第二章 大国主命と須佐之男命

 さあ久々の更新だ(をい)。タイトルの通り、第二章では大国主命と須佐之男命に関する神話をとりあげています。大国主命の神話は古事記上巻でも特に文学的価値が高く、古事記においてはここのみを文学作品と認めるという学者の方々すらいるという曰く付きの神話です。まあ最も身も蓋もない事言ってしまえば、古事記上巻は中巻や下巻に対して全体的にそれほど文学的な価値は高いとは言えないんですけどね(^^)。

 まあ例によってここの部分も幻想神話論の方で述べているので詳しく述べるのは避けますが(とか言いつつ更新が遅いのでちょっと心苦しい^^)、ここの章での主な内容は大国主命の国造りの、さらに絞ると大国主命が須世理毘売を得るために須佐之男命の試練を受ける「根の国訪問」の話が中心になっています。
 ちなみにこの神話の大筋は以下の通りです。

 兄弟同士での稲葉の八上比売を巡っての争い(稲葉の白兎の話はここでのエピソードです)で他の5人の兄弟からの逆恨みを買ってしまった大国主命(この時点では葦原色許男(あしはらのしこお))は、彼の母の機転で根の国の須佐之男命の元へ身を寄せることになります。そして彼はそこで須佐之男命の娘である須世理毘売と出会い互いに一目で恋に落ちますが、これを見た須佐之男命は葦原色許男に次々と過酷な試練を与えます。その度に危機に追いやられる葦原色許男。しかし須世理毘売の助けなどを借りながらも乗り越え、ついには須佐之男命の元から生太刀などの神器と須世理毘売を抱えて脱出する事に成功します。
 そして最後に須佐之男命は彼の後ろ姿へ向かって叫びました。「お前が持っているその生太刀(いくたち)と生弓矢(いくゆみや)の力でお前の兄弟を追い払ってお前は大国主命となって須世理毘売を正妻として高天原に宮殿を作って住むがいい、このやろう!」と。

 とりあえずここの神話のポイントは沢山ありますが、ここで注目したのは須佐之男命の最後の台詞「是の奴よ(このやろう)」について。某解釈書にはこの台詞には試練を仕掛けておいて挙げ句娘と神器を取られてふんだりけったりでの悔しさを込めた「ちくしょう!」であるとありましたけど、僕は少し異論を唱えました。幻想神話曲にもある通り、この叫びは須佐之男命の万感込めた叫びじゃないかと思います。

 一つは自分を見事に出し抜いた大国主命への激励、もう一つは次なる主人公、大国主命の登場により自分が時代の舞台から消えゆく悲しみ、そして自分の愛しい娘を奪い去っていく男への憎しみ、それと同時にその憎い男を愛する娘の幸せを願う親としての想い。そして二つの背反する想いを葛藤させながら親としての感傷に打ち勝とうとする心。いろいろな須佐之男命の想いが込められたこの叫びですが、特にここから愛する娘、須世理毘売への愛情の深さが伺えると思います。

 心理学の書物によると、母親の息子への想いや父親の娘への想いは一種の恋愛感情と呼べる物なんだそうですが、特に須佐之男命は娘への想い、とりわけ女性思慕の感情が人(神?)一倍強かった様です。
 まず、伊耶那美が死んだ後、伊耶那岐は天照大神、月読命、そして須佐之男命の三貴子にそれぞれ分治を命じました。そのとき須佐之男命が命じられたのは大海原でしたが、他の二人が素直に命令を受けたのに対し、彼だけは自分の母がいる根の国(死者の国)へ行きたいと泣き叫びました。この事が伊耶那岐の怒りを買って結局根の国へ追放となるのですが、彼の母親への思慕が他の二人より強かったのは確かだったと思います。
 次に、めでたく(?)追放となって、須佐之男命は天照天神のいる高天原へお暇の挨拶に向かいますが、天照天神は彼に疑いの目を向けました。その時には彼は子供の産み合いなんていうとんでもない方法(^^)で身の潔癖を証明しますが、その後姉に真心を疑われたのがよほど悔しかったのか好き勝手暴れ回ります。その次に根の国に降り立った時は櫛稲田比売を得るために八股の大蛇と戦い、最後には須世理毘売を自分から奪い去って行こうとする大国主命に対して過酷な試練を与えました。
 この様に、須佐之男命の行動原理には常に女性の存在がつきまとっていた様で、ここら辺から彼の女性思慕の強さが表現されていると思います。

