無知な堕天使(ルシフェル)さんは一途で積極的な巫女さんに篭絡される その5
第七章 叛逆者たち
「…………」 昼間の喧騒が夢か幻だったかと思える程に、静まり返った夜道だった。 二人並び、煌月に照らされる中で長い階段を下りて家路に就く道中、いつもは絶え間なく喋りかけてくる依子の口数も、今宵ばかりはすっかりと少なくなっている。 「…………」 一方の私も、元々お喋り好きな方ではないが、普段にも増して口が重たかった。 特に改めて何かやらかした訳でも無いというのに、これ程までに忸怩たる想いに苛まれたのは、ここへ初めて墜ちて来た夜以来かもしれない。 ……というか正直、今この場へ堕天使の連中が再び迎えに来たのなら、依子に手を出さないのと引き換えに応じてしまいそうですらあるものの、先に姿を消したミカエルが天使軍を使って監視を続けているのは分かっているので、それも叶わぬ身。 「…………」 「……ね、朔夜さん。綺麗なお月様ですよね?」 「ん?ああ……」 ……と、口に出す言葉こそ無いものの、頭の中ではネガティブな思考ばかりが巡っていた中で、ふと依子が星空を見上げつつ切り出してくる。 「朔夜さんが降りて来た夜に顔を見せていたのは何十年に一度の特別なお月様でしたけど、今夜も充分に綺麗です」 「そうだな……」 私も出来れば、ミカエルなんぞ早々に退散させて静かに眺めていたかったんだが……。 「あれからもう、一月くらい経つんですね……。バレンタインが終われば、春はすぐそこですし」 「…………」 「……依子……」 「はい……?」 「……黙っていて悪かったとは思っている。ただ騙すつもりなどは無かったし、教える事が必ずしも正しい選択なのか、私の中で結論が出なかったんだ」 ともあれ、依子がわざわざ口火を切ってくれたつもりでもあるまいが、ようやく待っていた頃合が訪れた気がした私は、同じく月を見上げつつ喉につかえていた言葉を告げる。 「もちろん、分かってますってば……。朔夜さんは以前から無闇に何でも知ろうとするのは危険だと警告してくれてましたし、それに今まで一緒に暮らしてきて、わたしに嘘をついたことなんて一度も無かったじゃないですか」 「まぁそれは……もう私は天使ですらないが、それでも残り続ける矜持みたいなものだ。天使は決して嘘はついてはいけない存在だからな」 「……だったら、あのミカエルさんもそうなんですか?」 「当然だ。ましてやあいつは天使軍の頂点に立つ熾天使(セラフィム)だからな、重みも違う」 ……そして、だからこそ私達の帰りの足取りを重苦しくしている元凶にもなっているのだが。 「…………」 * 「……いかがですか?これこそが真なる天使の翼であり、“主”より賜りし神霊力の輝きです」 「真、なる翼……?」 「その通り。貴女の助力で幾分かの輝きは取り戻せたみたいですが、天界を追放されてチカラを失った堕天使のものとは比べ物にならないでしょう?」 突然にして十二枚にも及ぶ純白の眩い翼を目の当たりにし、足が竦んだのか呆然と立ち尽くす依子を前に、ミカエルは示威する様にそう告げる。 「…………っ」 「それに、ほら……正規の天使にはちゃんと輪もあるものですよ?」 「ほ、ほんとだ……」 そして更に、私が堕天使になった時に失われた頭上の天使の輪(エンゼル・ハイロウ)を依子へ指し示して違いを見せ付けるミカエル。 「この天使の輪は翼と同じく“主”への絶対忠誠と引き換えに与えられる、神霊力を賜り増幅させる為には無くてはならない装具。これを失った誰かさんが本来の能力を取り戻せない理由の一つでもあります」 「…………」 「甘菜依子さん。貴女は天使という存在に特別関心が高いと伺いましたが、これまで“本物”を知らずだったのは不幸であったと言わざるを得ないかもしれません」 「……おいミカエル、いい加減にしろ。軽く挨拶するだけじゃなかったのか?」 「私は昔の上司がお世話になっているせめてもの謝礼に、天使についてのお話を聞かせて差し上げているだけですよ?……実際、こういう知識が得たかったのでしょう?」 「え、ええ、まぁ……」 「しかし、生憎な事に人間界へ降り立った天使が人間達の前へ本来の姿を見せるには、古来より“主”の勅命などの特別な任務を除いて、厳しい制約が敷かれています」 「おい……」 「……何故なら、我々は“主”の恩恵を齎す代行者である一方で、本来はこの世界に存在しない異物であり、また天使の持つ超常的な能力(チカラ)はこれまで保たれていた秩序を崩しかねないものであるからです」 ともあれ、容赦なしに続く当てこすりに私が口を挟むも、ミカエルは無視して依子の方だけを向いたまま、今度は諭す様に続けてゆく。 「そ、それじゃ、今日わたしがやった事は……?」 「ご心配なく。その様なルールはあくまで天使側の心得として定められたものであり、こちらで最も優先されるべき住民である貴女が咎められる謂れはありません」 すると、依子がその意味に気付いて動揺を見せるものの、軽く脅かすだけ脅かしておきながらあっさりとその罪は否定してみせるミカエル。 「ふん。ましてや、私はもう天使では無いのだからな?」 精々、極刑を受けた私の罪がまた一つ重くなった程度である。 「ご、ごめんなさい……わたしはただ、弱りきっていた朔夜さんを助けたいって……」 「ええ。貴女はただ、チカラを失い行き倒れかけていた見ず知らずの天界人へ救いの手を差し伸べた心優しい人間です。しかも、過去にこの街へ降臨した天使の世話をされていた民の末裔ともあれば、余計に見過ごせなかったのもの理解出来ます」 しかし、それでも困惑を隠せない依子へ、ミカエルは上辺だけの優しさに満ちた笑みを浮かべてフォローした後で……。 「…………」 「その相手が、天界の有史以来となる最悪の叛逆者で、結果的に我々の妨害をしていたとしても、貴女は何も知らなかったのですから」 今度は残酷なまでの無表情でそう告げた。 「ミカエル、やめろ……!」 「最悪の、叛逆者……?それに妨害って……」 「私の後ろにいる堕天使ルシフェルは、自らが唯一神に成り替わらんと天使軍を二分しての謀反を起こし、天界を壊滅寸前にまで追い込んだ大罪者なのですよ。今でこそ本来の神霊力を奪われ可愛らしい少女の姿をしていますが、彼女程に“主”の怒りを招いた者はいないでしょうね」 それから、ミカエルは制止をかける私を蔑ろにしたまま、淡々と言葉を続け……。 「…………」 「結局、ルシフェルの野望は”我々”の手により阻止され、捕縛された後に天使裁判にて極刑を言い渡され、他の堕天使同様に無力化されて天界より追放されました」 「……しかし、あれだけの罪を犯した彼女の罰はそれだけでは終わらず、墜ちた先での人間界でじわりじわりと弱らせられ、やがて朽ち果ててゆく運命を背負わされるコトとなったのです」 「朔夜さんが……」 「……ところが、そんな運命の歯車はすぐに狂いが生じてしまいました。刑罰の執行中だったルシフェルを助け、失った神霊力を回復させようとした者が現れたからです」 やがて、いよいよミカエルは名指しこそ避けたまま、罪の告発も同然の台詞を依子へ向けた。 「そっ、それは……わたしは何も知らないで……」 「無論、その弁解に我々が疑いを抱く余地はありませんが、しかし結果的にせよ貴女は“主”の与えた罰を妨げてしまいました。