したのはこういう事か。
「秋子さんは、雪お好きなんですか?」
 秋子さんの仕草を見て何となくそんな事を訊いてみる。
「嫌いだったらこの街にこんなにずっと住んではいられないと思います。」
 .....違いない。白く霞むこの街の冬は常に真っ白な雪と共にあり続けているのだから。
「祐一さんは雪があまりお好きじゃありませんでしたよね?」
「......そうですね......」
 俺はどっちつかずの曖昧な返事を返す。.....何故ならその理由はこの街の何処かに置き忘れた記憶の一つだから。しかし、
「良く知ってますね?俺が雪があまり好きでないって。」
 誰かに言った覚えはないけど.....?
「秘密です。」
 そう言っていつもの頬に手を当てる仕草で俺に微笑む秋子さん。
「........」
 何か腑に落ちないものもあるが、秋子さんがああ言った以上はこちらとしてもまた一つ秋子さんの謎が増えたという事で納得するしかない。ああやって「秘密です」といって後で教えてくれた事は皆無だった気がするから。

 そしてそのまま再び話題が途切れて、暫く他愛もないことを話しながら買い物して歩いていた所でふと見覚えのある喫茶店の前を通りかかった。ここは前に名雪に連れられていった名雪のお気に入りの店だった....はず。
「ね、秋子さん.....良かったらそこでお茶でも飲んでいきませんか?俺、奢りますよ。」
 実は雪が少し強くなってきたので雨宿りしたくなったともあって、俺は思い切って秋子さんを誘ってみる。すると秋子さんは、
「あら、祐一さんからお誘いいただけるなんてうれしいわ」
 と一瞬嬉しそうな顔を見せたが、
「.....でも、もうすぐ名雪がお腹空かせて帰ってくる頃でしょうし、今日はこのまま帰りましょう。」
 とやんわりと断られてしまった。
「.....そうですね。」
 とりあえずそう言われるとこちらもそれ以上は食い下がり様が無いのでそれに従う。そして、
「その代わりケーキでも買って帰りましょうか。ほら、ちょうどケーキ屋さんの前だし。」
 と名案だとばかりにケーキ屋の軒先に向かう秋子さんに、俺は「ええ。」と返事して秋子さんの後ろを付いて行った。
 ......秋子さんはきっと「どうせならその言葉は名雪に言ってあげて下さい」って言いたいんだろう。そして、多分.....
『まだ俺が秋子さんを誘うには10年早い.....のかもな。』
 何となくそう思えていた。多分もう少し....秋子さんの未知の領域に自分が踏み込む事が出来るまで.....
「名雪と私はいちごのショートケーキにしますけど、祐一さんはどうします?」
 今はまだ....早いかも知れないけど.....
「あ、俺も同じで良いです。」
「ええ。分かりました。それじゃ3つお願いします。」

 ......でも、いつかは俺の誘い、受けてくれますよね。秋子さん.....?

