知な堕天使(ルシフェル)さんは一途で積極的な巫女さんに篭絡される その6

第八章 ラスト・ピース

「……ふ〜っ……」
 やがて、清らかなる乙女の祈りが集まった(と思われる)祈願会から数日が過ぎて迎えたバレンタイン当日、私は依子からさる任務(ミッション)を受けて、朝食後に最寄り駅から市街中心部へと電車で移動し、渡された地図を頼りにショッピング街へ向けて歩みを進めていた。
(しかし、出かけから一人というのは思ったより心細いものだな……)
 というのは、沽券にかけて顔には出せないとして、この辺りは何度か依子に連れて来られているので決して見知らぬ場所でもないのだが、それでも二人と一人の時では風景が違う。
 一応、チカラが回復してきているとはいえ、ここから家までの距離を直接飛んで帰る自信もまだ無ければ、昼間は人目につく場所を飛ぶなと止められてもいるし。
「……まったく、どうして私が……」
 それで、この様なおっかなびっくりで街へと単独で繰り出して何をさせられているのかと言えば、他愛もないお使いではあるのだが……。
「…………」

                    *

「……さて朔夜さん。本日はいよいよバレンタインデーです!」
「ふむ。参拝に来た連中が上手くいくと良いな」
 祈願会から安定しない天候が続いた中で晴天に恵まれた今朝の朝食時、パンにバターを塗りながら意気揚々と告げてくる依子に、こちらは寝起きの気怠さが抜けないまま頷く私。
 一体、堕天使である私の加護に何の効果があるのかは怪しい物だが、結果的に成功する者が多ければその分、彼女達の信仰心も増して翼のチカラも増幅してゆくというものである。
「そうですね。それもあるんですが、バレンタイン当日なのです」
「いや、それは分かったから……」
 しかし、依子はそれでも何か言い足りないのか、もう一度繰り返した後で……。
「では、これをどうぞ」
 バターを塗ったパンとコーヒーの後に、私が普段から持たされている現金と電車に乗る時に使うカードなどが入った可愛らしいウサギ柄の小さな財布を差し出してきた。
「……ああ、昨晩に一旦回収するとか言ってたが、もういいのか?」
「ええ。お財布にお金を足しておきましたので、これでチョコレートを一つ買ってきてください」
「一体、何のために?」
 というか、おやつ用の菓子ならまだ買い置きもあるだろう。
「わたしのために、です」
「は?」
「もうっ!つまりわたしが朔夜さんからバレンタインのチョコを貰いたいので、お金は出しますから買ってきてくださいと言ってるんですよ!」
 そして、暫く間抜けな問答が続いた後で、「いちいち皆まで言わせないでくださいよ、まったく……」と溜息を吐かれてしまった。
「いや、意味あるのか、それ?」
「大アリです!気持ちの問題なんです!」
「む……良く分からんが、まぁ分かった。行ってこよう……」
 どうせヒマを持て余している身だし、依子がそこまで言うのなら。
「ちなみに、交通ICカードの残高は充分なはずですけど、電車はもう一人でも乗れますよね?」
「……それはつまり、私に電車に乗って遠出して来いと?」
「ええ。せっかくですし、市内の百貨店のバレンタインフェアにでも見に行って、朔夜さんのセンスで選んできてくださいな♪」
 それから、何やら面倒なハナシになってきたと気乗りしない心地で確認する私に、依子は具体的な行き先を示した後で、「それじゃ楽しみにしてますからねー?」と期待感に満ちた笑みを浮かべて見せてきた。
「う、うむ……」

                    *

「……やれやれ……」
 全く、妙なところで頑固というか我儘な面があるヤツだが、まぁここへ来てから一人の時は殆ど家に引きこもり続ける羽目になっていて、そろそろうんざりもしかけていた所だ。
(それに、日中の陽気も気持ちいいしな……)
 一応、堕天使の連中がこのまま黙っているとも思えないので、迂闊な外出は避けるべきなのかもしれないが、それでもこちらから動いて先手を打つ術もなければ、私を魔界へ行かせたくない天使軍の存在も魔除けになっているので、まぁ余程不用心でなければ問題は無かろうし、何より依子からあれ程に断固とした態度で頼まれれば、こちらに断る理由などない。
(……だが、あまり梃子摺らせないでくれよ……?)
 せめて、売り場の場所くらいは分かりやすいと有難いんだが……。

「な……っ、ここから選べ、だと……?」
 しかし、それから依子に勧められた十階建ては優に超えている大型の百貨店へ歩き着き、早速活気で溢れる地下フロアまで降りたところで、まずは呆然と立ち尽くしてしまう私。
 専用のコーナーを探すどころか、フロア全体が赤とチョコレート色で染められていて、まるで木を探しに森の中へ迷い込んでしまった感覚である。
「うむむ……」
 とりあえず入り口で固まっていても仕方が無いので、注意深く見回ってゆくものの、そもそも一言でチョコレート製品といってもカテゴリが豊富で、まずはそこから決まらないというか、せめて依子の好みだけでも聞いておくべきだったかもしれない。
(いやいや、まてまて……)
 私とて、依子と一緒に暮らし始めてもうそれなりに経つのだから、その間の記憶を辿れば嗜好くらい……。
「…………」
 ……と思ったものの、考えてみたら依子は小柄な体躯の見た目通りに小食な方で、おやつの類も学校から戻った時に駄菓子を少しつまむ程度だった様な気がする。
(やれやれ……)
 まぁ、結局は自分もバレンタインとやらを体験してみたいだけの様子だから、逆にそれこそ何を渡しても喜ぶのだろうが……。
「……あの、もしかして縁比売様……ですか?」
「ん……?」
「やっぱりそうだったんですね、いらっしゃいませ♪」
 そこで、面倒くさくなってきたので目を瞑って手に取ったものでもいいかと思い始めた頃、先日に扮していた神の名で不意に呼び止められて振り返ると、いかにもなショコラート専門店のカウンターの向こうに立つ一人の若い女が嬉しそうに頭を下げてくる。
「まぁ、いらっしゃるのは別に構わんが、何処かで会ったか?」
「ほら、先日の祈願会ではご加護を頂きまして……」
「……ああ、あの折の参拝客か。祈願会での仕事はきっちりと果たしたつもりだが、数が多すぎて個別に顔までは覚えていないんだ、すまんな」
「いえいえ、大盛況でしたものね。……ところで、もしかして縁比売様もチョコレートを?」
「ふむ。うちの巫女が寄越せと煩いものでな。……それで、祈願の結果はどうなった?」
「いえ、出来れば私も早く渡したいんですけど、本日はお仕事が終わった後になると思います。……おそらく、日付が変わってしまうギリギリ前くらいになるかなと」
 ともあれ、加護を与えた一人と聞いて首尾を訊ねてみたものの、落ち着いた色合いで清潔感のある制服を凛々しく着こなす店員は苦笑い交じりに首を横に振ってきた後で、「上手く行ったらまたお礼参り致しますね?」と続けてきた。
「それはご苦労な事だな。……ふむ、ならばせっかくの縁だ。ここで適当に選んでゆくとするか」
「ありがとうございます♪では何を差し上げましょうか」
「そうだなぁ……」
 そして、その様な勤勉な姿に感じ入ったのもあり、私はこのまま流れに委ねてしまおうと思ったものの……。
「…………」
「……いや、もう少し見て回ってからにしよう」
 しかし、そこからまだロクに吟味もしていないうちから簡単に決めて良いのかという葛藤が芽生えてしまい、結局保留してしまう私。
「かしこまりました。……こんな事を申し上げるのは店員失格かもしれませんが、相手の驚く顔を想像しながら、たっぷりと時間や労力をかけて選んで差し上げるのも、また醍醐味だと思うのですよ」
 すると、店員も落胆するどころか、優しい笑みを浮かべて私の思考を見透かした様子で肯定してくる。
「……やっぱり、そうだよな」
 何を渡しても喜びそうだからこそ真摯に選ぶべきというもので、そもそも今の私が依子に差し出してやれる対価はそういった類のものだけだろうから。
「すまんな、ではまた後ほど改めて来る……かもしれん」
「はい♪お待ちしております。それにしても……ふふ、縁結びの神様も恋する乙女の一人だったんですね?これは御利益にも期待できそうです」
「おいおい、よしてくれ……」
 ……いくらなんでも、かつての熾天使ルシフェルを捕まえてガラにも無さ過ぎだ。
 ただ私は、依子を少しでも喜ばせる為に出来ることをしてやりたいというだけで。
 
