知な堕天使(ルシフェル)さんは一途で積極的な巫女さんに篭絡される その8

終章 天使の舞い降りる街

 人間界での天使は現実感の薄い曖昧な存在かもしれないけれど、それでも古来より人間とのお付き合いの歴史は長く、実際に交流した記録や想像の中の産物も含めて、世界各地の様々な形でその足跡も残されている。
 というのも、天界に君臨し続ける唯一神が神霊の輝きを維持・増幅してゆく為には、天界の民だけでなく、姉妹世界とも言える人間界に住む人々からの信仰心も欠かせないものであり、それ故に“主”は自分の手足である天使を数多く世界各地へ派遣し、恩恵を齎してきた。
 ……ただし、天使達の秘める超常的な能力(チカラ)は人間の世界の安寧を乱しかねない為に、干渉範囲は慎重かつ限定されてきたものの、その中で主となった恩恵活動が“守護天使”である。
 守護天使ミッションとは、天界から降り立った天使が対象となる人間を一人選び、契約した後にその人が秘める可能性未来から最も幸せな道を歩めるように見守りつつ加護を与えるというもので、かつては駆け出し天使の初仕事の代名詞となっていたものの、現在はこの任務に就くのは極めて限られた者だけに留まってしまい、風化の一途を辿っている。
 もう既に人間界での信仰心集めも長い年月を経て安定期に入り、強いて続ける必要性が薄れてきたのもあるし、天使達の価値観も変わって志願者が激減している事情があるとしても、天使軍が敢えて推奨しなくなってしまったのは、私の先代が“愛”というものを体験してみたいと始めた結果、「天使は“主”以上に特定の誰かを敬愛してはならない」という原則を踏み越えて守護対象者を最も大切な存在と認め、挙句に叛逆罪を適用されて魔界へ追放されてしまった出来事があって以降だろうか。
「…………」
 勿論、こういうケース自体は過去にも稀には発生していたものの、“主”の分霊まで受けた懐刀である七大天使の一角までもがというのは、天界全土に大きな衝撃を与えてしまった。
 ……とまぁ、そんな経緯もあって、後任となった私は自ら試してみる行為は避けてきたものの、どうやら天使と人間は惹かれ合い易い傾向があるみたいで、今回の一連も特殊なケースとはいえ、また一つそれを証明して見せた事案として語り継がれてゆくのかもしれない。
(……けど……)
「…………」
「……ハニエルさん、お呼びにより参じましたが、いきなり入って来て宜しかったのですか?」
「ええ、どうせ居るのは私一人だけですし。ようこそですよ、ミカエルちゃん?」
 それから、がらんとした広い部屋で青空ばかりが広がる外の風景を眺めつつ物思いに耽っていた中で、開けっ放しにしておいた部屋のドアが軽くノックされた音が聞こえて振り返ると、慇懃で身なりを完璧に整えた長身の天使が入って来て、私も笑みを浮かべて出迎える。
 相変わらず堅苦しさ満点な風貌ながら、ただ暫く見ないうちに以前の様な刺々しい覇気はすっかりと影を潜めてしまっているみたいだった。
「どうも。……それにしても、ひとの事は言えませんけど勿体ないといえば勿体ないですよね?こんな広い居住区に一人とは」
「……あはは、お互い独り身ですからねぇ。まぁそんな訳ですから気兼ねなく掛けて下さいな」
 正直、最近は色々と思う所も芽生えてきたものの、まずは後始末のお仕事からである。
「……それにしても、熾天使(セラフィム)ともあろう者がとんだ勇み足でしたね、ミカエルちゃん?」
「本来は貴女に言われる筋合いもないのですが……まぁ申し訳ありませんでした……」
 ともあれ、人間界での堕天使ルシフェルを巡っての騒動から一月ほどが経過し、今後の話も纏ってきた頃合に謹慎状態となっていた当事者をエデンの塔内にある自室へ呼び出した私が、本題に入る前にまずは少しばかり嫌味っぽく切り出すと、天使軍の長は釈然としない表情を浮かべながらも素直に頭を下げてきた。
「確かに、先代ハニエルがあちらの切り札として動いたと聞いて、安全策の為にルシフェルの回収指示は出ましたが、その脅威が去った後のあなたの行動は明らかな超越行為というもの」