 帰り道、夕日に当てられて映える秋子さんの横顔に一人そう願う俺だった。


**********そしてその日の夜......
「祐一さん.....祐一さん.....」
「ん.....」
 自分の部屋で眠っている所にふと耳元で秋子さんの声がした様な気がして目を覚ますと、
「秋子さん.....?おわっ!?」
 目を見開いた瞬間、俺は思わずたじろいだ。気付くと俺の目の前、つまりベッドの上に秋子さんがいつの間にか乗っていた。しかもその格好は普段来ている寝間着姿ではなくて....暗くて色はよく分からないが何故か艶っぽいネグリジェを付けて俺のベッドにまたがる様な格好になっている。
「........うっ」
 その姿に思わずゴクリと生唾を飲み込んでしまう。が、俺はすぐにはっと我に返り、そして麻のように乱れた自分の心を落ち着かせて、そして極めて冷静に、
「あ、あああ秋子さん、い、一体どうしたんですか急なこんなぁぁぁぁぁぁぁ」
 .....まぁ所詮こんなものだろう。
「.....あまり大きな声を上げないで下さい。流石に名雪も起きてしまいますから。」
 そんな俺に妖艶な笑みと共に囁く秋子さん。秋子さんの暖かい吐息が擽って只でさえ吹っ飛び寸前の冷静な思考回路が更に狂ってくる。
「あの....その....こ、これは.....ゆ、夢.....ですよね?」
 夢。そう、人間が自分の思考の範疇を越えて信じられない現実に出くわしたときに決まって逃避するのがこの「夢」という言葉。この場合も今目の前にいる秋子さんは俺の夢に出てくる幻であると考える俺を誰が俺を非科学的だと責められよう。....って
『....こんな時に何冷静に分析してんだよ俺は....』
 兎にも角にもすっかり取り乱しているのだけは事実であった....と。
「.....夢。そうかもしれませんね。これは甘い夢.....」
 そう言うと秋子さんは右手を俺の頬に宛って、そして....
「うっ....ち、ちょっと....秋子.....さん.....?」
 近づく秋子さんの鼓動。俺はそのまま金縛りにあったように動けなくなる。
「....目を閉じてくださいな。」
 秋子さんの吐息が直接当たる距離でそう告げると秋子さんは目を閉じ、そして、
「........」
 俺も又ぎゅっと目を閉じ、遂に観念して間もなく触れられるであろう秋子さんの唇を受け入れ....
『朝〜朝だよ〜』
「うおっ、名雪ぃっっ!?」
 がばっ
「.........あ。」
 突然の名雪の声に驚いて我に返るとそこは俺以外誰もいない自分の部屋だった。
『朝ご飯食べて学校に行くよ〜』
「........」
 ......やっぱり夢だったか。いや、まぁリアリティのあまりの欠如から夢の中の時からそんな予感はしていたけど....
「.....俺って最低.....」
 ともあれ妙に明確に残っている淫らな夢の記憶と、それに伴い沸き上がる罪悪感。.....夢は深層意識の現れともいうが俺はなんという事を.....俺はその場でがくっと項垂れた。

 .....とりあえず着替えて朝食を用意してくれているはずの秋子さんの元に下りていって、そして開口一番秋子さんに謝ろう。多分秋子さんは何のことかと困惑するだろうが(かといって詳しい理由を話す訳にもいかないが)、とりあえず今の俺は秋子さんに一言謝罪しない事には気が済まなかった。
 という事で名雪の部屋の扉を数回叩いて起きたのを確認した後に階段を下りてキッチンに行き、そして.....
「おはようございます。実は俺......あれ?」
 しかしそこにはいるはずの人はいなかった。そして、同時にいつもの様にテーブルの上を彩っている筈の朝食もその姿を見せていない。
「.......」
 一瞬時間を間違えたかと思ったが、広間の時計を確認すると確かにいつもの時間である。後10分もすると家を出ないといけない時間。
『....となると....』
 俺はそのまま秋子さんの部屋へ駆け出した。