このままでは、いずれ貴女も神の怒りを……」 「ミカエル……!目を覚ませ、自分が何を言ってるのか分かっているのか?!」 「……失礼、少し独断で飛躍してしまいましたね。私も気を付けませんと」 しかし、そこまで言いかけたところで踏み越えてはならない一線を越えかけた熾天使に私が鋭く咎めると、ようやく冷静さを取り戻したのか咳払いと共に取り消すミカエル。 (馬鹿が……らしくもないコトを……) 「あの、それで……ミカエルさんは一体私にどうしろというんですか……?」 「天使軍の規則に従うならば、私の口から直接干渉する事も許されていません。……ただ、今後に向けて正しい判断を下す為の必要な情報をお伝えしたいと思い、貴女を待っていただけです」 ともあれ、間接的ながら一方的に断罪されるも同然の言葉を突きつけられ、表情を落として不安げに訊ねる依子へ、熾天使の長は淡々と脅しめいた返答を重ねた。 「…………」 「……とはいえ、最初にもお伝えした通り、天使の実在をあまり広められても困りますので、それに関しては御協力いただけると有難いのですが」 「ふん、人間にとっての天使は本当に存在するのかは定かでないが、それでも漠然と信じられているという塩梅が理想だからな?」 「わ、分かりました……。今後取材とかの申し入れがあってもお断りしておきますので……」 「心配は無用だ。ここへ追放された際、天使軍に埋め込まれた認識阻害術のお陰で私の姿は写し絵などの記録には一切残らないからな。私は所詮、この世界で“噂”以上の存在には成り得ん」 「……そこまで織り込み済みで本日の茶番なら、流石は狡猾ですねと最後に褒めておきますが」 「狡猾で悪かったな……」 「では、ごきげんよう。……精々夜道はお気をつけてお帰り下さい」 それから、ミカエルは最後に私へ向けて皮肉の一太刀を浴びせた後で、十二枚の翼を翻して星空の彼方へと先に帰って行ってしまった。 * 「…………」 (このままでは、神の怒りを……か……) ……ミカエルの奴、私を扱下ろすだけでなく、依子にもしっかりと脅しをかけて行くとは。 「……わたし、本当に神様の怒りを買ってしまったんでしょうか?」 「まぁ、絶対に有り得ないとまでは断言できないが、別に気にしなくてもいい。寧ろあの台詞は自分の仕事を邪魔されたミカエルの奴が八つ当たりに神の名を持ち出して脅しただけだ」 それから、依子がぽつりと不安げに呟いてきたのを受けて、素っ気無く吐き捨ててやる私。 ……大体、この刑罰自体が本当に神の命によるものなのかすら怪しいのだから。 「ありがとうございます……けど、ここにきて以前にはじまりの広場で朔夜さんがわたしに警告してくれた言葉の実感が沸いてきたかもしれません……」 「……ふん、ようやく怖くなってきたか?」 「あはは……そういう気持ちが全く無いといえば嘘ですけどね。ただ……」 すると、見透かしてやったつもりの私の指摘に、依子は苦笑いでまずは肯定したものの……。 「ただ?」 「綺麗でしたよねぇ、ミカエルさんの翼……」 「は?」 それから恍惚気味に続けてきた言葉には、流石の私も一瞬固まってしまった。 「現役の天使様の翼を見せてもらったのは初めてですけど、朔夜さんのも以前はあんなに沢山翼があってキラキラと眩しかったんですか?」 「そ、それはまぁ、天使時代に私が纏っていたのもあいつと同じ翼だからな。もう完全復活は難しいだろうが、これから神霊力(チカラ)さえ集まればそれなりには輝きを取り戻せるだろう」 「本当ですか?!それじゃ、もっともっと頑張って取り戻してもらわないといけませんね〜」 (おいおい……) 言うに事欠いて、あのやり取りの後で出てくる台詞がそれか? というか……。 「……それにしても、改めて大したものだな依子は。普通の人間があの熾天使(セラフィム)を前にして平然として居られるとは」 しかも、対峙したミカエルの奴は大人げも無く威圧を緩めようとしなかったのに。 「あはは……まぁ正直言えばギリギリでしたけど……」 すると、実は大物の器なのかも知れないと感心する私に、依子は苦笑いを返した後で……。 「ん、何がだ……?」 「……もう、詳しくは聞かないで下さいってば……」 両手でスカートの両股の辺りを押さえつつ、恥ずかしそうに顔を背けた。 「す、すまん……だが、それでもあのミカエルと見えて翼が綺麗などという感想を真っ先に浮かべるのは、三界でもお前さんくらいのもんだ。多分な」 何せ、相手は悪魔や鬼神すら恐怖に歪んで泣き出す天使軍の長なのだから。 「あはは、結局はただの天使様フェチなだけかもしれませんけど……」 「…………」 「……なぁ、依子。明日もまた神社へ行くのだろう?」 そこで、私は少しの沈黙を経てさる決心を胸に依子へ水を向けてみる。 「ええ、後片付けの続きとお掃除もしなきゃいけませんし。朔夜さんも手伝ってくれますよね?」 「無論だ。だがそれだけじゃなくて……依子に見せたいものがある」 それに対して当たり前だとばかりに頷いてくる巫女へ、私も自分の存在意義を賭けた申し出ながら、務めて素っ気無い口ぶりでそう告げてやった。 「見せたいもの?……とはいっても、朔夜さんにまだ見せてもらっていないモノとなると、もうよっぽどデリケートな部分しか残っていませんけど、もしかして……?!」 すると、依子の奴は何やら勝手に勘違いした様子でこちらへ向けて喉を鳴らしてくるものの……。 「そういう意味じゃないから、気色の悪いコトを言ってるんじゃない……!」 ……だが、間違いない。 良くも悪くも、やっぱり私やミカエルにも劣らぬ大器だ、この巫女は。 「だったら、どういうイミなんですか?」 「ん……。依子達や今日の参拝客のお陰で、そろそろ頃合を迎えたかもと思ってな」 「頃合?」 「……ああ、私がこのまま這い蹲るだけの負け犬なのか、それを確かめる為の……だ」 だからこそ、私はそんな彼女に奉られるに相応しい存在でいなくては。 * 「……えっと、ホントに大丈夫なんですか〜朔夜さーん?」 やがて、祈願会から一夜明けた日曜の午後、昼食を終えて昨日の後片付けの続きと掃除で御影神社の境内に戻ってきたわたしは、梯子を使って社殿の屋根まで上って翼を広げている朔夜さんの様子を不安いっぱいに見上げていた。 「正直に言えば、久々で少しばかり足も震えているが、問題はない筈だ」 昨夜に見せたいものがあるからと言われて、一体ナニを見せてくれるんだろうと思っていれば、どうやら祈願会で縮んだ身体がいくらか戻ったほど神霊力の源が一気に集まったので、それらを天使の翼に注ぎ込んで再び飛ぶ姿を披露してくれるそうなんだけど……。 「いや、まだ自信が無いなら無理しなくてもいいですから……!」 それでも、どこか躊躇いが残っていそうな朔夜さんに下から自重を勧めるわたし。 確かに見たかった姿ではあるものの、いつぞやの様にまた墜落して今度こそ大怪我でもされたら大変だし、それにここからだと風で捲くられた朔夜さんのスカートの奥から水色フリル付きの可愛らしい下着が覗いていて、わたしはこれで充分に眼福というものである。 「止めてくれるな、依子……。元が付こうが天使にとって飛ぶのが怖くなった時こそが死んだも同然であり、踏み出す勇気が恐怖に負けてしまう位ならば、墜落して落命した方がマシというものだ……!」 「朔夜さん……いやいや、別に焦らなくてもいいですってば……!」 