「…………」
「……ましてや、その際に制止に入った現地の住人にすら刃を向けて、もしも依子ちゃんに間違いが起こっていれば、今頃あなたも堕天使の仲間入りとなる所でしたよ?」
 結局、あの夜は静観を決め込むつもりだったのがミカエルちゃんの暴走を看破出来ずに私が強制介入し、無残に斬られてエレメント状態に戻されたルシフェルと、それを見たショックで気を失ってしまった依子ちゃんを保護して家まで送り届けて事なきを得たものの、もしも凶刃に掛かってしまったのが逆だったらと思うと、今でもぞっとさせられてしまう訳で。
「……まぁ正直、今はそれでも良かったかなと思わないでもないですが」
「もう、ルシフェルの叛乱以降はただでさえ人材不足な上に、ミカエルちゃんみたいな逸材はそうそういないんですから、この期に及んで感化されては困るんですけど……」
「褒められている気はしませんね。……結局、この熾天使(セラフィム)の地位と引き換えに私は汚れ役ばかり背負わされていますし……はぁ」
「あはは、確かに他の誰より慕っていた相手を二度も手にかける羽目となりましたしね。しかも、ルシフェルちゃんの方は人間界で出逢った新しいお相手にすっかり夢中でしたし、まぁミカエルちゃんが頭にきてしまったのも分からなくもないんですけど」
「笑い事じゃないですし、天使軍の元帥を捕まえて痴情の縺れみたいに言われるのも心外です。……ただ、もしも彼女が私の前に立ち塞がって来なければ危害を加える気など無かった事は釈明させてもらいますが」
「まぁ、それが人間の強さと危なっかしさというものですから。守ってあげているつもりが実は護られている事に気付いた時に天使は強く心惹かれ……時には間違いを起こしてしまう。私の先代の様にね」
「……確かに、あの元熾天使のルシフェルを自分のものだ、なんて言えるのは天界や魔界ではちょっと居ないでしょうから。それで、結局私の処遇はどうなるんですか?」
「んー、まぁ処遇といっても、今回のルシフェル監視の任を解くというだけなんですけどね」
 ともあれ、自虐気味に肩をすくめた後で、もうこの話はよしてほしいと言わんばかりに本題へ戻るミカエルちゃんへ、素っ気無く応じてやる私。
「それだけ、ですか?」
「しかも、ミッションそのものが消滅した為なので解任という意味ではないですし、間もなく謹慎も解かれますので、休んでいた分までしっかりと働かされる覚悟はしておいてくださいね?」
「頭の痛い話ですが、実質はお咎めなしと。……天使軍の規則ってそんな緩かったでしたっけ?」
「……まぁ正直、愛を司る天使としては、あなたを悪者にしてしまうのはどうにも忍びないですしね?なので結果良ければというコトで私が強引に審議を通しました」
 私はいつでも恋する乙女の味方だけど、このミカエルちゃんだって確かにその一人だったのだから。
「それは、“主”の分霊を受けた者が、とんだ不良娘もいたものですね?」
「んふふー。それに暴走した誰かさんのお陰で、頭を痛めていたルシフェルちゃんの処遇もいい感じのトコロへ収まりそうですし」
 正直、それだけでも揉み消してあげる価値はあるというものである。
「……やっぱり、貴女のコトは好きになれないですね。常に太陽みたいに笑うその裏では、一体何を企んでいるのやら……」
「え〜、腹黒なイメージはやめてくださいよぉ。これでも私の行動様式は極めてシンプルなんですから」
 一応、謹慎を受けたミカエルちゃんより自分の方が独断専行しまくっている自覚はあるとしても、天使として曲がった道だけは歩んでいませんから。
「いずれにせよ、私は寛大な措置に渋々ながらも感謝するしかないんですが……あともう一つだけ訊ねてもいいですか?」
 すると、ミカエルちゃんはそんな私に溜息交じりで腹黒疑惑は取り消さないまま謝辞を述べた後で、面談の前に出してあげていたティーカップをようやく手に取って話を続けてくる。
「なにか?」
「……結局、今回の件に貴女があれ程に首を突っ込んできた真相は何だったのですか?お陰で大番狂わせになりましたが、何らかの勅命を受けていたというわけでもないのでしょう?」
