れるお姫様とエトランジェ Phase-6 その1


眠れるお姫様とエトランジェ Phase-6:『落下流水』

6-0:それは舞い落ちる桜の如く。

「あらら…本当だ…」
「…そんな…」
 校舎の入り口横に貼り出された掲示を見て愕然としながら肩を落とす柚奈の隣で、わたしは突きつけられた現実をぼんやりと受け止めていた。
「…………」
 いつもと変わらぬ日常、そしていつもと変わらぬ校舎に、相変らずの友人達。
 季節が、年度が、学期が、そして学年が変わったとしても、少なくとも卒業まではずっと同じ調子で続いていくと思っていた。
 …そう、ほんの先ほどまでは。
「…………」
「…………」
 しかし、そんな桜の舞う春のある区切りを迎えた日、変化は突然に訪れてきた。
(これは予想外だったなぁ…)
 今になって考えてみれば至極当たり前の事ではあるはずなのに、自分の身体を包む拭い難い違和感。
 …そして、わたしは改めて去年のこの日の出来事がいかに奇跡的な運命の悪戯であったかを思い知らされていた。

6-1:sweet morning2

 ピピピピ
 ピピピピピピ

「…………」
 ベッドの隣から響く冷たい電子音に誘われて、目を開けるより先に意識が呼び覚まされる。
 別段、「けたたましく」と表現する程の音量でも無いのに、その無機質な響きは確かにわたしの脳を無視の出来ないレベルで刺激していた。
「…………」
(う〜っ、もう起きる時間かぁ…)
 とりあえず、腕だけ伸ばしてその発信源を止めると、わたしはそのままうつ伏せになった顔を柔らかい枕へと埋めていく。
(…しかし、起きろと言われてもねぇ…)
 暦の上での季節が春になっているとは言え、まだ朝は肌寒いし、何より睡眠を充分に得られたという満足感が満たされていない。
 一応、意識は夢の中から引き戻されたものの、すぐに暖かいお布団と別れを告げて起き上がれるかと言われると、それはまた別の話である。
「…もう、みゆちゃんったら目覚ましを止めた後で二度寝なんてしたら意味無いってば」
「あ〜?その声は柚奈?何で朝っぱらからここに?」
 そこで、もう少しだけ惰眠を貪ろうと再び目を閉じ始めた所で、足元の方から突然聞こえた柚奈の声にやや驚きながらも、顎だけをやや持ち上げながらぞんさいに返すわたし。
 考えたら、いつの間にかお邪魔して来てるって事自体は別に珍しい話じゃ無いか。
「何でって、今日から学校でしょ?そろそろ起きて着替えないと遅刻しちゃうよ?」
「あー、そーだったわね…」
 そうだった。
 だから、こんなに朝早い時間に目覚ましをセットしていた訳で。
(……でも……)
 まだ眠い。それ位では、わたしの寝惚け眼を覚ますまでには至っていないというか。
 この2週間ほど自堕落な生活を続けた後遺症は、そんなに軽くは無かった。
「起きる?」
「ん〜…あと5分…5分だけ寝かせて…ぐぅ…」
 そんな訳で、そのまま柚奈にお約束の台詞を返した後で、目覚ましを止めた腕を再び暖かいお布団の中へと引っ込めて寝返りをうつわたし。
 …いや、実際にはこんな延長時間を小出しに続けても余計に起きるのが辛くなるだけなのは分かっているのに、それでも起き上がれない。
 起きたくない。
 春眠暁を覚えず。真冬と違って寒くて起きられないって事はないものの、春は春で純粋に眠くて起きるのが億劫になるから厄介である。
(こういうのを、眠り病って言うのかなぁ…?)
 つまり、わたしは眠り姫。
 ああ、なんて甘美な響き。
 眠り姫の宿命に導かれるがまま、このままいつまでも眠っていたい…。
「む〜っっ…もう、ちゃんと起きないと…」
 ふん、どうだって言うのよ。
 眠り姫に起きろだなんて、まったく無粋極まりな……。

 がしっ

(…………っっ??)

 ぶちゅうううううううっっ

 しかし、そんなモノローグが終わらぬうちに突然強引に押さえつけられたかと思うと、そのままわたしの唇は、生暖かくて柔らかい感触に塞がれてしまう。
「○☆△□◇〜っ?!」
 慌てて目を見開いてジタバタもがくものの、もう遅い。しっかりと両手を封じられたわたしは抵抗が出来なかった。
「…ちゅーしちゃうよぉ?」
「してから言うなぁぁぁぁぁっっ!!」
 やがて、息が苦しくなった頃にようやく開放された後で、残った酸素の限りを費やして叫ぶわたし。
 どうやら、運悪く王子様(お姫様兼だけど)が、すぐ側にいたらしい。
「んふふ。それで目は覚めた、みゆちゃん?」
「ええ、ええ…これ以上ないくらいにね」
 その後、ようやく解放した後で満足そうな顔で尋ねてくる柚奈に、わたしは渋々と溜息混じりに身体を起こしながら頭を掻く。
 相変らず、目鼻立ちが整った人懐っこい笑みと、流れる様な黒髪ロングが綺麗に棚引く、人畜無害で完全無欠に近い大和撫子系美少女の姿をしている癖に、その中身は狼そのものだった。
(それに、春だしねぇ…)
 …いや。こいつに限って言えば、季節は関係ないか。
 前は真冬に全裸で潜り込んで来た事もあったっけ?
「良かったぁ〜今日もみゆちゃんのお役に立ったみたいで♪」
「よかないっ!これ以上寝てたら、裸にでもひん剥かれそうだからよ」
「それってつまり、隙あらばひん剥いていいって事?」
 すると、そんな台詞と共に、わたしを見る柚奈の目がきゅぴーんと妖しく光り、更に両手をわきわきと妖しく動き始めた。
「…すんません。わたしの方がぶったるんでました」
 そうでした。こいつの目の前で無防備に眠りこけようとは、平和ボケにも程がある。
(やれやれ、また今日からこんな生活の繰り返しか…)
 再び気が休まらない日々が続くと嘆くべきなのか、適度な緊張感と退屈とは無縁の生活が再開されると喜ぶべきなのかは分からないけど。
「え〜?そういう時は、『出来るもんならやってみなさいよ?』って、そのまま二度寝してくれたりするもんじゃない?」
「アホかっ!なによ、その都合の良すぎる展開は?」
 台詞はともかく、二度寝までしろとは厚かましい事この上ないし。
 まったく、わたしの方も柚奈に襲われたいと願ってる前提で妄想しないで欲しいものですが。
「だってぇ、そろそろ付き合い始めて1年が経つんだしぃ、そろそろ…ね?」
「こちらとしては、あくまでお友達でいましょうのお付き合いですが、何か…?」
 だから頬を赤く染めながら、ねだる様な目で見られても困ります。
 …というか、朝っぱらから発情しないで下さいませんかね、お嬢様。
「ううっ、みゆちゃんにフラれた…」
「あのね…」
 朝っぱらからいきなり乙女の唇を奪っておいて、図々しいっての。
 …まぁ、その乙女の純潔も、いつまで守っていられるかは最近自信なくなってきたけど。
「とにかく、そんな事してたら遅刻しちゃうでしょ?わざわざ起こしてくれたのに」
 いきなり唇を奪われて強制的に起こされた挙句に、結局遅刻では踏んだり蹴ったりにも程があるというか。
「ん〜。私としては、みゆちゃんと一日中えっちな事するのなら、喜んでサボっちゃうけど?」
「そんな日は、当分来ないから期待しないのって、ああっ、もうこんな時間っっ」
 しかし、柚奈へのツッコミもそこそこに改めて目覚まし時計の針を見ると、確かにそろそろ着替えて出かけないとヤバい時間にはなっているみたいで。
「わぁ、大変♪急がなきゃ、私が着替えるの手伝ってあげる〜♪」
「だーかーらっ、ホントにもうヤバイんだってのっっ」
 いつも起こしに来てくれるのはいいんだけど、毎朝必ずこういうやりとりが起こってなかなか先に進まないのが玉に瑕ではあるのよね…と、再び喜々とした顔で手を伸ばしてくる柚奈と格闘しながら心の中で苦笑するわたしだった。

         *

「おはよう、美由利ちゃん。ようやく起きたのかしら?」
「ええ、大丈夫ですよお母様♪ほらこの通り」
 やがて、ようやく着替えてキッチンに下りてきたわたしを出迎えたお母さんに、得意げな顔で形のいい胸を張りながら、自分の手柄を報告してみせる柚奈。
「…まぁ、お陰様でね。おちおち寝てもいられないし」
 別に嘘じゃ無いけど、だからといって感謝する気にはならないわたしは、たっぷりと皮肉を込めて同意してやる。
「あらあら。いつもありがとうね、柚奈ちゃん。今度、お礼の1つもしなきゃならないわね?」
「いえ、どうぞお構いなく♪みゆちゃん本人から頂いてますから♪」
「…勝手に持って行ってるだけでしょ、あんたは」
 あの目覚めのキスは、お礼コミコミですか。
「美由利ちゃんも、寝込みを襲われても文句言えない様になる前に、ちゃんと起きなさいよ?」
「あのね…母親の台詞ですか、それが」
 頼むから、これ以上この慢性発情お嬢様を焚き付けないで下さいませんか、お母様。
 まぁ、柚奈の努力(?)の甲斐あって、いつの間にかわたし達は母親公認の間柄になっちゃってるみたいだから、それも期待薄ではあるんだけど。
 …幸か不幸か、わたしと柚奈は妙な因縁を抱えてちゃってるみたいだしね。
「いつまで経っても自らを律する事が出来ない怠惰で甘えん坊な娘には、身をもって教育しないといけない時もあるものよ。ねぇ、柚奈ちゃん?」
「うふふ…愛するみゆちゃんにお仕置きってのは心が痛みますけど、それが本人の為というならば心を鬼にいたしますわ、お母様♪」
「…………」
 ええと、そう告げる柚奈の顔がこれ以上ない位に期待感で満ち溢れている様に見えるのは、気のせいでしょうか?
「ふふ、頼もしいわ。美由利ちゃんは感謝しないとね?」
「…なんで、無理矢理キスされて感謝しなきゃならないのよ?」
「でも、その原因は美由利ちゃんがきちんと起きなかったからでしょ?」
 そこで、親の目の前というのに遠慮なく絡み付いてくる柚奈へジト目を向けながら反論するわたしの台詞を、ばっさりと一刀両断してしまう我が母上。
「うぐ…っ」
 まったく、容赦無しに厳しい母親である。
「という訳で、今年からは受験生なんだし、いつまでもダラダラしてたら遠慮なくお尻ペンペンしていいからね、柚奈ちゃん?」
「み、みゆちゃんのおしりを…?」
「ええ。昔から四つん這いでパンツ脱がせて反省するまでお尻ペンペンするのが、うちの恒例のお仕置きだから。ねぇ美由利ちゃん?」
「…うん、まぁ確かに昔はお尻が赤くなって泣き出すまでお仕置きされたりもしたけど…でも、ホントにこの子に任せていいと思ってる?」
 その光景を妄想しているのか、右手で溢れる鼻血を押さえながら悶絶している柚奈を指差しながら訴えるわたし。
「あらあら。やる気満々みたいで何よりね?」
「そうじゃないでしょ…ってああっ、無駄話してたらご飯食べてる時間も無くなってきたっ」
 まったく、柚奈が絡むとすぐに脱線するんだからっ。
「それじゃ、トーストでもくわえて出る?」
「…いや、この期に及んで更に誰かと妙なフラグを立てるのはもう沢山だからやめとく。ほら、行くわよ柚奈?」
 既に後の祭りと言えばそれまでだけど…。
「ふぁ〜い。それひゃ、行ってまいりますねお母様?」
 ともあれ、わたしは既に目の前にいる、丸めたティッシュを鼻に差しながら無邪気に笑ってるお嬢様だけでも充分もて余らせてるワケであって。