                    *

「…………」
 一応、朔夜さんには気取られないようには振舞ったものの、今日はとにかく登校した直後から襲ってくる眠気との戦いだった。
「……ねぇねぇ帆立ちゃん、謎の占い師さんの噂って知ってる?」
「はじまりの広場に時々出没してるんだっけ?まぁ、聞いたことはあるくらいかな」
「…………」
 雑に閉められたカーテンの隙間から差し込んで来る暖かな陽気なんかも、今日は逆に睡魔の手先となっているのがすごく恨めしかったりして……。
「なんでも、普段はフードとか被っていて顔は見えないんだけど、噂じゃすんごい美人さんらしいし、ミステリアスな匂いが漂いまくりって感じ?」
「……というか、そういうの好きよねぇ一葉。巫女さんのバイトだって、元々あんたが興味あるからやってみたいって甘菜さんに持ちかけたんだし」
「…………」
 もちろん、それにはれっきとした理由もあって、別におかしな話ではないんだけど……。
(……いや、やっぱり“おかしな”話にはなるのかな……?あはははは……)
 ……だめだ、あと一時間でお昼休みなのに頭も回らなくなってきた。
 次の時間が体育なのも、巡り合わせがいいやら悪いのやら……。
「まぁねー。それでさ、実際に見てもらったコが言うにはすごく当たるだけじゃなくて、悩みなんかも聞いてくれていっぱい元気を貰えるらしいよ?あたしも見て欲しいなぁ……」
「……そうしたら、私の友達が元気過ぎて困ってますと相談に行かなきゃならなくなるわね」
「え〜、ひどーい……それが愛しのカノジョに言うせりふ〜?ねぇ甘菜ちゃん?」
「…………」
「……って、おーい依子さん〜?」
「…………」
「えいっ!」
「ひにゃ……ッッ?!」
 しかし、それからいよいよ意識が飛ぶ……というか、実際に教室とは別の風景を見ていた中で、不意に後ろから胸を鷲づかみにされて奇声をあげさせられてしまうわたし。
「…………っっっ?!」
「……もう、そんなカッコのままで寝てるとイタズラされちゃうよー?」
「え、あ……うわ……そうでした……!」
 そして、我に返った後に着替え途中だったのを思い出して、慌ててシャツを着込んでゆく。
 ……というか、ブラウスを脱いで体操服の袖に両手だけをかけた前かがみのまま眠るとは、我ながら器用だったかもしれない。
「……いや、そこは風邪引くよ?くらいにしときなさいって。でも今日はどうしたの?朝からそんな調子だけど」
「えっと、それは……」
「もう、こんな日にヤボなコト聞いちゃダメだよー帆立ちゃん?」
 それから、帆立さんから心配そうに尋ねられて言葉に詰まるわたしなものの、一葉さんがシャツの下に手を入れたまま胸を揉みつつのフォロー(?)を入れてくれる。
「ついでにみたいに人の胸も揉んでるんじゃないわよ。でもその様子じゃ、手作りしてたの?」
「ええ、シンプルに溶かして固めてクリームでデコレーションしただけですけど。ふぁあ……」
 できれば一緒に作って交換するのが理想だったものの、今回は朔夜さんにとっても初めてのバレンタインということでサプライズにしたいと思い、わたしだけが朝の三時頃から起きてやっていたら、学校へ着いた頃にはもう力尽きかけていたりして……。
 ……というか、胸揉まれるのやめさせたいけど、それも億劫なくらいにねむい……。
「いいなぁ〜。どうせならあたし達の分も作ってくれれば良かったのに」
「……いやまぁ、正直上手く行くかどうか分かりませんでしたし……」
 ちなみに、友チョコ対象のお二人にはちゃんと事前に選んで買っておいたものを交換済みで、交友関係にも抜かりはありません……眠いけど。
「ふーん、結局は上手く行ったの?うりうり」
「最初はこがしたりして何度か失敗しましたけど、明るくなるころにはなんとか……ふぁぁ」
 けど、失敗した方もあとでなるべく美味しくいただいとかないとバチが当たるかな……。
 どの神様からのバチかは分からないけど……だめだ、眠すぎる……。
「…………」
「それで、渡すお相手はあの縁比売様?」
「え?!ええ、まぁ……」
 そして、いよいよ揉まれるくすぐったさすら眠気でマヒしかけたところで、帆立さんからお相手に言及されて、一瞬で意識を再び呼び覚まされてしまう。
「を、心臓がとくんってなった」
「……こら一葉、いい加減に離れないとセクハラで訴えられるわよ?」
「あはは、訴えはしませんけどまぁ確かにそろそろ……」
「ごめんごめん、あまりに触り心地が良かったからつい……でもふーん、甘菜ちゃんって神様のお嫁さん希望なんだ?」
「いや、その……はい……」
 それから、ようやく揉む手を離してくれた一葉さんに改めて訊ねられ、照れながらも頷くわたし。
 ……まぁ、そんな巫女は神代の時代以来かもしれませんが。
「だったら尚更、あまり甘菜さんにセクハラしてると天罰食らうわよー、一葉?」
「おお、くわばらくわばら……でも、それだったら確かに自分で作ったりしないと誰が誰のだか分からないかもね〜?」
 そして、そんなわたしに一葉さんはニヤリとした笑みを見せると、教室の後ろに置かせてもらっている、お菓子の贈り物が山積みになった箱の方へ振り返った。
「あはは……ホントにそうですねぇ……」
「まぁ、御供え物みたいなものなんだろうけど、みんなちゃっかりしてるわよね?」
 ……そう、あれらは今年の祈願会で四百年ぶりにこの地へ降り立った、天津縁比売命宛てのチョコレートで、今日は朝からわたしの元へ次々と預けられ、急遽先生に相談してダンボールを借りて来て専用ボックスを設ける羽目になってしまっていたりして。
「だったら、いっそお賽銭箱も作ればよかったかもだけど、それじゃ甘菜ちゃん的には結構フクザツな感じ?」
「うーん……でもまぁ、神様って人気が出てこそって部分もありますし……」
 おそらく、このチョコの山も朔夜さんにとっては神霊力を取り戻す文字通りの「糧」になるんだろうから、巫女としてはむしろご協力感謝というべきなのかもしれないけど……。
(……でも、この調子だと思ったより早く私の助けも要らなくなるのかな……?)
「…………」
「でもさー、あれだけあったらホワイトデーのお返しが大変だね……?」
「い、いえまぁ、それはもうなんていうか直接的なお返しは無理と言ってますから……」
 ともあれ、改めてフクザツな心境になりかけたところで一葉さんから耳が痛くなりそうな話を向けられ、気を取り直して苦笑いを返すわたし。
 あんなの一人一人に返していたら、わたしが破産してしまいますから。
「んじゃさー、今年はホワイトデーにもやっちゃう?御礼の祈願祭」
「……あー、そういう手もありましたか……」
 今からイベントに合わせた御守りとかの手配は難しいとしても、参拝して貰って縁比売命から祝福を受けられるというだけでもアリかもしれない。
「確かに、今まではバレンタイン前しかやってなかったけど、今年はいけるんじゃないかしらん?必要なら私達も手伝うし」
「ですねぇ……ちょっと検討してみます」
(ホワイトデー、か……)
 一月後だからおそらく朔夜さんもまだ普通に居てくれているとは思うけど、ただあの人がわたしの為に積極的に動いてくれるようになればなるほど、こちらのワガママでいつまでもうちに閉じ込めておいていいのだろうかという葛藤も芽生えてきていたりして……。
「…………」
 結局、そんな罪悪感もあって今回は少しばかりお金を多めに補充して一人で外出してもらったんだけど、それなりにでも買い物を楽しんでもらえているんだろうか……?
(ちなみに、わたしは何でも食べられますからね、朔夜さん……?)