「あれ、前に言いませんでしたっけ?この御影神社で元天使と、天使に憧れる巫女さんとで素敵な出逢いが生まれたんですから、私としては応援してあげずにはいられませんよねぇ?って」
「それは聞きましたけど……本当にそれが全てだったのかと」
「勿論そうですよ?……ただ一つだけ補足するなら、遠い昔の約束もあったから、ですが」
 本当は、自分の胸にだけ仕舞っておきたかったことながら、ミカエルちゃんの足も引っ張ったことだしと、視線を窓の外へ向けつつ言葉を続ける私。
「それは確かに初耳ですが……もしかして人間界に居た頃の?」
「ええ。……実はですね、遥か昔に私も人間の方に求愛されたことがありまして。その相手は現地での任務中にずっと身の回りの世話をしてくださっていた方だったんですけど」
「……ただ、帰還の時期がもう近かったのと、先代の末路を見た直後というのもあって、結局はお断りしてしまったんですが、代わりにその方への感謝の印も込めて一つ個人的なお約束を申し出たんです。私が天に帰った後も、貴女や子孫の方々が素敵な出逢いを見つけた際は、きっと上手くいくように加護を与えましょうって」
「その相手というのは、もしや……」
「ええ、依子ちゃんのご先祖様になります。……ですから、正式な契約こそ交わしていませんが、私は甘菜家の守護天使みたいなものかもしれませんね」
 実際に、これまでもお節介はちょくちょくと焼いてきていて、依子ちゃんのご両親の縁結びもこっそりとお手伝いしていたのは内緒だけれど。
「成る程……戦闘実績が殆ど無い温厚派で知られた貴女が、ゼフエル来襲の際は珍しく自ら弓を引いていたのにそれで合点がいきました。私の部下も助けて頂きましたし」
「いえいえ〜。……しかし、元々天使と関わりあっていた一族とはいえ、まさか人間と堕天使の恋をサポートする形になるなんて、やっぱり縁があるんですかね?んふふ♪」
「やれやれ、人の気も知らないで楽しそうですね……?先代さんと違ってよっぽど天職みたいで何よりです」
「んー、でも……」
 実は、ここ最近はそうでも無くなってきているんだけど……。
「でも?」
「いえいえ、お褒めに預かり光栄ですよ♪あはは」
 それでも、とりあえずはミカエルちゃんからの皮肉めいたお返しに笑ってみせる私。
「……?あと、そういえば貴女が回収したルシフェル様は今は何処に?」
「さて、今頃はそう遠くない場所にいると思うんですけど……」
「え……?」

                    *

「……しかし、また再びここへ足を踏み入れる時が来るとはな。奇跡とは案外起こるものだ」
「あたしも、まさかアンタを招き入れることになるなんて思わなかったわよ」
 やがて、依子を庇ってミカエルにバッサリとやられた後でハニエルに回収されたあの夜からようやく再び姿を取り戻せた私は、何故やらエデンの塔一階中央に造られた大聖堂(カテドラル)に呼ばれ、無数に描かれた天井の天使の絵の下で、見た目だけは可愛らしい手乗りサイズの天使と妖精が混じった様な姿をした此処の主と、厳めしい顔つきの天使らしからぬ漆黒のローブに身を包んだ古老に、今ではむしろ馴染み深さを感じる、蒼と白で縞になった揃いのパーカーとミニスカートというラフな風貌のハニエルよりも若い娘というアンバランスな組み合わせの、それぞれ死と智を司る七大天使の一角達に囲まれていた。
「まったくじゃ。もう二度と見たくはない顔であったが、“主”の御意ならば止むをえまい」
「んー、あたしは何となくそんな予感はしていただわさ。……というか、こんな始末に困る天使を生んでしまった自体が罪と言えば罪だから、まあ仕方がないだわさな」
「……いきなり言われたい放題だが、では一体どういう風の吹き回しなんだ?エルよ」
 ちなみに、目の前の祭壇の上でふんぞり返りながら浮いている、態度だけは誰よりも尊大な“エル”と呼ばれる荘厳な大聖堂の番人は、神霊のカケラで作られた唯一神の分身の一つで、謂わば私の姉妹の様な存在である。