6-2:突然の転機。

「ん〜、久々の通学路かぁ。何だか新鮮味があるわねぇ」
 やがて、電車から降りた後の道中、柚奈と他愛も無い会話を続けながら、青空へ向けて大きく腕を伸ばすわたし。まだ朝方だけに肌寒さはあるものの、同時に晴天のお日様から届く春らしい陽気が気持ちいい。
 とりあえず、遅刻するかどうかは電車の時間に間に合うかが勝負なので、ここからは特に急ぐ必要は無いし、現に同じく登校している他の生徒達も忙しそうに走ってる人はいなかった。
 ここで猛ダッシュしなければならないのは、先ほどわたし達が乗った次の電車に乗る羽目になった場合の話である。
 …まぁ、去年の初登校時はいきなりやっちゃいましたがね。
「そうだねぇ。今日から新学期でクラスの校舎も変わるし」
「新学期かぁ。長かった様な、気付けばあっという間だった様な…」
 思い起こせば途中で面倒くさくなる位に色々な事があったものの、いざ過ぎてしまえばあっという間と感じてしまうのだから不思議なものだった。
「そっか、この学校に通うのもあと1年かぁ…」
 なにぶん2年生の時から編入してきた転校生なだけに、他の人よりも余計に短く感じてしまう。
 勿論、別の学校で他の人と同じく高校1年は経験しているけど、去年の一年間が強烈すぎてすっかりと記憶の片隅に追いやられていたりして。
(う〜ん、まだ、うちのキャンパスで行ってない場所も多いんだけどなぁ…)
 1年用のクラスルームは仕方が無いとしても、お嬢様学校らしく設備がやたらと豊富な割には、半分も使っていないのが実情だった。
 …やっぱり今年は悔いが残らない様に、春のうちから色々歩き回ってみますかね。
「そうだねぇ…ちょっと、焦っちゃうよね?」
 すると、そんな事を考えながら呟くわたしに相槌を打ちながら、柚奈が隣で何だか難しい顔を浮かべている事に気付く。
「へぇ。やっぱり、柚奈でも焦りを感じる事もあるんだ?」
「だって、やっぱり卒業までには白黒はっきりさせておかないと…ねぇ?」
 そこで、わたしはニヤリとした笑みを浮かべて皮肉めいた台詞を続けてやると、柚奈はそう告げた後で、意味深な視線をちらちらと向けてきた。
「ああ、そう…」
 という事は、柚奈のベタベタ攻撃も、今日から熱烈さを増してくる訳ですか。
(まったく、これから当分は暖かくなる一方だって言うのに、暑苦しい…)
 …いや、そういう問題でも無くて。
「…………」
「ん、あれ…そう言えば、柚奈とぶつかったのがここなんだっけ?」
 やがて、校門が見える大きな道路へ続く十字路の角を曲がろうとした所で、ふとそんな事を思い出したわたしは、思わず立ち止まってしまう。
 1年前の今日、いきなり遅刻しかけたわたしが駅から全力疾走していると、この曲がり角で別の方向からやってきた柚奈と衝突してしまったんだよね…。
 あの時の柚奈は無防備に純白のパンツを見せながら尻餅をついて、呆気にとられた顔を浮かべていたけど。
(第一印象は、物静かで大人しそうなお嬢様に見えたんだけどなぁ…)
「あ、嬉しい〜♪覚えていてくれたんだ?」
「覚えてるも何も、忘れるワケないでしょーが」
 いきなり、否応なしに転校後の生活を位置付けられた日だし、忘れろという方が無理ではある。
 何せ、転校初日に「いや〜ん、遅刻しちゃう〜っ」なんて口走った後で、本当に古典少女漫画の展開をやらかしてしまったんだから。
(…でも、考えたら凄い偶然よね?)
 もし、ここでぶつからなかったら、今頃はわたしの隣に柚奈がいただろうか?
 そして、もし柚奈と知り合わなかったとしたら、今頃はどんな生活を送ってたかな?
「…………」
 何か、あんまり想像できないのが癪に障るわね。
「んに?どうしたの?」
「いやね、もしここで柚奈とぶつかったりしなかったら、今頃どうしてたかなーって」
「う〜ん…あんまり想像できないけど、もしかしたら、あんまり接点は無かったかもね」
「そう…?」
(ありゃ、意外とドライな返答だ事で…)
 てっきり、「私達を結び付ける運命の前に、そんな誤差は小さなコトだよ♪」みたいな台詞でも口走るかと思ったら。
「だからこそ、大事にしたいんだよ。私にとっては、自分が自分でいられるきっかけになったんだし」
 しかしその後、今度は何だか意味深な台詞を続けると共に、幸せそうな笑みを見せてくる柚奈。
「…んな、大袈裟な。そもそも、誰かを好きになりたかっただけなら、別にその相手はわたしでなくても良かったんじゃない?」
「まぁ、そう言われればそうなのかもしれないけど…」
「…………」
 まずい。自分で勝手に言っておいて、柚奈の反応が何かちょっと面白くないと感じてしまったわたしがいる…。
「でも、そんなコトを考えても仕方が無いよ。これから先の私達がどうなってるかって方が遥かに建設的だし。ね〜〜?」
 すると、そんなわたしの心情を見透かしているのかいないのか、それから柚奈は素っ気無く肩を竦めて一度会話を締めくくってしまうと、突然こちらへ両手を絡ませながら、息が吹きかかる位の距離まで顔を近づけてきた。
「ち、ちょっ、何すんのよっ?!」
「むぅ…私としては、ここでみゆちゃんが迷わず目を閉じる位のカンケイになりたいんですけど…」
 そこで反射的に顔を後ろへ逸らせたわたしに、今度は何だか不服そうな顔を見せる柚奈。
「…やだよ、そんな達観しすぎた領域なんて」
 個人的には路チューはバカップルを通り越して、露出狂の領域だと思うんですけども。
「そうかな?私はこうやって、『もう、みゆちゃんはお手つきですよ〜』って宣言するのはたまらなく快感なんだけど♪」
「こうやって?宣言…?わわっ?!」
 言われてふと辺りを見回すと、いつの間にか自分達が他の登校している生徒達の注目をすっかりと集めている事に気付くわたし。
 ある者はちらちらとこちらを伺っていたり、またある者は興味津々といった視線を向けて、すっかりと見世物状態というか…。
(くっ、謀ったわね柚奈…)
「んふ〜♪」
「…ああもう、くだんない事してないで行くわよっ!」
「ああん、みゆちゃん待ってよぉ〜っっ」
 しかし、こうなった以上は一刻も早い逃げの一手に限る。
 わたしはオーバーアクション気味に向き直って一方的にそう告げると、時折後ろから聞こえる笑い声を尻目に、スタスタと校門の方へと駆け足で歩いて行った。
(まったくもう、新学期早々何の羞恥プレイよ…)
「…………」
 でも、どうしてみんな微笑ましそうな顔してるんだろう??