                    *

「……は〜っ、疲れたぞ……」
 やがて、たっぷりと時間と手間をかけて選んだ後に百貨店を出た私は、綺麗に包装された渾身の贈り物を手に街の中心部へと歩いて向かっていた。
(しかし、何だかんだで、あの店員の掌の上だったな……)
 結局、あの後にフロアを何往復もしていくつか試食もしつつ、最後に選んだのはあの店員の専門店で売られていた天使の絵が描かれたギフトアソートで、戻ってきた時にしてやったりな顔を見せられた時は少しばかり癪には障ったものの、それでも自信を持って依子に渡せる物を選べた満足感が上回って決して悪い気分ではないのだが、予想以上に過酷な任務(ミッション)だった。
(やれやれ、もうこんな時間か……)
 そんなこんなで、時刻はいつの間にやら午後の時間帯に入ってしまったものの、もう人混みは見るのもうんざりな心地になっている私は、昼食よりも静かに腰を落ち着けそうな場所を目差しているのだが……。

「……ん……?」
 ともあれ、程なくして目的地であるはじまりの広場の入り口まで到着したところで、遠目ながら見覚えのある姿が視界に映る。
 といっても、本日何度目かの参拝客との再会ではなくて、広場中央の噴水近くにあるベンチで大きな水晶玉を傍らに置いて腰掛け、ローブを被って顔を隠したまま何やら若い女と話し込んでいるあの胡散臭そうな占い師は……。
「どうもありがとうございました!お陰で心のつかえが取れた気分です!」
「それは良かったです〜。神のご加護は誠実で正しき道を選ぼうとされる方にこそ降りてきますから、どうぞ迷わず歩んでくださいね」
「はい……!頑張ります!」
「…………」
 誠実で正しき道を選ぼうとする者に、ね。
 ……ま、今更あれこれ考えようが埒も無い話だが。
「…………」
「……で、そんな処で何をやっているんだ、ハニエル?」
 それから、相談者らしい女が軽い足取りで立ち去った直後を見計らい、すぐ側にまで近付いて声を掛けてやる私。
 ……というか、あまり似ていないとはいえ、自分の像を横に店構えとは太太(ふてぶて)しい奴である。
「あらあら黎明さん、ごきげんようです。貴女こそ、どうして一人でこんな場所へ?」
「……ああ、神月夢叶だったか。日曜日に帰ると聞いた時は、てっきりそのまま神の居城へ戻っていったのかと思ったが、まだこの街をウロウロしていたんだな?」
「ええ。やっぱり、私にとっても居心地がいいんですよーこの街は。信心深い方も多いですし」
 すると、天使名で呼ぶなと言わんばかりに依子から貰った苗字で返されたのを受けて私が言い直すと、ハニエル……夢叶の奴はローブを取って機嫌の良さそうな笑みを浮かべてくる。
「ふむ。確かに私が願望していたよりも遥かに早く再び飛べる様になったしな」
 まぁ、それもこれも依子とここにいる食えない奴のお陰なのだが。
「……ところで、私の質問にはまだ答えてもらっていないんですけど、もしかしてその手の包みが関係したりしてます?」
「ああ、依子に言われてちょっとした使いをな。で、存外にのめり込んでしまったので休憩しにここへ寄ったわけだが」
「ほほーう。かつての明けの明星がまた可愛らしいコトしてますねぇ。天界に戻って言いふらしてもいいですか?」
 ともあれ、ハニエルの奴は私の手荷物が気になるらしく、有りの侭を話してやるとニヤニヤと苛立ちを覚える様な視線が返ってくる。
「……今はもう黎明朔夜と言ってるだろうが。というか、頼むからやめてくれ……」
 いくらもう天使じゃないとはいっても、及び知らぬ処で笑い話の種にされるのもゴメンだ。
 というか、それ以前に……。
「んふふ〜♪でもいい傾向だと思いますよ?もしかしたら、依子さんのお陰であなたに欠けていたラストピースが埋まろうとしているのかもしれませんねぇ」
「……相変わらず、お前の行動原理も言っている意味も分からん。だが何故そこまで堕天使となった私に構う?」
「あれ、前に理由は話しませんでしたっけ?」
「何やら酔狂な言い分なら聞いた。……まぁ、お前のコトだからそのままなのかもしれないが、七大天使のセリフとして素直に受け止めていいのかはいささか疑問でな」
 天使だけに嘘はついていないだろうが、本当にそれだけなのかという意味で。
「うーん……まぁ確かにお腹に一物ないわけでもないんですが……」
「あっさり白状したら腹に一物にならん気はするが、まぁいい。……で?」
「実はですね、あなたについては“主”も扱いに困っておられるみたいでして……」
 すると、二人きりとなって話しやすい状況と判断したのか、天を仰ぎつつようやく七大天使の立場の者らしい回答が返ってくる。
「は?」
「あなたは神への叛逆者であり、天界史にも永遠に残るであろう大罪人ですが、“主”と最も近しい存在でもありますから」
「……ふん、それでも既に天界を追放された身である以上、最早これまで数え切れぬ程に堕とされて来た有象無象の一つに過ぎないだろう」
「とはいえ、私もそんな貴女だからこそ、許可証を出したんですし……」
「ああ、成る程な……。いくら何でも天使らしからぬ戯れと思えば、そういうコトだったのか」
 何だかんだで、この私にも“ホンモノ”の加護を与える能力(チカラ)を持ち合わせていると見越して。
 ……それはちょっとムカつく話だが、少なくとも嘘つきにはならずに済んだ訳だ。
「実際、上手くいきましたしねー。参拝者さん達が貴女を本物と信じ手を合わせたのも、ただの偶然の一致によるものだけではなくて……」
「……それで、結局お前は私にどうさせたいんだ?検討してやるからいい加減に話せ」
 ともあれ、そこから夢叶がしてやったりの表情で更なる種明かしを続けてきたのを強引に遮り、結論を求める私。
 正直、これ以上この我が侭姫に踊らされるつもりはないが、気になるのも確かである。
「それは、正直私の口から言うべきか悩ましいんですけど……」

 ピピピピピピ

「……おや?ちょっと失礼しますね……」
 しかし、勿体ぶられているうちに相手のコートのポケットから聞き覚えのある緊急通信の着信音が聞こえ、ハニエルの奴は会話を中断して依子が持っているスマートフォンと似た形をした天使軍支給の通信デバイスを取り出して応じたかと思うと……。
「はい……はい……え……?!」
 それからすぐに、珍しくハニエルの表情が引きつってゆくのが見えた。
(ん……?)
「……はい……」
「……そうですか……。え、対象ですか?一応、今私の隣にいますけど……」
「…………」
「はい、はい……まぁ、話は一応分かりました……それより、あなた達の方は……あ……」
「……どうした?」
「ミカエルちゃんからの伝達でしたが、どうやら今後を語る前にもうひと悶着ありそうです」
 そして、気になるやり取りが断片的に聞こえる中、手短に通信を終えてデバイスを再びポケットへ戻した後で、私でなく何処か遠い一点を見据えながらそう告げてくるハニエル。
「ひと悶着だと?また魔界からの迎えか?」
「ええ、それも今度は相当な大物が動いて……既にこの街に入り込んでいます。これは今の通信で初めて知らされたのではなく、ゼフエルを撃退した直後の豪雨の夜に私が微かに感じ取った“彼女”の気配が根拠ですが」
「ふん……つまり、それが未だこの街にお前が留まっていた本当の理由か?」
「別に、複数の理由に真も偽もありませんってば。まぁしかし、相手も私を警戒していたみたいで、今まで足取りを掴ませては貰えなかったんですが……どうやらミカエルちゃんたち天使軍の耳にも入ってしまったみたいですね」
「それで、さっきの緊急通信という訳だな」
「ええ。あなたの確保協力の旨と……私に撤退指示が下りました」
「撤退指示だと?お前にそんな命令を出せるのは……」
「おそらく、“主”は私と“彼女”を対峙させたくないんでしょうね。だからこそ、ミカエルちゃんらが気付く前に片づけておきたかったんですが」
(つまり、ハニエルと因縁深い“奴”ということか……)
 ここまでの話で、私にもおおよそ見当は付いてきたものの、いずれにせよ「それだけ」の相手というコトである。
「……やれやれ、私はもう魔王の器などでは無いんじゃなかったのか?」
 相も変わらず熱心なコトだが、ゼフエルが退けられた後に間を置かずしてそれ以上の手合いが来たのなら、奴らも勝負をかけてきているとみるべきか。
「あくまで私個人の意見ですし……。まったく、こちらの諺でお馬さんにでも蹴られて魔界へ送り返されればいいんですよ」
「そんな馬がいたら是非ともお目にかかりたいものだな。……で、どうなるんだ?」
「最も穏便に済ませようと思えば、あなたの魂を一旦天界へ戻して封印する事で魔界の皆さんに諦めていただくという方法でしょうけど、一度極刑を言い渡されて天界を追放された堕天使は原則として二度と天界へは戻れない掟のはずです」
「それは知っているし、私だってゴメンだしな、そんなもの……」
「んふふ、愛しの依子ちゃんともお別れになってしまいすからね〜?……ただ、その掟を踏み越える気なのかは知りませんけど、ミカエルちゃんはあなたの回収に向かって来るそうです」
「ちっ……私にとっては四面楚歌か。どいつもこいつも……!」
 どうして少しぐらいは静かに放置しておいてくれないのかと言いたくもなるが、八方塞がりになろうとしているのは確実みたいである。
「……そうなれば、もう残る手はただ一つ」
「ん、そんなモノがまだあったのか?」
 すると、そんな私へハニエルは素っ気なくも光明があるかの様に前置きしてきたものの……。
「つまり、貴女が自力で退けてしまえばいいんです。元熾天使(セラフィム)のルシフェルさん?」
「……おい、本気で言っているのかそれは……?」
 しかし、それは到底現実的な手段とは言えないものだった。
「やっぱり、まだ無理そうですか?」
「ま、この調子でもう数百年程度溜め込めば、あるいはな?」
 ……何せ、今度の敵が私の想像通りなら、全盛期に本気を出してようやく上回れるかもしれないレベルの相手なのだから。
「うーん……」
「……いずれにせよ、元々チカラを根こそぎ奪われここへ墜とされた時から、最早他者に翻弄されるしかなかった己の運命だ。これから魔界へ連れ去られるにせよミカエルに回収されるにせよ、私は“罰”として受け入れるしかない。ただ……」
 それでも、一つだけ聞いて欲しい我が儘があるとすれば。
「ただ?」
「……せめて、その前にこいつだけは渡しておきたいんだけどな?」
 そう言って一生懸命に悩んで決めた、最初で最後になるかもしれない贈り物を見せる私。
「ですよね……。では、ミカエルちゃんからはあなたをここへ留めておけとは言われましたが、私もそれを見届けてから帰還するとします」
 すると、それを見たハニエルも儚げな笑みを浮かべて頷き、ゆっくりと立ち上がってきた。
「……悪いな、恩に着る」
「いいえ、こんな状況になってしまえば、依子ちゃんの事も心配ですから。早く合流しましょう」
「だな……」
 これから私にいかなる結末が待とうが、依子にだけは危害を加えさせる訳にはいかない。
 ……あいつにもし何かあれば、私は簡単には滅びられない身の上で死ぬよりも辛い後悔を引き摺り続ける羽目となってしまうだろうから。