「どういう風の吹き回しも何も、“ココ”の主たる役割くらいはアンタも覚えてるでしょ?」
 ともあれ、長話になっても過去を蒸し返され一方的に詰られ続けるのは見え透いているので、サリエルやザフキエル達からの雑音は受け流して素っ気なく本題に入る私に、エルも同じ様につれない口ぶりでさらりと告げてくる。
「…………」
「ふむ。一つは、めでたく天使養成学校(エンジェリウム)を卒業できた候補生や、昇格が認められた者が“主”への絶対忠誠を誓い翼が授けられる任命式の場だわさな。そして……」
「……もう一つは、人間界で天使向きの素質が認められた逸材が死後に魂を呼び寄せられ、このあたし直々にスカウトされる“始まりの場所”、ね」
「つまり、この私は後者の方の該当者になったという訳か?……何やら妙な話だな」
 一応、理屈の上では堕天使である今の私は、天界の住人には当たらないのだろうが……。
「不本意ながら、致し方がないだわさな。甲斐甲斐しく面倒を見てくれていた現地の少女がミカエルに斬られそうになった際に、あんたはこれ以上ない献身的行為を見せたのだわさ。あのまま黙って見ていれば独断で暴走したミカエルは大罪人となって天罰が下り、あんた自身は放免となったろうに、天界へ回収され封印されるのも覚悟で助けたってコトだわさ?」
「……別に、あれは咄嗟に身体が動いてしまっただけで、そこまで考えての行動じゃないぞ?」
 本当に、あの時はただ依子を死なせたくなかった一心で、未練は残ろうが後悔など微塵もしていないし、そうやって勝手に評価されるのも心外だった。
「だーかーら、“それ”こそがこの場へ引っ張り上げる価値のある天使の素質だと言ってんの。昔のアンタは知らなかったでしょーけど」
「……つまり、この私を再び天使に復帰させるというのか?」
 それは、思ってもみなかった光明だったものの……。
「ただし、最下級の下級第三位(エンジェル)からだけどね?」
「う……」
 しかし、エルから続けて突きつけられたのは残酷な通告だった。
「ミカエル達だけでなく、昔は歯牙にもかけていなかった連中にも嘲笑われ、当分はアゴで使われるコトになるでしょーけど、その覚悟があるのなら、ね?」
「それは、ある意味私の新しい贖罪も兼ねているのか?もし断れば?」
「ま、我が手によって此の塔の地下深くで無期限の封印じゃろうな。堕天使のまま人間界へ戻せばまた魔界の連中が動き出すやもしれぬし、禍(わざわい)のタネにしかならぬであろうからのう」
「……結局、選択肢なんて無いんじゃないか。まぁ、らしいといえばらしい手口だがな」
「能書きはいいから、さっさと返事。悩む時間すら無駄というものでしょう?」
「分かった……。こうなれば謹んで受け入れる所存だが、ただ一つだけ頼みがある」
「ああ、皆まで言わなくていいわ。後始末はハニエルが上手くやってるハズだから」
 ともあれ、大人しく観念する事にした私は、本来はそんな権利など無いのを承知の上でせめてもの条件を引き出そうとしたものの、エルはそれを遮って通告してくる。
「なに……?」
「とにかく、今回の件はあのコに任せてあるんだから、気になるなら説明を受けなさいな」
 そして、自分と同じ唯一神の分身は一方的にそう続けると、「さぁもう行った、行った」と私を追い払いにかけてきた。
「…………」

                    *

「……んふふ、いらっしゃいルシフェルちゃん。ここへ来たという事は、もうお話は決まったんですよね?」
「ああ……。今更一兵卒落ちとは、魔界追放よりも遥かに辛い針の筵かもしれないがな」
 やがて、大聖堂(カテドラル)を追い出された後で塔内にある次の目的地を訪ねると、上層にある自分の居住区で待っていたらしいハニエルの訳知り顔での出迎えを受け、肩を竦めながら頷く私。
 これで熾天使(セラフィム)の翼も一旦取り上げられて最底辺のものに付け替えとなるので、これから本当に一からの出直しになりそうである。
「まぁ、全ては自業自得ですから」