もしかしたら、昨晩にミカエルさんが本物の翼と言ってわたしに見せつけたのを気にしているのかもしれないけれど、朔夜さんは朔夜さんのはず。 「焦るな、というのは今となっては無理難題だな。……まぁいい、もしもの時は頼むぞ依子?」 「ちょ……っ?!」 「てゃああああああああッッ……」 そして朔夜さんは悲壮感たっぷりに告げてくるや、少しだけ後ろに下がってらしくもない大声での掛け声と共に助走をつけ……。 「……は……ッッ!!」 「……朔夜さ……」 やがて屋根の端まで到達したところで強く踏み出して跳躍すると、朔夜さんは背中の翼を大きく羽ばたかせて……。 「今こそ天翔けろ!我が翼よ……!」 「…………っ?!」 「わぁ……!」 あの夜の再現とはならずに、そのまま朔夜さんの下着の色と同じ澄み渡った青空へ向けて優美に飛び上がってゆく。 「…………っ」 感動の瞬間だった。 その華やかで凛々しい姿は、正に思い描いていた天使様そのもので、思わず言葉を失って見入ってしまうわたし。 「ふははははは!どうだ依子〜〜っっ?!」 「ええ、素敵ですよ朔夜さん〜!」 (とうとう、飛べたんだ……朔夜さん……) 「…………」 それは待ち望んでいた日が遂にやってきた達成感や喜びもあり、何故だか少しだけ寂しさも感じていたりして。 * 「……ふう、ガラにも無く舞い上がってしまったが、まぁこんなものだ」 ともあれ、それから適度な高度を保ちつつ境内の周辺上空を確かめるように何度も往復した後でわたしの目の前へ華麗に舞い戻って来た朔夜さんが、照れ隠しに鼻先を指で擦りつつ成功を報告してきた。 「あはは。文字通りに身も心も、ですか。でもやりましたね!」 「ふむ、依子のお陰でな。……ただ、まださほど遠くまでは行けそうもないし、現状では私一人で飛ぶのが精一杯といった所だから、お前さんを空の散歩へ連れて行ってやるという約束までは果たせそうもないが……」 「いえいえ、そんなのは全っ然急がなくていいですから……!」 そして、抱擁の手を広げつつ出迎えたこちらに朔夜さんが控えめな笑みを浮かべて少しだけ申し訳無さそうに補足してきたのを受けて、全力で首を振りつつフォローするわたし。 むしろ、それを聞いて少しほっとしてしまったくらいである。 「そ、そうか……?まぁ確かに安全に連れて行ってやれる確信が持てるまではなぁ」 「ええ、焦らず行きましょうよ。少なくとも、大きな一歩は踏み出せたんですから」 「ああ。ここまで持ち直せただけでも奇跡の様なものだからな。……正直、もう二度と飛ぶことは叶わない覚悟もしていたのだが」 「とにかく、まずはおめでとうございます!ってことで今夜はお赤飯ですね?!」 作ったことはないから、まずはレシピを調べなきゃならないけれど、朔夜さんと一緒の今ならそれも楽しからずやである。 「それに、祝杯もあげたい気分だな……。まぁ、この身じゃワインの類は飲めないが」 「……フフ、だったら、アタシからもおめでとうを言ってやるよ」 「え……?」 しかし、それから二人きりだと思っていた境内で不意に女性の声が聞こえてきて……。 「……尤も、アタシの場合は“おめでたい”って意味だけどな?」 慌てて声のした方を見上げると、朔夜さんが飛ぶ前に立っていた社殿の屋根の上に髪の色も含めた全身赤づくめの、長身でモデルさんの様なスタイルだけどファッションセンスは控えめにもガラが良いとは言えない派手な風貌の女性が灰色の翼を広げて腰掛けていた。 「灰色の翼……」 「聞き覚えがあると思えば……今度は貴様か、ゼフエル?」 とにもかくにも、いつの間に……と驚きつつも背中の灰色の翼に目を奪われるわたしの横で、知らない相手じゃないのか、不機嫌そうな表情で名を呼ぶ朔夜さん。 「ゼフエル……さん?天使様なんですか?」 「私と同じ堕天使だ。……一応、かつて共に神に叛逆した元戦友、という事になるか」 「一応、とは随分冷たい言い草じゃないか、ルシフェル。これでも戦時はアンタの元で汚れ役を引き受けてやってたというのにさ?」 「汚れ役を担ったと言えば聞こえはいいが、お前はただの放火魔だろう」 「ほ、放火魔って……」 確かに、自己表現からして炎そのまんまって感じだけど……。 「ああ、創意工夫に長けた聡明な天使と聞いて迎えたんだが、結局こいつの手口は火計ばかりでな。全く物騒なだけの奴だった」 「結局、あれこれ小細工を弄しようが火を使うのが一番てっとり早いんだよ。エデンの塔も同時多発で燃やしちまえば、もうちっとは戦局を有利に出来たのに、アンタは目的が違うだのあっさりと却下しやがって」 「当然だろう。戦勝した暁には住処となる宮殿を自ら灰にしてしまう馬鹿が何処にいる。あの時もそう言った筈だが?」 「それで戦に負けてりゃ世話はないね。……しかも、そんな見苦しい姿になっちまってさ?」 「……く……」 「さ、朔夜さんは見苦しくなんかないです可愛いです!そ、それで、一体何のご用なんですか?」 「別にアンタなんぞに用は無いから黙っといてくんないかな?……というか、”うちら”にとっても邪魔者なんだから、迂闊に首を突っ込んでこない方がいいと思うけど」 ともあれ、朔夜さんの旗色が悪くなったのを見たわたしが横から口を挟んで用件を尋ねようとしたものの、ゼフエルと呼ばれた堕天使は剣呑な視線を向けつつ脅しをかけてくる。 「…………っ」 また、ここでも邪魔者扱い……。 「ゼフエル、こいつはこの神域の主だ。邪魔者なのは自分の方だと思わないか?」 「知ったこっちゃないね。いつの世もどの世界も、みすみす進入される方が悪いってなもんだ。……なぁ、天界を乗っ取ろうとしたアンタに否定できんのか、ルシフェル?」 すると、今度は朔夜さんがわたしを庇おうと横槍を入れるも、ゼフエルさんは全く歯牙にもかけない口調で一蹴してしまった。 「ちっ……」 「ふ……しっかしさ、元中級程度の雑魚じゃ話にならねーっていうからアタシが“迎え”に寄こされたが、全くなんてザマだよ。あの熾天使ルシフェルがよちよち歩きの赤子も同然じゃないか?」 そして、元戦友と呼ばれた魔界からの使者は、更に嘲笑するように言葉を続けた後で……。 「……ふん、私も侮り尽くされたものだな」 「別に、侮っちゃいないさね。さっさと魔界にさえ来れば再び比類なきチカラも得られるってのに、いつまでこんな処でグダグダと遊んでいるつもりなのさ?」 いよいよ話の核心に入るや、刃のように鋭い殺気を込めて朔夜さんを見下ろした。 「私はもう何処(いずこ)にも所属しない自由の身だ。昔の配下とはいえ応じてやる義務など無い」 「へぇ……ムカつくコト言ってくれるじゃん。だったら、腹いせにこのオンボロ社を灰にでもしてやろうか?」 しかし、それでも朔夜さんの方も動じる様子は無しで冷たくあしらうと、ゼフエルさんは笑っていない目で冷酷な笑みを浮かべつつ、手元の檜造りの柱をぽんぽんと叩いて見せる。 「え……っ?!」 「天使時代から炎を操る術のウデマエはアンタも知っての通りだが、魔界へ堕ちて色々失った代わりにコレだけに関しては更に増幅デキてんだよ。……せっかくだから見てみるかい?」 「貴様……」 「あともう一つ、アタシが火計に拘っていた理由を教えてやろうか?……それはやっぱ片っ端からドカドカと燃やしてやるのは単純にキモチイイからさ。あはははははは!」 「……っ、そ、そんな、やめてください!」 