                    *

「んじゃ、今日もお疲れ〜♪あたし達は例の占い師さんを探しにはじまりの広場に行ってみるけど、甘菜ちゃんも来るー?」
「……いやいや、甘菜さんはそれどころじゃないでしょ?」
「あはは、朔夜さんがもう帰って待っているかもしれないですし、あれ持って早く帰らないと……」
 やがて、睡魔と戦いつつ本日の授業もどうにか乗り切ってようやく迎えた放課後、開放感に両手を伸ばしつつ、もうすっかりとバレンタインの事など忘れた様子で誘いをかけてくる一葉さんに、溢れんばかりのチョコで埋まったダンボール箱を見やりながら苦笑い交じりにお断りするわたし。
 もう途中から個別に預かるのをやめて勝手に放り込んで貰っていたけれど、これじゃ神様というよりも、学園の王子様のマネージャーである。
「えっと、大丈夫?一人で持てる?」
「とりあえず、職員室まで持っていって相談してみようかなと。ポリ袋とか分けてもらえたら持って帰りやすそうですし……」
 さすがに、このダンボールを抱えて電車に乗るわけにはいかないだろうから。
「あはは、中身が見えない白い袋だと、何だかサンタさんみたくなりそうだね〜?」
「……いえ、一応は巫女なんですけどね、わたし」
 しかも、詰まっているのは夢とか愛というより、欲ばっかりな気もするし。

(……でも、一葉さんたちがこれから探しに行くと言ってた謎の占い師って、たぶん神月さんのことだよね……?)
 それから、二人と別れた後で自分もチョコで満たされた箱を抱えて職員室方面へと移動しつつ、思い当たる顔を脳裏に浮かべるわたし。
 まだご逗留中だったのは知らなかったけれど、やっぱり愛を司る天使様としてバレンタイン当日は無視できなかったんだろうか。
 ……というか、神月さんだったらうちの境内を自由に使って占い屋さんをしてもらって全然構わないんだけど、人通りを考えたらはじまりの広場の方が正解よね……悲しいけど。
「う〜〜っ……」
 それにしても、持てないほどじゃないけど思ったより重い……。
 お菓子の小箱だけだからと甘く見ていたものの、さすがにこれだけの数が重なると相応の重量感がわたしの両手にずしりとのしかかってきていた。
(ポリ袋より、このまま箱詰めして宅急便で送った方がいいかも……?)
 別に、バレンタインのチョコは当日に食べなきゃならない縛りがあるわけでもないし。
 なんにせよ、せっかくこんなに差し出された、ある意味信仰心の塊なモノだけに、朔夜さんに少しずつでも食べてもらえば、それなりの神霊力の足しにはなるはず……。
「……おっとっと……?」
「…………っ?!」
「……っ、ご、ごめんなさい……!」
 しかし、視界不良の中でそうやって考え事をしながら廊下を歩いているうちに、ふと足取りのバランスを崩してそのまま生徒の一人とぶつかってしまい、後ろへ弾かれつつも慌てて何度も頭を下げて謝るわたし。
「……あら、大変そうね。手伝ってあげましょうか?」
 すると、そんなわたしに対して、相手の生徒さんの方は痛がったり怒ったりしてくることもなく、余裕に満ちた笑みで手伝いを申し出てくれたりして。
「い、いえっ、ちょっと不注意なだけだったので、すみません……」
(うわ、綺麗なひとだ……)
 それを聞いて、わたしの方はますます恐縮してしまうものの、同時にぶつかった相手の姿も思わずじっと見やってしまう。
 下穿きの色からして三年生みたいだけれど、すらっとした長身で丹精な顔立ちにストレートロングの黒髪が艶やかな、思わずまじまじと見つめてしまう程に大人びた雰囲気の美人で……。
(あれ……?)
「……そう?ところで私の顔に何か付いてる?」
「い、いえ……その……」
 ……しかも、初めて見た相手なのに何となく朔夜さんや神月さんに近いような普通の人とはちょっと違う空気も漂わせていて、何となく既視感も覚えてしまったりして。
「ふふ、さっきからじっと見て、お姉さんに一目惚れでもしてしまったのかしら?」
「……あ、ご、ごめんなさい……っ」
 いや、やっぱり朔夜さんとは全然違うんだけど、でもなんていうか……。
「別に謝らなくてもいいのよ?私も、貴女みたいな清楚で可憐なコにはとっても興味があるし」
「え……?」
「……ね、半分持ってあげるから、場所を変えて少しだけお話してみない?」
 すると、今度は逆に相手の方からもじっと見据えられ、更にダンボールに手を添えつつ何やら誘惑してくる様な言葉を向けられてしまうわたし。
「す、すみません、でも今日は急いでますので……」
 それでも、今日は朔夜さんとチョコレート交換する為に早く帰りたかったし、何より得体のしれない怖さも感じていたわたしは、視線を外しつつお断りしたものの……。
「まぁまぁ、そんなつれないコト言わないの、ふふふ……」
 しかし、謎の先輩はそんなわたしに構わず、一人でダンボールを軽々と持ち上げて奪い取ってしまうと、「ほら、ついてきて?」と一瞥して先に歩き出してしまった。
「あ、ちょっと待ってください……!」
 な、なんなの一体……?