 すると、そんな私へ何故だか同室していたミカエルが横から短く口を挟んでくると、後は何も言わないで静かに席を立った。
「……そうだな。とりあえず、“三度目”は無いのを祈っているさ」
「私もそう願っています。決して気分のいいものじゃありませんから。……では」
 そして、今や雲の上の存在となってしまったかつての腹心へ、名残を惜しむ様に皮肉めいたやり返しをした私に、ミカエルの方も神妙な顔で受け止めると、後は別れの挨拶もそこそこに立ち去って行ってしまった。
「ミカエル……」
「あれでミカエルちゃんもつらいんですから、ちゃんと感謝しなきゃダメですよ?」
「分かってる……危うく堕天使仲間に引きずり込む所だったしな」
 まさか、常に沈着で冷徹だったミカエルがあんな暴走をするとは驚いたが。
「ホント、罪作りな存在なんですから、ルシフェルちゃんは……。とまぁ、それはそれとして、改めて天使復帰おめでとうございます♪」
「ああ。……だがお前さんに祝われても、素直に喜んでいいのかはフクザツだが」
 ともあれ、理不尽なお小言の後で改めて祝辞を向けられ、苦笑いでそれを受け止める私。
 無論、嬉しさを感じていない訳はないし、このハニエルのお陰だという事実も重々承知はしているのだが……。
「もう、みんなして私を腹黒天使にしようとする……」
「事実じゃないのか?……というか、結局何処までが掌の上だったのやら」
「もちろん、最初からここまでの道筋を描いていたわけじゃないですよ?ただ元々、あの熾天使ルシフェルをあのまま魔界へ追放するのも、人間界へ飛ばして干上がらせるのも、正直どちらも良いやり方とは思えなかった中で、その後あなたが御影神社へ墜とされてそこの宮司の娘さんに引き取られたと聞き、ああこれは天啓が降りたのかなと」
「結局、殆ど最初からなんじゃないか……」
「けれど、この結末に行きついたのはあくまであなた自身の意志の結果ですよね?依子ちゃんと出逢ってガラにもなく心惹かれてしまったコトまで、私のせいにするつもりですか?」
「……柄にもなくて悪かったな。だが、それ故に私はこれでめでたしとはいかないんだ」
 そう、天使への復帰はずっと心の片隅に潜ませ続けていた宿願だったが、今はそれが叶った喜び以上に、離れ離れになった依子の事が気になって落ち着かない。
「依子ちゃんのことなら、あれから私が責任をもって心身ともにほぼ元通りにしましたから心配はいりませんよ?」
 すると、逸る気持ちを抑えきれず本題へ入る私に、ハニエルは素っ気なく告げてくる。
「ほぼ……?」
「ええ、十六夜鞘華から受けた傷に関しては依子ちゃんが気を失っていた間に、あなたの治癒術を引き継いで傷跡も一切残さずに完治させました。ただ、問題は心の傷の方でして……」
「前振りはいいから、結果を教えてくれ……依子は今どうしているんだ」
「まぁ、普通に平穏な日常生活を送っていると思いますよ?……ほら」
 それから、急かす私にハニエルは机の上に置かれていた大きな水晶玉の元へと招き、その中へ久方ぶりとなる依子の姿を映し出してきた。
「依子……!」
 どうやら、今は明かりの点いた見慣れた家の居間で、部屋着の依子がいつもの丸テーブルの前に一人分の食事を並べて座り、テレビからの映像に時おり笑い声をあげながらゆっくりと食べ進めているみたいだった。
「…………」
 ほんの少し前までは依子の対面には私が座っていて、あの丸テーブルも二人での食事には手狭だから一緒に新しいのを買いに行く話も出ていたのだが、今の独りでの食事にはむしろ広すぎる様にも見える。
「少しばかり経過観察の必要があるので、失礼ながらこうやって時々覗かせてもらっているんですけど、特に問題も無くあなたと出逢う前の状態で日々過ごせているみたいですよ?」
「……私と出逢う前、だと……。つまり、記憶を操作したのか……」
「私も不本意でしたけど、やむを得ない措置です。エレメント状態から蘇らせる程に慕っていた彼女ですし、目の前で気を失うほどの惨劇を見せられ、その後に貴女との想い出を残したまま独りでの生活に戻されたところで、再び幸せな日常が戻るとは思えませんでしたから」