「やめてほしけりゃ、力づくで止めてみなよ。それでこそ護り部ってモンだろう?」 「……うう……っ」 この人、堕天使というよりも……“悪魔”だ。 相手を苦しめるコト自体を楽しんで悦に浸るような……。 (ど、どうしよう……?!) 飛べるようになったとはいえ、まだ今の朔夜さんじゃ戦って追い払うのは難しいだろうし。 「ち……」 おそらくそれは朔夜さん自身も分かっていて、相手を睨みつけはしているものの、全く動けないで……。 「……やーれやれ、天使軍の監視下でなにドヤ顔浮かべて好き勝手なコト言ってくれてんだか、この負け犬先輩は?」 「む……?」 「え……?」 しかし、そんな張り詰めた空気の中へ、不意に一陣の風が横殴りに吹いたかと思うと……。 「抵抗できない人間をイジメてニヤニヤって、ほんとカッコわるいわよねー堕天使は。だっさ」 その疾風を目で追った先には背中に四枚の翼を纏った、帽子にパーカーのギャルファッションな風貌の天使さまがゼフエルさんのすぐ背後の空中に立って腕組みしていた。 「え……あ、あなたは……?!」 しかも、その姿は見覚えがあるというか、確か昨日の祈願会で可愛らしく舞い踊っていた朔夜さんを見てなにやら引いていた、美人だけど染めているのか地毛なのか分からない金髪ロングの髪に浅黒い日焼け肌の、いかにもって感じな参拝客の人だけど……。 「ふん、確かヴァーチェといったか?相変わらず見た目によらず勤勉だな」 「見た目によらずは余計なお世話ー。でもま、これがあたしのお仕事だからね?」 そして、顔見知りらしい朔夜さんが彼女の方を見上げつつ特に喜びも焦りも伺えない淡々とした口ぶりで皮肉めいた言葉をかけると、ヴァーチェと呼ばれた天使さまは少しだけむくれた態度で言い返した後で……。 「……また余計なマネを、と言いたいが今回ばかりは感謝せねばなるまいよ。ただ、せっかく久々に良い気分になっていた所を台無しだが」 「ん〜、そこまでは知ったこっちゃないんだけど……ただ、キミに張り付いていればこうやって手柄を立てる機会も増えるから、あたしはそんな悪い気もしてないかな?」 腰に下げた剣を抜き放ち、軽薄な見た目とは想像もつかない覇気を込めてそう続けた。 「はっ、ロクな挨拶も無しに背後から現れて即抜刀とは、最近の天使軍は口の利き方も礼儀も弁えてない若造(ルーキー)ばかりらしいが、何とも嘆かわしいハナシじゃないか。なぁ?」 「天使軍の兵法書には正面からイノシシやれなんて何処にも書かれてないですけど、魔界へ墜ちて耄碌しちゃいました、センパイ?」 すると、それに対してゼフエルさんの方は後ろを取られたことに動じる様子は無く、その場に座ったまま嘲笑うように肩をすくめて見せると、ヴァーチェさんは今にも斬りかかりそうなビリビリとした殺気を滾らせつつ、敵意を剥き出しにした物言いでやり返す。 「口先だけは一級品ってか。……だが、肝心の腕前の方はどうだかね?」 「もっちろん、今後の為にもこの場の堕天使さんお二人には“現役”との違いを教えといてあげなきゃいけないでしょ?……こーんな風にさ」 そして、余裕を崩さない相手にヴァーチェさんはすました口ぶりでそれだけ宣言すると……。 「…………っ?!」 消えた……? 「もらい……っ!」 次の瞬間にヴァーチェさんの姿が再び消失し、それを見たわたしが驚き終える前に間合いを詰めてゼフエルさんの背中から首筋へ向けて剣を振り下ろしていた。 「…………」 「…………っ!」 そこで思わずわたしはその先の首が飛ばされる嫌な光景を想像して両眼を覆いかけたものの、しかしその刃は咄嗟に伸ばしたゼフエルさんの右手で止められてしまう。 「く……!」 「どうした?現役の違いを見せ付けてくれるんじゃあなかったのかい?雑魚天使ちゃん」 「……っっ、これで勝ったつもり……ッッ?!」 すると、刀身をがっちりと掴んだまま首だけ捻って痛烈な言葉で反撃するゼフエルさんに対して、ヴァーチェさんはあっさりと剣を持つ手を離して後ろへ飛びずさると、空中で間合いを取りつつ伸ばした両手の前に何やら高密度のエネルギーの塊みたいなものを弾けさせ、やがて翼を纏った美しくも鋭利な大剣の形にかたどってゆく。 「……ほー、懐かしいモノ持ち出してくるじゃないのさ。前の戦で七大天使相手にそいつでぶった斬られたのは覚えてるけど」 「おいおい、お前が社殿ぶっ壊すんじゃないぞ?!……と、言ってられる相手でもないか」 「え、ええ……っ?!」 ちょっと、わたしが困ります……! 「これだけの神霊力は堕天使なんかには扱えないでしょ?!これが本当の魔を断つ天使剣なんだから……!」 そして、どちらに転んでもお社の危機に慌てるわたしをよそに、ヴァーチェさんは翼と同じ白銀色に輝く何メートルにも伸びた巨大な剣を構えて一段高く跳び上がり……。 「これで終わり……ッッ」 そのまま相手に向けて振り下ろすのではなく、再び目にも留まらぬ速さで下降しつつ切っ先を敵の中心へ向けて回避不能な速度で突き入れようとした。 「…………」 しかし……。 「……そんな……ッッ?!」 ヴァーチェさんが本当の天使剣と称した神霊力で出来た刃は社殿の屋根に腰を下したままの堕天使の身体には届かず、ゼフエルさんのすぐ前にいつの間にやら張られていた赤い半透明の障壁に防がれてしまう。 「大見得切った割にはこの程度か。……ま、そんなこったろうと思ってたけどね?」 それから、防いだゼフエルさんは最初から分かっていたと言わんばかりの涼しい顔でそう告げると、今度は防いだ障壁から湧き出た幾重の炎が蛇のように天使剣を伝ってヴァーチェさんへまとわり付いてゆき……。 「ひ……っ?!」 「んじゃ代わりにアタシが教えといたげるわ。“身の程”ってモンをね……?!」 そして、朔夜さんに放火魔と呼ばれた堕天使は、攻防一体の障壁を張り巡らせつつも翳した右手の先に紅蓮の禍々しい炎の球を顕現させると、炎の蛇に絡み付かれて身動きを封じられた天使さまへ向けて振り払った。 「…………っつ!」 「う……ぁ……」 瞬く間に直撃した火球は離れた場所で見ているわたしまで熱波で吹き飛ばされそうになる程の爆発を呼び、炎に包まれたヴァーチェさんは真っ黒こげとなってわたし達のすぐ近くへ墜落してしまうと、叩きつけられた石畳の上で小刻みに痙攣しつつそのまま動かなくなってしまう。 「…………っっ」 「……だから言ったろ?現役だろうが堕天使だろうが、中級天使なんざこのアタシの前では虫ケラに過ぎないんだ。ま、精々以後は気をつけるこったな、消炭後輩?」 「…………」 え、えっと……。 「さて、邪魔なハエはこれで片付いたが、どうするルシフェルの大将?このまま大人しくアタシと一緒に来るか、思い残すことが無い様に全てを灰塵に変えてからにするのか、どちらでもいいからさっさと選んでおくれよ」 そこで、ヴァーチェさんの安否や社殿の心配に見せ付けられた炎の恐怖と、いよいよわたしの頭が回らなくなってきたところで、改めてこちらを見下ろして訊ねてくるゼフエルさん。 「う……」 「…………」 しかも、朔夜さんの方も切り抜ける手立てが思い浮かばないのか、苦々しい表情で汗を滲ませつつ黙り込んでしまう。 ……すなわち、わたしにとっては絶望を意味するのかもしれないけれど。 「元々アンタには選ぶ権利なんざ無いのを、昔のボスだから立ててやってんだ。