 …とまぁ、それはともかくとして。
「ありゃ、何だか混雑してるわね?」
 やがて校門をくぐって3年生用の校舎の昇降口前まで来ると、その隣にある大きな掲示板に沢山の人だかりが目に映ってくる。
「何だか、いっぱい人がいるね〜?みゆちゃん、はぐれちゃダメだよ?」
 するとそう言うが早いか、両手を伸ばして再びわたしの首の辺りへとしがみ付いてくる柚奈。
 いや、しがみ付くというよりは、最早絡みついてると言った方が正しいかもしれないけど。
「…この状況で、どーやったらはぐれられるってのよ?」
 寧ろ、はぐれてみたい気分というか、ここまで来るともうお約束というか、何だかいちいち「離しなさい」と振りほどくのも億劫になってきたりして。
「お、やっと来たわね、お二人さん。新学期早々お熱いコトで」
 ともあれ、割り込んで入って行く気も起きずに立ち尽くしていると、しばらくした後で人だかりの向こうから見覚えのあるショートカットヘアの友人がこちらへ顔を出してきた。
「あ、おはよ〜♪」
「おはよ…っていうか、久しぶりね茜?」
 それを見て、軽く手を振りながら近づいてくる親友に、久々となる朝の挨拶を返すわたし達。
 流石は普段朝練に励んでいる体育会系というか、部活が無い今日でも登校してくる時間は普段のわたし達よりずっと早いらしい。
「そう言えば、2年の終業式以来だっけ?あんた達は毎日みたいにベタベタしてたんだろうけど、あたしは水泳部の役員引継ぎとかで、結構忙しかったからね」
「別に、ベタベタしたくてしてた訳じゃないもん…柚奈の奴が勝手にまとわり付いてただけで」
 そして愛も変わらず…もとい、相も変わらずべったりと張り付いている柚奈の姿を確認して、小さく肩を竦めながらニヤニヤした視線を向けてくる茜に、わたしは溜息混じりに項垂れてみせる。
 しかも、最近はすっかりと顔パスになってるのをいい事に、事前連絡なしで気付いたら隣に座っていたってパターンが殆どだったし。
 …まぁ、殆どがお昼ご飯を食べた後の午後からお土産持参で来てたってのが、せめてもの気遣いだったんだろうし、お陰でわたしもおやつには困らなかった訳だけど。
「え〜、だってみゆちゃんもこの前は『今夜は帰さない』とか言ってくれてたじゃない〜?」
「お、この2週間余りの間でそこまで進展しましたか?」
「…そりゃ、晩ご飯の時間まで居座った後で帰れとは言えないでしょ?うちから、あんたんちまで2時間位はかかるんだから」
 まったく、それでよくもまぁ毎日の様に通ってくるもんだと。
 一度風邪を引いて寝込んだってのに、懲りてる様子も全く無いし。
「だったら、芹沢さんにでも連絡して迎えに来てもらえば良かったんじゃない?」
「それこそ、申し訳ないわよ。だから、柚奈だって電車で来てるんでしょ?」
 だだでさえ、芹沢さんは桜庭家のメイド長兼、柚奈の母親である小百合さんの秘書と多忙な身の上なんだから。
 …まぁ、実際に迷惑かけるのはわたしじゃなくて柚奈お嬢様なんだろうけど、そのお嬢様が暴走している原因がわたしである以上は仕方が無い。
「えへへ。そして、そんなみゆちゃんも好きな私でありました〜♪と」
「へいへい…そりゃ嬉しいわ」
 ホントに、我ながら損な性分よね。
「まぁ、傍観者としては相変らずのベタベタさ加減で安心したわ。それなら何とかなるかしらね」
 しかし、そんないつものやり取りの中、突然何やら思わせぶりな台詞を挟んでくる茜。
「…ん?何の話?」
「あれよ、あれ」
 そこで思わず目をぱちくりとさせてしまうわたしに、茜は親指で人だかりの方を指し示す。
「ああそうだった。さっきから気になってたんだけど、あの人だかりは何見てんの?」
「何って…そりゃ新学期の初日なんだから、お約束のものでしょ」
「お約束…?まさか、いきなり年間成績ランキングでも張り出してるとか?」
 この、新たな一歩を踏み出す日に、なんて残酷なものを…。
「ん〜、それに近いっちゃ近いけどね。何せ、3年のクラス編成はシビアだから」
「ふえ?クラス編成?」
「そ、新学期と言えばクラス替えでしょ?まぁ、うちは1年と2年の間での入れ替えは殆ど無いから、随分と久しぶりって事になるけど」
「…ああ、クラス替えかぁ…そういうイベントもあったわね」
 すっかりと忘れてた。
 去年のわたしは転校生だったから、まず職員室へ直行した後でそのまま担任に案内されて行ったので、こうして掲示板で名簿を確認した覚えはなかったし。
(となると、前の学校の入学時以来かぁ…)
 …いや、あの時もあの時で、わたしが掲示板を見る前に絵里子の奴が「よっ美由利。今年も腐れ縁は健在みたいよん。ほら、5組らしいから行きましょ?」と一方的に話かけた後でわたしの手を引いて行ったんだっけ?
(う〜ん…となると、中学3年の時以来…?)
 いやしかし、確かあの時も絵里子が先に…。
「んで、あたしとみゆはめでたく同じクラスで3−2よ」
 …そう、こんな風にね。
「あはは。まぁそーなるでしょうね…って事で今年度もよろしく、茜」
 ともあれ、何だか茜の台詞に既視感を覚えながら、苦笑い混じりに2年目となる級友へ笑みを向けるわたし。
「はいはい、よろしくね。これで高校生活最後の年も退屈しないで済みそうだわ」
 なにせ、2人揃って中の下だもん。
 …ただ、一応テストの順位は大抵わたしの方が僅かに上回ってはいるものの、スポーツ万能で、体育だけは常に最高評価という特殊スキルを持つ茜の方が、トータルで見れば遥かに優秀ではあるんだけど。
 ついでに家庭科の成績も優秀で、音楽の時間でも意外と(失礼)美声の持ち主だったりと、実技系に関して言えば立派な優等生で、運動能力やら実技関連が弱い柚奈とは、好対照になっていた。
 この辺は、伊達に白薔薇の君と言われる学園の王子様じゃないというべきか。
(だから、本当の意味でのボンクラは、わたしだけなのよねー…)
 まぁ、今更凹んでも仕方がないんだけど。
「…あれ、でも3−2って事は、もしかしてそんなに悪く無い?」
 成績順って言うから、てっきり3−5とか6とか、自分の分を思い知らされてしまう数字のクラスにでも再編成されるかと思ってたのに。
「残念ながら…というかむしろ助かったのか、3−1から成績順に区切ってる程露骨じゃないみたいね。3年生は8組あるうち、一番のエリートクラスが3−8で、次点が3−7。あとはその他大勢の文系志望が3−1から3−4までで、3−5と3−6は理系志望者向けね」
「あー。そう言えば、各学年の8組は特待生とか集めた特別クラスなんだっけ?あと7組も」
 自分には縁のない世界なので、すっかりと忘れていましたがね。
「そうそう。元々8組は入学試験で特に優秀だった志願者から選ばれる特別クラスで、7組は入学後に優秀な成績を残した生徒の中から希望者を募って2年時に編成する、第2エリートクラスね。でも、この3年進級時で一度全て白紙に戻されて、本人の希望と入学後からの成績を考慮した上で、新たに全てのクラスが再編成されるって訳。だから、3年生のクラス編成は常に泣き笑いが付き物って事になるかしら」
「ふーん…まぁ殆どが進学希望の普通科なんだし、当たり前と言えば当たり前か…って、あれ…?」
 しかし、そこで茜の説明を軽く流しかけた所で、とある事を思い出すわたし。
「…ってコトは、もしかして…?」
「まぁ、当然そうなるわねぇ…」
 そして、皆まで言わなくても分かるとばかり、わたしが「もしかして」の後の言葉を続ける前に、茜は腕組みしながら難しい顔で頷いた。
「ほえ?どうしたの2人共。私の顔をじっと見て?」
 ただ、当の本人だけが未だに気付いてないのか、きょとんとした顔を見せる柚奈。
「…いや。とりあえず柚奈はクラス編成表を見てきた方がいいかも…」
「どうして?みゆちゃん2組だったんでしょ?だったら、早く教室に移動しようよ〜?」
 そこで、わたしは遠回しにそう勧めるものの、柚奈は相変わらず気付いてない様子で、わたしの腕を抱きしめる力を強めてそう促してきた。
「いや、だからね…」
 あんたが2組へ行った所で…。
「…………」
「お〜っほっほっほっ、8組へようこそ桜庭さん。これでようやく同じ土俵に立てましたわね?!」
 言い辛いけど仕方がない。はっきり告げてやるしかないか…と覚悟した矢先、突然生徒会長の石蕗さんが、いつもの高笑いと共に自慢のドリルロールを靡かせてわたし達の間へと割り込んでくる。
「……はぁ?」
 しかし、そんな石蕗さんに対して、今まで見たことが無い位の嫌悪感溢れる表情を短い言葉に乗せて突き返す柚奈。
 正に、お呼びじゃ無いから引っ込んでいろと言わんばかりに。
(ホントにタイミングがいいんだか悪いんだか、イマイチ分からない人だなぁ…)
 もしかして、そういう体質なんだろうか。
「……うっ、も、もしかして…まだ御覧になってないとでも?」
「一体、何の話ですか?」
 ともあれ、取り付く島も無いといった冷たい反応を返されてたじろぐ石蕗さんに、柚奈は更に冷たい睨みを向けて追い討ちをかける。
 まぁ、人懐っこい柚奈がここまで嫌悪感を向ける相手ってのも、ある意味貴重な存在なのかも。
「まったく…今期から晴れて8組のメンバーとして選ばれたと言うのに、相変らず呑気ですのね」
「何を独善的な事を…って……っ?!」
 そして石蕗さんが溜息混じりにそう続けた瞬間、柚奈は無言でわたしにしがみ付いていた腕を放すと、強引に人混みの中を掻き分け始めた。
(柚奈……)
「…………」
「…………」
「…………」
 やがて、8組の名簿から自分の名前を確認した後、続けてわたし達の2組の名簿の確認に入って半分位が終わった所で、指さし確認していた柚奈の顔から血の気が引いていく。
「えっと…これはどういう事かな?ワケわかんないんだけど…」
「…だから、茜が言ってたでしょ?3年は完全に成績順で再編成されるって。つまり、今まで優秀な成績を残してきたあんたは、石蕗さんと同じ8組なの」
 その後で、すっかりと混乱しきった目でこちらを見る柚奈に、わたしはわざと突き放した言い方で茜の受け売りを繰り返した。
 柚奈がショックを受けてるのは分かるけど、もうそろそろ時間的にも各々の教室へ向かわなければならない頃で、一日中ここで呆然としてる訳にもいかない。
「ほら、もう一度良く見なさい。あんたの名前はちゃんと8組に……ん?」
 そこで、8組の名簿から柚奈の名前が書かれている部分を指差して見せた所で、他にも御影さんや綾香の名前まで入っている事に気付くわたし。
(お、恐るべし…)
 ついでに、隣の7組を見ると、甘菜さんや他の元クラスメートの名前もあるし。
(なに、もしかしてわたしの友人は本当に秀才だらけだったの…??)
 今更ながら、場違い感というか距離感を感じてしまうわたしだった。
「そ、そんなぁ……」
 ともあれ、わたしの言葉でようやく現実を受け入れ始めたのか、掲示板に手を当てたままがっくりと項垂れてしまう柚奈。
 その目が次第に虚ろになってきているのが、何とも痛ましかった。
「お〜っほっほっ、これでお分かりになりましたかしら?では改めて8組へようこそ、桜庭さん。とうとう同じクラス、同じ土俵に立てましたわね?」
 すると、後ろでやりとりを見ていてた石蕗さんが、息を吹き返したとばかりに改めて高笑い混じりにそう続けるものの…。