 一応ここで白状しておくと、実はこの須佐之男命の「是の奴よ」の解釈のについては僕が独自で浮かんだものではなく、僕の先生からヒントを頂いたものなんです。僕が大学3回生の時、ゼミ発表でここの話を担当したんですが、この時はただ「大国主命への激励」としか取っていませんでした。しかし、発表の後に先生から「親としての感傷に打ち勝とうとしている須佐之男命を見ていない」と御指摘を受けたんです。まあ僕が浅はかでしたって言うのは簡単ですけど、やはりここら辺はこういった人生経験を積まないと浮かんでは来ないでしょうね(^^)。なにしろ今の僕は父親から花嫁を奪っていく、つまり大国主命の立場な訳ですから(^^)。この時の先生の言葉はかなり実感込められていて、ああ娘を嫁に出された経験がおありなんだなぁと授業の後でみんなで話してました(^^)。

 さて、その他の内容としては、須佐之男命の試練についてを取りあげました。この試練はいわゆる成年式と言われる成人として認められる為の儀式(長老達から試練を与えられ、それを乗り越える事で大人と認められる)を反映したものなんですが、ここの話は一風変わっていて、本来はその儀式を受ける青年一人で乗り越えなければならないのに大国主命は恋人の須世理毘売の力を借りて乗り越えています。須世理毘売の行為はいわゆる戒律を破るタブーな行為な訳で、こうする事によりタブーを犯してまで愛する人を守りたいという須世理毘売の大国主命に対する愛の深さを表現していて、そしてその娘の姿を見てついに須佐之男命はこの二人の結婚を認めてしまうといった感じで、愛し合う男女の恋愛物語が成立していて文学的に面白くしていると思いますね。


 あ、そうそう。女性について言えば、大国主命もかなり恋多き神です。彼が大国主命として力を付けていく背景には必ずといって良いほど彼を愛する女性の存在があり、大国主命にとっては女性との恋愛は大国主命としての彼に不可欠であり、宿命だったのかもしれません。

 

第三章 悲劇の英雄ヤマトタケル

 さて、第三章ではタイトルの通り英雄倭建命の話を取りあげています。例によってその主な解釈は幻想神話論の「悲しみの英雄伝説」に掲載してありますので、ここでは楽屋オチ的な事を述べたいと思います。ここは一番時間をかけた所ですしね。

・倭建命のイメージについて
 まあ人斬り抜刀斎のイメージを持っているというのは当然論文には記してありません(たりまえだ)が、逆に一般論の猛々しい英雄ってのも何となく疑問なんですよね。外見に対しては本文にある様に女装の似合う美少年ってのが主な理由ですが、性格的にも完全に降伏し、丸腰の出雲猛を何の躊躇いもなく切り刻む所や、景行天皇の命で兄を引き留める為に手足をへし折る所から荒々しいというより任務に対して冷酷非情な人物ではなかったかと思い、普段はあまり感情に流されないクールな性格だったのではないかと。そうなってくるとどうしても抜刀斎の様なクールな美形キャラのイメージが出てきてしまうと言うもの...って僕だけ?やっぱ。 