さぁどうする?」 「……っ、だっ、ダメです朔夜さん……!」 とにもかくにも、このまま言いなりになるのだけはダメだと止めに入るわたしなものの……。 「アンタも邪魔者だと言ったろうが。……まだ分からないなら、改めて教育してやろうか?」 「…………っ」 「依子には手を出すな……殺すぞ?」 そこから、ゼフエルさんに容赦ない威圧を浴びせられて足がすくみ上ったところで、朔夜さんは一歩踏み出し腕を伸ばしてわたしを守るように遮ると、今までとは一転して凍り付くような鋭い視線で相手の目を見据え、短く言い放った。 「朔夜、さん……」 「おっ、イイ表情になって来たじゃあないか、ルシフェル様?アンタはやっぱそうでなくっちゃな」 「そんなに私を連れて行きたくば、もっと礼儀を弁えた使者を寄越すのだな。貴様では論外だ」 「は〜っ、ちょっと下手に出てやれば調子に乗ってくれちゃってさ。んじゃ、交渉は決裂ってコトでいいんだな?」 そして、わたしの気持ちを汲んでくれたのか、断固とした態度で突っぱねた朔夜さんに、魔界からの使者は長いため息を吐くと、再び翳した手に紅蓮の炎を宿らせてゆく。 「……ッッ、や、やめておねがい……!」 「はんっ、恨むならクソ意固地なそいつを恨みな。……さぁて、たっぷりと“薪”はあるコトだし、これから盛大なパーティでも初め……」 「……それは困りますねぇ。せっかく四百を数える年月もの間、この地に住む方々がこのお社を守り続けてくださっているというのに」 それから、相手の言葉が脅しなんかじゃないのは先に思い知らされているだけに全身から血の気が引いたところで、わたし達の背後の方から今度は聞き覚えのある人懐っこい女性の声が割り込んでくる。 「あ、あなたは……?!」 その声に反応してすぐに振り返ると、いつの間にやらすぐ側にまで近付いて来ていたのは、いつかのローブで顔をすっぽりと覆った占い師さんだった。 「チッ、また鬱陶しい邪魔者が……って、まさかアンタは……?!」 「…………」 しかも驚くわたしだけでなく、ゼフエルさんも弱い者いじめを楽しんでいた余裕が消え、逆に怯える様な反応すら見せて、朔夜さんも感情の読めない無言で見据えている。 「この神社は天使と人間とを繋ぐ、様々な想い出が集い詰まった大事な場所。これから本当にお社を燃やすというのであらば、協定以前にこの私が到底黙ってはいられませんが、さぁどうします?」 「…………。くっ、ジョークに決まってんだろ!真に受けてんなよ石頭が……!」 そして、占い師さんからの穏やかながも得体の知れない迫力を感じさせる口ぶりで改めて向けられた警告に、ゼフエルさんはとうとう慌ただしく立ち上がり……。 「ふん、邪魔が入っちまったが必ずアンタは連れ帰ってみせる。首でも洗って待ってなよ!」 やがて不穏な捨てセリフを残して高く飛び上がると、一目散にこの場から去っていった。 「…………」 ……と思いきや、占い師さんはそんな彼女の背中を見送りつつ、手元の何も無い空間から黄金色に眩く輝く弓と矢をいきなり顕現させてきて……。 「え……?」 直ぐさまに逃げ去ろうとした堕天使の方へ狙いをつけて弦を引き、先程ヴァーチェさんの天使剣を防いだ赤い障壁をも貫いて問答無用に撃ち落としてしまった。 「わ……っ?!」 「……例えばですけど、昔から悪名高かった放火魔さんが犯行直前に見つかったから冗談でしたと言って立ち去ったとして、家主の方はそれで安心されると思いますか?」 そして命中と相手の墜落を確認した後で、構えを下ろして淡々とそう呟く占い師さん。 「まぁな。……だが、辛うじて殺してまではいないんだろう?」 「相手も一応はこちらのエージェントの息の根までは止めてませんし、命まで奪ってしまうと何かと角が立ちますからねぇ。ただこれで、もう二度とこの神社へ手を出そうとは思わないでしょうけど」 「お前の逆鱗に触れると身をもって理解(わか)ればそりゃあ、な……」 (……いや、これで命まではって言われても……) 消炭と言われたヴァーチェさんにまだ息があるというのも嬉しい驚きだけど、たたでさえこの街でも一際高い場所にあるうちの神社から更に小さく見えていた高度からお腹のど真ん中辺りを撃ち抜かれて真っ逆さまに墜落していったのに、そこからどうやったら助かるんだろう?とは思うものの、まぁそれはともかくとして……。 「えっと、あの、それで占い師さんは一体……」 「ああ、そういえばまだ名乗っていませんでしたっけ。私は神月夢叶(こうづきゆかな)と申します〜」 (わ……?!) それから、お礼を言うのも忘れて改めて正体を訊ねたわたしに、占い師さんは相変わらずの人懐っこい口ぶりで名乗った後にローブを取り払ってくると、中からは金色の美しくも長い髪を棚引かせ、宝石のように澄んだ蒼い眼の、まるでこの世のものとは思えないくらいに綺麗な女性の顔が現れてきた。 「こ、こうづき、さん……?」 「まぁ、それは黎明朔夜さんと同じく、こちらでの仮の名前なんですけど」 「仮……って、もしかして……?!」 「……なぁ、もうそろそろ明かしてやってもいいんじゃないのか、ハニエル?」 そこでピンと来て目を丸くしたわたしに、朔夜さんが横から訳知りな様子で促してくる。 「ハニエル……?」 「ええ、もともと本日はそのつもりで来たんですけど、お邪魔虫さんのせいで前後してしまいましたね……」 そしてハニエルと呼ばれた女性は、わたしが小さい頃から思い描いていた天使さまそのものの笑みを浮かべると、自分の背中に昨晩見たミカエルさんにも劣らない神々しい輝きを放つ翼の束を解放し、大きく広げて見せてきた。 もちろん、その頭上には金色に眩い輪っかを顕現させて。 「……っ……やっぱり、天使様……だったんですか?」 まぁ、この人に関しては薄々そんな気はしていたから、大げさに驚いたりはしないけど……。 「ええ、我が名はハニエル。天界に君臨する唯一神、“主”の玉座を護る七大天使の一角であり、神の栄光、神を見る者、そして……愛を司り、神の恩寵を与える者の名を持つ天使です」 「愛を司り、神の恩恵を与える者……」 「ああ。……そして、大昔にこの地へ降り立った“本人”、だ」 「え、ええええええ……っっ?!」 むしろ、それから朔夜さんが加えてきた衝撃の補足で、わたしはとうとう境内に響き渡るほどの驚きの叫びをあげさせられてしまった。 * 「ど、どうぞ、粗茶ですが……」 「あはは、どうぞお構いなく〜」 それから、まずはヴァーチェを治癒術で回復させてやり、このまま立ち話も何だからと久方ぶりに舞い戻ってきた主を社殿内の座敷へ案内した後で、傍から見ていて思わず噴出してしまいそうなぎこちない手つきで茶と菓子を差し出す依子に、ハニエルは向日葵の様な笑みを浮かべて嬉しそうに受け取っていた。 「しかし、昨日今日と天よりの使いの方々が次々とうちの神社に現れて下さって、恐縮ですというか何というか……」 「……そうだな。言い忘れていたが、昨日の夕方頃に参拝客に混じって私に悪態を付いていた奴も天使軍のエージェントだったしな」 「そっ、そうですよ!この週末は天使様パラダイスのイベントカレンダーだったなんて聞いてませんよわたし?!」 「落ち着け。天使は案外身近にいるもんだって教えてやったろう?」 「んふふー、実は私も何だかんだで時々こちらにやって来ては、ああやって占い師の真似事をしてますし♪」 「は、はひ……。