 ぎらりっ

「…………っっ」
 しかし、今度は柚奈から台詞の代わりに殺気のこもった鋭利な視線を受けて、再びすごすごと引っ込んでしまった。
(あと、空気が読めないのも欠点なんだよね、この人は…)
 そう考えると、よくもまぁ生徒会長なんて務まったなーと思ってしまったり。
 ただ、この人の柚奈への対抗意識は「ライバルとして自分を認めて欲しい」という、ある意味歪んだ愛情表現みたいなものだから、周りが見えていないだけかもしれないけど。
 まぁ、それはともあれ…。
「…みゆちゃん、ちょっと学園長室へ行ってくる」
「待ちなさい、行ってどうする気?」
 やがて、しばらく黙り込んでいた後、静かにそう切り出した柚奈の心の奥底から激しい怒りの炎が見えたわたしは、慌てて制服の襟を掴んで引き戻す。
「勿論、クラス替のやり直しを要求してくるの」
 すると、首だけこちらへ向けてきっぱりとそうのたまう柚奈。
 言ってる事は無茶苦茶なのに、顔は真剣そのものだった。
「やり直しって、成績順なんだから何度やり直しても同じだってば」
「それじゃ、基準を変えさせるまでだよ。大体、同じ様な成績の人ばかりを集めるという無個性なポリシーが気に入らないし」
「…いや、それは全国的に見ても普通の事だから」
 気持ちは分かるけど、受験を控えた学年なんだから仕方が無い。
「う〜〜っ、みゆちゃんまで…」
「仕方が無いって。学業成績って基準で言えば、わたし達は不釣合いなんだしね」
 片や下から数えた方が早いボンクラ元転校生と、片や学年トップか、最低でもベスト3以下に落ちた事が無い(少なくとも、わたしが柚奈と知り合ってからは)秀才のお嬢様。
 元々、住む世界が違うといえばそれまでであって。
「はぁ…みゆちゃんの為に努力していた事が、ここに来て仇となるなんて…」
「わたしの為って?」
「勿論、みゆちゃんとの幸せな日々を誰にも文句言わせない為に成績を落さない様にしてたって…前にも言ってなかったっけ?」
「そりゃ、あんた自身の為でしょーがっっ!」
 利己的な理由にも程があるっつーの。
 …まぁ、でも実際にそれを成し遂げ続けていたというのは、やっぱりわたしへの愛なんだろうけど。
 ついでに、転校してから追いつくまでの勉強も随分とフォローしてもらったしね。
「う〜っ、みゆちゃん寂しいよぉ〜っっ」
「ああもう、だからっていちいち抱きつくなっての」
 そう考えると、何となく邪険にするのも可哀想に思いながらも、わたしは胸の中へと張り付いてくる柚奈を引き剥がしにかかる。
 TPOを弁えなさいというか、登校中と同じく、また周囲の視線が段々と掲示板からこちらに向いてきている訳で。
「ね?みゆちゃんだって寂しいよね…?」
「ん〜、わたしは別に。そういう弱い感情は、転校する時に置いてきちゃったわよ」
 しかし、そこで縋りつく様な目を見せる柚奈に、素っ気無い返事を返してやるわたし。
 生憎、たかだかクラスが離れた程度で泣いてたら、とてもやってはいけない境遇というか、既にわたしは10年来の幼馴染みとの別れを経験してる訳で。
 …まぁ、その寂しさを短期間で忘れさせてくれたのも、柚奈がわたしを慕ってずっとまとわり付いてきたお陰なんだけど。
「…………」
 思い返してみると、確かに何だかんだでわたしも自覚は低いだけで、柚奈に大分救われてはいるんだよね。
「うう〜っ、みゆちゃんのいけずぅ〜っっ」
「まぁまぁ。クラスが離れるだけで、学校が変わった訳でも無いでしょ?極端な話、一緒にいられないのは授業の時くらいだし」
 そこで、思わずわたしは半泣き顔を見せる親友に優しい言葉のひとつもかけてしまうものの…。
「ああ、確かにそう言えばそうだよね♪」
「へ……?」
 …しかし、その気の緩みが油断大敵だった。

         *

「み〜ゆちゃん、あ・そ・ぼ♪」
「…やれやれ、また来たか…」
 2限目終了後の休憩時間、いつもの様に満面の笑顔で2組の教室へ入ってくる柚奈の姿を見て、机に頬を付いたまま溜息を落すわたし。
「また来たって…みゆちゃんが冷たい…ううっ」
「だって、毎休み時間ごとに来てるでしょーが、あんたは」
 それを見てワザとらしく嘘泣きしてみせる柚奈に、わたしはジト目で冷たいツッコミを入れてやる。
 あれから、新しいクラスでの生活が始まって1週間が経つものの、8組へ編入されたこのエリートお嬢様は、教室移動がない休憩時間を除くほぼ毎時間、うちの教室へ遊びに来ていた。
 …つまり、結局は往復する柚奈の労力が加わっただけで、そんなに日常生活は変わってなかったりして。
「だってぇ、授業の時は仕方がないけど、それ以外の時は一緒にいたいって言ってくれたのはみゆちゃんじゃない〜?」
「勝手に拡大解釈しないでよ…わたしは可能性の話をしただけなのに」
(でも、確かに余計な台詞を付け足して墓穴を掘っちゃった気はするけど…)
 …と言うか、そろそろ墓穴も掘り飽きてるんですがね、美由利さん?
「大丈夫だよ〜。みゆちゃんはツンデレだから素直に言えないって事はちゃんと分かってるから♪」
「誰がツンデレだっっ!そもそも、毎回毎回教室往復するのって大変じゃないの?」
 ただでさえ、朝は家が反対方向にも関わらずうちに迎えに来てるのに、授業の合間とかに眠くならないんだろうか?
「ん〜ん。全然平気だよ?」
「まぁ、うちのクラスと柚奈のクラスって、ある意味隣り合わせみたいなもんだからね」
 すると、わたしの後ろの席でやり取りを見ていた茜が、真上を指差しながら話に加わってくる。
「ああ、そう言えばそうだったっけ?」
 しかも、うちの教室は階段のすぐ側だし、階が違うといっても距離的には凄く近いのか。
 …とは言え、本来はその階段が大問題な気もするんだけど。
「んふふ。実は私の席も今みゆちゃんが座ってる場所のすぐ上だし、こっそりと穴を空けて直通路でも作っちゃおっか?」
「…それは、こっそり作れるものなのかしら…?」
 んでもって、忍者屋敷みたいに上からハシゴを降ろして上り下りするとでも?
「あ、でも、みゆちゃんの頭上に作ったりしたら、見上げるたびにスカートの中が見られちゃうよね。いや〜ん、みゆちゃんのえっちぃ〜っっ♪」
「ああもう、勝手に妄想膨らませて嬉しそうな顔すんなっっ」
 しかも顔を赤らめて嬉しそうにクネクネと、気持ち悪い。
「でもでも、みゆちゃんが要求するなら、私はいつでも何処だって…きゃ〜〜っ♪」
「…いい加減戻ってきなさい、柚奈」
 そしてそれから、周囲の目もはばからずに顔を赤らめながら際限なく妄想大暴走させていく柚奈を、わたしは溜息混じりに止める。
 しかも誘い受けの妄想ってのが、余計にタチが悪い。
「まったくもう。せっかくクラスが離れて少しは静かになると思ったら、勘弁してよね…」
 むしろ、去年より余計に騒がしくなったというか、限られた時間で精一杯ってつもりなのか、新学期が始まっての柚奈のテンションは無駄に高かった。
 つまりそれは、相手しているわたしの体力もそれだけ奪ってるという事でもあって。
「う〜っ、もしみゆちゃんが本当に迷惑してるなら、やめるけど?」
 すると、わたしが勘弁してくれとばかりに冷たい口調で続けた台詞に、柚奈は上目遣いで目を潤ませながら尋ね返してくる。
(う……っっ)
「…い、いや、別にそこまでは言ってないって…」
「あは。だからみゆちゃん好き〜♪」
「はいはい…」
 しかし、結局はそれからお約束の流れになってしまう事に、わたしは苦笑するしかなかった。
「まったく、何だかんだ言ってラブラブなのねぇ、あんたらは」
 そして、そんなわたし達の姿に、呆れと微笑ましさが混じった顔を浮かべて、やれやれと肩を竦めて見せる茜。
「仕方が無いじゃないよ…あんな目に一杯涙を溜めた顔で言われたらさ」
 だって、さっきのは最初に来た時の嘘泣きと違って本当に、本気だから。
 わたしの為なら本当に何でもするだろうし、その為に自分の全ても捧げられる。その気持ちに嘘も躊躇いも無いのは、もうとっくに知ってるから。
(何なんだかなぁ…)
 でも、わたしは今のままでいいのかな?このまま、柚奈の愛の押し付けを苦笑いしながら、ただ甘受し続けるだけで。
 本当にそれで柚奈の為に…なるのかな?
「…………」
 それは、ここ最近になって生まれてきた自問。結局クラスが変わった程度では、今までの日常に変化は殆ど無かったけど、本当にこの延長線を続けてもいいのかなって…。
「んに?どうしたのみゆちゃん?」
「…ううん。別に。それより、そろそろ戻らないとチャイムが鳴るわよ?」
「大丈夫♪うちのクラスって、そんなに授業態度とか煩くないし、予習もちゃんとしてるから。みゆちゃんは大丈夫?」
「うっ、それは…その…」
 …まぁ、いずれにしても今のわたしじゃ偉そうな事を言える資格も無いんだけどね。