・日本書紀との比較について
 ここがある意味この章のメインパートと呼べる所だったのかも。本文の方でも少し触れましたけど、実は古事記と日本書紀ではまったくその内容が異なっています。いや、起こった事件や任務等は同じなのですが、彼の境遇が全く対照的な程異なっているんです。本文にもある様に古事記では彼は生まれ持つ力を父親に恐れられ、過酷な任務を強いられ遂にには異境の地で朽ち果てるという悲劇の英雄として扱われていますが、日本書紀では彼は景行天皇の寵愛を一身に受けた完全無欠の英雄として扱われています。西征を成し遂げた時には「天皇、是に、日本武の功を美めたまひて異に愛みたまふ」と景行天皇は彼の功績を褒め称え、又東征の時には天皇は彼に斧を与えて「即ち知りぬ、形は我が子、実は神人にますことを。(中略)亦是の天下は汝の天下なり。是の位は汝の位なり。」と誇り高き息子として、又自分の素晴らしき後継者として最高の賛辞を以て讃えています。そして倭建命が異境の地で朽ち果てた時も悲しみにくれる天皇の姿が叙述されています。当然古事記にはありません。
 とまあこの様に彼の境遇はこの2つで対照的な訳ですが、問題は果たしてどちらが真実か...というよりもどちらが物語として有効かという所にあると思います。

 ご存じの通り、古事記ってのは元々天皇家の優位性を国内の豪族に対して示すため、つまりは天皇家の権威付けってのが第一の目的な訳です。で、そう言った観念からこの二つの物語を検証した時、どちらがその編纂意図に対して効果的かと言えばやはり日本書紀の方だと思います。当然この二つの話のどちらかが真実であったにせよ、編纂の際に自分達の都合の良い様に書き換えてしまう事も可能な訳ですし、どうしてわざわざ古事記では時代に排除された悲劇の英雄という境遇にしたのでしょう。「我が系譜にはこんな凄い英雄がいたんだぞ!」って見せつけるのがこの話の主な目的のはずなのに。この古事記の話を読んだ多くの人は倭建命に同情すると同時に景行天皇に対して非難感情を持つでしょうね。あのとても実の息子に対してとは思えない仕打ちに対して。
 う〜ん。どうもこの物語の作者は編纂意図というより文学的に興味深い話を表現したかったんじゃないかと思われるフシがあるんですよね。まあ何となくそのことに気づき始めたのは次章を研究していた時なんですけど。

・天翔る白鳥について

 高貴な者が亡くなった後に魂が白鳥となって飛び立つというのは古代においてそういった言い伝えがあったそうで、ここの話はその伝承を反映したものなんだそうです。ただ、梅原猛氏も述べておられますが、これはこの物語を編纂した作者の倭建命に対する渾身の同情では無かったのかと思っています。現世で浮かばれなかった彼に、せめて魂を大空へ解放してやりたいという。ちなみにこれと同じ様な思想は別の物語でも見られます。第4章で取りあげた話がそれなんですけどね(^^)。

美夜受比売について

 美夜受比売は本文の通り尾張氏の豪族の娘で、この二人の結婚は実際には完全な政略結婚でした。尾張氏の天皇家への服従の証として天皇家の代表として訪れた倭建命に美夜受比売を差し出した訳ですね。
 でも美夜受比売って字は何か意図的っぽいですよね(^^)。この古事記の話に合わせて当てたって感じで。日本書紀には「宮簀媛」と記されていましたし。何か艶っぽい名前で個人的には...ってそれはどうでもいいか(^^)。

 後、この二人の結婚の物語については、実はこの物語の下には、神と巫女との聖婚の図式があり、それがその原型を残したままでこの話の結婚譚に変容しているという説もあります(守屋俊彦氏)。この説によると古代では巫女の生理は神との聖婚の合図とされていたという事で、この話の不自然(不浄な生理の話題が出てくるという)な部分を説明している訳です。
 まあ、ここら辺については研究者のスタンスによって変わっては来る所ですけど。「タブーを犯して二人が契り合った事が、後の伊吹山の神に敗北する事にたいする巧妙な伏線」と見るか上記のように古代の様式を反映させた結果と見るか。この解釈範囲の広さが古事記の魅力であり、又難しい所なんですけどね(^^)。

 

 さて、次のページはいよいよ完結編です。出来れば次に更新予定の「禁じられた愛の美しき顛末」を読んでおいて下さいね。...ちょっとアレな話で読者を選ぶかもしれませんが(^^)。あの物語が第4章の中心となります。



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