 そして、「そもそも、回収されたあなた自身が再び堕天使のままあの街へ解き放たれる可能性もありませんでしたし」と付け加えるハニエル。
「……まぁ、そう言われてしまえば何も言い返せないが、しかし強引な手を使ったものだな」
 一応、派遣された天使が人間界で不祥事を起こした際に、関わった現地の人間の記憶を操作して揉み消してしまうのは、昔からの天使軍の常套手段でマニュアルも確立しているのだが。
「いや、ホント大変でしたよぉ……。何せあなたは依子さんだけでなく、あの街ではちょっとした有名人になっていましたから、記憶を操作する対象がとにかく広かったですし」
「逆に、短期間でよく出来たな、それ……。骨子は一晩のうちに纏めたんだろう?」
「ただ、そのきっかけは私に成り代わって天津縁比売命を演じた事だったので、方向付けは楽でしたけどね〜。今度は逆にあなたと私を入れ替えればいいだけですから」
「ああ、そういう事か……」
 確かに、借りていたものを返しただけと言われれば、それまでなのかもしれないが……。
「依子ちゃんに関しても、あの夜に出逢ったのは堕天使ルシフェルではなく、代々御影神社に奉られていた私が久しぶりに人間界の様子を見に降りて来て、暫く一緒に過ごしながら祈願会を盛況させ、バレンタインデーを見届けた後に再び還って行ったという筋書きで改変しています」
「…………」
「元々、依子ちゃんは天よりの使いの伝説に強い憧れを抱いていたみたいですし、実際にお会いした時もすごく好意的に接して下さっていましたから、お陰で短い間でも綺麗に纏める事が出来ましたよ〜♪……疲れましたけど」
「それは私からもお疲れさん、と言うべきなのか……」
 おそらく、熾天使(セラフィム)時代の私ならその手際を褒めていたんだろうが、今はどうにも素直に言えない自分がいる。
「…………」
 ……いや、それどころか、全てが綺麗に収まった筈なのに焦燥すら感じているという。
「あと、認識阻害のお陰で貴女の写真などが一切残っていないのも重畳でしたが、アフターケアでヴァーチェちゃんにお手伝いしてもらっているのも助かってますね〜。彼女は元々ミカエルちゃんの部下ですけど、堕天使に敗れて降格しかけたところを私の口添えで免れたのもあり、今はちょっとばかりお借りしてまして。んふふっ」
「……あいつも、案外貧乏くじな運命を負わされているみたいだな」
 そういえば、もうそんな奴ですら今や遥か彼方の上官になってしまったんだっけか。
 ただ……。
「そんな訳ですから、もうあなたは余計な心配など引きずらずに、二周目の天使人生を思う存分駆け上がってくれて構いませんよ?翼は最下級に戻ろうが魂はルシフェルのままですから、貴女ならすぐに相応しい地位へと返り咲けるはず」
「…………」
 自惚れかもしれないが、まぁおそらくそうなんだろう。
 神のスペアとして創られた私ならば、少しの間だけ屈辱に甘んじてさえいれば上級天使への最速昇格とて夢ではないはず。
「…………」
 しかし、今の私の夢と言うのなら……。
「……なぁハニエル、いや夢叶。言える立場で無いのは承知の上だが、一つ頼みがある」
 それから、本来はこれでハニエルからの激励を受けて退室する頃合いなのだろうが、やがて食事も終わって億劫な様子で片付けに入る依子の後ろ姿を水晶玉越しに眺めつつ、大聖堂(カテドラル)で言い出せなかった頼みを切り出す私。
「……はい?なんですか突然に」
「もしも可能なら、その二週目とやらの初仕事に守護天使をさせてくれないだろうか」
 そして、この天界で夢叶の名を呼ばれて虚を突かれた顔を見せてくる腐れ縁の大天使へ、私は控えめな口ぶりで申告した。
「……あら、そう来ましたか。もしかして、愛する人を取られたと嫉妬でもしてしまいました?」
「神の膝元で問題発言の安売りはやめろ。……ただ、やっぱりあいつには守護天使が必要なんじゃないかと思ってな」
 確かに、見る限りではしっかりやれている様だし、元々一人じゃ何も出来ない奴でもない。