6-3:進路調査。

「…ん〜っっ」
 さて、どうしたもんかねぇ…。
「どしたの、みゆ?難しい顔して」
 朝のHRの後、自分の机で配布されたプリントと睨めっこを続けるわたしに、茜がぽんと肩を叩いて声をかけてくる。
「これよ、これ。みんな貰ったでしょ?」
 そんな茜にわたしは振り返ると、進路希望の調査書を差し出して見せた。
 何となくで良かった去年に対して、今年は重みが全く違う。面倒だからとりあえずでも願望とかでもなく、有言実行を前提とした事を書かなければならないのだから。
「あ〜、進路希望調査か。みゆはどうすんの?」
「それがまとまらなくて唸ってたの。これと言ってやりたい事がある訳でも無いし、とりあえずは入れる所へ進学って形になるだろうけど…」
 勿論、そんな所があれば…という前提の話ですがね。
 何せ、成績的には下から数えた方が早いですし。
「おりょ?卒業後は桜庭家のメイドになるんじゃない?」
「ならないわよっ!…それに、柚奈の家のメイドさんってみんな大卒以上らしいわよ?」
 世間では色々と誤解がある様だけど、現代の社会において本物のメイドさんに求められる資質ってのは決して甘くは無い。ましてや桜庭家の様な名家ともなると尚更である。
 柚奈の家のメイド長の芹沢さんなんて、オックスフォード卒らしいし。
 …もしかしたら、そのイギリス留学中にメイドさんの修行してたのかも。
「大変ねぇ…まぁ頑張って。みゆだったら別に一流大学とかじゃなくても雇ってもらえるだろうけど」
「だーかーらー、勝手にそれを前提にしないでくれる?」
 大体、自堕落でいつも叱られっ放しのわたしがメイドさんだなんて、お母さんとかが聞いたら腹を抱えて笑い出してしまうに違いない。
「あははは、冗談よ冗談。すぐにお嫁入りだっけ?」
「冗談で冗談をフォローするんじゃないっ」
 ツッコミを入れる方も、いい加減疲れてくるっての。
「…んで?そう言う茜は?」
「さぁ…」
 ともあれ、そろそろ付き合ってはいられないとばかり、話題の矛先を茜へ切り返すわたしに、人の事をあれこれと追求してきた割には自分も何も考えていないのか、大して興味なさそうに肩を竦めて見せた。
「さぁ…って、水泳部のエースじゃなかったっけ?体育大学関係を受験するんじゃないの?」
 柚奈から聞いた話だと県大会クラスで優勝の実績もあるらしいし、スポーツ推薦枠で選り取りみどりって気もするけど。
「そりゃ、この学園やら精々この地区ならそうかもしれないけど、残念ながら職業にするって程でも無いわ。所詮、あたしは井の中の蛙」
 しかしそんな素人考えを口にするわたしに、素っ気無いまでに天井を仰ぎながらあっさりとそう告げる茜。
「えっと、良く分からないけど、そんなものなの?」
「世の中、狭い様で広いもんよ。…まぁ、一応推薦とかはしてもらえるみたいだけど、イマイチ気が乗らないってのが本音かな」
「どうして?」
「ま、半分はみゆの所為…とでも言っておきますか」
 そしてそう続けると、茜は何処まで本気なのか分からない、中途半端に真剣な眼差しをこちらへ向けてきた。
「へ?わたしの?」
 しかし、こちらとしては、いきなりそんな事言われても困るんですが…。
「とにかく、どこでもいいから、さっさと進路は決めちゃいなさいよ。じゃないと、柚奈も困ると思うし」
「柚奈って…」
「…………」
「…やっぱり、そう思う?」
「そんなの、愚問じゃない。今更あの子が自分中心に進路なんて考えると思う?」
「だよねぇ…」
 分かってはいるんだけどね。去年から、ずっと言われてる事でもあるし。
(だけど、結局わたしは真面目に考えなかったワケだ、これが…)
「…………」
「まぁ、いずれにしてもある程度来週は三者面談があるでしょ?ある程度はしっかり考えておかないと、担任と親のダブルでお叱りを喰らうわよ?」
「うああ、そうだったわね…」
 この時期になると、年に数回の三者面談も数が増えてくるから困る。
 …いや、実際には生徒をサポートする目的ではあるんだろうけど、当人からはウザがられてばかりってのは、先生の立場としてもなかなか割に合わない仕事なのかもしれないけど。

         *

「う〜〜ん…」
 夕食後、自室に戻ったわたしはシャープペンシルを口にくわえて腕組みしながら、両足を机の上に乗せた極めて行儀の悪い格好で、今朝の続きを考え込んでいた。
 結局、休み時間だけでは考えがまとまらなかったので(例によって柚奈がやって来たってのもあるけど)宿題にしたのはいいものの、家で独りになったからと言って考えがまとまる訳でもなく、既にこうして1時間ほど無駄にしていた。
 …今頃、他の人はせっせと受験勉強を続けている頃だろうに。
「卒業後の進路…かぁ」
 まだ遠いかと思っていたら、来年の今頃はもうこの学校にはいないのよね、わたし。
 そして中には、来年の春はもう社会人になる同級生だっているかもしれない訳で。
(そう考えると、ますます何も考えてない自分が情けなくなるなぁ…)
 一応、進路希望と言えば、普通は将来どんな仕事がしたいから、その為のスキルが取得出来る学校へと進むのが普通、という所までは分かってるつもりなのに…。
「…………」
「…………」
 そもそも、その将来の希望がいまいちピンとこない。
 いつまでも夢見る少女じゃいられないとは言うけど、わたしはその夢すら見てないし。
(去年、柚奈に一年中振り回された所為かも…)
 なにせ、この高校生活を思い起こせば柚奈との事ばかりなのだから。
『あははは、冗談よ冗談。すぐにお嫁入りだっけ?』
「…………」
 もしかして、本当に責任取ってもらう方が話が早いのかしらん?
(いやいやいや…)
 今の状態でなし崩しでそうなるには、いくらなんでも無様過ぎる。
 仮に、万が一…まかり間違ってそうなるとしても、他に行き場がなかったから…なんて理由じゃ、わたしの全てを好きでいてくれている柚奈に対する裏切りだろうから。
(…ってまぁ、こんな台詞は間違っても本人には言えないけどね)
 ただ、わたしだって全く考えて無い訳じゃないんだよ〜ってだけの…。