 それから30分後、俺は台所で秋子さんの為に氷枕を作っていた。予想通り俺が秋子さんの部屋に行ったとき、秋子さんは高熱を出して身動き取れない状況になっていたのだ。
 そして俺はそのまま看病で家に残ることにした。当然の如く後で起きてきた名雪も自分も残ると言い張ったが、とりあえずどっちかは登校して事情を担任に説明するべきだということで何とか説得して学校に行かせる事が出来た。というか別に電話で済ませても良かったのだが、名雪と二人そろって学校を欠席というのは避けたかったのが本音だったりもする。無頓着な名雪は気付いていないが、これでも俺達は普段から結構俺達の関係について色々言われているみたいだし、二人揃って学校休みともなればまたどんな噂が立つか分かったものじゃない。.....普通だったらこういうのは女の子の方から率先して避けたがるものだが....まぁ相手は名雪だし。もしかしたら秋子さんも学生時代はこんな感じだったのかもしれない。
「.........」
 学生時代の秋子さんか......ふとそんな事を思いついたので思い浮かべてみる。もし俺が名雪でなくて高校時代の秋子さんと毎日一緒に登校するとして、そして性格は昔からあのまま変わっていないとしたら.....
『....まだ名雪と一緒の方が幾分まし...かも....』
 出てきたのは秋子さん本人には極めて失礼な結論だったが、しかし同時に俺の想像の範疇を少しばかり越えていたのも確かだったりしている。
「....さーて....」
 そんな考えを払拭するようにそう呟きながら、氷枕を作り終わってふと時計を見ると時刻は午前9時を少し回っていた。もう学校は一時間目の授業が始まっている頃だ。ただでさえ転校して遅れ気味の授業を休むのも心許なかったが、今日は土曜日で昼間だし後で真面目にノートを取った生徒から写させてもらっておけば大丈夫だろう。実は学校には俺じゃなくて名雪を行かせたもう一つの理由もここにあった。
 俺は電話を取って秋子さんに貰ったメモから近所の町医者に電話すると、秋子さんの症状を手短に説明して往診の予約をした後で、氷枕を持って秋子さんの部屋に行く。

「ごめんなさいね。」
 俺はそんな秋子さんの言葉を聞き流すように受けながら氷枕を秋子さんの枕元に敷く。というかこの程度で礼を言われるのなら俺は一体どんな感謝をすれば秋子さんの恩に報いる事が出来るというのだろう?
「きっと日頃の疲れが出たんでしょうね。」
「そうかしらね。」
 絶対そうだと思う。.....俺から見ればいつ過労で倒れたって不思議じゃなかった。今まで名雪をここまで一人で育ててきた苦労だって俺の想像を絶するものがあるだろう。しかもそれを決して名雪や俺には見せずに。
 秋子さんだっておそらくは普通の人間の筈だ。いくら強靱な精神の持ち主でも体の方が限界を感じてしまったら倒れてしまう。
「そうですよ。.....一人で何もかも背負い込みすぎだと思いますよ。俺は....」
 実は「そうですよ」の後の台詞は言葉に出すつもりはなかったのだが、ついポロっと口走ってしまい思わずしまったと後悔してしまう。
「....でも、大丈夫よ。」
 顔色は悪かったがいつもの表情で穏やかにそう言う秋子さん。.....しかし、それと同時に俺はこの返答に秋子さんの名雪への愛情と、そして秋子さん自身の強い意志の様なものも感じていた。
「........」
 俺はそんな秋子さんをやっぱり凄い人だと思うし、そんな秋子さんに育てられた名雪を羨ましくも思い、そして....
「秋子さん、名雪にはこれからもそうであってやって欲しいですけど.....俺はむしろ.....」