そ、その節はまことにぃ……!」 「……やれやれ……」 そんなこんなで、あのミカエルを前にしても萎縮しなかった依子だが、やはりハニエルの奴に対してだけは相手が相手だけに恐縮するなというのは無理な要求らしかった。 ……尤も、元上級天使のゼフエルですら震え上がって逃げ出す程なのだから、柔和で無害そのものな見た目の割に、やはりそれだけの存在ではあるのだが。 「あはは、本当に一途で可愛らしいお嬢さんですよねぇ?」 「……とりあえず、お前さんには聞きたい事も山ほどあるが、まずは礼を言っておこう。私が不甲斐ないばかりに、な……」 そんな中、私はといえば依子から続けて茶を受け取った後で、結局は昨晩に続いて忸怩たる気分に苛まれつつも、昔に敵対したコトもある七大天使の一角に頭を下げる。 かつては、私とてそのハニエルを前にして平然と渡り合えた数少ない一人だったというのに、堕天使となってこういう時が気持ち的に一番堪えるかもしれなかった。 「ふふ、礼には及びません。この御影神社は私にとっても大切な思い出の場所ですから、当然のことですよ〜」 「ありがとうございます♪でもまさか、自分の代で伝説の存在だった天よりの御使いご本人様とお会いできるなんて感激です……!」 「いえいえ、こちらこそ、代々この聖地を守り続けて来られた甘菜さん一族の方々には感謝しているんですよ〜?」 「ほ、ホントですか……?!そう言っていただければ、きっとご先祖様も喜ぶと思います!」 「……だが、言う程に良い思い出にもならなかった筈だぞ。そもそも、任務は失敗扱いになっていたろうが?」 「うぇ……?」 「ええ、結末的には天界の“主”でなくて派遣された天使、つまり私そのものが地祇として祀られてしまうという予想外の形になってしまったので、帰還した後は思いっきり怒られてしまいまして……」 ともあれ、ゼフエルの来襲はもうすっかりと忘却の彼方といった様子で目を輝かせる依子が少しばかり癪に障った私は、タイミングを見計らって素っ気無く横槍を入れてやると、ハニエルも湯飲みを両手に苦笑いを浮かべてくる。 「それは……ご先祖様がなんかすみません……」 しかし、それだけこのハニエルがこの地の民の為に尽くして感謝されたという証左でもあるだけに、皮肉といえば皮肉な話だった。 「あはは、それでもこの村でお役目に明け暮れていた日々の中でどうしても知りたかったコトは得られましたし、その後の私にとっても大きな財産になりましたから♪」 「そういっていただけると救われます……。でも、どうしても知りたかったコトって何だったんですか?」 「……“愛”、というものについて、ですよ」 それから、フォローを入れてもらって更に踏み込んだ質問を続けた依子に、ハニエルはやや自嘲気味にぽつりと答えた。 「愛……?」 「そう言えば、ここへ降り立ったのはお前が当代のハニエルになった後の初任務だったか?」 「ええ、ハニエルは愛を司る一面を持つ天使ながら、私自身はその愛とはどういうものなのかを理屈でしか知らないまま受け継いでしまったので、実際に人間の方々の恋愛のお手伝いをしつつ、肌で感じることが出来ればなって」 「だから、縁結びをして回った、と……」 「はい♪お陰さまで、様々な人々の恋愛模様を見せて頂いて勉強になりました。……何せ、私の先代がその恋愛がらみで失脚してしまったものですから、尚更知っておきたかったんですよ」 「失脚って……」 「ああ、私と同じく堕天使となって魔界へ墜とされた」 「……えええええ、天界ってそんなにあっさりと追放されてしまうものなんですか?もしかしてブラック……」 「いや、そうでもないぞ?ミカエルやヴァーチェ達みたいに余計なコトを考えずに自分の立場を弁えられる連中にとってはな。……そうだろうハニエル?」 「ええ、私も気をつけないといけませんねー、あはは♪」 「笑うトコロじゃないだろう、そこは。……というか、ここ最近は独断で勝手なマネをし続けているみたいだが大丈夫なのか?」 ともあれ、依子の突っ込みがいい機会になったので、無邪気に笑う天界きっての我侭姫に向けて次の本題へ入る私。 「何がですか?」 「……許可証の件もだが、依子に私の姿を回復させる方法を教えたのはお前なんだろう?ミカエルの奴が激怒していたぞ」 「あ、そういえば、やっぱり先日の許可証も神月さ……ハニエル様が……?」 「ふふ、神月さんの方でいいですよ〜?ええまぁ、実は今日ここへ来る前にそのミカエルちゃんに捕まってしまい、一体どういうつもりなのかと問い詰められて少々遅くなってしまったんですが……」 しかし、一応は恩になってしまった事もあって心配半分に尋ねる私に、ハニエルの方はどこ吹く風といった様子で語ってくる。 「で、なんて答えてやったんだ?」 「……だって、この御影神社で元天使と、天使に憧れる巫女さんとで素敵な出逢いが生まれたんですから、私としては応援してあげずにはいられませんよねぇ?って」 「神月さん……いえ、やっぱりハニエル様と呼ばせてください……!」 「あらあら、うふふ……」 「いられませんよねぇって、お前……」 それから、片目を閉じつつしれっと続けてきた愛を司る大天使の言い分に依子はすっかりと感激しているものの、こちらにとってはあまりにも返事に困る回答である。 「んじゃ、もし墜ちたのが別の場所ならば、こんなお節介はしなかったと?」 「それは私の気まぐれでしょうけど……ただ、私には貴女がここへ飛ばされたのには運命の導きを感じるんですよねぇ」 「それもミカエルに言われた……というか、お前ら水と油のクセに妙に気が合うらしいな」 尤も、それもミカエルが言うのとハニエルが言うのでは意味合いも違ってくるが。 ……何せ、こいつは……。 「……でも、その時にミカエルちゃんから聞いては来たんですが、ホントに丸くなっちゃったんですねぇ、あのルシフェルちゃんが」 しかし、そこでため息混じりに皮肉を向けてやった私に、ハニエルは穏やかな笑みをたたえてそう告げてくる。 「ちゃん付けはやめろ……」 まぁ確かに、コイツのこういう所に昔ほど苛立たなくなってはいるかもしれないが。 「朔夜さんが丸くなったとは、たとえばどんな感じになんですか?」 「んー、さっきみたいに素直に感謝してくるところとか、ですかね〜?熾天使(セラフィム)時代は仲間を褒めたり感謝したり、またどんなに自分に非があろうが素直に謝るなんてしおらしい態度は見せることなかったですもん」 「う……まぁあの時は、他者を認めたら負けという位に思っていたからな、私も……」 神に最も近い天使と周囲から称えられ、私自身も唯一神の座を狙う上で一切間違いの無い完璧な存在を求め過ぎていたと言うか。 「あはは、唯我独尊って感じでギラギラと尖っていたんですね?」 「そうそう、逆にホメても澄ました顔で『当然の結果だ』としか言わなかったですし。なんか性悪というより青かったですよね?」 「若気の至りみたいに言うな……まぁ確かにその通りなんだが」 今思い出すと、いささか恥ずかしいのもまぁ認めるとして。 「けど、そんな刺々しさも依子さんにすっかり剪定されてしまったとノロけられたって、ミカエルちゃんが愚痴ってましたよ?」 「惚気って……」 「ええっ、もう朔夜さんたらぁ〜♪」 全く、勝手に妙な解釈するだけでなく流布までしてくれるとは、ミカエルの奴……。 