                    *

「……さて、ここでいいかしらね?誰もいないみたいだし」
 それから、大事な荷物を取られたまま屋上まで連れて行かれた後で、長身の先輩は片手で支えていた山積みのチョコレート入りダンボールを自分の足元へ置くと、改めてわたしの方へ向き直って穏やかな笑みを浮かべてきた。
「ゴメンなさいね。二人きりになれる場所なら何処でも良かったんだけど、こういった高くて天井の無い場所が好きな性質(たち)だから」
「…………」
 それは、つまり……。
「ふふ、そんな身構えなくても大丈夫よ?まずはお話しがしたいだけだけど、でもその前に名乗らなきゃならないかしら?……という訳で、私の名は十六夜鞘華(いざよい さやか)。よろしくね依子ちゃん?」
「……あの、もしかして天使か堕天使の方、なんですか?」
「へぇ……この私が人ならざる者ってすぐに気付いたのね?流石というべきなのかしら」
 そこで、推測が確信にまで近づいたのもあって、いきなり単刀直入に切り出したわたしに、十六夜鞘華と名乗った、おそらく他の世界から来た女性はとぼける素振りも見せず、むしろ感心したような反応を返してくる。
「ええまぁ、最近はそういった方たちを沢山見るようになりましたし……」
 まるで、朔夜さんとの出逢いの夜が起点となったかの様に。
「そう。……まぁ、自ら足を踏み入れてしまったのだものね?だから……」
 そして、十六夜さんは自虐気味に返すわたしに素っ気なくそう告げるや、今まで隠していた自分の翼を目の前で解放して見せてきた。
「…………っ」
 それは灰色の濁った色の翼で、天使の翼が放つ眩い輝きこそ無いけれど、それでも十六夜さん本体をすっぽりと覆えそうな程のおびただしい数の翼と形は、以前に見せてもらったハニエル様が纏っていたものとそっくりだった。
「……だから私みたいなのにも絡まれてしまうんだけど、ご愁傷様は言わないわ」
「堕天使さん……の方だったんですね……」
 確か、天使の格というものは纏う翼の数で分かる、とは朔夜さんに聞いた事があるけれど、いずれにしても、先日に境内に現れてハニエル様に撃退された六枚翼の堕天使の人とは比較にならないほどの強大な存在みたいである。
「そう。ゼフエルでも話にならないというので、いよいよ最後の切り札として送り込まれた堕天使がこの私。一体何の為に、というのは説明する必要はないわよね?」
「朔夜さん、ですか……?」
「ええ、本来は天界から直接魔界へ墜とされる筈だったのがとんだ予定外になってしまっているけれど、彼女はどうしても必要なのよ」
「だけど、朔夜さんはまだここに居たいって……」
「……生憎だけど、それを決める権利は彼女にはないの。ただ、同じ力ずくにしても依子ちゃんに手伝って貰った方が確実かしらと思ってね?ふふ……」
(に、逃げなきゃ……!)
「…………っ?!」
 そこで、残酷な笑みを浮かべる十六夜さんの視線を前に寒気が走ったわたしは、荷物は諦めてすぐに逃げ出そうとしたものの、既に両足が動かなくなっていた。
「無駄よ。ここへ足を踏み入れた時から、あなたはもう籠の中の小鳥」
「く……こないで……っ」
「大丈夫。取って食べたりはしないから。……美味しそうだけどね」
「い、いや……っ、んぅっ……っ?!」
 そして、獲物を捕らえた肉食獣みたいな目つきで十六夜さんが背中や腰へ手を回して密着してきたかと思うと、動けないままわたしは無理やりに唇を奪われてしまい……。
「……っっ……」
「…………っ」
「…………」
 ……程なくして、全身から力が抜けてゆくのと同時に、気が遠くなっていった。
(朔夜、さん……)

                    *

「……くそ、先を越されていたか……!」
 やがて、ハニエルを伴って急ぎ帰宅した私だったものの、門を潜って玄関の鍵が閉まっていた家のポストには差出人の記されていない手書きの便せんが投函されていて、中には依子を預かったので、取り戻したければ今夜十一時に指定された場所へ来るようにという内容の手紙が、簡易な地図と共に同封されていた。
「心配はしていましたが、本当に依子ちゃんを真っ先に狙ってくるとは……もうルールも信義もあったものじゃないですね、あの堕天使達は」
「そいつは今更な話だが、この呼び出されているポイントってのは、“アレ”だよな?」
 指定されたのは御影神社とはそう遠くない山の中にある場所で、まだ行った事は無いとしても、どの様な場所かは心当たりがある。
「……ええ、無法な相手ですし、最悪は依子ちゃんごと魔界へ引っ張り込むつもりなのかもしれませんね?」
「ふざけるな!ならば無法には無法返しで天使軍で取り囲んで……というのは無理か」
「まぁ、私には帰還命令が出ていますし、ミカエルちゃんも敵の討伐よりあなたの身柄の確保に動いているわけですし、何よりそれをさせない為の人質でもあるわけですしで」
「万事休す、か……仕方が無いな」
 一体何処まで読んでの策かは知らないが、とにかく私には素直に応じてやるしか道は残されていないらしい。
「ええ、こうなってしまえば、やはり囚われの依子ちゃんを救えるのはただ一人だけ。……ね、天津縁比売命?」
 しかし、それから諦めの混じった溜息を吐く私へ、ハニエルの奴は期待に満ちた笑みを浮かべてそう告げると、こちらの肩をぽんぽんと叩いてきた。
「おま……」
「協定違反の相手とはいえ、天使軍が表立って彼女らと正面衝突するのは難しい状況ですし、どちらにも属していない貴女が乗り込んで人質を助け出すのが最も丸く収まる方法でしょう?」
 そして、「後始末なら私がどうにでも出来ますから」と付け加えてくるハニエル。
「言われずとも、そんな事は百も承知だ!しかし……」
「……もう。神にも叛逆した元熾天使(セラフィム)が、運命を捻じ曲げてやろうって気概は無いんですか?」
「だが、可能性がゼロのものを気概とやらで覆せる訳でもあるまい?」
 結果的には敗北を喫したが、あの時の私は上手くいくものと毛頭疑っていなかったのは、散っていった者の為にも自信を持って言える。
 ……どちらにせよ、無様な話だが。
「……熾天使ルシフェル。貴女は最も完璧に近い天使でしたが、ただ一つ致命的に欠けていたもの、そして不幸だった事があります」
 すると、ハニエルは今までに無い真剣な目で私を見据え、悲しそうに語りかけてきた。
「なに……?」
「それは、生まれながらに天使の翼を負わされていたが故に、本来は天使の誰しもが持っているはずのモノを持たず、ただ自分のみを信じ、自らの為だけに動いていた事です」
「本来持ち合わせているモノ、だと……」
「……“黎明朔夜”さん、今の貴女にとって一番大切と思える存在は誰ですか?」
「そ、それは……」
「そして、囚われの彼女が貴女ともう二度と会えなくなるのと引き換えに解放されたとして、果たして喜んでくれると思いますか?それで果たして大切な人を護りきったと言えますか?」
「……だから、私に奇蹟の一つでも起こしてみせろと?」
「私が入れ知恵したとはいえ、依子ちゃんの方は先に奇蹟を起こしてくれましたよね?……実はあの超が重なる程に難しい再構成術には、彼女には知らせていない条件があったんですよ」
「条件……?」
「ええ」
 そう言って、ハニエルはそっと私の耳元へ口を近づけ……。
「…………!」
 私を蘇らせたチカラの源を、極めて短い言葉で囁きかけた。
「…………っ」
「これでも動けない甲斐性無しというのなら、仕方がないので『本物』の私が独断で代わりに乗り込んで依子ちゃんを救ってきますけど?」
「おい、ちょっと待て……」
 というか、無茶振りばかりして来ている割には容赦なさ過ぎなんだが。
「御心配なく。意外かもしれませんけど、こう見えて私はすごく強いですし♪」
 そこで、慌てて制止する私にハニエルの奴は無邪気な笑みを見せると、力こぶを作るポーズでアピールしてくる。
「……意外どころか、お前より強い天使なんざそうそう居るかよって話だがな」
 だから、唯一神も天使軍も、こいつと指定された場所で待つ因縁浅からぬ首謀者を引き合わせたくないのだ。
 こいつらが正面から対峙して派手に殺し合う事になれば、齎す者である天使が本当は畏怖すべき存在と多くの人間に印象付けてしまいかねなくなるのだから。
「正直言えば、これでも今回は相当怒ってまして。一応、貴女がいるので遠慮はしていますが、依子ちゃんは私にとってもそれはもうかわいいかわいい巫女さんですから」
「……もしも、そんな依子ちゃんの命が魔軍に脅かされているのであれば、私は自らの翼と剣に宿る信念の赴くままに彼女達を討ち滅ぼします」
「…………っ」
 吐き気を催すくらいに羨ましかった。
 心に宿す感情こそ彼女と全く変わらないと言うのに、しかし今の私にはそれを為し得るだけの剣も翼に込められた神霊力も……。
(ん、剣……?)
「……という訳で、はいどうぞ」
「なに……?」
 そこで、おそらく生涯で初めて悔し涙を滲ませつつもさる事を思い出しかけた私へ、夢叶はまるでこちらの心情を見透かした様に一振りの剣を掌の上へ顕現させると、何食わぬ顔でそのままこちらへ向けて差し出してきた。
「こいつは……」
 明確に見覚えのある剣だった。
 神霊力に満ちて眩しかった本来の輝きこそ失われて刀身も曇ってはいるものの、熾天使(セラフィム)の翼を受け取った際に併せて私の為に意匠され鍛えられたこの剣は見間違える筈が無い。
「貴女の落し物ですよ?ここへ落とされた時に紛失して以来の、ね」
「……言われてみればすっかりと失念していたが、今まで何処に……」
「御影神社の社殿裏に転がったまま持ち主に放置されて寂しそうにしてましたので、私が回収しておいたんです」
「…………っ」
 ……そう、これは私が叛逆戦争まで使い続けた天使剣。
 背中の翼と同じく、天界から追放される際に諸共墜とされた天使時代の残滓である。
「まぁ、こちらで依子ちゃんと暮らすようになって、最早必要が無くなればそれに越したことは無かったんでしょうけど」
「ああ、そうだな……」
 そんな大切な相棒の紛失を今まで忘れていたというのも滑稽だが、それだけ堕ちた先で出逢った少女がこの私を短い間にすっかりと塗り替えてしまったというコトなんだろう。
(……だが、どうやら今一度手に取らなければならなくなった様だ)
 私を狙って攫われたその少女を助ける為に。
「…………」
 そして、差し出されるがまま翼の形に意匠された柄を手に取るものの、懐かしい感触だけで特にチカラの滾りなどは感じない。
 無論、それは当たり前なのだが、ただ……。
「んふふっ、受け取ったのなら、やっぱり貴女が行くというコトでいいんですね?」
「……ああ。少なくとも、何やらウジウジと尻込みしていたのが馬鹿らしくはなってきた」
 勝ち目とかそんな事はどうでもいい。やはり依子は私の手で取り返さなければなるまいと、こいつを手に取って想いが集約出来た気はする。
「あはっ、顔つきもようやく凛々しくなってきたじゃないですか。あとは……」
「……その前に、この私が黙って行かせると思いますか?」
 それから、いよいよハニエルに乗せられる形で覚悟も固まろうとした所へ、いい加減にウンザリもしてきている冷たくも高圧的な声が届いたかと思うと、私の回収に向かっていると聞いた天使軍の長が屋敷の門から姿を現してきた。
「…………」
 まぁ、やっぱり追いついては来るよな……。
 ならば……。
「児戯にも等しいチカラを取り戻した程度で、未だ無力も同然の貴女が“持つ者”にそそのかされて自殺行為に赴くなど、天使軍として看破できる訳がありません」
「……そしてハニエル、撤退指示を無視するどころか、彼女をみすみす魔軍へ引き渡すも同然の行為を働くとは、七大天使にあるまじき“主”への叛逆に等しい所業と認識なさい」
「まぁまぁ、私もちゃんと責任を持って顛末を見届けるつもりですからご心配なく」
「そういう問題ではありません!大体、貴女は……!」
「……だが、丁度いい所に現れてくれたなミカエル。実は私も出立前に“それ”を確かめておきたかった所なんだ」
 ともあれ、まずは夢叶の方に怒り心頭らしく、ミカエルが視線に殺気を乗せてやり合おうとしたのを見て私は二人の会話に割り込むと、先に翼を顕現させて天使剣を鞘から抜き、ちょいちょいと指先で挑発して見せる。
「な……!」
「悪いな、一度だけ付き合ってくれるか?」
「いいでしょう……。いずれ、貴女の四肢を斬り落としてでも身柄を回収するつもりでしたから、今度こそ容赦はしません……!」
 すると案の定、ミカエルの矛先が直ぐにこちらへ向いて一瞬の激昂を見せた後に改めて受けて立つと、彼女も自分の天使剣を呼び出し、更に熾天使の翼を広げて構えをとってくる。
「…………」
 別に、これから現役の熾天使(セラフィム)と神霊力勝負をしようという訳じゃない。
 ……ただ、勢いに身を委ねつつ、私がこれからマトモにやりあっても歯が立たない相手から依子を助ける勝機があるとすれば……。
「…………」
「…………」
「…………ッッ」
 やがて、対峙したまま時間が止まった様な静寂が暫し続いた後、相手の切っ先が僅かに動いた刹那を見計らった私は……。