 .....出来る事ならこれからずっと支えてあげたいとも思った。

「え?」
「え、い、いや....」
 俺はゴホンと一度咳き込み、
「ま、まぁ俺で出来ることがあったら何でも遠慮なく言ってくださいよ。名雪の為にも.....ね。」
 ....嘘つき。本当は名雪の為なんかじゃ無いのに。
「..........」
 そんな俺を秋子さんは少しの間じっと見つめて、
「それじゃあ早速お願いしようかしら。」
「ええ。何なりと。」
 その秋子さんの言葉に俺は意気揚々に頷く。さっきの台詞の額面通り、出来ることならなんだってやってあげられるつもりだった。
 ....しかし、その秋子さんの頼みはそんな俺には少し拍子抜けした物だった。
「後で、お医者様が来られて診察が終わったら、商店街に行って祐一さんと名雪のお昼買ってきてもらえますか?」
 と。
「え?.....ええ、分かりました.....」
 自分の決意とは裏腹に何ともささやかな頼みだが、「何でもする」と言った以上これも立派な仕事である。俺はとりあえず一も二もなく頷いた。けど....
「お願いね。多分名雪の分も必要になると思うから。」
 .....それは俺にも十分予測しうる事だった。多分名雪は今日ばかりは昼食もロクに取らず、部活もそこそこに切り上げて急いで帰ってくるだろう。秋子さんに言われずとも俺は秋子さんを含めた三人分の昼食を用意したと思う。
 でも秋子さんは自分がこんな状態でさえも名雪の事をいつも心配している。それはおそらく母親としての愛情の深さ。俺には多分得ることの出来ない物.....
『.........』
 名雪と張り合っても仕方がないだろうと自分で自分の気持ちに介入するが、やっぱり何となく名雪に軽い嫉妬を抱いている自分が確かに存在していた。
 ただ一つ不思議なのは、今のこの感覚を今まで感じた記憶が無いという事だ。子供の頃の俺は確かに秋子さんに母親代わりとしての感情を持っていたが、秋子さんを名雪から独占しようとしたりとか、秋子さんが名雪をかまっている時にやきもちを焼いた行動どころか感情すら抱いた覚えは無かった。.....それは多分自分の心の中で「秋子さんは名雪の母親だから」という目に見えない境界線みたいな物があって、それで無意識のうちに名雪に一歩譲っていたのだと思う。
 でも、今はどうなんだろう?今の俺にとっての秋子さんは昔と同じく俺の母親代わりの人なのか?
 .....多分違うと思う。だからこそ名雪に嫉妬してしまったのだ。つまり、俺は.....
「秋子さん.....!」
 俺は秋子さんの手を握って、そして真剣な表情で....
「祐一さん....?」
 流石に少し驚いた様な表情を見せる秋子さん。俺はそのまま真っ直ぐ秋子さんを見据えながらはっきりと自覚した自分の想いを秋子さんに告げる。
「秋子さん、俺.....秋子さんの事.....す.....」
ぴんぽ〜ん
「...........」
 しかし意を決して自分の想いを伝えようとした言葉は不意に鳴った玄関のチャイムの音で無惨にも止められてしまう。
「あら、お医者様かしら?」
 俺が握った手をそのままに視線を玄関の方に持っていく秋子さん。
「....でしょうね。ちょっと行ってきます....」
 既に場が流れてしまって緊張の糸も切れてしまった心地になったので、俺はそう言って握っていた秋子さんの手を離すとドアの方に向かった。
「それで....何かお話があったのでは?」
「あ...いえ、もういいです.....んじゃちょっと待っていてください。」
 背中を向けたままそう言って秋子さんの部屋のドアを開けると、俺はトボトボと玄関に出迎えに向かう。

 もし本当に往診に来た医者でなかったらどうしてくれようかと思いながら出てみると、やはり待ち人の医者だった。今日はたまたま診察の予定が開いたので少し早く来てくれたらしい。タイミングが良すぎて思わず苦笑してしまうが、まぁ秋子さんの具合を考えると有り難い話として喜ぶべきだろう。
 そして俺は秋子さんの部屋に案内すると、そのまま部屋の外で待っていた。その後程なくして診察が終わり、部屋から出てきたところで秋子さんの症状を訊ねると、やはり疲労から来た風邪だろうという事だった。そして注射を一本打っておいたので、後は置いていった薬をきちんと飲んで安静にしていればすぐに良くなるという事で特にもう心配は無いらしい。そしてそう言った後最後に「お大事に」と言って立ち去ろうとした医者に俺は礼を言って見送る。結局診療費の話をする前に帰ってしまって少し心配になるが、まぁ請求しないという事は無いはずだし大丈夫だろう。というか患者が家主の秋子さんだったので気を遣ってくれたのかもしれない。
 ともあれその後は先刻言われた通りに商店街におつかいに行き、適当に見繕って帰ったすぐ後に名雪が走って帰って来た。俺はとりあえず名雪に秋子さんの症状と既に医者を呼んで診察を終えた事を告げると、俺は名雪と看病を交代して自分の部屋に戻っていく。出来れば俺もずっと秋子さんの元にいたかったのだが、流石に名雪と二人になれば騒がしくなって静養に差し支えるだろうという事で午後の看病は名雪に任せることにした。
『やれやれ....』
 さっきの中断された事へのぼやきの独り言を呟きながらベッドにごろんと転がって目を閉じると、そのまま自然に自分の意識がまどろみの中に沈んでいった。そして....