 ……ただ、寂しい思いをしていないかは別の話である。
「ほほう……でも、いいんですか?守護天使として対象者を見守り続けるというのであれば、その間は下級第三位のままですけど」
「構わん。もう地位など関心の外だ」
 とりあえず、依子のささやかな助けになってやれて、いつか約束した空の散歩に連れて行ける程度のチカラさえあれば充分である。
「それに、記憶操作の後ですから、舞い戻ったところで今まで通りとはいきませんよ?もしかしたら、今度は拒まれてしまうかもしれませんけど、その覚悟はありますか?」
「……う……」
 正直、そちらについての覚悟はいささか自信が無いのだが……。
「これまで依子ちゃんが貴女に注いでいた愛情は私の方に流れている状態ですし、やっぱりハニエル様の方がいいって言われても恨まないで下さいよ?」
「ふん、元々あいつに無理やり連れ帰られて始まった縁だ。今度はこちらから扉を開けてやるさ」
「なるほど〜。まぁ、そうこなくっちゃすべて台無しで私も困るんですけどね。あはは♪」
 それでも、あいつとの日々を思い浮かべつつ不退転の意思を込めて頷いた私に、ハニエルは試すような態度から一転して、心底嬉しそうな笑みを見せながら背中を叩いてくる。
「では、了承ってコトでいいんだな?」
「もっちろん♪本来は守護天使の派遣先や守護対象の候補者選びは天使軍主導で運を天に任せるしかないんですけど、古の約束により一連の締めくくりの仕事として、また自らの宿命に従い、特別にこの私が縁を結びましょう」
「?なんだか知らないが、まぁ宜しく頼む……ああそれと、最後に一つだけ」
 ともあれ、話が纏ったならと、何やら両手に力を込めて意気込むハニエルへ向けて私は素直に頭を下げた後で……。
「まだ何か?」
「いや、これで私へのお節介が一区切りなら、そろそろ自身でも試してみてはどうだ?」
「…………っ」
 以前からずっと不意打ちの機会を狙っていた台詞をここぞで投げかけてやると、ハニエルの奴は目を見開いて言葉を詰まらせてしまった。
「ま、自信が無いなら無理にとは言わんが」
「……考えておきましょう。というか、貴女も最後の最後に一太刀来ましたね……」
「ふっ……やられっ放しは性に合わんからな」
 ……勿論、お前についてもだぞ、依子?

                    *

「……ふぅ、もうすっかり暖かくなってきたよね……」
 三月も半ばが過ぎ、冬の冷え込みと春の陽気が同居する中で、今年一番の温暖な日となった日曜の昼下がり、わたしはいつもの様に静謐な空気に包まれた御影神社の境内を竹箒で掃除しつつ、誰にともなく呟いていた。
 ついこの間までは冷たい風に身を震わせつつ、かじかむ手に息を吹きかけながら掃き掃除していたのに、今日は逆に汗が滲んで蒸し暑さすら感じるくらいで、いよいよ季節の変わり目を感じずにはいられないんだけど……。
(ん〜、結局ホワイトデーは来てくれなかったな……)
 今年は四百年ぶりに神月さん……天津縁比売命が降臨して下さったのもあって、二月の祈願会は例年にない大盛況となり、よければホワイトデー前にもう一度やろうかという話も出ていたものの、結局はバレンタインデー当日に再び天へと還っていってしまい、それから今日まで姿を見せてくれていない。
(せっかく、手作りのチョコレートだって用意してたのに渡しそびれちゃったし……)
 朝のうちに渡さなかった自分が悪いのかもしれないけれど、結局神月さんは予告もなしでわたしが学校へ行っている間に書き置きを残して去ってしまっていたので、人生初の手作りチョコは空振りとなってしまった。
「…………」
(……でもそういえば、なんか妙だったんだっけ?)
 ただ不思議だったのは、渡す機会が無くなったのを知らされた後で、せめて自分で食べようと再び開封してみると、中に入っていたハート型の大きな板チョコの上に「さくやさんへ愛を込めて」という英文がデコレーションされていたということ。
(結局、さくやさんって誰だったんだろう……?)