「……まぁ、確かに依子のお陰は否定しないが、ただこちらへ墜とされて能力を失った状態で出来ることも少ない中で惰性に過ごしていたら、色々どうでも良くなったというべきか……」 「んー、私はそれでいいと思いますよ?せっかくの機会ですし、これから少しばかり投げっぱなしな日常を満喫してみれば、今まで見えていなかったものにも色々気付けるんじゃないかと。は〜おいし……」 ともあれ、惚気のくだりは面倒くさいのでスルーして溜息交じりに本音を語ってやると、腐れ縁の大天使は美味そうに茶を啜りつつ柔和な笑みを浮かべて頷いてきた。 「あ、おかわりもありますので……」 「んふふー、ありがとうございます♪やっぱりここは居心地いいですねぇ」 「……つまりそれは、先人としての助言か?」 「ええ。私もハニエルになってここへ降り立つ前は似たようなものでしたし」 「そういえば、お前も昔は典型的なエリート天使だったな」 だから、敵に回って罪人になったとしても私に節介をかけてきた……というのは理由としては弱いか。 ……いや、それは今はいいとして、だ。 「……だが、こんな生活はいつまで続けられると思う?」 「個人的には、それが最も害の無さそうな処遇だとは思うんですけどねぇ……」 ともあれ、理由よりも現実の問題を尋ねる私に、ハニエルは湯呑を両手に小さいため息交じりで呟き返してきた。 「いっそ此処で骨抜きにしてしまうのが、か?」 「少なくとも、依子さんという小さなオアシスを手にした貴女を干上がらせるのは最早難しいですしね〜」 「主に、お前さんのお陰でな」 ……まぁ助かった身なのは間違いないが、ミカエルにも同情したくなる部分もあるというか、本当に何を企んでいるのやら。 「でも、だからわたしは邪魔者だって言われましたけど……」 「あいつらに何を言われようが気にするな。この人間界で別世界から来た異物共から依子が邪魔者呼ばわりされる謂れなど一切に無い」 ともあれ、そこでずっと気にしていたのか依子が不安げに口を挟んでくるものの、私は素っ気無く一蹴してやった。 ミカエルにはそれを利用していると詰られたが、これだけは人間界で不変な理(ことわり)の筈である。 「は、はい……」 ……と、そこまでは良かったのだが。 「それに、ミカエルちゃんはルシフェルちゃんの元カノみたいなものですし、ちょっとヤキモチを焼いているだけだと思いますから、あまり気を悪くしないであげて下さいね?」 「は、はい……って、元カノ?!」 それから、ハニエルの奴がそれに乗って知った風なフォローを続け、今度は驚きつつも興味津々に身を乗り出してくる依子。 「……お前な、結局話をややこしくしに来たのか?」 「もう、失敬ですねぇ。私は愛を司る天使としての着眼点でお話しているだけですよ〜?」 「えっと、ホントなんですか、朔夜さん?」 「さて、あいつがどんなつもりだったのかは本人に聞いてくれ。……そもそも、今となってはミカエルの奴は私の仇だぞ?背中からこんな感じでグサっと刺されたんだからな」 そこで、依子に勝手な認識を持たれるのも腹が立つので、私は裏切られた時の場面を身振り手振りで実演してやるものの……。 「神様に謀反を起こしたからでしたっけ?でもどうしてそんなコトに……」 「……色々あるんだよ。少なくとも、私はアイツとは根本からして違う存在だからな」 「けど、事情を知らないひとが聞けば、不貞がバレて刺された様にも聞こえますよね?あはは」 「だから、どうしてそういう発想になる……」 「……すみません、わたしもちょっと想像してしまいました」 「お前らな……」 だが、事情を知らぬ者が聞けば、か……。 (……確かに、私には足りなかったものがあったのかもしれないのか?) 「…………」 仮にそうだったとしても、既に全ては手遅れだが。 「それで、話は逸れましたけど、ルシフェルちゃん自身は今後の展望などはあるんですか?」 「まぁ無くはない。……だが、確かにルシフェル“ちゃん”のままでは、何を語っても虚しいだけだな」 もう少しチカラを取り戻せれば、また選択肢も増えるかもしれないし、その為の微かな希望の光も見えては来ているんだが。 「それじゃ、やっぱりもう暫くはのんびりとこの街で過ごす方向で?」 「他に行く所も無いしな。無論、依子さえよければだが」 「もちろん、わたしはいつまで居てくれても全然ウェルカムですよ!それに、朔夜さんのお陰で昨日も大盛況でしたし♪」 すると、依子の方は嬉しそうな顔で快く了承してくれるものの……。 「……いや、それは“本人”を前に言う台詞じゃないだろう」 「私は一向に構いませんよ〜?元々面白そうだから許可したんですし、実際にルシフェルちゃんが慣れない神様ごっこに右往左往しているのが見ていて楽しかったですから♪」 しかし、苦笑い交じりで突っ込みを入れた私に、本物の天津縁比売命も全く気に留めていないどころか、むしろいいモノが見られたとばかりに艶々とした笑みを見せてくる。 「あはは、すっごく可愛かったですよね〜?参拝者の皆さんもみんな笑顔でしたし」 「見てたのか……まぁ、見てたんだろうな……」 むしろ、見に来なかったワケがない。 「んふふふふ〜、皆さんに乗せられて一生懸命舞い踊っていた姿も眼福でしたし。それじゃ、私はそろそろお暇するとしますね」 「え……もう、お帰りになられるんですか?良かったら、今日はうちに泊まっていっていただこうかと思っていたんですが……」 「嬉しいお誘いですけどお邪魔しちゃ悪いですし、少々長居しているうちに空が曇ってきましたから、降り出さないうちに戻るとします」 いずれにせよ、結局聞きたかったのは私の今後についてだったのか、話も一段落したところでハニエルは湯呑を置いて腰を上げ、濁った色の雲に覆われてきた空模様を眺めつつ帰宅を告げてきた。 「あ、そういえば薄暗くなってきてますね……。わたし達も急いで撤収したほうがいいかも」 「……案ずるな。天気予報だと本格的に降ってくるのは夕方からだ」 「あらあら、もうすっかり所帯じみてもきてますねぇ、甘菜ルシフェルさん〜?」 「勝手に養子扱いにするな。……ま、基本的にヒマだからな」 だからこそ、いつまでも無為にここへ居座って良いものかという葛藤も無くはないのだが。 「では、何らかの趣味なりお仕事でも見つければいいかもしれませんが、最後に一つだけ」 「ん?」 ともあれ、それから元々自分の住居として作られた社殿入り口の石階段を下りたところで、ハニエルは最後にもう一度こちらを振り返り……。 「……正直言えばですね、ここへ飛ばされた時から、あなたはもう皆が危惧や期待している“魔王”の器なんかじゃなくなっていると思うんですよ、私は」 珍しく、笑みの消えた真面目な眼差しで今まで出てこなかった核心に言及してくる。 「……ならば、何になるべき器だと?」 「んふっ、もう自覚しているんじゃないですか?では、依子さんもまたお会いしましょうね?」 「はっ、はい是非……!今日は本当にありがとうございました……!」 「…………」 そして、最後に駆け寄った依子とがっちり握手を交わした後で、今度こそ軽く手を振りつつ鳥居を潜って立ち去ってゆくハニエルの背中を、私はただ何も言えずに見送っていた。 (ち……) 悪い奴じゃないのは承知の上だが、私は昔からどうにもハニエル……夢叶の奴は苦手だった。 