*******

.....夢を見ていた。それは幼少の頃の夢。
夕暮れの商店街に秋子さんの後ろに嬉しそうな顔で付いていく小さな少年。いつも一緒にいるはずの名雪は今日はいなくて、秋子さんとこの少年の二人きりだった。

「祐一君、今晩何か食べたいものある?」
「何でもいいよ。僕、秋子さんの作ったものならなんでも好きだから。」
 商店街の入り口付近を一緒に歩きながら秋子さんの問いかけに屈託のない笑顔で答える少年。
「それは困ったわね....」
 どうやら秋子さんは夕食の献立を考えあぐねていたらしく、嬉しそうな顔をしながらも少し困った表情を見せる。
「こういう時に名雪がいないのは困るわね。」
 うーんと少し考えて、
「名雪が好きな物って何だったかしら.....」
「いちごジャムとか、いちごのケーキとか....」
 即答する少年。やはり名雪と来れば条件反射的にそういった品々が浮かぶのだろう。
「そうだけど、それは夕ご飯のおかずにはちょっと向かないわね。」
 秋子さんにそう言われていちごジャムをご飯にかけて食べる事を想像したのか、少年は少し青ざめて首をぷるぷると小刻みに横に振る。
 しかしその後またにこにことした表情になって秋子さんの方を向き、
「大丈夫。多分名雪も僕と同じ事言うと思うから。」
 と言った。
「そうね.....」
 秋子さんにしてみればだから余計困るのだろう。.....もちろんその少年はその事を察する様子は全くないが。

 そしてそのままその話題が途切れてしまい、暫く無言で商店街の中を歩き続ける二人。そんな最中で、秋子さんがふとこんな事を訊ねてきた。
「ねぇ、祐一君、祐一君が大人になったら、どんな人をお嫁さんにしたい?」
「そうだね....うーん....」
 訊ねられた少年は腕組みをして少し考えた後、はっきりとこう言った。
「秋子さんみたいな人。」
「ふふ。お世辞でも嬉しいわ。」
 そんな少年の返答に秋子さんは少年の頭を愛おしげに撫でる。
「お世辞なんかじゃないよ。本当にそう思ったから.....何だったら秋子さん本人だっていいよ?」
 お世辞と呼ばれたのが心外だったのか少しムキになって少年は反論する。
「あらあら。それじゃ今日の夕飯は祐一君の好物にしてあげようかな。」
「え、本当に?やったぁ」
 そう言われて無邪気に飛び跳ねながら喜ぶ少年。
「じゃあいつものお店に行きましょうか。」
「うんっ!」

 常に優しい笑顔の秋子さんに幸せいっぱいといった顔でその隣を歩いていく無邪気な少年。その並んだ二人の影がやがて夕焼けの商店街の喧噪の中にゆっくりと消えていった.....