 ピピピピピ

 しかし、そんな言い訳じみたモノローグが終わらないうちに、充電器の上の携帯から着信音が鳴り響いてくる。
 確か、この着メロは柚奈お気に入りの…。
「…まったく、タイミングがいいんだから…」
 わたしは思わず呆れた溜息を吐きながら、充電中の携帯を手に取って通話モードへ入った。
「へいへい、もしもし…?」
「やっほ〜♪みゆちゃん元気〜?3年生になったんだから、ちゃんとお勉強もしなきゃダメたよ?」
「…だったら、お勉強するべき時間にかけてくんなっての」
 そして開口一番に届いたお節介の台詞に、素っ気ない口調で突き返してやるわたし。
「ええ?ホントに勉強してた?ごめ〜ん…」
「あんたね…でも、まぁいいわ。わたしもちょうど柚奈と話がしたいって思ってた頃だし」
「なになに、寂しくなってわたしの声でも聞きたくなった?」
「クラスが分かれた癖に毎時間も顔を合わせといて寂しいも何もあったもんじゃないわよ…って、まぁそれはいいとして、あんたのクラスでも進路希望調査があったんでしょ?何て書いたの?」
「ん〜。みゆちゃんのお嫁さん」
「だあほ…っ!」
 去年もマジでそれを書いて、担任に何とかしてくれって泣きつかれたってのに。
「あ、ゴメン。みゆちゃんがお嫁さんになりたいんだっけ?」
「お婿さんよりはそっちの方がいいけど、違うっっ!!」
 根本的に、そういう問題じゃないっての。
「うふふふ…みゆちゃんのウェディングドレス姿かぁ…やっぱり借り物はダメだよね。多分我慢できなくなって汚しちゃうかもしれないし…うふふふふふ…」
「…ど、どういう意味よ…?」
「んに?詳しく聞きたい?」
「いや、遠慮しとく…」
 何だか、わたしの背筋へこれでもかって位に寒気が走ってきた事だし。
「え〜、自分で聞いたのにぃ〜っ」
「ああもう、わたしが話したいのはそんなコトじゃなくて、将来の話」
「うんうん。やっぱり2人の将来設計はちゃんとしておかないとね?」
「それもちょっと違うっ!…ったく、人が割と真剣に悩んでるんだから、ちゃんと相談に乗ってよ」
 もしかして、このまま問答無用で通話を切って、他の人に相談した方がいいですか?
「悩む?もしかして、やりたい事が見つからないの?」
「……ねぇ柚奈。わたしって、どんな職業が向いてると思う?」
 しかし、今度は抜群の切れ味でぐっさりと核心を突かれてしまい、ダメージを隠しきれないままで質問を続けるわたし。
 まったく…ボケっぱなしの割には、鋭いじゃないのよ…。
「ん〜。およめさんとか?」
「ええい、それはもういいっての。そうじゃなくて…」
「だって、そういうのは人に相談するより、みゆちゃん自身の心に、本当にやりたいことは無いのか自問自答してもらうしかないし」
「…まぁ、そうなんだけどさ…」
 確かに、人に相談してもされても仕方のない質問ではあるのよね、これって。
 人に「向いてる」と言われて完全にその気になってしまう、極めてシンプル思考の人ならともかく。
「つまり、やりたい事が浮ばないんだ?」
「やりたいっていうか、何が出来るのかなーってレベルだけどさ」
 …こんな、特技も甲斐性も無い無気力なダメ人間がね。
 いやまぁ、適当に大学に入って、適当に就職して適当に結婚して子供作って…でも構わないんだろうけど、いくらぐーたらなわたしでも、今の時点でそれでは夢も希望も無さすぎる。
「何が出来るかって悩んでるなら、尚更私のお嫁さんにでもなればいいのに」
「なんでよ…?」
「それなら少なくとも、みゆちゃんには出来ることがあるし」
「へ…?ま、まさか、それっていわゆる…」
「んふ。だってみゆちゃんなら、確実に私を幸せに出来るから♪」
「…………っっ」
 そこで、邪な単語が浮かんだ脳内に柚奈からのド直球に恥ずかしい口説き文句が割り込んできて、それらがまるで化学反応でも起きたかの様に、わたしの顔は一瞬で赤くなってしまった。
 たぶん、漫画とかだと『ぼんっ』って擬音がバックに加わってると思う。
「あ、もちろん私もみゆちゃんをきっと幸せにしてみせるよ〜。どう?」
「どうって言われても…まったく電話とはいえ、良くもまぁそんなこっ恥ずかしい台詞がぽんぽん出てくるわね…」
 本当に、聞いてるこっちが悶絶死しそうなんですが。
「えへへへ。これも愛ゆえだよ〜♪」
「…んで実際の話、柚奈はどうなのよ?どんな職業に就くつもり?」
 そもそも、嫁だの婿だのってのは職業じゃないし。
「ん〜、私はねぇ。とりあえずみゆちゃんと一緒の学校に入ってから考えよっかなぁ」
「あのね…人の事言えた義理じゃないけど、あんたも真面目に考えなさいっての」
 大体わたしなんかと違って、その気になれば何処の大学でも入れそうな秀才なんだから。
「え〜?私は至って真面目だよ?」
「それじゃ、もしわたしが看護師になりたいとか言って看護学科のある学校に入ったら、一緒に入ってくんの?」
「うん」
「…………」
 即答しないでください、そこ。
「そう言われると、何か余計なプレッシャーを感じてきたんだけど…」
 つまり、わたしは自分の選択に2人分の人生を背負えって?
「ん〜、別に気にしなくてもいいのに。私は単にみゆちゃんと一緒にいたいだけだし」
「分かってるわよ。だから、余計に気にするんだってばっっ」
 本当に柚奈の事なんかどうでもいいって思ってたら、最初から悩んだりはしないわよ。
(…ってうわ、我ながらすんごく恥ずかしい事を…)
 口に出すか出さないかの差はあれど、人の事言えないわね、わたしも。
「んふふ〜。そう言ってもらえると、また私の好感度が急上昇しちゃうよ?」
「まだ、これ以上伸びる余地があるとおっしゃいますか、あんたのパラメーターは」
 むしろ、とっくに上限突き破ってオーバーフローを起こしてるんじゃないかと思ってたけど。
「でもまぁ、本当に私の事は気にしないで?私は自分がやりたい事をしてるだけだし、これからもそのつもりだから」
「そんな事言って、後で後悔しても知らないわよ?」
「世の中には、良い後悔と悪い後悔の2種類あるって、知ってた?」
「…自分で選んだ道を進んだ末の後悔なら、悔いは残らないって?」
「そゆこと♪というか、基本的に私は自分が楽しければいいんだし。後はなる様になるでしょ」
「あんたは気楽でいいわねぇ。それとも、勝者の余裕って奴?」
 大企業のトップのお嬢様で、成績優秀だけじゃなくて、容姿まで端麗。
 運動オンチ(しかし、自分の欲望が絡んだ時は超人的ぽいけど)で変態という欠点を除いても、わたしからみれば恵まれすぎである。
「ん〜。みゆちゃんの場合は、まずそうやって自分を卑下しちゃう癖を直すのが先決だと思うけど?」
「……悪かったわね」
 しかしそんなわたしの皮肉も、再びぐっさりと痛い所を突かれて返り討ちに遭ってしまった。
「せっかく、天然総受け体質…もとい、人を無条件で引き付ける魅力があるのに」
「そう言われても、全然実感が沸かないんだけど…」
 というか、誰が天然総受け体質ですか。
「でも、私と一緒になった綾香や御影さん、それに7組に編入された甘菜さんまで、みゆちゃんがクラスからいなくなって寂しいって言ってたよ?」
「そ、そう…?」
 あまり直接話した事は無かった甘菜さんにまで言って貰えると、確かにちょっと嬉しいかも…。
「うん。何だか、今の教室が静か過ぎて物足りないって」
「…いや、それはあんたの所為だと思うんだけど」
 柚奈が四六時中ちょっかい出してきてたから、わたしは必死に逃げ回っていただけで。
 その攻防戦が見てて面白かったと言われても、どうにも困るんですが。
「あはは。でも、私がこうなったのはみゆちゃんの所為だし」
「それも理由になって無い…」
 この台詞を聞くのも一度や二度じゃ無いけど、わたしにしてみれば理不尽極まりなかったり。
「でも、それこそがさっき言った、みゆちゃんの人を引き付ける魅力だと思うんだけどね」
「そんなものかねぇ…?」
「そんなものだよ。…というかね、そう言われてプラス思考が出来る様になったら、もっと世界が広がっていくと思うよ?」
「…………」
 そんな柚奈の言い分は激しくこじ付けじみているのに、何だかちょっと気が休まる気がするのが癪に障るわたしだった。
「自信かぁ…ホントに、もっと持てるといいんだろうけどね」
「…というか、今の時期に自信喪失は致命傷だよ、みゆちゃん?」
「分かってる。分かってるけど…」
「さっきも言ったけど、結局はなる様になるもんだよ。それより、進路希望調査の空白を埋める為に勉強の時間をいつまでも削られる方が、受験生としては良くないんじゃない?」
「うぐ……っっ」
 しかし、わたしが続けてぼやきかけた所で、先に柚奈から痛烈な追い打ちを受けてしまった。
 惚けた事しか言わないと思えば、いきなり痛い所を…。
「で、でも、受験勉強すべき時間にわざわざ電話してくる様な人が、偉そうに言う台詞じゃない気もするんだけど?」
「え〜?だって私は元々みゆちゃんに分からない所が無いか心配してかけたんだもん。クラスが離れてから勉強教えてあげる機会も減ったしね?」
「…ああ、それはわざわざどーも…」
 きっと、このお節介はわたしが真面目に勉強してるのかって所から心配してかけてきたんだろう。
(単にベタベタと纏わりついてくるだけじゃなくて、ちゃんと考えてくれてるんだよね…)
 実際、宿題を片付けるのにも随分とお世話になってるけど、「早く片付けて遊ぼうよ〜」と急かされる事はあっても、代わりに解いてくれたり、柚奈が済ませた物を丸写しさせてくれた事は無かった。
 もう殆ど答えに近いヒントまでくれる事はあっても、あくまでわたし自身に解かせなければ意味がないと、いつも辛抱強く待ってくれている。
「それで、お勉強の事で何か聞きたい事はあるかな?」
「ううん…後で聞きたい所があったら、こちらからかけるし」
「はいは〜い♪みゆちゃん専用の学習相談ホットラインは、愛情たっぷりの24時間いつでも受付中で〜す♪…と言いたいけど、あまり遅いと明日みゆちゃん家に行く時の電車で寝込んじゃいそうなんだよね…一昨日も危うく寝過ごしそうになったし」
 そう言った後で珍しい弱音というか、受話器越しに苦笑いを続けてくる柚奈。 
「…別に、そこまで無理して来なくてもいいのに」
「だって、クラスが離れちゃって一緒に居る時間が少なくなったんだもん。私にとっては切実だよ〜。それに、結構わたしが起こすまで起きない事多いし」
「…………」
 わたしは…いいんだろうか?こうやって柚奈に甘えたままで。
 勿論、柚奈が好きでしている事だから、本来はわたしが気に病む事じゃない。
 でも……。
「んじゃ、あまり長電話して邪魔しちゃ悪いから、そろそろ切るね〜?」
「あ、うん、おやすみ…」
「おやすみ〜♪…ああそうだ、あまり夜更かしもしちゃダメだよ?」
「分かってるわよ。また無理矢理押さえつけられて唇を奪われちゃ、たまったものじゃないし」
「んふ〜♪でも時々は、ワザと寝込んでいてくれると嬉しいかな〜とも思うけど」
「なんでそこまでサービスしなきゃいけないのよ……って…」
 …くそっ、ツッコミ終わらないうちに切りやがったわね。
「…………」
(あーあ…なんだかなぁ…)
 やっぱり、これも受験生の重圧なのかね?
 柚奈の言うとおり、悩む暇があったら少しでも問題を解くなり単語を覚えたりするべきだろうに、色んな事が頭から浮んできてしまう。
 呑気に柚奈からの電話片手にゲームしてた去年の今頃が懐かしく感じるというか。
「…………」
 でも、実際わたし1人だけの問題だったら、こんなに悩んでたかな?
 柚奈に言われなくても、「まぁなる様になるでしょ」とか呟きながら、去年と対して変わらずにダラダラしていた様な…。
「…………」
「…………」
 やっぱり、わたしって何だかんだで柚奈に甘えちゃってるよね。
 その癖、わたしは柚奈に何もしてあげられてないし。
「…………」
 はぁ…ダメだ。また色々考えすぎて気が滅入ってきた。
「ちょっと早いけど、わたしも今日は早めにお風呂入って寝ちゃおうかな…ん?」
 しかしそこで、再び充電器に戻した携帯から、柚奈専用の着信音が。
 ただ、短く終わって青色ランプが点滅し始めた辺り、今度はメールみたいだけど。
(今度はメールでワザワザ何よ?)
 何か、言い忘れた事でもあったのかしらん?
 ともあれ早速開いてみると、しばらく添付ファイルの読み込み時間を要した後で…。
『はい、おやすみのちゅー♪』
 短いメッセージの後で、液晶画面越しに目を閉じた柚奈の唇が迫ってきていた。
「…どあほうが」
 しかも動画で送るな、この変態娘っっ。
「はいはい、おやすみ柚奈。また明日ね」
 それを見て、わたしは溜息混じりに小さく呟いた後で携帯を再び折り畳むと、当然その後で送られてきた、「ねぇねぇ、お返しのちゅーは?」っていう追加メールはシカトする事にした。