 ギィィーーーーッッ

「な……ッッ?!」
 瞬時に間合いを詰めてきたミカエルの太刀筋を見切り、私を切り刻もうとした天使剣を弾き飛ばすと、そのまま身体を半回転させつつ、いつぞやのお返しとばかりに相手の首筋へ刀身を突き付けてやった。
「……っ、……そんな……!」
「ま、少々頭に血が上り過ぎていたのに加えて、昔に散々稽古をつけてやった“弟子”が相手だから、どこまでアテになるのかは分からないとしても……」
「けど、何だかんだでウデは鈍ってないじゃないですか〜♪」
「……ああ、身体の方は勝手に動くものだな。後は、もう少しでも翼にチカラが戻れば動き易いのだが」
「なるほど。……では、少々お手を拝借」
 それから、呆然と凍り付いた相手から直ぐに離れて天使剣を収め、無邪気な誉め言葉に照れも覚えつつ本音をぼやいた私に、すぐ側まで近付いてきたハニエルはこちらの手を取ってきたかと思うと……。
「む……?」
「……これは、この街で古より信奉され続けている、縁結びを司る地祇からの贈り物です」
 そう続けて瞳を閉じたハニエルが掌に唇を重ねてくるや、そこから私の身体は金色の眩い光を迸らせつつ、堕天使の翼を含めた全身に大きな活力が駆け巡ってきた。
「……こ、これは……って、お前……?!」
 よりによって、七大天使が神の叛逆者である私に神霊力を分け与えるなどと……。
「ハニエル、貴女……!」
「……んふふっ、私は大切なひとを取り戻しにゆこうとする恋する乙女の背中をほんの少し押してあげただけ。後はあなた次第ですよ、黎明朔夜さん?」
 そこで、図らずも同時に目を丸くさせてしまう私とミカエルに、ハニエル……いや、天津縁比売命は悪戯っぽくも実に楽しそうな笑みを浮かべてそう宣(のたま)った。
「全く……信じられんコトをする奴だが……まぁ今回も素直に感謝してやるよ」
 ……結局、ここまでコイツの掌の上っぽいのは癪に触るものの、まぁいい。
「…………っ、ハニエル……」
「どういたしまして♪さて、それじゃ約束の時間まで出来る限りの準備と、取り決めもしておきましょうか?」
「いや、だからってどうしてお前が仕切るんだよ……」
「右に同じです……。寧ろ指揮官は私の筈なんですが……」
「だって、今この中で一番冷静なのはこの私ですし……。そもそも、私の力を注入されて身体が膨らんでいるのにもまだ気付いていないでしょう?これから大切な戦いに挑むんですから、一度お家に入ってきちんとおめかしして行かないと♪」
「……まぁ、指定の時間までまだ間もありますしね。合鍵はお持ちで?」
「ああ。こいつを使うのは初めてだが、な」
 これでようやく私にも舞台が回って来たし、依子を無事に取り戻す為なら、ここまで引きずって来たあらゆる矜持も甘んじて捨ててやろう。