*******
『朝〜朝だよ〜』
「.....あ、しまった。今日日曜......」
 次の日、いつもの癖でいつもの朝の時間に起きてしまい、何となく自分の部屋に行き場が無くなったので仕方がないといつもの様にそのまま台所に下りてみると、そこにはいつもの姿の秋子さんがいた。顔色もすっかり良くなっていて、まるで昨日寝込んでいたのは夢だったのでは無いかと思わせる程にいつもの変わらぬ秋子さんだった。
「おはようございます。」
「......おはようございます。もう、起きあがっても良いんですか?」
「ええ。今朝起きたら何だか凄く気分が良くて。祐一さんのお陰ですね。」
 秋子さんのその言葉と笑顔に少し照れながらテーブルに付く。......またいつもの日常。秋子さんの笑顔とテーブルを彩る朝食、そして焼きたてのトーストの香ばしい香りと入れ立てのコーヒーから立ち上ってくる湯気。たかが一日抜けただけなのに妙に懐かしい感じがする。
「名雪はまだ寝てますか?」
「.....いつもの如く昼までは起きてこないでしょうね。」
 これも最早定番となった会話をすると俺は朝食を食べる為にテーブルに付く。昨日は昼寝もしていた所為かあまり眠気は無かった。何だか懐かしい夢を見ていた気がするが.....
「さあ、どうぞ。」
「いただきます。」
 秋子さんに促されて俺は朝食に手を伸ばすと、秋子さんもまた自分のコーヒーカップを手に取る。

「しかし、何となくここ数日で色々な事が起こった気がしますね。」
 コーヒーカップの中身を一口飲んでそんな事を呟く秋子さん。
「そうですね....」
 ......というより俺が勝手に奇怪な行動を取って一人で空回りしていただけなのだが。名雪に「秋子さんに迷惑かける様な事はしない」と言っておきながら余計な心配かけたのでは無かろうかと思うと気が沈んでくる。
「.....まぁ結局はいつもの日常ですけどね。」
 俺はトーストを囓りながら自虐的な意図を込めて返答した。
「そうですね。」
 そして秋子さんはそんな俺の自虐の念には気付くよしもなく、俺の答えをそのまま受け止めるとそう相づちを打つ。しかしその後で、
「.....だけどただ一つ嬉しかったことがあるんです。」
 秋子さんがぽつりとそう呟き、その言葉に俺は食事をする手をピタリと止めた。そして秋子さんは例の謎ジャムの瓶を手に取って、
「このジャムを自分から「食べたい」って言ってくれたのはあなたがこの世で二人目です。」
 と、いつもの穏やかな表情で、しかし本当に嬉しそうにそう言った。
「.....二人目.....」
「ええ。」
 笑顔でそう答える秋子さん。......おそらくその記念すべき一人目は.....いや、そんな事はどうでも良かった。それより俺はこれで何となく秋子さんにまた一歩近づけた気がして....そして俺の勝手な思いこみだろうけど秋子さんの特別な存在になれた様な気がして嬉しかった。これであの無謀な行動も報われるというものだ。
「ははっ、俺で良ければいつでも喜んでいただきますよ。」
 つい嬉しさのあまり自分を死地に誘う軽はずみな言動をしたと一瞬後悔したが、
「そう....よかった。これ、私の一番のお気に入りなんです。」
 これが俺の課せられた使命なのかもしれない。秋子さんのこの嬉しそうな顔を見るとそう思えてくる。今や俺でなければ誰がこのジャムを食べるというのだろう?秋子さんのジャムの中で最も個性的な味で、そして最も秋子さんの心が込められたこのジャムを.....
「ええ。任せてくださいよ。」
 それでこの身が朽ち果てるのなら本望というものだ。もしかしたらいつかこのジャムが旨いと思える日も来るのかもしれない。