6-4:仇花

「…では、姫宮さんはとりあえず進学希望という事ですね?」
「まぁ、入れる所があればですけど」
 並んで座るわたしとお母さんを前に、曖昧な答えだけが書かれた進路希望調査の中身を無表情で復唱する担任の早瀬(はやせ)先生に、わたしは苦笑い混じりに頷く。
 ついでに、ちらちらと隣の母上の顔色を伺ってみると、やっぱりやや呆れた様な顔をしていた。
(う〜っ、帰ったらお説教食らうかな…?)
 でもまぁ、仕方が無いといえば仕方が無いんだよね。わたし自身の中で、現時点で是非とも行きたいって志望校がある訳でも無いし。
 勿論、あっても今からでは手遅れの可能性もあるけど。
「分かりました。それでは、とりあえずうちの学園と提携している大学の情報でも揃えておきましょうか?推薦枠ならそれなりにありますし、もし姫宮さんが望むならそちらの方向で準備しますが?」
「あ、本当ですか?」
 しかし、お叱りの言葉が来ると覚悟していた先生の口からは、意外なまでに冷静な提案と、続けて提示された”推薦”という言葉で一気に表情が明るくなるわたし。
 それは正に、渡りに船というか。
 推薦枠。実に素晴らしい響きではあるんだけど…。
「ただし、内申書の方をもっと頑張ってもらわないとダメですけど、2学期までに進学へ向けて努力の跡が見える様であれば、前向きに検討しましょう」
「う……っっ」
 しかし、推薦するとなれば普段の学業成績や何か秀でた能力があるなど、それに相応しい生徒である事が求められる訳で、喜ぶ間もなく早々に釘を刺されてしまった。
「まぁ、精々頑張りなさいね。美由利?」
「ふぁい……」
 とは言え、これで一応は目的が明確になってきた訳だし、迷える子羊にとって有り難い話である事に変わりは無い。
 これでようやく、柚奈にも前向きな話が出来るかもしれないし。
「それでは、後でリストを作っておきますので、姫宮さんは当面、次の中間テストに向けて頑張って下さいね。勿論、来週の模試の方も手を抜いて貰っては困りますが」
「でも、本当にいいんですか?貴重な推薦枠をわたしなんかに回して」
 それにもしかしたら、もう1人分余分に必要になるかもしれないのに。
「構いませんよ。実際、毎年余る位ですから」
「はぁ〜。やっぱり、大学にとって厳しい時代になってるんですねぇ」
 最近は全入り時代なんて言われたり、大学の経営危機が度々ニュースになったりもしてるけど、わたしの様なボンクラ受験生には悪く無い時代とは言えるのかも。
「いいえ。うちの生徒は何らかの将来の目的を明確に持ってる人達が殆どですし」
「うぐ…っっ」
 しかし、そこで再び芽生えたわたしの緩みも、先生の痛烈な皮肉であっさりと一蹴されてしまった。
(目的…かぁ…)
 確かに、去年のうちのクラスメート達は何らかの目的は持ってたよね。
 御影さんも甘菜さんも綾香も…上のクラスへ編入された人ほど。
「…とは言え、実際高校から大学では環境が全く変わりますし、そんな中で考え方が変わる事も多々ですから、確かに今現在これといった物が無いならば、とりあえず進学した後でゆっくり考えて貰っても構わないんですが…ただ、迷うあまり卑屈になっているのは感心しませんね」
「ゆい…友人にも言われましたけど、やっぱりそう見えます?」
 そこでこの三者面談が始まって以来、初めて厳しい目で見据えられた先生の視線にドキっとしながら、ぼそりと尋ね返すわたし。
 まさか、担任の先生にも同じ事言われるなんてなぁ…。
「ええ。桜庭さんとクラスが離れて不安なのかもしれないですが、もっと地に足をつけてしっかりしてもらわないと」
「…………」
「そもそも、あなたはあの伝説の赤薔薇様の娘なんですから」
「すみません、デキの悪い娘で……ん?伝説?赤薔薇様…??」
 しかし、そこで更に卑屈になろうとした所で、わたしは先生の口から突然出てきた単語にきょとんとしてしまう。
「あらあら、また懐かしい話ね」
 その一方で、お母さんの方は隣でニコニコと笑みを浮かべていた。
「懐かしいって……」
「ええ。昔、そう呼ばれていた時もあったけど…しかし、先生もよく御存知ですね?」
「その…実はですね、当時私も元美咲様親衛隊の一人でして…」
 すると、恥ずかしそうにゴホンと咳払いしながらそう告げる早瀬先生。
「し、親衛隊…??」
「ああ、私は認めた覚えはないんだけど、そういうのを作ってた人もいたわねぇ…」
「…………」
 おいおい、私設親衛隊なんてレトロ漫画だけの話かと思ってましたが。
「えっと、一体どういう事なんです?」
「あなたのお母様…つまり今隣にいる美咲先輩は、かつてはうちの学園で”赤薔薇”と呼ばれた憧れの的だったんですよ。成績が優秀だったのは勿論、その美貌と常に優雅で自信に満ちた堂々たる物腰は、良家のお嬢様が多かったうちの学園の中でも一際輝きを放ってました」
「え〜〜〜っ」
 わたしの方は、今の柚奈みたく小百合さんにベタベタと付きまとっていた変態女学生としか聞いてなかったんですが。
「それでも、今じゃすっかりと兼業主婦で落ち着いてしまってるけどね。がっかりしたかしら?」
「い、いえっ!美咲様は今もあの頃と変わらずのお美しさですっ!」
 そこで、小さく肩を竦めながら自虐めいた台詞を返すお母さんに、立ち上がって力いっぱい首を横に振りながら否定する早瀬先生。
 何だかもう、すっかりと先生としての立場を忘れて当時の状態に戻ってるみたいだった。
「あら、嬉しい事言ってくれるじゃない?」
「あ……っっ」
 するとお母さんもゆっくりと立ち上がり、かつての親衛隊員の顎をくいっと持ち上げて妖しく囁くと、早瀬先生の瞳が見開いたまま潤んでいく。
「…ちょっと待ちなさいそこの母親。娘の前で担任を口説いてんじゃないわよっ」
 まったく、破廉恥極まりない。
「ん〜?その方が美由利ちゃんも有利じゃない?」
「あのね…」
 でも…流石は親衛隊まで存在していただけあって、そのカリスマは今も健在か。
 赤薔薇と呼ばれた憧れの存在…。伊達に現在桜庭グループを統括する小百合さんがベタ惚れた相手じゃないって事ね。
「…………」
 それじゃ、わたしはどうなんだろう?どうやら、お母さんはそれだけの資質があったみたいだけど、わたしは柚奈に釣り合う存在と言えるのかな?
「…………」
 考えるまでもないよね。こうして柚奈と離れ離れになってしまったんだから。
(分かってはいたつもりだけど、ちょっと寂しいなぁ…)