 神月さんは夢叶さんだし、そんな名前の知り合いもいないしで、しばらくは頭の中がはてなマークで埋まったものの、ただそれでも暗いうちから無理に早起きして途中で居眠りして焦がしてしまったりしつつ意識が曖昧な中で作っていたから、おそらく寝ぼけて間違えたんだろうとあまり気にしないことにしたんだけど……。
(……でも、どうやらそうじゃないっぽいんだよね……)
 だけど、つい先日に再びその名を思い起こさせる出来事があって、ホワイトデーの日に郵便ポストへ市内の百貨店の地下にある有名店のチョコアソートが入った手提げ袋が差出人不明で投函されていたのを見つけ、同封されていたメッセージカードには、「さくやよりよりこへ心を込めて」と手書きの英文が記されていたという。
「…………」
 つまり、さくやさんって人はやっぱりどこかにいて、もしかしたら親しい間柄だったのかもしれないけれど、不思議なことにわたしの記憶からは綺麗さっぱりと消え落ちていて、どんなに思い出そうとしても浮かんで来なかった。
「……う〜ん……」
 とまぁ、そんなこんなで思い出せないなら仕方がないと、また一旦は思い出すのを諦めかけてはいたものの、ここ最近はこうして時おり頭に浮かんではまた気になってきての繰り返しだったりして……。
「…………」
「……さくやさん、か……」
「呼んだか?」
「え……?」
 しかし、それから誰もいない参道を掃きつつぽつりと呟いたところで、背後の方から不意に返事が戻ってきたのを受けて振り返ると……。
「…………っ」
 いつの間にやら、社殿の屋根の隅に、純白の綺麗な翼を背に纏った可愛らしい女の子が腰掛けているのに気付く。
「え、え……?」
「…………」
「あ、あの……」
 すぐに、「本物?」と確認したくなったものの、おそらく間違いない。
 数こそ二枚だけだけど、昼間なのに白銀色に眩く輝くあの神々しい翼は神月さん……ハニエル様が纏っていたものとそっくりで、頭の上には半透明の綺麗な輪っかが見えるということは、つまり……。
「……もしかして、貴女も天よりの使い、なのですか?」
「ああ。元々ここで奉られていた奴とはまた違う者だが……」
 そこで、見上げたまま恐る恐る訊ねてみるわたしに、翼を纏った銀色の髪の女の子は素っ気無い態度で頷き……。
「わ……?!」
「……それでも、君に会いたくてここへ降りて来たんだ」
 ふわりと二枚の翼を翻してわたしの眼前へ静かに降り立つと、今度は穏やかな微笑を浮かべてそう告げてきた。
「わたし、に……?」
 しかも、何だかこの人には見覚えがあるような……。
「ああ、正しくは君の守護天使になる為に、だがな」
「え……守護、天使……?」
「そうだ。……無論、君さえ良ければだが、私はもう他の相手など一切考えられないんだ」
「…………っ」
 よく分からないけど、もしかしていきなり天使様に告られちゃったの、わたし?
「だから……甘菜依子、私からの盟約の指輪をどうか受け取って貰えないだろうか。今度こそ私は君に必要とされる限りその傍らで共に生き、護り続けることを誓う」
 そして、初対面のはずなのに何故だか懐かしさを覚えさせる眼前の天使様は、フルネームでわたしを名指しして告白を続けた後に、震える手で掌に乗せた綺麗な指輪をこちらへ差し出してきた。
「えっと、いきなりそんなコト言われても……」
「…………」
(いや、そっか……もしかしてこの人が……さくやさんなんだ……?)
 特徴的な銀色の綺麗な髪に、それぞれ紅と蒼の宝石のように澄んだ瞳を持つ西洋人形の様な整った顔立ち、そしてどこか放っておけない頼りなさと同時に、素っ気ないながらも何でも受け止めてくれそうな懐の深さも感じさせられる……。
「…………」
「…………っ?!」
 それから、目の前の天使様へ何となく頭の片隅に残っていた名前を当てはめたのをきっかけに、わたしの記憶にかかっていたもやが急速に晴れてきたかと思うと……。
「た、確かに、唐突に言われて面くらってしまうのも当然だろうな。だったら、その……まずは友人からとか順を追ってでもいいのだが……」
(友人……?)
「…………」
 ……ううん、わたしにとってのこの人はそんなのじゃなくて……。
「…………」
「より……」
「……もう、そんな心配そうな顔をしなくたって、わたしが受け取らないわけがないじゃない、ですか」
 やがて、自然に頬も涙腺も緩み始めるのを感じつつ、わたしは両手を伸ばして重ね合わせた。
 だって……。
「…………っ」
「……ああ、そうだな。何せ、まだ果たしていない約束が沢山あるんだからな、依子?」
「えへへ……おかえりなさい、黎明朔夜さん♪」
 わたしの天使さまが、ようやく戻ってきたのだから。

次のページへ  前のページへ  戻る