                    *

「…………」
「…………」
「…………」
「……う、うう、ん……?」
 やがて、深い眠りに就くように沈みきっていた意識が再び自然に呼び覚まされて瞼を開いた時、わたしはひんやりと冷たく硬い木の床の上に横たわっていた。
「えっと……ここは……」
 それから、背中に掛けられていた薄い毛布越しに容赦なく凪いでくる冷たい風に肩を震わせながら上半身を起こすと、月明かりに照らされた神社の境内の風景が目の前に広がり、寝起きで朦朧としているわたしの頭を混乱させてゆく。
(御影神社……じゃないよね、ここ?)
 どうやら、今わたしが横たわっているのは社殿の縁側みたいだけれど、建物は手入れをされていなくてボロボロで、同じく参道の石や明りが点された灯篭、それに狛犬も風化が進んで綺麗な形で残っているものは殆ど無く、更に欠けた鳥居の奥には漆黒の森が広がっていて、レイアウトこそ似てはいるものの、なにやら異世界に迷い込んだかの様な違和感を覚えていた。
「…………」
 それに、なんといっても気になるのは、そんな境内には灰色の翼を生やした沢山の堕天使のひとたちが跋扈していて、なにやら緊迫した様子で周囲を警戒しているというコトで。
(ああ、そっか……わたし、確か十六夜と名乗った堕天使のひとに眠らされて……)
「……あら、ようやくお目覚めみたいね?依子ちゃん」
「…………っ!」
 ともあれ、起き上がって石階段を下りつつ、ようやくわたしをここまで連れてきた相手を思い出したところで、頭上から当人の声が聞こえて見上げると、おびただしい翼を纏った堕天使の女性が、長い黒髪を夜風で華麗に棚引かせつつ屋根の上から飛び降りてきた。
「十六夜、さん……」
「今宵は少しばかり長い夜になりそうだし無理に起こさなかったけれど、よく眠れたかしら?」
「……少しばかり寒いですけど、まぁ……」
 あと、昨晩の寝不足の所為もあるんだろうけど、とにかく手持ちの腕時計で時刻を確認すると午後十一時の十五分前で、どうやら六時間近くもたっぷりと眠っていたみたいである。
「それは重畳。では、少しばかり場所を移しましょうか?」
「わ……?!」
 それから、素直に頷いたわたしに十六夜さんは素っ気無いながらも満足げな笑みを見せると、今度はこちらの手を取って再び小さく舞い上がり、社殿の屋上へと誘ってきた。
「こちらの方が見晴らしがいいし、じきに待ち人が月明かりに導かれて来るはずだから、ここから一緒に出迎えてあげましょう」
「……その前に、言いたいことや聞きたいことが沢山あるんですけど、まずはどこなんですか、ここ?」
 ともあれ、その待ち人が誰かは聞くまでもないので、他の疑問から入ってゆくわたし。
 こうして高くて見晴らしのいい場所に上がると、ここが知らない山の上で自分の足ではとても逃げ出せそうにないのが見えてしまったので、逆に肝が据わってきたかもしれなかった。
「心配しなくても、そこまで遠い場所じゃないわ。ここは御影神社の裏手の山中に残る廃神社よ」
「廃神社……?」
 御影神社の裏手の山ということは、天狗里山だろうか?ということは……。
「そう。おそらく、ここは御影神社の別殿として造られたけど、長い間使われないまま放置されている場所じゃないかしら。依子ちゃんは何か知らない?」
「……まぁ一応、父から別殿の話は少しだけ聞いたことはありますけど、わたしも来たことはなかったです。なんでもこの山は過去に神隠しの事件が何度か起きているので、この天狗里山には絶対に入るなって言われてましたし」
 結局、この別殿まで参拝する道が整備されていないのと、あまりに険しい山道の為に神隠し、つまり行方不明になったまま見つからなかった子供の遭難事件も過去に起きているので、この町内の子供はみんなこの山には入るなと教えられているはずだった。
(それが、こんな形で来ることになるなんて……)
 要するに、ますます自分が閉じ込められた身なのを実感させられたお話である。
 ……それこそ、空から天使さまでも迎えに来てくれない限りは。
「そうみたいね。お陰さまで、地元の住民ですら誰も寄り付かないこの神域は色々と都合がいいから、実は私達が魔界からこちらへ行き来するポータルにこっそりと使わせて貰っているの。……ほら、ここからなら分かり易いでしょう?あれがゲートよ」
 そして、十六夜さんが指さした先を見下ろすと、確かにここからだと境内の中心に複雑な紋様が描かれた大きなサークルがうっすらと発光しているのが見て取れた。
「……あの、魔法陣みたいなので行き来するんですか?」
「ええ。ただし、ゲートを開くには月の魔力を借りなければならないから、集めて行き来が出来るのは深夜の間だけ。だから、こんな時間まで待って貰っていたの」
「はぁ……一応、ここはうちの管理からは外れている場所ですけど、やりたい放題ですね……」
 ともあれ、魔法陣とかそういうのに興味はある方としても、あまりの傍若無人っぷりに呆れや憤りが遥かに勝って深い溜息を吐いて見せるわたし。
 天狗里山という名が付けられた通り、市内で一番標高の高いこの山には天狗が住んでいるという言い伝えがあって、父や母が子供の頃は勝手にウロウロしていると天狗に攫われてしまうぞと親に脅かされていたとも聞いたけれど、まさか魔界と繋がっていた場所だったとは。
「……まぁまぁ、これでも余計なトラブルを避ける為だから。やっぱり、地元の住民の方々には極力迷惑をかけるわけにいかないし」
「迷惑……かけているじゃないですか」
 合意なしで強引に攫われてしまった地元の住人ならここに一人いるんですが。
 しかも、先日はどこまで本気だったのかは知らないけど本殿も燃やされかけたし。
「悪いけど、依子ちゃんに関しては迷惑なのはお互い様ってコトで。……何より、これはいかなる危険も代償も辞さない案件だから」
 そこで一体どの口がと反論するわたしに、十六夜さんは意に介さずきっぱりと言い放った。
「朔夜さんを連れて行くコトが、ですか……?」
「ええ、言ったでしょう。我々にはどうしても彼女が必要なの。……まぁ、もう一人立ちしている私にとっては今更感だけど、それでも大きな恩恵を受けられるのは間違いないでしょうから」
「でも、朔夜さんはもう魔王の器なんかじゃないって、ハニエル様が……」
「あのコらしい言い分ね。……けど、魔界で彼女を待つ者はそうは思っていないし、それにあのルシフェルに皆が期待しているのはもっともっと大きな存在として、よ」
「もっともっと大きな存在……?魔王以上の?」
「……堕天使達にもね、“神”が必要なの」
 しかし、もっと大きいと言われてもピンとこなくて尋ね返すわたしに、十六夜さんは星々の輝く天を仰ぎ、静かにそう告げてきた。
「神って……」
「罪を犯して極刑を言い渡された天使が魔界へ追放される際はね、神の加護を失い飛べなくなった抜け殻の翼を負ったまま文字通りに突き落とされるんだけど、神霊力を得られなくなった堕天使はそこで全ての能力(チカラ)を失ってしまうものなの」
「みたいですね……朔夜さんもそうでした」
 だから、どうにか回復させようとあれこれ頑張ってきたわけだけど。
「そして、魔界と天界は永遠に敵対し続ける対の世界であって、当然墜ちて来た天使は魔界の者達からの怨嗟の矛先となり、その殆どはチカラを失ったまま抵抗も出来ず虫けらの様に弄ばれ、辱められ、そして法の庇護も得られず虐殺されてゆく」
「…………」
「そんなこんなで、死罪が存在しない天界は魔界追放が極刑になるのだけれど、実質は処刑も同然なの。ただ、自分達の手を汚さないだけでね」
「……それでも、天使というのは元々高い戦闘能力を秘めているし、私やこの場にいる者達みたいに魔界の環境に適応した新たな魔力を得て生き延びている者も少なからずいるんだけど、堕天使が異世界で生き残る確率を上げるのに一番手っ取り早い方法があるわ。……理屈の上では、だけど」
「えっと、朔夜さんみたく失った神霊力を回復する、ですか?」
「ふふ、察しのいいコは好きよ?堕天使の翼は神の加護を失っているけれど、単にチカラの源が枯渇しているだけで、機能そのものまで潰されているわけじゃないの。魔界へ墜ちた堕天使に神へ歯向かった事を深く後悔させながら死に至らしめる為にね」
 そして更に、「ちなみに翼が灰色なのも、異世界で堕天使と強く知らしめる為の落胤代わりなの。陰湿でしょう?」と自虐気味に付け加える十六夜さん。
「……だけど、仕えていた神から加護として与えられていた神霊力というものは、それを一時的に増幅は出来るとしても、源泉を失ってしまえばもう自力じゃ回復は出来ないの」
「だったら、朔夜さんみたいに信仰心を集めたりは出来ないんですか?ほら、魔界の皆さん相手に善行積んだりして」
 ただ、じわりじわりで時間がかかってしまう方法みたいだけれど。
「……えっとね、何も知らない依子ちゃんはそれが当たり前と思っているみたいだけれど、信仰心を神霊力に換えられるのは天使の中でもホントに極々一部だけなのよ?」
 すると、頭に浮かんだまま水を向けたわたしに、十六夜さんはそれが出来れば苦労しないと言わんばかりの苦笑いを返してくる。
「そ、そうなんですか……?んじゃ朔夜さんって、そのごくごく一部に?」
「……もしかして、その辺りは何も聞かされていないの?なぜ彼女が神へ叛逆したのかも?」
「えっと、それはいつかは聞かせてもらおうとは思ってたんですが……」