         *

「姫宮さん」
「…ふえ?」
 やがて三者面談が終わってお母さんと別れた後、廊下を歩いていた時に突然呼び止められて振り向くと、そこにはやや長身で細身の女性が、薄いメガネの奥からこちらへ鋭い視線を向けていた。
(うわ、この人は……)
 それは見間違いようも無い、8組担任で英語科の氷室(ひむろ)先生。
 顔立ちの整った美人で、英語のみならず4ヶ国語を完璧に話すというその能力と合わせて、知的な雰囲気を隠す事無く醸し出している所から、一部ではカリスマと仰ぐ熱烈なファンもいるらしい。
 ただ、反面で出来ない生徒には氷の様に冷たく厳しい目つきを容赦無く向けてくる事から、むしろ畏怖の対象になっている方が圧倒的なのは推して知るべしと言うか。
 わたしも今年からこの先生の授業を受けているものの、名前の通りこの人の授業の時は、教室全体がまるで凍りつく様なピリピリ感があるので、息苦しくてあまり好きな方じゃなかった。
 …まぁ、だからこそわたしの様に弛んだ受験生の指導にうってつけなんだろうけど。
「ちょっといいかしら?貴女にお話があります」
「あ、いえ…もうわたしの三者面談は終わりましたよ?」
 ともあれ、この先生に話があると言われても嫌な予感しか出てこないわたしは、ぎこちない笑みを浮かべながら、はぐらかす様に惚けてみせる。
 一応、先週受けた実力テストの成績はわざわざ呼びつけられる程に酷くは無かったはずだけど、この先生に褒めて貰える要素なんて、これっぽっちも思い浮かばないし。
 そもそも、この人は人を褒めた事があるのかどうかすら定かでなかったり。
「あなたではありません、桜庭さんについてです」
 しかし、当の氷室先生はそんなわたしの返事には全く興味が無いとばかりに、つかつかと歩み寄りながら話を切り出してきた。
「ゆ、柚奈?」
「実は先程、桜庭さんの面談を行ったんですが…ふぅ…」
 そこで思わず冷汗混じりに身じろぎするわたしなものの、やがて氷室先生はわたしの前までやって来た後で大きく溜息を吐き、今度は露骨に困った顔を見せてくる。
「あの、先生…?」
 勿論、そんな態度を見せられて一番困るのはわたしの方なのは言うまでも無いものの、ただ柚奈の名前を出されては心当たりが全く無いとも言い切れないのが辛い所だった。
「…失礼。一応、私としては桜庭さんの将来的に必要な能力を考えて、海外の一流大学への留学を勧めたんですが、あっさりと却下されてしまいました」
「まぁ、そうでしょうねぇ…」
 わたしの視点から言えば、今の柚奈には一番ありえない選択肢だし。
「勿論、それは構いません。桜庭さんが自分の将来を真剣に考えた上で確固たる意思を持っているならば、担任としてはそれを尊重するまでです。しかし…」
 そこで一度言葉を止めた後で、氷室先生の視線が眼鏡ごしに鋭くなる。
 …ここから先の台詞は、最早言われるまでも無かった。
「えっと…もしかして、私の進路次第って言いました?」
「…参考までに聞いておきますが、貴女の志望先は決まっているのですか?」
 わたしは心当たりの赴くまま恐る恐る尋ねると、氷室先生は答える代わりに、じっとこちらを見据えながら別の質問を向けてくる。
 頷いてはいないものの、それに等しい質問内容だった。
「えっとその…一応早瀬先生が推薦枠のある大学のリスト作ってくださるそうなので、その情報待ち…って所なんですが…」
「…それで、そんな無責任で曖昧極まりない進路志望に、桜庭さんは貴女を信頼しきって依存していると?」
「あ、あはは…面目次第もございません…」
 そこで、思わず頭を掻きながら苦笑いを浮かべるわたしに対して、眼鏡の奥から一瞬殺気の様な感情をギラリと光らせる氷室先生。
(うわ、怒らせちゃった…?)
 いや、多分誰でも怒るとは思うけど、でも仕方が無い。
 …わたしの分なんて、この程度なのだから。
「笑い事ではありません。私には桜庭家の子女を預かる身としての責任があります。将来はもしかしたら桜庭グループの後継者となる可能性だって…」
「いや〜、そんな事まで考えていないと思いますよ?柚奈も芽衣子さんも」
 しかし、その後氷室先生が続けた台詞については、わたしは全部聞き終える前に前に肩を竦めながらあっさりと否定してみせる。
 柚奈に芽衣子さん。確かにどちらも天才肌で優秀だとは思うけど、それ故にか姉妹揃って独自の感性のみで動く刹那主義っぽいし。
「どうして、そう言いきれるのですか?」
「…だって、本当だから仕方無いじゃないですか。それに確か小百合さんの後継者候補って、現在メイド長を務めてる養子の芹沢さんだって聞いた事もありますし」
 芹沢さんは留学時代も経営学とか学んでいたらしく、桜庭家のメイド長と同時に小百合さんの本邸秘書も務めているのは、将来後継者となる事も視野に入れられている証だった。
 それに…早くに両親を亡くして身寄りが無くなった芹沢さんを引き取って育てたのが小百合さんという事で、あの二人は特別な関係があるんだと思う。
「まぁ、その辺の事情は貴女の方が詳しいかもしれません。…しかし、どちらにせよ桜庭家の子女として相応しい道程、というものはあるでしょう?」
「いやまぁ、それはそうかもしれませんけど…」
 良家ほど、世間体ってものが大きくなるんだろうしね。
 …たとえ、本人が全く気にしてなくとも。
「今でも休憩時間になると同時に教室を飛び出していって、そしていつも遅刻ギリギリで戻って来たり、今年度になってから授業中に居眠りする姿も見られる様になりました。勿論、予習復習はきちんとして来ているので厳しく叱る事はありませんが、このまま見過ごしていい状況とは思えません」
「でも、元々柚奈が勝手にくっついて来てるんだし、わたしに言われても困るんですけど…」
 一応、わたしの方からも注意はしてるし、あとはあの子の問題。
 まさか、毎回8組の教室の前まで押していって戻す訳にもいかないし。
「だから、知った事では無い、と?」
「べ、別に、そこまで言う気はないですけど…」
 現に、柚奈の事が気にかかってるから悩んでるんだから。
「大体、貴女達は生涯一緒にいるとでも言うのかしら?今は随分と仲がよろしいみたいだけど」
「そ、それは…」
 しかし、続けて核心を突いてくる氷室先生に、思わず口篭もってしまうわたし。
「姫宮さん。今はこれからの一生を左右する可能性のある非常に大事な時期よ。それを忘れて欲求の赴くままに行動していれば、必ず後で後悔する事になります。…そして、それを防ぐのが我々教師の役目。分かってくれるかしら?」
 そして言い聞かせる様にゆっくりと続けてきた先生の口調は、何処かわたしに縋りついている様でもあって。
「…それで、一体わたしにどうしろと?」
「貴女の方から、桜庭さんとの距離を空けてちょうだい。卒業…いや、はっきりと進路が決まるまでで構わないわ」
「わたしが空けた所で、柚奈が離れるかどうかなんて保証出来ませんよ?」
 大体、いつもわたしが逃げ回ってるのを柚奈が追いかけてきているって関係なのに、それを踏み込んで断ってしまうのは、口で言う程簡単な事じゃない。
 …いや、多分わたし自身そこまでしたくはないから、ここまで曖昧な関係が続いてるんだとは思う。
「彼女の事を大切な友人だと思っているなら、時には辛い役目を背負うのも友情というものじゃないかしら?桜庭さんの為を思えばこそね」
「…………」
 それから、痛い所を突かれて黙り込んでしまうわたしへ「そして、貴女にとってもね」と思わせぶりに付け加えた後で肩をぽんと一度叩くと、氷室先生はそのまますれ違う形で立ち去って行った。
(もしかして、脅された…?)
「…………」
 辛い役目、ねぇ…。
「あ、みゆちゃんいた〜♪」
「柚奈…」
 やがて、氷室先生の言葉を反芻しながらその場へ立ち尽くしていた所へ、今度は前方から先程とは対照的な好意に満ちた甘ったるい声が届いたかと思うと、そのまま声の主がわたしの元へ駆け寄って来た。
「ね〜ね〜、みゆちゃんは三者懇談終わった?」
「さっき終わって帰る所だけど…ああ、そう言えば柚奈の三者面談って誰が来たの?」
「ん?栞ちゃんだよ?お母さんは忙しいから代理で」
「芹沢さんかぁ。何か言われなかった?」
「ううん、別に?『お嬢様の思う様になさいませ』って…」
「…なるほど。それでか…」
 だから、氷室先生はわたしに水を向けて来たのね。
 おそらく、芹沢さんの台詞は小百合さんの意思でもあるだろうし。
「なにが?」
「ううん、別に…」
(あの家は良家とは思えない程に放任主義だからなぁ…)
 勿論、柚奈本人がそれだけの環境を作る為に努力してるのも確かだけど。
 方向性の是非はともかくとして、わたしと違って堕落してるからって訳じゃない。
「…………」
「…………」
「どうしたの?さっからじっと私の顔を見て…あ、そっか。ん〜〜っっ♪」
 そこで、殆ど無意識にじっと見据えてしまうわたしへ、何を勘違いしたのか嬉しそうに目を閉じて唇を差し出してくる柚奈。
「違うっ!!」
(やっぱり、基本的に個人の自由だとは思うのよねぇ…)
 少なくとも、柚奈は後で後悔する事も覚悟でわたしに寄り添ってるんだし。
(でも……)
『姫宮さん。今はこれからの一生を左右する可能性のある、非常に大事な時期です。それを忘れて欲求の赴くままに行動していれば後で後悔する事になります』
(…確かにそう、かもね…)
 だって、今のわたしは…仇花だ。
 上辺だけの花は咲かせても実を付ける事の無い、からっぽの存在。
 そして、そのあだ花に惹かれてる柚奈は、きっと誰よりも美しく咲く大輪のつぼみで…。
「…………」
 別に、氷室先生に言われたからじゃない。
 わたし自身、前々からずっと気にしていた事だから。 
(確かに、ここらが潮時なのかもしれない…)
 いつまでも、柚奈の好意に溺れ続ける訳にはいかないしね。
 …この子の為にも。
「柚奈、良く聞いて。これは大切な話なの」
 わたしは心を決めると、ゆっくりと柚奈の手を離しながら真剣な目を向けた。
「え…?」
「あのね、色々考えたんだけど…クラスが別々になった事だし、ここらでわたし達も…その…一度離れてしまわない?」
 そして、別れの言葉をはっきりと言い切れない躊躇いを残しながらも、そっと押し出す様にして自分の身体から柚奈を突き放すわたし。
「…どうして?いきなりそんな事言われても分からないよ…」
「お互いに大事な時期だからね。将来の事も真剣に考えないといけないのは確かだしさ。…それに、毎朝うちに来てるのだって、本当は授業中に居眠りしたりして相当無理してるんでしょ?」
 そこで案の定というか、目を見開いて困惑しきった顔を向けてくる柚奈へ、わたしは感情を押し殺して諭す様にそう告げる。
「で、でもそれは…別に授業に遅れてるわけじゃないし…」
 分かってる。あんたが頑張ってる事はちゃんと分かってる。でもね…。
「とにかくっ、このままじゃわたしも柚奈の事が心配で、勉強に身が入らないの!さっきの三者面談で推薦狙いにしたから、これから追い上げなきゃならないのにっ!」
 だからこそ、このままではいつかわたしが柚奈を壊してしまうかもしれない。
 そう考えると、何だかあまりにも捨て身というか無頓着な柚奈にむかっ腹が立ったわたしは、一度だけ強く噛みしめた後で、感情が瞬間的に昂ぶったのに任せて怒鳴りつけてやった。
「だったら、私が…」
「いつまでも、そういう訳にはいかないでしょ?このままじゃ、きっとお互いにとって良くないから」
 だから、わたしが何処かで歯止めをかけてやらないと。
 柚奈を大切な友人だと思ってるからこそ、このままじゃいけないって気持ちを引きずり続ける事は裏切りも同然だから。
「つまり、みゆちゃんにとって…私は邪魔なの?」
「…………っ」
「……ごめん、邪魔」
 そこで反射的に口から出かけた、いつもの「そんな事は無い」って言葉をぎゅっと唇をかみ締めて打ち消すと、わたしはなるべく表情を見せない様に俯きながら、搾り出す様にそう答えた。
「…………」
「…………」
「…そっか…うん…みゆちゃんがそう言うなら…」
「…………」
「…………」
 すると、柚奈も俯いたまま少しの沈黙を置いて自分に言い聞かせる様にそう呟き、そしてまたしばらく黙り込んだ末に、涙を堪えた顔を上げて無理な笑みをわたしに作って見せると…。
「…私、先に帰るね」
 震える声でそれだけ告げるや否や、踵を返して小走りにわたしの前から立ち去って行った。
「…………」
(…痛い…)
 その柚奈の後ろ姿を見送りながら、胸を締め付けられる様な感覚がわたしを襲う。
 …でも、今はこうするしかない。「そんなの嘘に決まってんじゃない」と撤回して追いかけていく事も出来ない。
 だって…わたしは柚奈の足手まといにしかなっていないんだから。
 わたしなんかの為に、柚奈に一番大事な時期を犠牲にして欲しくない。
(だから、これで良かったんだよね…?)
 割り切れない気持ちはあるけど、今はそう信じるしかなかった。
 おそらくこの自問の答えが出るのは、ずっとずっと後の話だろうから。
「…………」
「…わたしも、帰ろう…」
 わたしはそれから、繰り返し心の中で呟いて強引に心の整理を済ませてしまうと、誰にともなく呟いた後で、独り夕暮れの学校を後にして行った。

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