 そしてその後食事を再開して黙々とトーストを食べている俺を秋子さんは見つめながら、ふとこんな言葉を漏らす。
「.....後悔、しませんね。」
 その言葉を聞いてドキっとする俺。
「このジャムの事ですよ。約束ですからね。」
「......」
 俺はその問いにすぐには答えずに、朝食の最後の一口を口に運び、そしてコーヒーの最後の一口を飲み干した後にゆっくりと秋子さんの正面を見据えて、
「ええ。分かってますよ。.....何だったら指切りしますか?」
 そう言って自分小指を秋子さんの前に差し出した。すると、
「まぁ、指切りなんて何年ぶりかしら.....」
 と呟きながら秋子さんも自分の小指を出して、.....そしていつもの言葉と共にお互いの小指を重ね合った。
「指切りげんまん.....嘘ついたら....」
 絡み合う二つの小指、そして小指から感じる秋子さんの体温。なんだか少し懐かしい感じがしていた。多分俺がもっと小さい頃もこうして秋子さんと指切りした事があったんだろう。.....最もその重みは今と比べものにならないだろうが。
「嘘ついたら......もし嘘ついたら.....どうします?」
 その問いに秋子さんは少し間をおいて、
「そうね....責任とってこのジャムを全部食べてもらいましょうか。」
 .....それじゃ本末転倒だ。
「冗談よ。」
 俺の心の中の突っ込みを悟ったのか、ふふふと笑いながらフォローを入れる。
 そう言えば俺は今まで秋子さんの前で嘘をつけた事がなかったな.....と思い出す。今の俺の気持ちも全部お見通しなんだろうか.....?
「それじゃ.....指切った......っと。」
 やがてゆっくりと離れるふたつの小指。俺は秋子さんと重ね合わせた右の小指を暫く見据えた後、視線を秋子さんの顔に戻して、そして
「秋子さん....今、俺が考えている事、分かります?」
 真顔でこう訊ねた。
「さぁ....わたしは超能力者じゃないですから。」
 「こまったわね」といった感じで頬に手を当てて微笑む秋子さん。まぁ普通はいきなりこんな事言われても困惑するだけだよな。......ということで言い方を変えてみた。
「んじゃ....ゲームって事で、当ててみませんか?俺が今何を考えているのかを。」
「.........」
 俺の言葉に秋子さんはしばらくじ〜っと俺を見つめ、そしてそんな秋子さんに俺は意識を集中して、そして自分の本当の気持ちを静かに心に映し出し始める。

『....俺....秋子さんの事が好きなんだと思う。』
 ....世界で一番優しくて、それでいて一番不思議な、そんなあなたに。

「....分かりました。」
「.......」
 そう言って静かに俺を見据える秋子さんの目に俺は緊張が走った。......伝わったのか?だとしたら、秋子さんは俺にどんな返事を返してくれるのだろう.....
「コーヒーのおかわりが欲しいんですね。」
「え?」
「それじゃ、持ってきますね。」
 そう言って手を合わせてにこっとそう笑うと、俺のコーヒーカップを持ってキッチンに消えていった。
「.......」
 俺は少し呆然とした様に秋子さんの後ろ姿を見送る。肩すかしを食らったような、何となく誤魔化された様な複雑な気分。でもまぁやっぱり分かる訳ないよな普通......俺は何を期待していたんだろう?
「.....あ、そうだ、祐一さん。」
 夢から現実に目覚めた心地がしていたそんな中で、秋子さんはくるりとこっちを向いて、そして振り向きざま俺にこう訊ねた。
「.....お砂糖、おいくつでしたっけ?」
 .....と。
「え?」
 予想だにしなかったその問いかけに俺は一瞬言葉を失う。
「どうします?」
「.........」
 まるで念を押すようにそう訊ねて来た秋子さんに、俺は

『....やっぱり不思議な人だ。秋子さんは....』

 とそんな事を心の中で呟いた後、何故か無性に笑いが込み上げて来た。.....やっぱり秋子さんは何でもお見通し.....の様だ。そして.....

「そうですね。じゃ一つだけ.......お願いします。」

 ....秋子さんは多分そんな俺の気持ちを受け入れてくれたんだと思う。もちろん今すぐに.....という訳じゃないだろうが、だけど別に焦ることはなかった。.....ほんの少しずつでいい。まだ時間は沢山あるのだから。そう、俺がここに居続ける限りは。

「ええ、分かりました。」

 その後の俺の返答への返事と共に、そして外から差し込むまるで春の到来を思わせる様な暖かい日差しと共に俺の目に映った秋子さんの満面の笑顔が凄く眩しかった。



********おわり********



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