 ずっと気になってはいたものの、朔夜さんも自分からは言い出してこないし、核心めいたお話だけにこちらからはなかなか切り出しにくかったというか、本当はこのバレンタインでチョコを交換して更にワンランク仲が深まった頃に、とは思っていたんだけど、またこうやって邪魔されるしで……。
「まぁいいわ……。知らないのなら教えておいてあげる。彼女……熾天使ルシフェルはね、云わば神の“分身”なのよ」
 すると、そんな人の気も知らずに十六夜さんは肩を竦めてお節介風を吹かせると、いきなり強烈な結論から入ってきた。
「神様の……分身?!」
「もう聞かされているかもしれないけれど、天界に君臨する唯一神の正体はね、“神霊”と呼ばれる魂だけの存在。それ故に、劣化も無く半永久に生き続けられる意識の塊なんだけど、子孫を残すこともできない唯一無二の存在でもあるわね」
「意識の塊……」
 確かに、実体の無い存在というのはハニエル様から聞いた事がある気はする、けど。
「……ただ、半永久と言ったのは、神霊は決して不滅の存在なんかじゃない。信仰心を集め続けて輝きを維持しつつ、天界の中枢に聳えるエデンの塔にしっかり安置され続けるのなら、天使達の手で永遠の存在を保っていけるのだけれど、もしもそれを脅かそうとする者が現れたなら万が一という事もあり得る。……というか、実際に最も皮肉な形で実現してしまったしね?」
「…………」
「そんな訳で、一体いつからかは知らないけれど、天界の重鎮達はそういった可能性に備えて、子孫が残せない代わりに神の魂をいくつか切り出して一部の天使へ分け与えておこうと考え始める様になったそうよ。もしも神霊本体が消失する事があっても、分霊したカケラさえ残っておけばいつかは復活できるものだから」
「……そこで分霊の対象となったのは、まずは唯一神に直属で仕える懐刀にして天使軍の最高戦力である七大天使達。実際、この私も天使時代はその分霊を受けていた一人なんだけど、まぁそれは今はどうでもいい話かしらね」
「え、ええ……っ?!」
 何やら肩を竦めて自分でさっと流しちゃったけど、ものすごく衝撃的な発言だった様な……。
「ともあれ、そうやって元々あった魂に極々一部のカケラだけ分け与えられた私達とは別で、天界で永い年月をかけて創られて来た“主”を擬人化させる為の器が完成したのをきっかけに、がっつりと分霊された神霊の魂の一部“だけ”で全く新しい天使も生み出されたの。……それが、あなたが黎明朔夜と名付け呼んでいる熾天使ルシフェル」
「…………っ」
 しかし、それでも続けて伝えられた朔夜さんの正体は、その驚きすら吹き飛ばすものだった。
「生まれながらにして熾天使(セラフィム)となる運命を与えられた彼女は“主”の分身として桁外れの神霊力をその身に宿し、文句なしに史上最強の存在だったのだけれど、神に最も近しい天使として玉座から動けない神霊の“真なる代行者”となる役割を義務付けられ、周囲の羨望とは裏腹に本人はそんな立場に強い不満を抱くようになったみたいね。私が現役の頃も愚痴られた事が何度かあるもの」
「……あはは、だから詳しいんですね……」
 それは何だか羨ましいと言えば羨ましいかもしれないけれど。
「結局、自分も神と同一の存在だと考えられれば良かったろうに、ルシフェルの自我は自分と“主”の神霊を別の存在として認識していたから、このまま操り人形を続けるくらいならいっそ自分が、って思ったのかしらね」
「それが、叛逆の理由……?」
「さぁて、実際に彼女が多数の同胞を従えて蜂起した時って私は既に魔界へ追放されていたし、本音は本人に聞かなければ分からないとしても、全くの的外れじゃないとは思うわ。大体、天使が魔界へ追放される罪状の殆どは余計な考えに囚われた末の叛逆罪だから、やらかした程度は違えど動機としては珍しいものじゃないし」
「……それじゃ、十六夜さんもそうだったんですか?」
「私は……まぁ青かったって所かしら。愛を司る天使になったのをきっかけに、自分で体験してみようと人間界へ降りたら、幸か不幸か仕えていた神よりも好きになってしまう程の相手と出逢ってしまってね」
 それから、会話の流れで踏み込んだ質問を続けたわたしに、十六夜さんは肩を竦めつつ自虐と惚気が混じった口ぶりで答えてきた。
「……っ、それじゃ、朔夜さんが言っていた先代のハニエル様というのは、やっぱり……」
「全く、堕天使の過去を吹聴なんて悪趣味で残酷ね。……まぁ、私も私でルシフェルの墓荒らしをしたから、これでお相子かしら?」
「…………」
「……まぁいいわ。話を戻すけど、そうやって分霊を受けたルシフェルや七大天使達は、神と同じ様に自ら神霊力を集めて行使するだけでなく、他の天使へ分け与えたりも出来るのよ」
 ともあれ、十六夜さんはそれ以上は掘り下げることなく本題へ戻してしまうと、今度はわたしの目をじっと見据えつつ言葉を続けてくる。
「…………っ」
「私は天界を追放される際に分け与えられていた魂の欠片を剥がされたけれど、分離不能な純然たる“主”の分身であるルシフェルは結局そのまま執行せざるを得なくなり、その情報を耳にした堕天使達は、遂に魔界で神霊力を集め齎すコトの出来る救世主が降臨すると沸き上がったの」
「救世主……」
「……けれど、ルシフェルの追放先は魔界ではなく人間界だった。天使裁判で下った判決は他の叛逆者同様の極刑だった筈なのに、こちらの期待は天使軍にとってそっくり懸念となるから、ミカエル達もそのまま魔界へは墜とせなかったんでしょうね」
「…………」
「だから、天使の存在が曖昧なこの世界で文字通りに人知れず朽ち果てさせようとしたのは、まどろっこしい手口とはいえ理解は出来たし、正直言えば我々もそこまでは想定済みだったわ。けど……」
 そして、そこまで言った後で十六夜さんの表情が険しくなる。
「けど……?」
「それでも、ルシフェルはこちらから迎えに行けば喜んで受け入れるものと思ってた。実際、共に戦った数多くの仲間達が待っていたし、魔界で新しい時代の魔王となって天界を脅かすのは、彼女にとっても絶好の復讐の機会となるはずだから」
「…………」
「なのに、彼女は魔界行きを拒んでしまった。まぁ、ゼフエルは喧嘩を売る様なマネをしたから自業自得として、彼女に心酔して付いていた兵の説得にもまるで聞く耳持たずで。……ねぇ依子ちゃん、これはどうしてだと思う?」
「そう、言われても……それこそ朔夜さん自身に訊ねるしか……」
 願わくばわたしの為だったと思いたいけれど、それを口にするのは憚れる空気だったのもあり、視線を逸らせつつお茶を濁すわたし。
「……そうね。ただ私が察するに、迎えに行った時は既にルシフェルじゃなく “黎明朔夜”になっていたからじゃないかしら?」
 しかし、それに対して十六夜さんは推測と言いつつも、全て見透かした様な口ぶりでわたしをじっと見据えてくる。
「わ、わたしのせい、とでも……?」
「勿論、そんなコトは言わないわ。……ただ、もしもあの時にルシフェルのままだったなら、彼女に付いて叛乱軍に加わり、天界を追放された同胞達の救いを求める声を拒めなかったはず」
 そして、「ああ見えて仲間には優しく責任感も強い天使だったのよ、彼女は」と付け加えた後で……。
「……となると、やはりまずは堕天使(リベリオン)・ルシフェルへ引き戻す必要があるかしらね」
 十六夜さんはひとり立ち上がり、残酷な笑みを浮かべてこちらを一瞥してきた。
「…………っ」
「私も分霊を受けていたから分かるんだけど、神霊力の源って実は信仰心だけじゃなくて、本当は沢山あるの。それこそ、もっともっと単純で分り易いものからとか、ね。ふふ……」
「もしかして、朔夜さんと戦うつもりなんですか……?」
「今は、魔界もすっかりと落ち着き払ってしまっていてね。魔王を中心とした中央政府によって魔界全土の支配体制が確立して、魔軍と天使軍との間では紳士協定も結ばれてと、それこそ退屈する位の平穏っぷりよ。……尤も、堕天使には相変わらず地獄なんだけど」
 そこで、不穏に笑う十六夜さんの言葉から殺気のようなものを感じたわたしが躊躇いがちに問いただすと、遠まわしながら戦いに飢えた戦士の様な回答が戻ってきた。
「そんな御時勢だから、彼女は現魔王や魔界政府にとっては歓迎すべき相手じゃないし、実際に阻止すべく厳しい取り締まりも受けているから、おそらくこれが我々のラストチャンスになると思うわ」
「……だから、精々後悔しないように楽しまないと。ね?」
「……十六夜さん、貴女は……って……」
「あら、ようやく待ち人のご到着かしら?ふふ……」
 それから、十六夜さんが言葉を締めくくったところで、煌月を背に一人の堕天使がこちらへ近づいてくるのが視界に映り、同時にそれが誰であるのかを認識するわたし達。
「…………」
 本当は、朔夜さんの名を叫びたいのに声が出ない。
 自分はここにいるから助けてと叫ぶべきなのか、心臓を圧迫してくる息苦しい程の胸騒ぎに来てはだめと訴えるべきなのか、もしくは黙ってこれから始まる戦いを見守るべきなのか……。
「……それにしても、綺麗な月夜よね」
 そして、そんなわたしを尻目に十六夜さんは独り言のように呟いて立ち上がり……。
「今宵は十六夜。つまり私の夜だけど……果たしてどうなるかしら?」
(朔夜、さん……)

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