「…………」 ……あいつの前では、まるで全てを見透かされている様な心地になるから。 * 「……わぁ、凄いことになってるなぁ……」 その夜、消灯前に窓を開けて眺めてみた外の光景に、思わず声に出して呟いてしまうわたし。 朔夜さんの予報どおり、神月さん……ハニエル様を見送った後に軽く買い物して帰宅した頃から降り始めた雨は、それから晩御飯を食べたりお風呂に入ったり宿題を片づけたりしつつ、いよいよ眠るだけとなった日付が変わる直前になっても、激しい雨音を立てながら休むことなく降り続いていた。 (んー、朝までに止んでくれてたらいいんだけど……) ホント、祈願会に直撃しなくて助かったと改めて安堵する一方で、明日の登校を考えたら眠る前から憂鬱な気分にさせられてしまいそうである。 「……はぁ……」 ともあれ、お母さんが亡くなってお父さんが単身赴任で一人暮らしの状態になってから特に、激しい雨の夜は苦手だった。 単に心細いのもあるけれど、とても外へは出られそうもない有り様な雨の帳を見れば、なんだかここへ閉じ込められてしまったみたいで、ますます孤独感が強くなってきてしまうから。 「…………」 しかも、朔夜さんを連れて行こうとした人たちの襲撃に遭った後だから、余計に視界の先が見えないのは得も知れない不安と恐さが心を圧迫してくるというか……。 「…………」 「…………」 (まだ起きてるかな、朔夜さん……?) わたしにとっては幸か不幸か、朔夜さんを神様デビューさせた目論見が上手くいき過ぎて、もう当面は裸で抱き合う必要はなくなってしまったみたいなんだけど……。 「……で、今夜は一緒に眠りたい、と」 「あはは、ちょっと昨日今日で色々ありすぎまして……」 「まぁ、私は別に構わないが……」 その後、しばらくしてマイ枕を手に部屋を訪ねていったわたしに、寝巻き姿で敷布団の上に寝転がりながら貸してあげた漫画を読んでいた朔夜さんは、じと目を向けつつも本を閉じて上体を起こしてきた。 「すみません……この雨の中にひとりで部屋にいると、なんだか無性に落ち着かなくて……」 「まったく……自分を脅(おびや)かす“敵”と遭遇して恐怖が沸いてきたんだろう。だから忠告してやっていたというのに……ほら?」 「……うう、ごめんなさい。おじゃまします……」 そして、苦笑い交じりに理由を告白するわたしへ、朔夜さんは全て見透かした様子で諭しつつ、寝床を半分開けて招き入れてくれた。 「まぁいい。悪いのはゼフエルの奴だ。……私のチカラがもっと戻っていたのなら、ハニエルの手を借りずとも八つ裂きにしてやっていたんだがな……」 「いえまぁ、さすがにそこまでしてくれなくても……。それと、こんな気分にさせられているのは多分その人だけじゃなくて……」 「残りの原因は、ミカエルに言われたコトを引きずっているといった所か。最上位の天使ともあろう者が普通の人間に脅しをかけるなど、天使裁判ものだぞあの馬鹿……」 「あはは……よく分からないですけど、なんだか救われます……」 それから、好意に甘えて同衾するわたしを優しく受け入れつつ悪態をついてくれる朔夜さんの体温はとても暖かくて……。 「…………」 「……でも、結局ミカエルさんとのコトは本当なんですか?」 ただ、それでも朔夜さんの口から出てきたミカエルさんの名を聞いて、あれからずっと掘り下げたかったけれど聞けなかったコトを、このタイミングで思い切って切り出してみるわたし。 「ん?何がだ?」 「いえ、ハニエル様が言っていた元カノってお話は……」 実は、ミカエルさんに関してわたしを一番落ち着かせなくしているのは、むしろこのコトかもしれなかった。 「……前にも言ったと思うが、天使というのは、神への絶対忠誠と引き換えに神霊力を賜って様々な恩恵や能力(チカラ)を得ている存在故に、唯一神以上に特定の誰かを敬愛してはならない。今はある程度までは緩和されてきているが、最初期より定められた天使の原則だ」 すると、朔夜さんの口からは、確かにいつぞやに聞いた気がする肯定でも否定でもないお堅い答えが返ってきてしまった。 「当然、これを破れば神への叛逆者として極刑も有りうる。……実際、ハニエルの先代が堕天使となった罪状とは、自分の司る“愛”とやらを知る為に自分で体験する方法を選び、結果一人の人間を神以上に大切な存在だと認めてしまったことだしな」 「…………っ」 「だから、当代のハニエル……神月夢叶は同じ轍を踏まない様に人間同士の縁を結び、彼らを見守ることで学ばせて貰おうとした訳だ」 「うーん、やっぱり厳しいんですね……天使様の世界って……」 イメージ的にはいわゆる「天国」と混同しそうだけど、誰かを好きになるコトが罪な世界とは。 「総勢二億を超える天使軍の秩序を保つ上で必要な線引きだろうから、私自身はそれに疑問を抱いた事は無いがな。……しかし、確かにミカエルの奴は下級天使として燻っていた時に私が見い出した腹心の一人で、懐刀としてエデンの塔中枢で裏切られるまで行動を共にしてきてはいたが、ハニエルの奴からそういう目で見られていたとは……」 「ミカエルさんの方はどうだったんです?」 「だから、私が知る訳ないだろう?一応、思い返せば特に必要もない時だろうが何かと付きまとって来られていた気もするが、堅物で融通の利かない頑固な天使で通っていたあいつがその原則を忘れたとは思えないしなぁ」 「えっと、それは……あはははは……」 なんだか、それはそれでミカエルさんには同情を禁じえなくなりそうだけど……。 「ん?」 「……いえ。でも、今の朔夜さんはそういうルールに縛られる必要は無いんですよね?」 「まぁな……。しかし、だからと言って私自身が元々興味がある方でもないのだが」 「え〜……試しに恋してみましょうよぉ?神月さんも色々見えてくるかもって言ってましたし」 「正直、何やら厄介なモノを背負ってしまう予感しかしないんだが……」 「ふふ……でも案外それが足りないものだったりするのかもしれませんよ?今は時間もあることですし」 「……そうだとしたら、とんだお笑い草だな。ま、確かにこの機会に様々な経験を積んでおくのも悪くないかもしれないが……」 「んじゃ、考えておいてくださいね……」 ただ、そうなればそうなったでわたしも落ち着かない日々になりそうだけど……。 「……だがな、既に一つ屋根の下で暮らしていて、こうして同衾までしているのに、今更何か変化があるとでもいうのか?」 「へ……?あ……そ、そうかもしれないです、けど……」 しかし、そんな芽生えた不安も、朔夜さんからの不意打ちで一瞬に打ち砕かれてしまった。 「どうした?体温が上がっているが蒸し暑くなってきたか?」 「い、いえ……」 まったく、この人はまったくもう……。 「とにかく、そろそろお喋りもやめて休んだ方がいいんじゃないか?明日は学校だろう」 「ええ、一緒のお布団でお喋りしながらあったまっているうちに何だか安心して眠くなってきました……おやすみなさい……」 こうやって朔夜さんを抱き枕にしていれば、いい夢だって見られそうである。 「…………」 けど……。 「ああ、疲労も溜まっている筈だしゆっくり眠れ。明日の朝は、たまには私から起こしてやろう」 「えへへへ……」 ……やっぱり、貴女は縁結びの神様の贈り物だったんだなって。 次のページへ 前のページへ 戻る |